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第7話

Author: 笠一つ
健司は知枝を家まで送る道中、眉間に深い陰りを浮かべたままだ。

知枝はただ疲れ果てており、彼にかまう気力もない。今の彼女の心は、まるで澄み切った鏡のように、すべてを見透かしている。

結婚して五年、彼女は健司の性格をよく理解している。

彼は野心家で支配欲が強く、自分の掌の外にある行動を一切許さない男だ。

そして、そうした男ほど、危うい境界線を歩く快感に溺れやすい。

すべてを把握しているという錯覚と、崩壊寸前の危うさが共存するその刺激に、やみつきになってしまう。

今、健司は蛍が自分の限界を試そうとしていることに気づいている。

怒りを押し殺し、表情を取り繕う余裕すらない。

別荘の門の前に着くと、知枝は車を降りた。

「知枝、ちょっと用事がある。夜には戻って、一緒に食事をしよう。ちゃんとお前と過ごすから」

そう言い残すと、健司はエンジンをかけて車を走らせた。

知枝はその車が道の果てに消えるのを見届けてから、ゆっくりと家の中に入った。

ダイニングルームのテーブルには、数本の栄養剤が静かに並べられ、冷めた白湯が一杯置かれている。

知枝はその場に立ち尽くし、ぼんやりと辺りを見つめた。脳裏には、これまで何度も見聞きした健司の優しい言葉や仕草が浮かんでいる。

だが、その幻が壊れた今となっては、思い出すだけで背筋が凍った。

五年間、日々欠かさず毒薬を飲ませ続けた――健司の心は、いかに冷酷であることか。

逆に考えれば、蛍をどれほど愛しているか。彼女のために、自分の血統を絶つ覚悟さえしているのだから。

知枝は深く息を吸い込み、込み上げる嘲笑を飲み込んだ。

スマホを取り出して栄養剤の写真を撮った。そして、専門機関に検査を依頼するため、即日配達便で栄養剤を美南に送るつもりだ。

配達員を待つ間、知枝はフリマアプリのメッセージを次々と処理している。

やがて配達員が栄養剤を受け取りに来ると、知枝は風呂に入り、全身を洗い流して着替えた。体から健司の残り香をすべて消し去るように。

使用人が三度目の声かけで、昼食の時間であると気づいた。

ようやく知枝は階下に降り、昼食の席に着いた。だが、数口食べただけで箸を置き、使用人の一人に声をかけた。

「明日からみんな休みにして。18日以降にまた連絡するね」

「えっ?」使用人は目を丸くした。「奥さま、こんなに長いお休みって、まさか私たちクビに……?」

「ただの休暇よ。心配しないで」知枝は使用人をなだめた。

「……あっ!」と使用人が何かを思いついたように手を打った。

「わかりました!奥さまは結婚記念日に旦那さまへサプライズをするご予定ですね!」

知枝がまだ反応していないうちに、使用人が羨ましそうな顔で言った。

「いいですねえ~!お二人はお互いを思いやり、長年にわたっても仲睦まじくて……」

「……」

知枝は言葉を失った。

だが、これ以上に都合の良い言い訳はない。

そのまま黙って肯定するように微笑んだ。

テーブルの上に置かれたスマホが光り、美南からメッセージが届いた。

栄養剤を受け取ったとの報告と、健司への罵倒の言葉が並んでいる。

【健司って本当に最低ね!まじで気持ち悪い!

