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円満離婚の裏側

円満離婚の裏側

By:  枝火Completed
Language: Japanese
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藤宮修也(ふじみや・しゅうや)と結婚して四年目。 女優として頂点に立つ藤宮紗良(ふじみや・さら)は、無名に近い若手女優・水野優花(みずの・ゆうか)に主演の座を奪われた。 しかも優花は、悪びれることもなく笑って言い放った。 「奥さんだからって、何?私が何か言えば、修也さんはだいたい私の言うとおりだし。 それにね……今、妊活中なの」 半年後、紗良は三度目となる最優秀主演女優賞を受賞していた。 その夜、修也は優花を連れて家に戻ってきた。流産した優花を、この家で静養させるつもりだという。 紗良は取り乱さなかった。 涙を見せることも、声を荒らげることもなく、ただ静かに離婚届へ署名した。 そして優花に言った。 「修也のSNSに入って。三十日後に投稿されるよう設定して。 内容は――『俺たちは円満に離婚した』」 「……約束だよ、紗良さん。ちゃんと守ってね」 「ええ。望みどおりにしてあげる」 三十日後、紗良はフランスへと飛び、修也とのすべての繋がりを、自らの手で断ち切った。

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Chapter 1

第1話

「紗良、もう決めたか?優花にはうちで流産後の静養をさせたい」

藤宮修也(ふじみや しゅうや)のせかす声が響いた。

藤宮紗良(ふじみや さら)は視線を上げ、指先が掌に食い込むほど握りしめたまま、目を赤くして焦った顔の男を見た。

今夜、紗良は三度目となる最優秀主演女優賞を手にし、修也が帰宅したら一緒に祝うはずだった。

それなのに彼は、流産したばかりの水野優花(みずの ゆうか)を連れ帰り、夫婦の寝室で休ませようとしている。

こんな理不尽な出来事は、今年に入ってから一度や二度ではなかった。

最初は年明けのことだ。修也の醜聞が週刊誌を賑わせ、紗良にどこか似た優花と、駐車場の車内で関係を持っている決定的な写真まで撮られた。

紗良は泣き腫らした目で、離婚を切り出した。

修也は優花を連れて紗良の前にひざまずき、三日三晩その姿勢を崩さなかった。そして彼女の目の前で、自ら髪を剃り落としてみせた。

「紗良……許してくれないなら、俺はこれから先、ずっと仏前で罪を贖う」

床一面に散った黒髪を見つめながら、紗良の心はふっと緩んでしまった。

二度目は、紗良の新作がまだ撮影の途中だったにもかかわらず、監督が突然こう告げたときだ。「ヒロインは優花に交代だ」

納得できず、紗良が修也を問い詰めると、彼はかすれた声で言い訳を並べた。

「紗良、あの夜……優花が妊娠した。俺が中絶に付き添ったんだ。あいつは埋め合わせに、売り出してほしいって俺に頼んできた。

先月、あいつの作品がそこそこ当たって、母さんが『五年前の雪崩で助けてくれた恩人だ』と言い出した。それで、俺は主演の枠を譲った」

彼は恐る恐る紗良を抱き寄せ、声まで震わせて言った――

「……これが最後だ。もう二度と、あいつに俺たちを邪魔させない。な、頼む」

紗良は、その言葉を信じてしまった。

――そして今日。

修也は優花を家に入れ、また同じ言葉を口にする。

「紗良、優花は俺のせいで、二度も流産した。ずっと負い目があるんだ。だから……家で休ませるしかない。

少しだけ……目をつぶってやれないか」

紗良は彼をまっすぐ見据え、笑ってしまいそうになるほど、目の奥が熱くなった。

「嫌だって言ったら?」

修也は眉をきつく寄せた。

「紗良、意地を張るな。約束しただろ。俺の妻はお前だけだ。優花が静養を終えたら、ちゃんと出ていかせる。俺たちは……また元に戻れる」

紗良は彼を見つめ、口元にかすかな嘲りを浮かべた。

――元に戻る?

七年前――白見原の名家で「禁欲の若様」と囁かれていた彼が、紗良に一目で恋に落ち、自らに課していた掟を破った、あの頃に?

四年前。落ち目だと嘲られていた紗良を、世間の悪意ごと抱え込み、妻として迎え入れた、あの頃に?

