Share

第3話

Author: 浅川夜
圭は、美陽の半歩後ろを黙ってついてきた。何度か差し伸べた手は、そのたびに彼女に拒絶された。

彼はただ、壊れやすいガラス細工を見守るかのように、慎重に距離を保って寄り添うことしかできなかった。近づくことも、離れることもできずに。

病院の入口に差し掛かった瞬間、冷たい風が細かな雪を巻き込んで吹きつけた。薄着の美陽の体が思わず縮こまり、その顔色は雪景色に溶け込みそうなほど白くなった。

「風邪を引くぞ」

圭はすぐに自分のコートを脱ぎ、美陽の肩にかけようとした。

「いらないわ!」

美陽は腕を振り上げ、差し出された服を拒んだ。厚手の生地が手の甲をかすめ、わずかな冷たさが走る。

「美陽、意地を張るな。手術の直後なんだ、体を冷やしてはいけないぞ」

圭の声には、焦燥と痛みが混じっていた。

美陽は足を止め、彼を振り返った。その瞳はまだ赤く腫れていたが、もう涙がこぼれることはなかった。

「意地を張ってるわけじゃない」

風にさらわれそうなほど、か細い声だった。

「……ただ、もう必要ないの」

圭の瞳がわずかに揺れ、コートを握る指先に力がこもった。

「あなたの看病も、心配も、全部いらない」

美陽は一度言葉を切り、彼の傍らを通り過ぎて、どんよりとした灰色の空を見つめた。

「……そして、あなたも。もういらないのよ」

圭が何かを言いかけたその時、鋭い着信音が、二人の間に流れる冷え切った空気を切り裂いた。

画面を見た彼の眉間が、ぴくりと跳ねる。

電話の向こうからは、聞き覚えのある女性の声が響いた。

「圭!早く幼稚園に来て!幸人がずっと泣き止まないの。パパがいいって叫んで、先生が何をしてもダメ、私もお手上げよ。早く来て、あの子の様子が普通じゃないわ!」

圭の瞳に、嵐の前の暗雲のような陰りが落ちた。

スマホを握る指の関節が白く浮き出る。視線は、目の前の青ざめた美陽と、風雪の向こうにいるであろう、胸を締め付けるほど愛おしい息子の姿との間で激しく揺れ動いた。

板挟みになり、進むことも退くこともできない。

冷え切った空気の中で時間が引き延ばされ、刃のように神経を削っていく。

彼は一度目を閉じ、全身の力を振り絞るように、重苦しい声で答えた。

「分かった。すぐに行く」

美陽の心に、小さな痛みが走った。けれどその痛みは一瞬で消え去った。静かな水面に投げ込まれた小石のように、波紋さえろくに広げられない。

美陽は圭を見つめ、血色のない唇をわずかに動かした。

「圭、弁護士に離婚協議書を作らせて。私たち、離婚しましょう」

「美陽、離婚なんて冗談を言うな。お前は今、冷静じゃないんだ。落ち着いてからまた話そう、いいな?」

「いいえ、冷静よ」

美陽の声は低く、けれど確かな響きを持っていた。

「今までの人生の、どの瞬間よりも冷静だわ」

彼女は淡々と、言葉を紡いでいく。

「私たちは、最初から間違いだったのよ。

私が世間知らずだった。こんなに複雑で困難なことだと見抜けずに飛び込んで、二人を逃げ場のないところまで追い詰めてしまったの」

喉の奥が震えるのを、美陽は自覚していた。

「あなたを崖っぷちに立たせ、私自身も細い綱の上で怯えながら過ごす。そんな状況に追い込んでしまった。

あなたの苦しみは理解できるわ。幸人に対する責任も、罪悪感も。あなたの立場なら、それ以外の選択肢はなかったのかもしれない」

美陽の視線は、残酷なほど澄んでいた。

「……理解できることと、受け入れられることは別なのよ。

自分の結婚生活が、常に別の子供の機嫌の後に回されるなんて耐えられない。リスクがあるからという理由で、私の子が切り捨てられることも。

そして、自分自身が永遠に『待ちぼうけ』と『妥協』、そして『いつ犠牲にされるか分からない』の中で生きていくなんて、もう無理なの」

