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第4話

Author: 笠一つ
「現在、鉄舟重工で進めているデジタル化推進計画は、もともと私の提案なの」

知枝の柔らかな声が風に乗り、耳の奥深くまで届いた。その言葉には人の心をひときわ強く揺さぶる力がある。

安雄はよく理解している。デジタル化推進計画がいかに重要であるか――

そして、今回三郎が鉄舟重工を健司に譲ろうとしているのも、まさにこのプロジェクトが理由である。

彼はわずかに眉をひそめたが、その動きを悟られないようにした。口を開こうとした矢先、知枝がさらに言葉を重ねた。

「おじさん、あなたは私の大学の先輩。少し調べればわかるはず――私の研究テーマはまさにデジタル化の分野だった。

当時、小林昌成(こばやし まさなり)教授が私の卒業論文を読んでくださり、大学院進学を勧めてくださった。彼の研究チームに加わり、さらに深い研究を行う予定だったが……残念ながら」

――あのとき、私は愚かだった。たった一人の男のために、良き未来を投げ捨てた。

知枝は一拍置いて、その言葉を飲み込んだ。

次の瞬間、からかいを含んだ軽い笑い声が聞こえた。「……後悔してるのか?」

知枝は一瞬呆然とし、それから苦笑を浮かべた。「ええ、後悔してる」

――今になって思えば、どうしてあの時、あんなにも無謀に彼に尽くせたのか。

幸せの扉をくぐったつもりが、実際には冷たい地獄への入口だった。

盛装して臨んだはずの結婚式。その先に待っていたのは、心が砕けるほどの絶望だった。

詳しく話すことさえ恥ずかしい。

「小林教授はもう大学にいない。後悔しても、戻る場所はない」

その言葉に、知枝は思わず目を見開いた。「……知ってたの?」

「うん」

夕暮れの残光が安雄の横顔に差し込み、目の奥に淡く揺れる影を落とした。どこかに微かな色気が漂っている。

「俺も彼の教え子だった」

「……そうなの?」

知枝がようやく思い出した。

――当時、教授はよく「津雲くんは私の最も優秀な教え子だ」と誇らしげに話していた。

だからこそ、二人が今でも連絡を取り合っているのは不思議ではない。

「それで、君の取引っていうのは?」

安雄は話題を本来の方向へと引き戻した。

知枝は深く息を吸い込んだ。

「この話をしたのは、あなたに聞いてほしかったから。鉄舟重工は津雲グループの百年の礎とも言える。あなたは本当に、あの無能にそれを譲るつもりなの?

私には、健司が家業を継ぐのを阻止する手段がある。彼を退ければ、鉄舟重工の跡継ぎは一時的に空席となる。そのとき、あなたが自ら名乗りを上げれば――

あなたの実力なら、おじいさんもきっとそのベストチョイスを拒まないはず。

鉄舟重工をあなたに譲る代わりに、私にはただ一つだけ望みがある。どんなことがあっても、津雲家と間宮家のビジネス連携を守ってほしい」

知枝は勇気を振り絞り、すべてを言い切った。その視線はまっすぐに安雄を射抜いた。

だが、誰も知らないのは、その胸の奥で――心臓が痛いほど打ち鳴っていることだ。

何と言っても相手は津雲家の人間だ。敢えて鉄舟重工に関わる取引を持ちかければ、告げ口される可能性もある。

それでも、賭けるしかなかった。

――彼は足を失い、津雲家に捨てられた男だから、そこにある怨念に賭けた。

そして彼の中に、再び上を目指す野心があることにも賭けた。

その野心に火を点けることでしか、自分は救われない。彼がこの取引に応じてくれれば、堂々と離婚できる。

そして間宮家を、岸元家のような滅びの道から守れる。

夕陽の最後の光が地平線に沈み、辺りは薄闇に包まれた。

遠くから健司の声が響いてきた。「知枝、おじさん!何してるんだ?ご飯の時間だぞ!」

「……今行く!」慌てて返事をする知枝。

その直後、背中に静かな声が届いた。

「本気で考えたのか?俺はもうまともな人間じゃないんだぞ。俺なんかに賭けて、すべて失ってもいいのか?」

深く考える余裕がなく、知枝は思わず答えた。「……構わない。あなたなら、私を負けさせたりしないと思う」

「知枝!」

またも健司の呼ぶ声が聞こえた。何か大事なことがあるようで、催促する声だ。

知枝は眉をひそめ、長居すれば疑われると思い、足早にその場を立ち去った。

知らぬ間に――

安雄は去っていく彼女の背中を見送り、ゆったりとした仕草でスマホを取り出した。

「……プロジェクトに人手が足りないって言ってたよな?

