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第6話

Penulis: 笠一つ
8時15分、知枝はカフェのドアをくぐった。

通勤ラッシュの真っ只中、行き交うサラリーマンたちは慌ただしくコーヒーを買い求め、誰一人として隅のボックス席に座る女性に注意を向ける者はいない。

知枝はホットラテを一杯注文し、それを手に蛍のもとへ向かいながら、頭の中で何度もそのラテを相手の頭にぶちまける光景を思い浮かべている。

だが、その妄想は、蛍が顔を上げてこちらを見た瞬間に霧散した。

その女は、驚くほど美しい。艶やかな紅い唇、輝きを帯びた両目、そして隠しきれない野心と自信が滲み出る表情――全身から攻撃的なほどの華やかさが放たれている。

長く名利の世界に身を置いてきたせいか、年下のはずなのにどこか大人びた艶をまとっている。

自然と、知枝は親友の美南の言葉を思い出した。

「沢原と比べたら、あなたなんて鳥籠の中のカナリア。あの人こそ、空を翔ける鷹よ」

確かに、その通りかもしれない。

けれど……それがどうしたというのだ?

結局のところ、蛍もまた俗世の女である。鷹という名ばかりで、やっていることは不倫女と同じだ。

知枝は手の中のホットラテをぎゅっと握りしめた。

――やめておこう。この女の顔は、まだ健司を誘惑するために必要だから。

蛍は知枝が席に着くのを見届けると、アイスアメリカーノを一口飲み、甘ったるいほどの笑みを浮かべた。

「それで、どう話すつもり?もう降参してくれるのかしら?

そうそう、昨日の夜ね、健司――あの人はずっと私のそばにいてくれたの」

蛍はわざとらしく困った顔を作ったが、口元の笑みはどうしても隠せない。

「私の体調をちゃんと覚えててね。『痛い』って言ったらすぐにプレゼントをくれて、しかも自分で蜂蜜水まで作ってくれたの。

健司もあなたのことを話してたわよ。『あいつは全然痛がらないから、つい忘れるんだ』って。知枝さん、女はね、強くあるべき時と弱くあるべき時があるの。あなた、そのバランスがまったくわかってないのね?」

その言葉に、知枝は冷ややかに蛍のカップへ視線を向けた。

――確かに、自分には蛍のような演技力はない。

生理不順のときも、自分で病院に通い、苦くてたまらない薬を我慢して飲み続けた。いつか体が整えば、彼との間に子どもを授かれると信じていた。

……でも、薬では治せないものもある。恋に夢中になってしまったら、薬では治せない。

知枝は思考を整理し、静かに口を開いた。「そんなに強気なのは、私に離婚させたいからでしょ?

確かに、あの親子鑑定報告書は見たわ。でも、それがどうしたの?もしあなたに度胸があるなら、あの子の存在を健司に知らせてみなさいよ。まだ隠している理由は、言わなくてもわかるわよね?

津雲家は私生児を絶対に受け入れない。あなたもそれを恐れてる。健司の将来を潰したくないのでしょ?だったら、あなたは一生、鉄舟重工の社長の妻にはなれないわ」

蛍の顔色が変わり、笑えなくなった。

知枝の切り返しは、蛍にとって予想外だ。

――知枝が泣き叫んで離婚を迫ると思っていたのに、彼女の口調を聞く限り、健司を譲る気はおそらくないだろう。

「……そう、あなたの思った通りよ」

笑みが今度は知枝の唇に浮かんだ。「私は騒がない。だって、離婚するつもりなんてないもの。

私は沢原さんほど世慣れてはいないけど、自分の足元くらいは見えてるつもり。健司と結婚して五年、ずっと順風満帆だった。

それに、あと13日で私は正式に鉄舟重工の社長の妻になるのよ。こんなタイミングで、バカ正直に身を引いて、名誉もお金も他の人に譲ると思う?」

彼女はゆっくりと手をテーブルに置き、上半身をわずかに前に傾けた。

その穏やかな表情の奥には、鋭く突き刺すような気迫が宿っている。

蛍は一瞬たじろいだ後、怒りを押し殺し、声を震わせた。「知枝さん、暇があるなら自分の不妊症について調べてみたら?