美陽は静かに息を吸い込んだ。冷たい空気が肺を突き刺す。

「もう終わりにしましょう。二人とも、疲れ果ててしまったわ」

言い終えると、彼女はゆっくりと歩き出し、通りがかったタクシーを止めた。

ドアが開いた。美陽は一度も振り返ることなく、車内へと身を沈めた。

マンションの入り口でタクシーが止まった。

代金を払い、ドアを開けた。

吹き付ける寒風と細かな雪に、美陽の細い体はよろめいた。無意識に下腹部を押さえた。

そこには依然として重苦しい痛みが残り、たった今失ったものの存在を突きつけていた。

一歩また一歩、這うようにしてエレベーターに乗り込み、鍵を開けた。

部屋の中は静まり返り、朝出かけた時のままだ。

昨夜の狂乱の跡も寝室に残されたままで、空気の中にはまだ、言い争いや涙、そして砕け散った心の欠片が漂っているようだ。

かつて希望に満ちて飾り立てたこの空間が、今は巨大で冷たい墓穴に見えた。三年の青春、愛、そしてこの世に出ることのなかった命を埋葬するための墓穴に。

明かりを点ける気にもなれず、窓からの薄暗い光が家具の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせるに任せた。

美陽はクローゼットへ向かい、一番大きなスーツケースを引き出すと、荷物をまとめ始めた。

麻痺したような手つきで、自分の持ち物を一つ、また一つと剥がし取っていく。この部屋から自分の痕跡を、少しずつ消し去っていく。

物がなくなるたびに、家の中にぽっかりと穴が開き、見知らぬ場所へと変わっていく。

半分ほど片付けたところで、息が切れ、美陽は冷たいクローゼットの横に座り込んだ。

下腹部の鈍痛が波のように押し寄せ、体の芯が凍りつくような虚無感に襲われる。

二年間過ごしたこの寝室を見渡した。荒れた床、そして大きいダブルベッド。

幾晩、ここで圭の帰りを待ち続けたことだろう。期待に胸を膨らませていた日々から、いつしか孤独に慣れてしまった日々まで。

幾朝、圭の腕の中で目を覚まし、これこそが永遠だと信じ込んでいたことだろう。

二十二歳の時、自分は飛んで火に入る虫のように、彼の深く落ち着いた瞳の中に飛び込んだ。彼こそが一生の拠り所だと信じて。

二十四歳の時、幸福と不安を胸に抱き、彼の花嫁になった。ようやく自分たちの巣を築けたのだと思った。

この部屋は、自分が大人へと変わる中で抱いた最も熱い感情の証明であり、同時に、この不対等な関係の中で、自分の情熱と期待と勇気がいかに削り取られていったかの目撃者でもあった。

彼が帰るのを待つ。彼の手が空くのを待つ。幸人が受け入れてくれるのを待つ。不確かな未来を待つ。

自分は敬虔な信者のように、決して訪れることのない奇跡を待ち続けていた。

けれど今、夢は覚めた。奇跡は起きず、訪れたのは鮮血の滲むような決別だった。

棚を支えに、美陽はゆっくりと立ち上がった。

もう、一刻もここにはいられない。一秒ごとに、空気が重くのしかかり息ができなくなる。

美陽は速度を上げ、最後の数着を詰め込んでスーツケースを閉じた。

立ち上がり、最後にもう一度だけ部屋を見渡す。

未練はなかった。ただ、極限の疲労から解放されたような、静かな諦念だけがあった。

スーツケースを引き、玄関へと向かう。荒れ果てた部屋を最後に一瞥した。

靴箱の上に鍵を置くと、彼女は外へと踏み出した。

背後には、閉ざされた過去と、散らかった残骸、そして、二度と戻ることのない歳月が取り残されていた。
Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 愛の終止符、それぞれの明日へ   第19話