それとも三年前。彼が手を尽くして紗良を再びトップへ押し上げ、受賞の舞台で、誰よりも誇らしげに拍手を送っていた、あの頃に?

「紗良さん……これ、全部あなたのトロフィーなんですか?」

優花の、羨望に満ちた声が、紗良の回想を断ち切った。

振り向くと、優花が彼女のトロフィーに手を伸ばしていて、紗良はわずかに眉をひそめた。

「……それ、私のものだから。触らないで――」

言い終える前に、優花は甘い笑みを浮かべ、トロフィーを持ち上げると床へ叩きつけた。

――ガラスが裂けるような、耳を刺す音。

紗良が反射的に手を上げた、その瞬間だった。背後から重い力がのしかかり、乱暴に突き飛ばされた。

体ごとテーブルに激突し、腕が鋭い角で切り裂かれる。鮮紅の筋が走り、並べられていたトロフィーが、一斉に床へと落ちた。

痛みに息を呑み、紗良の瞳が赤く潤んだ――

「修也……どうかしてるの?」

紗良の声にも、修也は振り向かなかった。すすり泣く優花を抱えたまま、そのまま二階へと上がっていく。黒い瞳に浮かぶ庇うような色は、隠しようもないほど露骨だった。

「泣くな。医者にも言われただろ。静養中は、泣いちゃいけない」

その背中を見送りながら、紗良の目の縁に、静かに涙が溜まっていく。

――修也と優花の間には、二度も子どもがいた。

たとえ優花の静養が終わったとして。修也は、本当に彼女を家から出せるのだろうか。

今回は……もう、元には戻れない。そんな予感が、胸の奥に重く沈んだ。

そのとき、不意にスマホの着信音が鳴り、思考を断ち切られた。

通話を取ると、受話口から修也の母・藤宮美智子(ふじみや みちこ)の嘲るような声が流れ込んでくる。

「優花ね……また修也の子、できたの。もう、あなたが優花を追い出すなんて話、通らないわ。ねえ、現実を考えなさい。いくら出せば、修也から身を引いてくれる?5億?10億?……それとも、まだ足りない?」

紗良は無意識にスマホを握りしめた。

美智子は、優花がついさっき流産したことを、知らないのだろうか?