そのうち、ちょっとしたサプライズを贈ってやるよ」

……

一方、そのころ知枝は健司のもとへ戻っている。

「トイレに行くと言ってたのに、どうしておじさんと一緒にいたんだ?」その声にはわずかな苛立ちが滲んでいる。

彼が以前から安雄を好ましく思っていないことは、知枝もよく知っている。

「大学時代のことを思い出したの。少し話しただけよ」

知枝は健司をちらりと見た。「あなたこそ、どうしてリビングで沢原さんと一緒にいなかったの?他人を一人にして、気まずくなかった?」

「母さんとあの子は仲がいいんだ。むしろ俺のほうが他人みたいでさ。彼女……」

彼は途中で自分の失言に気づき、慌てて笑って取り繕った。そして、手で知枝の肩を抱きしめた。

「ほら、妻の顔が見たくなって、迎えに来たんだよ」

「……」

知枝は応じなかった。「妻」という言葉が、胸の奥にざらつく痛みを残した。

この肩書きのために、どれほど多くのものを失ってきたか。

そしてこれから、それを取り戻すためにどれほどの代償を払うのか――考えるだけで、憎しみがじわりと滲み出た。

二人がリビングに戻ると、ちょうど食事の準備が整い、使用人の声に促されて皆がダイニングルームへ向かっている。

普段は空席ばかりの丸テーブルが、今夜はぎっしりと人で埋まり、まるで仲睦まじい一家のように温かい笑い声が響き渡っている。

だが、その笑顔の裏で蠢く思惑を、全員が知っている。

「いやあ、兄さんの息子は優秀だな!あと10日ほどで家業を継ぐんだろう?大したもんだ!」

「でも、あんたたち兄弟の中で、一番三郎に似てるのは安雄じゃないか?あの事故さえなければ、あんな若造が出る幕なんて……」

「もう過去の話だよ!今は若い者の時代だ。俺たちはもう引退だ!」

「……」

笑いの中に、剣呑な駆け引きが潜んでいる。

それが津雲家という一族の日常である。知枝は結婚してから毎年、年越しの食卓でこのような茶番を見てきた。

ただ、今日に限って違うのは――隣にもう一人の仲間がいることだ。

安雄もまた、彼女と同じように一言も発せず、ただ黙々と食事をしている。

周囲の喧騒と彼の静寂は、まるで水と火のように対照的だ。

――もしかして、あの言葉は取引を受ける意思があるって意味なのか?

知枝は彼の様子を見つめ、その思いが胸の奥をかすめた。

やがて食事が終わり、皆が散り始めた。

典子は名残惜しそうに蛍の手を握っている。「あなたって本当に忙しいのね。また会えるのはいつになるやら」

蛍はおとなしく微笑んだ。「私に会いたくなったら、健司に言ってください。連れてきてもらいますから」

「本当?それじゃ、約束よ!」

二人はしばらく話し込んでいる。

知枝は退屈そうな表情を隠さず、背を向けて立ち去ろうとした。そのとき、典子の鋭い声が響いた。

「一言もなく帰るつもり?」

「おしゃべりの邪魔をしたら、出しゃばりって怒られそうですから」

知枝はゆっくりと振り返り、静かに言い放った。「……お義母さん、私たちは先に失礼します」

「この礼儀知らずめ!」

「おばさん、どうか怒らないでください」

蛍は眉をひそめ、困ったように口を開いた。「たぶん知枝さんは、私が津雲家に来たことで気分を害されたんです。

考えれば、彼女の言った通り、私は他人ですから……確かに……」

「あなたは何も悪くない!あの子が器の小さいだけよ!」

典子は忌々しげに知枝の背中を睨みつけ、「そのうち、きっちり躾け直してやるわ!」と吐き捨てた。

もちろん、典子はその言葉を知枝に隠すつもりはない。

だから典子の声は、知枝の耳にはっきりと届くほど大きかった。知枝はその声をはっきりと聞き取った。

知枝はただ、口元を上げた。

――待っていればいい。恐らく、そんなチャンスは来ないだろう。

隣でそのやり取りを聞いていた健司は、眉をひそめた。母の言葉が胸に残り、ふと妻の横顔を盗み見た。

――まさか、本当に嫉妬してるのか?

車に乗り込むと、知枝はいつものようにシートベルトを締めた。

そのとき、ふと目に留まったものがある。助手席の隙間に、一本のリップが転がっている。

――言わずとも分かる。蛍がわざと残したものだ。

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