    南市での圭のスケジュールは、隙間がないほど密に詰まっていた。初日の午後は支社の経営陣と四時間に及ぶ戦略見直し会議を行い、二日目は南市市内にある二つの重点プロジェクトの建設現場を視察、進捗を実地で確認し、技術チームと施工上の難点や現地のサプライチェーン適応について議論を交わした。そして三日目の午前は、支社の中堅幹部以上を対象とした四半期自己評価および業務検討会議だった。朝八時半から、各部門の責任者が次々と登壇し、業績報告、問題分析、リソース要望を繰り返した。会議は予定を大幅に過ぎ、午後五時半にようやく閉会を告げた。美陽はプロジェクトの継続案件について小夜子といくつかの細部を確認するため、会議室に少し居残っていた。書類をまとめて外へ出たとき、廊下からはすでに大半の人影が消えていた。美陽が下りエレベーターのボタンを押し、ゆっくりと点滅するインジケーターを見つめていた、その時だった。――チン。エレベーターの扉が完全に閉まろうとした瞬間、節くれ立った手がスッと差し込まれ、扉を押し止めた。黒のレザークラッチを抱えた圭がそこにいた。美陽の姿を認めた瞬間、彼はわずかに動きを止めた。エレベーターが下り始める。短い沈黙の後、二人はほぼ同時に口を開いた。「最近はどう?」「ええ、とてもいいわ……充実してます」美陽の表情は凪のように穏やかだった。「……相変わらずだな」圭の声は低く安定していた。エレベーターはゆっくりと下降し、数字が一コマずつ刻まれる。時間が引き延ばされたかのようだった。「体調は、変わりないか?」と、圭が問った。「お気遣いありがとうございます、葛西社長。私は万事順調です」ようやく一階に到着し、「チン」という音と共に扉が開いた。二人は前後に続いて外へ出た。並んで会社の入り口まで歩き、そこから左右に分かれる。美陽は少し先にある地下鉄の入り口へ、圭は待機していた社用車の方へと向かった。車がゆっくりと帰宅ラッシュの車列に混ざり、彼女の後ろ姿は群衆の中に飲み込まれていく。美陽が現れたのは、予期せぬ真夏の烈日のようであり、美陽が去った後は、冬の凍てつく吹雪が吹き荒れた。足取りは落ち着き、瞳は澄み、笑顔も以前のまま。圭にとっては、それを見られただけで十分だった。これ以上の接近も、これ以

  • 愛の終止符、それぞれの明日へ   第18話

    小夜子はテーブルを囲む一人ひとりの顔を見渡した。「南市支社は設立されて日が浅く、基盤も脆弱だね。本社のリソースには及ばないし、雨風を凌げるようなものもない」彼女は言葉を切り、自嘲に近いかすかな笑みを浮かべた。「けれど、今日ここに座っている皆さんは、行動で証明してくれた。私たちはただ『報告書を並べるだけの無能』ではないということを!三ヶ月間誰も手が付けられなかった『デジタル行政』という難題を、皆さんは一ヶ月足らずで本質を掴み、プレッシャーに耐え抜き、今日の会議で見事に形勢を逆転させたんだ!だから、今夜の食事は……」小夜子は手に持った湯呑みを軽く掲げ、口調を和らげた。「ルールは一つだけ。全員スマホをマナーモードにしてバッグに放り込むこと!今夜は緊急メールも、不在着信も、徹夜で修正する資料もない。皆さんの任務は、ただ思い切り食べ、語り合い、この二ヶ月間張り詰めていた糸を緩めることだよ」一同は笑いながら杯を合わせた。張り詰めていた緊張が解け、空気は一気に活気づいた。目の前の美食を前に、神経が緩んでいく。「ねえ、聞いた?本社マーケティング部の誰かと、開発センターの……」佐藤が目配せをしながら、真偽の定かでない社内ゴシップを切り出した。「それはもう古いよ!最新のニュースは、財務部に来た帰国子女の美人が、実はある役員の親戚らしいって話で……」別の同僚がそれに続く。笑い声が絶え間なく響く中、ジュースを勢いよく飲んでいた井上が、ふと思い出したように微笑んでいる美陽の方を向いた。若者特有の直球な好奇心がそこにはあった。「そういえば森さん、本社のベテラン社員から聞いたんですけど……以前、本社の葛西社長と、何かあったって本当ですか?」あまりに唐突な問いに、個室の談笑は一時停止ボタンを押されたように静まり返った。内情を知る数人の本社出身者は笑顔を凍りつかせ、視線は自然と美陽へと向けられた。「ええ」美陽は一つ頷いた。天気の話でもするかのような、ごく当たり前の口調だ。「付き合っていたし、結婚もしてたわ」井上と佐藤の目が大きく見開かれた。美陽の口元の笑みが、ほんの少しだけ深まった。「そんなゴシップを聞いたような顔をしないの。もう離婚したんだから」井上が息を呑んだ。「じゃあ、森さん……今日、葛西社長が