これ以上、関わりたくなかった。紗良は、声を抑えて言った。

「美智子さん……年明けに、修也が署名した離婚届。あれを渡してくれるなら、私も離婚に同意します」

頭を丸めた、あの夜。修也は、先に離婚届へと署名していた。

もし紗良が離婚を望めば、彼の財産の半分は紗良のものになる。

けれど紗良が彼を許したことで、修也はその離婚届を金庫にしまい込み、「次はない」という戒めにした。

美智子は数秒沈黙し、唇をつり上げた。

「紗良……言ったことは、守りなさい」

ツーツーという無機質な音が続き、通話は切れた。紗良は、暗くなった画面を、しばらくぼんやりと見つめていた。

玄関の方で、慌ただしい足音が響く。

ゆっくりと顔を上げると、かかりつけ医が軽く会釈し、そのまま足早に二階へ向かっていった。

紗良も立ち上がり、少し遅れて階段を上る。

扉の隙間から、修也が小声で優花をあやしているのが見えた。

「聞こえたか。今回の流産は、ただの事故だ。俺たち……また子どもを授かれる。だから、泣くな」

「でも……もし、また流産したら……?」

「大丈夫だ。どうしてもなら、体外受精にすればいい。腕のいい医者を呼ぶから……」

二人は、まるで夫婦のように、これからの子どもの話をしていた。

そこに立つ紗良のほうが、まるでよそ者のようだった。

胸の奥が細かく軋み、紗良はくるりと身を翻すと、屋敷の一番奥にあるゲストルームへと逃げ込んだ。

ほどなくして、ノックの音がした。

ドアを開けると、そこに優花が立っていた。怯えたふりをした表情を、わざとらしく貼りつけて。

「紗良さん……修也さんが、私の様子を見やすいからって、主寝室で休めって……怒らないでください。修也さんの気持ち、紗良さんのところにあると思います」

紗良は返事もせず、窓の外を一瞥した。エンジン音を残し、マイバッハがゆっくりと遠ざかっていく。

――もう、芝居に付き合う気はなかった。

「……わざと修也を外に出したんでしょ。それで?私に何の用?」

優花は驚いたように、二歩ほど後ずさる。

「そ、そんな……何のことか分かりません。ただ……修也さんを怒らせないでほしくて……」

「白々しい」

紗良は視線を逸らさず、この一年で積み重なった華やかさを、淡々と並べていく。

「芸能界に入ってすぐ、ゴシップ垢が『藤宮紗良の再来』だって騒ぎ立てた。

あの夜は、わざとピルを飲まなかった。妊娠して……今度はまた、修也の子まで。

優花。どんな手を使ってでも、上に這い上がりたいんだね」

その瞬間、優花の怯えた表情が、ぴたりと固まった。

睨み返してくる視線。長い沈黙のあと、抑え込んでいた嫉妬と悔しさが、顔に滲み出る。

「……紗良さん。私、修也の奥さんになりたいの。どうしたら……修也から離れてくれる?」

美智子と、同じ言い方。

紗良は優花を見つめたまま、表情ひとつ動かさなかった。

「私に出ていけって言うの?簡単だよ」

そして、はっきりと言い切る。

「修也のSNSに入って。三十日後に投稿されるよう設定して。内容は――『俺たちは円満に離婚した』」
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KuKP
KuKP
クズ男というか、不倫と傷害殺人未遂と拉致監禁傷害&脅迫の発狂野郎というほん怖 不倫相手の発狂がいい塩梅に主人公を救ったな 主人公はキッパリしてていい女だった
2026-02-19 19:51:25
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松坂 美枝
松坂 美枝
自分が浮気して相手を二度も妊娠させて散々やっといてよく復縁に来られたもんだうわあ真琴おおお許せねえ主人公ピンチピンチうわああああ優花ああああやったーーーありがとうありがとうマジでありがとう!! 読んでてハラハラしてたので優花が女神に見えたよ(笑)
2026-02-19 09:52:43
3
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第1話