健司は私のためなら何でもする。彼の心には私だけがいる。あなたのことなんて愛していないわ。無理にしがみついても、待ってるのは地獄よ!」

「ふうん、噂の『完璧な沢原さん』がそんなセリフを言うとはね」

知枝は冷ややかに笑った。「私たちのような人間にとって、一番安っぽいものは愛だってこと、あなたが一番よく知ってるはずでしょ?」

「……」

蛍は言葉に詰まり、すぐに鼻で笑った。「強がりね。本当は健司を愛してるからでしょ?だからそんなことを言うのよ。私に難しさを知らせて、辞めさせようとしてるのでしょ」

蛍の目に再び浮かべた勝ち誇った笑みを見て、知枝は心の中でほくそ笑んだ。

――計画通りのようだね。

あなたが必死になって健司を引き止めれば、探偵が最高の証拠を撮ってくれる。

「沢原さん、もし本当に自信があるのなら、彼に直接『離婚しろ』って言わせてみなさい」

冷たくその一言を残し、知枝は席を立ってホットラテを手に取った。

「……っ!」

蛍は知枝の背中を睨みつけ、怒りで息を詰まらせた。

――かつて私が健司に知枝を誘惑するよう命じた。それはすべて、自分の計画のためであり、奪われたものを取り戻すためだった。

今、計画は成功している。

そして、私は確信している。今の自分には、手に入らないものなどない。

「知枝……そんな強気な態度は、長くは続かないわ」蛍は眉をひそめ、冷たく吐き捨てた。

……

カフェを出た知枝のスマホが震えた。健司からメッセージが届いた。

【こんな朝早く、どこへ行ったんだ?

会社に戻った。栄養剤はテーブルの上に置いてある。忘れずに飲んでくれ】

……栄養剤?

その文字を読んで、あの日に和光が言った「最悪な薬」という言葉が蘇った。

彼女が不妊になったのは、まさにその「栄養剤」が原因だ。健司は毎日欠かさず、彼女にそれを飲ませている。

昨日は蛍に気を取られていたせいで、彼は言い忘れた。

今朝、彼は家に帰ると、蛍が生理になったことを思い出し、それに連想が及んだのだろう。

――彼女には蜂蜜水。自分には不妊の毒薬。

雲泥の差――これほど皮肉な話があるだろうか。

さっきまでの勝利の気分は跡形もなく消え去った。胸の奥に渦巻くのは、怒りと復讐の衝動だけ。知枝は手を挙げてタクシーを止めた。

「産婦人科クリニックまでお願いします」

30分後、クリニックの入口で車を降り、運賃を支払った。

そして、メッセージを返した。

【今朝、沢原さんに会ったの。彼女は私に検査を勧めてくれたわ。今、産婦人科にいる】

スマホをしまい、彼女はクリニックの中へ入っていった。

VIP対応は迅速で、1時間も経たないうちに検査を終えた。しかし、結果が出る前に健司がクリニックに現れた。

大股で駆け寄り、彼は急いでいる様子で彼女の手首を強く掴んだ。

「どうして急に蛍に会ったんだ?何を話した?」

その表情は、何を心配しているのだろうか。知枝が彼の大切な蛍を傷つけたことか、それとも蛍が何か秘密を漏らしたことか――知枝には、もはや見分けがつかない。

どちらにしても、彼女は胸の奥にヤキモチと恨みを深く隠している。

「別に。あなたこそ、そんなに焦ってどうしたの?会社の用事は?」

彼女の声に異常がないことがわかると、彼は安堵の息を吐いた。「お前がクリニックにいるって聞いて、心配でさ。妻を一人で検査させるわけにはいかないだろ?」

「本当に、あなたって心配性ね」

知枝は軽くつっこみながら、平然と話を続けた。「沢原さんが、私は不妊かもしれないから、検査を受けた方がいいって言ってきたの。あんなに親切に忠告してくれるんだから、受けてみようと思って」

「そんな言葉、信じるな!」

健司は彼女を抱きしめた。まるで壊れ物を扱うかのように、慎重に。

「知枝、俺はお前が子どもを産めなくても構わない。お前さえいれば、それでいいんだ。

それに、出産なんて大変だ。お前にそんな苦労はさせたくない。俺の知枝には、一生穏やかに暮らしてほしいだけだ。

だから、もう検査なんて必要ない、苦しむ必要もない。家まで送ってあげる」

――この言葉を、何度も聞いた。

けれど、今ようやく気づいた。その甘い言葉の裏に潜む、致命的な毒を。

知枝の胸の奥に封じ込めていた痛みが、一気にあふれ出した。憎しみと絶望が絡み合い、心臓を締めつけた。

彼女はしばらく手を動かさず、体の横にだらりと下げ、無意識に震えながら拳を握っている。

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