  • 愛の終止符、それぞれの明日へ   第17話

    町田部長は咳払いをし、職員に記録の準備を促すと、美陽に向き直った。その笑顔はすでに「公人モード」へと調整されていた。「森さん、チームの皆さんは非常によく準備されていますな。では本題に入りましょう。中央区の『デジタル行政』アプリ開発の件ですが、これまでの協議では確かに認識の齟齬がありました。今日は、より深く、より実務的な交流ができることを期待していますよ」会議室の空気が一瞬張り詰め、そして緩んだ。井上と佐藤は無意識に背筋を伸ばした。会議は効率的に進んでいった。一時間三十分後、主要な議題の議論が終了した。町田部長は腕時計をちらりと見ると、再び顔に笑顔を張り付かせた。「いやあ、時間は早いものですな。森さん、今回の準備は非常に堅実で、思考も明晰だ。皆さんがどれほど心血を注いできたか伝わってきましたよ。内部で早急に検討し、フィードバックを差し上げます」「町田部長、そして皆様」圭が口を開いた。その声は低く安定していた。「今日のやり取りを伺い、非常に収穫がありました。我々グループはこのプロジェクトの将来性に、常に高い期待を寄せています。そうでなければ、初期にあれほどの波折がありながら、依然としてリソースを投じ、チームによるこれほど深いローカライズ再構築を支援し続けることはなかったでしょう」彼の口調は依然として穏やかで、丁寧ですらあった。しかし、その言葉の真意に、町田部長の笑顔がまた少し引き攣った。「グループ本社は、こうした戦略的デモンストレーション・プロジェクトに対し、明確な段階的評価ポイントとリソース投入の閾値を設けています。我々は、貴部署のご支援のもと、プロジェクトが一日も早く軌道に乗り、双方の期待に沿った価値を生み出すことを望んでおり、またそう信じています」圭は椅子の背もたれに体を預け、リラックスした姿勢を取った。だが、言葉の迫力は増していく。「もちろん、もし今後、重要なポイントにおいて、依然として技術やプランそのもの以外の理由で推進が妨げられるようなことがあれば……プロジェクトに対する責任、そして双方の投資をこれ以上浪費しないためにも、グループとしては意思決定レベルを引き上げ、本社直轄の特別チームを介入させるか、あるいはプロジェクトの必要性と実現可能性を全面的に再評価することを検討せざるを得ません」町

  • 愛の終止符、それぞれの明日へ   第16話

    「このプロジェクトだが」圭はゆっくりと口を開いた。その口調は純粋に事務的なものだった。「本社も以前評価を下している。戦略的意義とデモンストレーション効果は極めて高いはずだ。連続して却下された原因はどこにある?」「これまでのフィードバックと我々の初期分析によれば、問題は主に三点に集約されます。一つ目は技術案が標準化されすぎており、中央区のアーキテクチャや既存のレガシーシステムに深く適応できていなかったこと。二つ目は、地元で最近施行されたデータセキュリティの管理規則への理解が不十分で、コンプライアンス上のリスクが残っていたこと。そして三つ目は、中央区の現在の重点施策である『デジタル化』と『地域福祉』という二重の目標に有効に合致しておらず、価値の提示が不明確だったことです」「現在引き継いでいるチームの構想は?」「三輪さんからの報告によれば、重点の課題はソリューションのローカライズ適応性です。明日の会議は、チームが新しい調査成果に基づいて行う初めての公式な報告になるはずです」「明日の予定を変更しろ。俺もその会議に出席する」峰生は驚く様子も見せず、すぐに答えた。「承知いたしました。ただちにプロジェクトチームと先方の町田部長側に連絡し、出席枠の追加と調整を行います」「いや」圭がそれを遮った。「事前通知は不要だ。彼らが当初予定してた時間、場所、出席者のままで進めろ。俺はオブザーバーとして傍聴する」「承知いたしました。プロジェクトの背景資料と、これまでの協議記録をご用意しましょうか?」「今すぐ送れ」圭は視線を窓の外から戻すと、峰生から渡されたもう一台のタブレットを受け取った。そして、この「デジタル行政」アプリ開発のプロジェクトの詳細なファイルに目を通し始めた。三度の却下案の要点、相手方のフィードバック、そして美陽のチームによる最新の調査レポートの概要を、一つひとつ読み解いていった。翌朝、八時五十分。美陽はチームの核心メンバーを連れ、開始十分前に中央区総務部会議室に到着した。壁の時計の針が、正確に九時へと向かっていく。会議室のドアは閉ざされたままで、彼ら四人以外に人の気配はなかった。九時五分。依然として静まり返っている。窓の外の雨音と、時折廊下から聞こえるかすかな足音だけが響いていた。部下