「紗良、もう決めたか?優花にはうちで流産後の静養をさせたい」藤宮修也(ふじみや しゅうや)のせかす声が響いた。藤宮紗良(ふじみや さら)は視線を上げ、指先が掌に食い込むほど握りしめたまま、目を赤くして焦った顔の男を見た。今夜、紗良は三度目となる最優秀主演女優賞を手にし、修也が帰宅したら一緒に祝うはずだった。それなのに彼は、流産したばかりの水野優花(みずの ゆうか)を連れ帰り、夫婦の寝室で休ませようとしている。こんな理不尽な出来事は、今年に入ってから一度や二度ではなかった。最初は年明けのことだ。修也の醜聞が週刊誌を賑わせ、紗良にどこか似た優花と、駐車場の車内で関係を持っている決定的な写真まで撮られた。紗良は泣き腫らした目で、離婚を切り出した。修也は優花を連れて紗良の前にひざまずき、三日三晩その姿勢を崩さなかった。そして彼女の目の前で、自ら髪を剃り落としてみせた。「紗良……許してくれないなら、俺はこれから先、ずっと仏前で罪を贖う」床一面に散った黒髪を見つめながら、紗良の心はふっと緩んでしまった。二度目は、紗良の新作がまだ撮影の途中だったにもかかわらず、監督が突然こう告げたときだ。「ヒロインは優花に交代だ」納得できず、紗良が修也を問い詰めると、彼はかすれた声で言い訳を並べた。「紗良、あの夜……優花が妊娠した。俺が中絶に付き添ったんだ。あいつは埋め合わせに、売り出してほしいって俺に頼んできた。先月、あいつの作品がそこそこ当たって、母さんが『五年前の雪崩で助けてくれた恩人だ』と言い出した。それで、俺は主演の枠を譲った」彼は恐る恐る紗良を抱き寄せ、声まで震わせて言った――「……これが最後だ。もう二度と、あいつに俺たちを邪魔させない。な、頼む」紗良は、その言葉を信じてしまった。――そして今日。修也は優花を家に入れ、また同じ言葉を口にする。「紗良、優花は俺のせいで、二度も流産した。ずっと負い目があるんだ。だから……家で休ませるしかない。少しだけ……目をつぶってやれないか」紗良は彼をまっすぐ見据え、笑ってしまいそうになるほど、目の奥が熱くなった。「嫌だって言ったら?」修也は眉をきつく寄せた。「紗良、意地を張るな。約束しただろ。俺の妻はお前だけだ。優花が静養を終えたら、ちゃんと出ていかせ
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第2話
優花は、紗良があまりにもあっさり頷いたことに面食らった。ふと何かを思い出し、抑えきれずに声が弾む。「約束する。紗良さんも、言ったとおりにしてね」紗良は彼女の横をすり抜け、踵を返して階段を下りた。それから三十分後、紗良は別棟へ向かった。修也と付き合って七年、そのうち最初の三年はそこに暮らしていた。いま、紗良は持ち物を整理するつもりだった。最初に捨てたのは、黒いスーツだった。七年前、紗良は仏堂で修也と初めて顔を合わせた。その日は薄着で、拝礼を終えて立ち上がった瞬間、思わず身震いした。すると修也は何も言わず、黒いコートを脱いで差し出した。その夜、連絡先を聞いてきたのは修也のほうだった。次に捨てたのは、一族の印のような指輪。ある人気俳優に、悪意ある「匂わせ」で絡まれた翌日――修也は紗良の手を引き、報道陣の前に姿を現した。そして、あの指輪を、皆の見ている前で彼女の指にはめた。「くだらない噂はやめろ。紗良は、俺の女だ」あのときの修也の目には、隠しきれない独占欲が宿っていた。三つ目に捨てたのは、二人で写った写真だった。誕生日の日、周りの反対も押し切って修也がプロポーズし、街の高層ビルの大型ビジョンには『紗良、俺と結婚してくれ』が流れ続けた。紗良が頷いた瞬間、修也は目を赤くし、言葉を詰まらせた。「この先の人生で、俺が願ったことは一つだけだ。お前を家に迎える。それだけでいい」……もし修也が裏切らなければ、年末には妊活を始めて、二人はすぐに可愛い子を授かったはずだった。紗良は目を伏せ、少しずつ自分のものを捨てていった。翌朝早く、美智子からメッセージが届いた。【来なさい。離婚届を手に入れた】紗良が邸宅に戻ると、家の中で僧侶がお祓いの支度をしているのが、遠目にも分かった。紗良が思わず眉をひそめると、そばに控えていた使用人が、声を潜めて説明する。「旦那さまが……流産のあとでも、次は無事に授かれるようにと、お祓いをしてくださるお坊さまがいると聞いて、昨夜のうちにお呼びしたそうです。……優花さまのために」紗良は視線を落とし、胸の奥に込み上げる酸っぱさを、静かに飲み込んで中へ入った。優花は修也にもたれかかり、涙をそっと拭いながら、遠慮がちに口を開く。「修也さん……ここで静養させてもら
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第3話