あの男、発情期の犬と何が違うのよ!】

知枝はメッセージを開いた。そこには、数枚の写真が添付されている。

探偵が撮影した写真は角度が完璧で、開いた車のドア越しに見えるスーツ姿の背中を鮮明に捉えている。

腰に絡みつく黒いストッキングの脚さえなければ、その背中には一片の乱れもなかっただろう。

次の瞬間、強烈な吐き気が込み上げてきた。知枝は口を押さえながら洗面所へ駆け込み、便器にすがって吐き続けた。

嗚咽が止まらず、全身が震えている。彼女はぐったりと洗面台に寄りかかり、かろうじて体勢を保っている。

喉に広がる鉄のような味は、まるで心臓から滲み出した血のようだ。

洗面台の縁を握りしめ、指の節まで力んで白くした。彼女は限界に近づいている。

――五年間、私はこんな汚らわしい男と同じベッドで眠っていたのだ。

……

夕方、健司が帰宅した。

知枝はソファに沈み込み、テレビを見ている。いつもと変わらぬ、気だるげで無関心な様子だ。

彼の足音に気づき、ゆっくりと顔を上げた。「どうして着替えてるの?」

その一言に、健司の動きが止まり、顔に一瞬の動揺が走った。

「さすが、俺の妻だな。何でもお見通しだ」

靴を履き替えた後、彼は再び顔を上げ、きちんと笑みを浮かべた。「今日は秘書がコーヒーを渡してくれたときに、こぼしたんだ」

「そう」

知枝は短く返事をし、再びテレビに視線を戻した。

だが、内容がまったく頭に入ってこない。

つい先ほど、蛍の個人インスタが更新された。車内で撮った写真と、ホテルの部屋で撮った写真。

添えられたキャプションは【あなたがいる場所こそ、愛のある場所】。

二年前に、蛍は「キャリアウーマンの理想像」として、数百万人のフォロワーを引き寄せた。

今夜の投稿は、明らかに恋人アピールで、ネット上はすぐにざわついた。

【車はカイエン】【五つ星ホテルのプレジデンシャルスイート】などのコメントが寄せられた。

そして、二枚の写真に写る男の腕に着けられた高級時計に、誰もが想像を膨らませる。

だが、知枝だけは気づいている。

――これは、あからさまな挑発だ。

けれど、蛍は相手を誤った。

知枝は何と言っても初代インフルエンサーであり、世論を操る腕前は蛍より一枚上手だ。

蛍はやがて自分の仕掛けた罠にかかって自滅するだろう。それを実現するために、知枝にはいくらでも手段がある。

健司は知枝が何も言わないのを見て、浴室へ向かった。

浴室に立ち込める湯気の中、彼は目を閉じて頭から湯を浴びている。

そして、思考は自然と過去へと漂っていく。

今日、知枝が蛍に会い、その後クリニックへ行ったと聞いた瞬間、彼の胸をかき乱したのは――恐怖だった。そしてその恐怖は今も胸に残っている。

――彼女がすべてを知ってしまうのではないか。彼女を失ってしまうのではないかと不安だ。

そもそも最初は、蛍の指示で知枝に近づいた。

けれど、以前の自分が思いもしなかったのは、年月を重ねるうちに、知枝のそばを離れなくなっていたのだ。

だからこそ、怒りに任せて蛍を責めたのだ。「もう知枝には関わるな。俺の家庭を壊すな」と警告した。

だが、蛍は泣いた。涙に濡れた瞳で彼を見つめ、かすれた声で呟いた。

「健司……私、後悔してるの。あの時、あなたを知枝に譲ったのは間違いだった……

もう一度やり直せるなら、何もいらない。お金も、地位も、名誉も……あなたがいればそれだけでいいの……

約束するよ。あなたたちの結婚生活の邪魔はしないって。あなたが鉄舟を継いだら、ちゃんと身を引くから。

でも、それまでは――もう一度だけ、私を抱いてもいい?」

「……」

涙に濡れ、愛情に満ちたその瞳を、健司は拒むことができなかった。

これまで彼女のために動き、すべてを捧げてきたのは、確かに彼女を愛していたからだ。

哀れなその姿を目の前にして、突き放すことなどできるはずがなかった。

そして、彼は再び一線を越えた。しかも、甘美な快楽に溺れ、彼女と一週間の旅行を約束してしまった。

――すべてが終わったら、きっと知枝を優しく慰めてあげよう。

そう自分に言い聞かせながら。

……

食後、知枝が言い訳をして席を立とうとしたとき、健司が急に声をかけた。そして、少し謝罪の気持ちを込めて言った。

「知枝、来週出張なんだ。一週間ほど。帰ったら、ゆっくり一緒に過ごそう」

「わかったわ」

それだけ言い残して、彼女は階段を上っていった。その瞳の奥には、深い虚無が漂っている。

――やはり、彼は蛍の優しさに溺れ、すべてを忘れている。

来週の4月14日は、母の幸子の命日だ。彼は毎年一緒に墓参りに行ってくれたのに。

だが、忘れても構わない。これで断る理由を探す必要がなくなる。

部屋に入ると、知枝のスマホが震えた。あの見知らぬ番号から、またメッセージが届いている。

【健司を挑発しても無駄よ。むしろ感謝しなきゃ、彼を気持ちよくさせるチャンスを与えてくれて】

【来週はあなたのお母さんの命日なんでしょ?残念ね、健司は私と一緒だから。あなたとは一緒にいられないわ】

【お母さん、天国でそんな娘を見たら、棺桶の蓋を叩き割ってでも出てくるんじゃない?】

短い三通のメッセージだが、鈍い刃のように知枝の心臓を貫いた。血に染まり、激しい痛みを伴っている。

――岸元家を滅ぼしたのは、この二人だ。それなのに、敢えて母の命日を侮辱するなんて……

胸の中にある最も重い痛みが笑い話にされ、好き勝手に踏みにじられた。

怒りと憎悪が知枝の呼吸さえも奪っていった。

震える手でスマホを握りしめ、今にも粉々に砕けそうなほどの力を込めた。

そして彼女はラインを開き、ある人物に音声通話をかけた。

向こうはすぐに電話に出て、嬉しそうな声が聞こえてきた。「師匠!ついに俺のこと思い出してくれた?まさか……」

「頼みがあるの」

知枝は掠れた声で冷たく遮った。「ある女が気に入らないの……だから、楽にはさせたくない」

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