  • 愛の終止符、それぞれの明日へ   第15話

    南市の湿り気を帯びた雨の多い春夏が入れ替わる中、半年という月日が静かに流れていった。小夜子の手から美陽のデスクへ、「火中の栗」とも言える仕事が直接放り込まれた。プロジェクト自体の将来性は非常に高かった。当社の技術的優位性を活かし、南市中央区における「デジタル行政」アプリの開発を支援するというものだ。だが、本社から赴任したばかりの前任者は明らかに現地の風土に馴染めておらず、提出したプランは三回連続で政府関連部門から却下されていた。その理由は「技術案が各部門との連携不足」「データセキュリティ基準が最新法律に未達」「地域の発展との相乗効果が示されていない」と、回を追うごとに鋭さを増し、提携先担当者の態度も熱心なものから事務的な冷淡さへと変わっていた。「本社はこのプロジェクトをまだ諦めていないけれど、忍耐も限界に近いわ」小夜子は簡潔に告げた。「あなたが行って、立て直せるか見てきて。無理なら、規定通りに中止を申請して損失を抑えなさい」美陽は部下の田中を連れ、南市の市役所に通い詰めた。窓口では電話が「ジリリリーン」と鳴り響いている。美陽は窓口に向かう職員の後に付いて回り、傍らで観察し、耳を傾け、記録した。職員が書類を整理していれば資料を手渡し、そのついでに、一見基礎的な政策の細部について教えを請うた。一週間もすると、彼女は中央区の「デジタル行政」建設における最新の政策動向や財政予算の執行ペースだけでなく、各部門間の微妙な協力関係にまつわる歴史的な経緯までをも掴み取っていた。さらに人脈を通じて三つの企業を回り、関連データの調査と学習を行った。資料収集を終えると、美陽は二日間オフィスに引きこもってプロジェクトのロジックを再構築し、新しい構想をまとめた上で、中央区総務部の町田部長と非公式の事前協議に臨んだ。レストランの個室は、清らかな空気に包まれていた。「森さんは都会から来られましたね。我々南市は都会には及びませんが、独特の趣があります。今夜は私がもてなしましょう。現地の特色ある料理を味わいながら、プロジェクトについてじっくり話しませんか?オフィスでは話しにくいこともありますからな」町田部長はにやけながら、美陽の顔をなめるように見回した。美陽の背中に瞬時に緊張が走り、吐き気が喉まで込み上げた。彼女はさりげなく

  • 愛の終止符、それぞれの明日へ   第14話

    三ヶ月が経った。南市の春は、重く湿った空気を纏っている。美陽は支社の新しいオフィスのはめ殺しの窓の前に立ち、まだ湯気が立ち上るブラックコーヒーを手にしていた。オフィスは27階にあり、視界は驚くほど開けている。眼下には縦横に走る街路と、織物のように連なる車流。遠くにはうねる川と、霞の中に起伏する山並みが見えた。今日の美陽は、仕立てのいいライトグレーのパンツスーツに身を包んでいた。髪は低めの位置でシニヨンにまとめられ、清潔感のある額としなやかな首筋が際立っている。彼女はぼんやりとしていた視線を戻すと、タブレットの滑らかなスクリーンを指先で滑らせ、確定したばかりの初期チーム構成案を確認した。南市に赴任して以来、山のような仕事が彼女を襲い、まるで独楽のように回り続ける日々が続いていた。昼間は、本社からひっきりなしに届くリソース関連のメールや電話会議に対応し、小夜子が定めた戦略の方向性を理解し、噛み砕いて落とし込まなければならない。同時に、次から次へと応募者の面接をこなし、数百通に及ぶ履歴書の中から、将来性があり、かつチームの気質に合う中核メンバーを選び出す必要もあった。午後になると、息つく間もなく地元の提携先や潜在顧客を訪ね歩き、複雑に絡み合った市場の生態系や暗黙のルールを調査する。新しく立ち上げたチームは、まだ磨き上げられていない部品の寄せ集めのようだ。支社の明かりは、連日深夜まで消えることがなかった。ある夜、入りたての社員がデータ集計中に小数点を打ち間違えるというミスを犯した。午前三時、小夜子からの電話で叩き起こされた美陽は、その初歩的なミスを見て頭が「ガン」と鳴り、眠気が一瞬で吹き飛んだ。美陽はすぐにパソコンの前に座り、不満の声を漏らす部下たちをビデオ会議に叩き起こした。画面の向こうで、新入社員の田中が震える声で泣きじゃくっている。締め切りまで残り九時間を切っていた。「今は責任を追及している時間はない」美陽の声は静かだったが、暗闇の中で冷徹なまでに響いた。「ミスは起きてしまった。私たちがすべきなのは、最短時間でそれを修正し、他の部分に一切の不備がないことを確認すること」美陽はマウスを操作し、一行ずつデータを照合し、関数をチェックし、影響の出た分析項目を再調整していった。朝の光がカーテンの隙間から書

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status