「修也さん、でも……お腹がまた痛くなってきた」優花が修也の裾をつかみ、唇を噛んだ。「先生が、ここ数日はあなたがそばにいてって言った」優花がつらそうに口を結ぶのを見るなり、修也はあっさり折れ、慌てて向き直って宥めにかかった。修也は使用人に言いつけ、自分がいない間は優花をきちんと看て、風に当てるな、三十分おきに湯たんぽを替えて下腹に当てろと念を押した。紗良は横で立ったまま、冷えた目で二人のやり取りを眺めていた。ようやく優花が涙を止め、修也は外へ出ることを許された。洋食の店。紗良はスープを小さく口に運びながら言った。「修也、優花が流産してなかったら、あなたにとってはいい奥さんになってたかもね」修也はしばらく黙り、今夜の紗良がどこかおかしいとやっと気づいた。「言っただろ。俺の妻はお前だけだ。優花が休み終えたら、ちゃんと出ていかせる」紗良は返さず、俯いたまままたスープを少しずつ飲んだ。空気がさらに冷えていくのを感じ、修也はさっきの話題を切り上げた。「紗良、母さんは何の書類を渡したんだ?」紗良が目を上げた瞬間、修也のスマホが鳴った。受話口の向こうから、女の泣き声がこぼれてくる。「修也さん……また、胸が張ってきて……どうしたらいいの……」修也は椅子を蹴るように立ち上がった。「泣くな。今すぐ戻る」電話を切ると、修也は紗良を見た。「ゆっくり食べろ。あとで使用人に送らせる」「待って」首筋がむず痒くなり、赤い斑が、波打つように一気に全身へ広がっていくのが分かった。「修也……私、アレルギーが出たみたい。エビがだめなの、知ってるでしょ。……どうして、エビ入りのスープなんか頼んだの」最後まで言い切る前に、修也はすでに背を向けていた。紗良はその背中を見つめ、やがて、ゆっくりと俯く。こぼれ落ちた涙が、大きな粒のまま、静かに床を濡らした。修也。もうすぐ知るだろう。私があなたと離婚したいってこと。最後の一回のチャンスまで、あなたは捨てた……喉が締まるように苦しくて、紗良はまともに息ができない。腕の力が抜け、身体が右へ傾き、指先がだらりと落ちた。一時間後、紗良は胃洗浄を終えた。看護師に車椅子を押され、ちょうど優花の病室の前を通りかかる。扉の隙間から、紗良は修也が優花
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第4話
「修也さん、紗良さんの時代劇の撮影に付き添うって聞いた。ワイヤーで吊るアクションもあるんでしょ。私も現場に連れていってもらえない?ワイヤーってやったことなくて、ちょっとだけ体験してみたい」優花は縋るように修也を見上げ、濡れた瞳に憧れをいっぱい浮かべた。修也は低い声で言い切った。「だめだ。今日は暑すぎる。回復に響く」優花は入ってくるなり、修也の腕を揺らして甘えた。「ほんの気分転換だよ。五分だけでいい……」そう言いながら、指先がわざとらしく修也の掌をくすぐった。紗良は目を伏せ、胸の中で数えた。「3、2、1……」1を数えたところで、修也が小さく息をつき、折れた。「分かった。ただし自分で自分を守れ」紗良は立ち上がって外へ向かい、口元に皮肉な笑みを引いた。現場に足を踏み入れた瞬間、空気は異様なほど蒸していた。今日は冬設定の時代劇だというのに。修也は携帯扇風機で優花に風を送り、時折、ハンカチでその額の汗まで拭ってやる。――まるで、壊れ物のように。優花が衣装に着替え終えると、修也は安全担当に向かって、三度も念を押した。「メインのロック、ちゃんと確認しろ」そのすぐ横で待たされ、汗を流している紗良には、修也は一度も視線を向けなかった。「水野のやつ、急にどうしたんだよ。こんな暑い日に、全員付き合わせる気か?」「藤宮社長、七年も紗良さん一筋だったはずだろ。あの動き見てると……気持ち、変わったみたいだな」スタッフの囁きは、刃物のように、もう麻痺したと思っていた紗良の胸を、容赦なくえぐった。紗良は頭の中で、これからの殺陣をなぞり、意識を無理やり別の場所へ追いやる。演技に対する自信、その大半は修也がくれたものだった。どん底だった二年間。修也は毎日現場に付き添い、夜は家に戻ってからも、一緒に反省会をしてくれた。なのに今、その男は別の女に、殺陣を一つひとつ丁寧に教え、ワイヤーの恐怖をどう乗り越えるかまで、言い聞かせている。ただ、傷つかせないためだけに。ほどなく、紗良も優花も準備が整った。秘書が慌てて駆け込み、声を潜めた。「社長、契約でトラブルが出た」優花は甘く笑って、気遣うように言った。「先に行って」修也は監督に「優花を頼む」と言い置き、秘書と外へ出た。監督の合図で二人はゆっ
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第5話
紗良はすぐにアプリを開き、上がったばかりのトレンドを確認した。【ワイヤー事故、形勢逆転!トップ女優・藤宮紗良が新人女優を流産させた】震える指で、紗良はマネージャーに電話をかけた。三度目でようやく繋がり、相手は歯切れ悪そうに切り出した。「紗良……修也さんから、君のSNSのIDとパスワードについて聞かれまして……」紗良は声が掠れて言葉にならず、立ち上がって修也を問い詰めに行こうとした。ふらつきながら優花の病室の前まで辿り着いた。修也はベッド脇に立ち、医師が優花の手首に包帯を巻くのを見つめていた。黒い瞳ににじむ心配は、隠しようがなかった。「もう衝動で自分を傷つけるな」修也はやさしく宥めた。「お前の言うとおりにした。トレンドは抑えたし、紗良が痴漢された動画も出した」スマホがまた震え、一本の動画が一気にトレンド上位へ駆け上がった。四年前、現場の休憩中に酔っ払った男に襲われ、下着姿まで晒された映像だった。あのとき紗良は恐怖で高熱を出し、修也は三日三晩つきっきりで看病し、監視カメラも全部押さえた。「俺がいる限り、この動画は一生外に出ない」それが今、誰でも見られる場所に放り投げられている。修也は自分の手で紗良の傷口をこじ開け、別の女を宥める道具にした……病室のドアを押す手が力なく落ち、紗良はよろめきながら踵を返した。涙が溢れてくるのに、喉は詰まり、声が一つも出ない。人は壊れきったとき、泣くことさえ音にならないのだと知った。翌朝、紗良は退院の手続きを済ませた。修也は二日間、家に戻らなかった。朝、紗良が階段を下りると、執事の武井源治(たけい げんじ)がタブレットを差し出した。「奥さま、結婚記念日が近づいております。お祝いの案をいくつか用意いたしました」紗良は受け取らず、冷えた目で言った。「いらない。全部取り消して」「取り消し、ですか」源治は意外そうに瞬きをした。「奥さまは毎年、記念日を大事になさっていましたが」紗良は淡々と返した。「もうすぐ夫婦じゃなくなる。祝う意味がない」「紗良、何を言ってる」玄関先から修也の裏返った声が飛び、顔色は真っ青だった。リビングの空気が一瞬で氷みたいに冷えた。源治は一礼して下がり、残ったのは二人だけだった。「紗良、まだ怒って
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第6話
紗良は不安を押し殺し、アイマスクを外した。目の前は真っ暗で、灯りのスイッチも見つからない。手探りでドアを叩くしかなかった。「修也、開けて。中、真っ暗だ」返事はない。長い沈黙のあとでようやく、ドアの向こうから冷えた声が落ちてきた。「鍵をかけた。今夜はそこで反省しろ」「何の反省?」紗良の声が震えた。紗良は閉所が苦手だった。闇が迫るだけで心臓が跳ね、息が詰まりそうになる。ドアの外で、修也の声には抑えた怒りが滲んだ。「優花と飯を食えと言っただけだ。俺が電話に出ている隙に、海に突き落として、感染まで起こさせた。紗良……いつから、そんな人間になった」紗良は呆然として、頭の中が真っ白になった。「私じゃない」「まだ言い逃れするのか」修也の声が苛立ちを増した。「その場にいたのは、お前と優花だけだ。花火しようって誘ったのに、お前がひどいことを言って、突き落としたって言ってる。二度も流産して、死にたいくらい辛いって泣いてる人間が、自分の体を使ってまでお前を陥れると思うのか」額に冷たい汗がにじみ、紗良の声は掠れて震えた。「修也、七年も一緒にいて、私があなたに嘘をついたことがある?」「どうやって信じろって言う」修也の声は氷みたいに冷たかった。「今夜はそこで反省しろ」足音が遠ざかっていく。闇が紗良を飲み込み、手足が冷え、呼吸が浅く速くなった。ぼんやりと、プロポーズされた夜が浮かぶ。あのとき修也は泣きながら言った。「紗良、頼む。一生、俺を愛してくれ」いま、その手で紗良を暗闇の中に閉じ込める。闇がさらに重くなり、紗良が崩れそうになったとき、白い壁の一角で火花が散った。耳を裂くような電流音が走った。エアコンがショートして燃えた?!背後から熱い風が押し寄せ、スカートの裾が焦げる寸前だった。紗良は恐怖を押し殺し、必死にドアを叩き続けるしかなかった。「修也!火事なの。早く、早く出して!!」叩きすぎて、手のひらがじんじんと熱を帯びる。やがて、外から足音が近づいてきた。助かった——そう思った瞬間、返ってきたのは、甘い女の声だった。「修也さんなら?私が焼き肉食べたいって言ったら、秘書に手配させてるところだよ」熱気の向こうで、修也のやさしい声が重なる。「行こう」優花の甘える声
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第7話
修也はその場で固まり、どうしていいか分からないまま、冷え切った紗良の顔を見た。「母さんは……優花が流産したって知って、慰めに来たんだと思う」紗良は二人の話に関わりたくなくて、そのまま二階へ上がろうとした。美智子は視界の端に紗良を捉えると立ち上がり、目の前に回り込んだ。細い指が持ち上がり、紗良の目を突きそうな勢いで突きつけられる。「ニュース、見たわ。あんた……本当にひどい女ね。私の孫を、二人も殺したのよ」紗良は足を止め、眉をひそめた。「私じゃない。あいつが……」言い終える前に、修也が脇へ回り込み、紗良の腕を掴んで半ば強引に引き寄せた。「紗良、約束しただろ。外向きには――お前のせいってことにする。落ち着いたら、俺が何とかする」背後で、美智子の罵声が止まらない。「修也が、どれだけ子どもを欲しがってたか分かる?生みたくないなら、それでいい。でもね、優花を何度も流産させて……あんた、人として終わってるわ」紗良は、焦りを隠しきれない修也の顔を、ぼんやりと見つめた。いったいいつから、こんなふうになってしまったのだろう。紗良はそれ以上、何も言わず、踵を返して静かに階段を上がった。修也は、一人で上がっていくその背中を見送りながら、胸の奥のどこかが、ちくりと疼くのを感じた。何かを察したのか、それから数日間、修也は毎日家で仕事をした。紗良から、目を離さなかった。紗良が家にいれば、修也も家にいた。紗良が外へ出れば、修也も後を追った。視界から消える時間を、一秒たりとも作らないつもりのようだった。すべてに区切りをつけ、紗良はその日の午後便で、フランス行きの航空券を取った。どうやって家を出る口実を作るか、紗良はそればかり考えた。そのとき、書斎で修也のスマホが突然震えた。通話を終えると、修也は鍵を手に取り、落ち着かない様子で玄関へ向かった。「優花がまた母乳のことで騒いでる。様子を見てくる。紗良、すぐ戻るから、家で待っていろ」修也が出た瞬間、紗良は時間を確認した。出発まであと五時間。まず役所で離婚の手続きを済ませ、そのあと真琴と食事の約束を入れた。「紗良、私を呼んだのって……結婚記念日に付き合ってほしいってこと?」紗良は視線を落とし、落ち着いた声で答えた。「真琴。さっき、離婚の
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第8話
修也は屋敷を後にした。優花のために用意した別荘へ急ぎ、見るからに心配そうな顔で彼女を宥めた。「前にも言っただろ。流産のあとで静養してる間は、母乳が滲むこともある。変に考えるな」そう言って、修也はハンカチで優花の頬を伝う涙をそっと拭い、人肌に冷ました白湯を口元へ運び、乱れた髪を指先で丁寧に整えてやった。しばらくして、ようやく優花の涙は止まった。優花は紗良とのトーク画面を開き、修也が自分の足を揉んでいるところを写真に撮った。送信を押そうとした、その瞬間――スマホが震えた。紗良から、立て続けに四通のメッセージが届く。最後の一文は、こうだった。【これが、私と修也が離婚した証拠。予約投稿に添付して】優花は一瞬固まり、画像を拡大して確認したあと、口角を大きくつり上げる。まだ足を揉み続けている修也を見て、甘えるように「スマホ、貸して」とねだった。修也は何の疑いもなく、甘やかすようにそれを手渡した。ほどなくして、証拠画像を添付し、スマホを返した。その瞳には、抑えきれない興奮が宿っていた。修也は腕時計に視線を落とした。「優花、会社で用事がある。もう戻る」帰り道、修也は和菓子屋の前で車を止めた。修也は俯いて、紗良にメッセージを送った。【お前の好きな和菓子だ。今から買う。家で待ってろ】十分経っても、紗良から返事はない。修也の顔が険しくなり、トーク画面を上へ遡った。いつからか、紗良は返事をすぐに返さなくなっていた。たまに返ってくるのも、適当な「うん」「分かった」「へえ」ばかりだ。以前は、修也からの通知だけ強めにして、返事のたびに可愛いスタンプまで付けていたのに……黒い車はほどなくして自宅へ滑り込んだ。車が止まると同時に、修也はドアを開けて降りる。いつもならこの時間、紗良はリビングで花を活けている。淡いピンクや薄い黄色を好み、その腕前も見事だった。帰宅するたび、できたばかりの花を、嬉しそうに見せてくる。けれど今、花はきちんとテーブルに置かれているのに、リビングには誰の姿もなかった。修也は眉をひそめ、二階へ向かう。苛立ちを抑えきれず、寝室のドアを押し開けた。中はがらんとしている。紗良の気配がない。修也は顔を強張らせ、背後で身をすくめている使用人に、冷えた声で言った。
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第9話
修也はきつく眉をひそめた。腹の底では、ここしばらく優花と縺れようが、どれだけ酷いことをしようが、紗良は一生自分のそばを離れないと信じていた。それほど長い年月、二人は互いの存在を当たり前にしてきた。だが源治の言葉は、修也がこの数か月、見て見ぬふりをしてきた問題を正面から突きつけた。紗良が去ったら、後悔するのか。屋敷に足を踏み入れても、視線の先にいつも自分を映していた紗良がもういないとしたら……付き合いの席から戻っても、水を出してくれる人がいないとしたら……どん底のとき、耳もとで――「たとえ藤宮グループがなくなっても、私が芝居を続けて、あなたを支えるから」――そう囁く声が、もう聞こえないとしたら。想像しただけで、修也は全身がむず痒くなり、胸の奥がどこか欠けたように寒くなった。いまさら、取り返しのつかない気がして、かすれた声で言った。「謝る。数日もすれば、優花の静養も一段落する。そうしたら……俺たち、またやり直せるだろ」源治は黙ったまま、ゆっくりと首を横に振った。彼の知る紗良は、もう昔に戻る気などないだろう。修也は諦めきれず、スマホを取り出して紗良に発信した。「おかけになった電話は電源が入っていないか、電波の届かない場所にあるため……」理由の分からない不安が胸に広がり、もう一度かけ直した。返ってきたのは、やはり同じ音声だった。こめかみの血管がひくりと脈打ち、修也はすぐに秘書へ連絡を入れ、紗良の行方を探らせた。通話を切ると、屋敷の中を落ち着きなく歩き回る。歩けば歩くほど、この広すぎる屋敷に、紗良の気配が一片も残っていないことを思い知らされた。いつも履いていた淡いピンクのスリッパは消え、お気に入りだったクマの抱き枕も見当たらない。一か月前に手作りしてくれたペアのマグカップも、彼女の分だけが、きれいに姿を消していた。そのとき、不意に着信音が鳴った。修也は思わず表情を緩め、すぐに電話に出る。だが、画面を見た瞬間、目の奥の光がすっと失せた。――美智子からだった。「修也、やっとあの女と離婚したのね!それで、いつ優花と結婚するつもりなの?」受話口の向こうから、浮き立った声が飛んできた。「母さん……何を言ってるんだ」馬鹿げていると思うほど腹が立ち、修也は苛立ちを紛ら
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第10話
優花は無理やり顎を上げさせられた。喉元を締めつける窒息感に、優花の目尻から、思わず涙がこぼれた。何か言おうとしても、息が詰まって声にならない。修也が怒りで理性を失うところを見たのは、これが初めてだった。優花は、修也はもう紗良を愛していないと決め込んでいた。だからこそ、遠慮もなく修也のスマホを勝手に操作し、修也と紗良の離婚話を流した。まさかそれを知った修也が、本気で自分の首を折りにくるなんて思いもしなかった……まるで。自分が修也にとって、あってもなくてもいい玩具にすぎないかのように。「言え……流したのはお前か?」修也は言葉を一つ一つ噛みしめるように吐き出した。黒い瞳の奥には血走った白目が浮かび、怒りを隠しきれていない。優花は顔を真っ赤にし、さきほどまでの得意げな様子は、影も形もなかった。「修也さん……私じゃありません。紗良さんに言われたんです。もう修也さんのことは好きじゃないって。ずっと離婚したかった、修也さんから離れられるのが解放だって……」修也は息を呑み、胸の奥に重たいものが沈み込んでいくのを感じた。「……あり得ない。紗良が、俺を愛してるのに……そんなことを言うはずがない!」優花は慌ててスマホを取り出し、紗良とのトーク画面を開く。そして、搭乗前に紗良から送られてきたメッセージを、そのまま修也の前に突き出した。【見れば分かる。修也は、本気であなたのことを想ってる。この一年、あなたの機嫌を取ろうとして、本当にいろんなことをしてきた。撮影の合間にちゃんと休めるようにって、あなた専用の車まで手配したし、必ず売り出すからって、スタッフも一新した。それに、この一か月――何か起きるたびに、修也は私を置いて、まっすぐあなたのほうへ行った……そこまで想い合ってるなら、私は祝福する。修也のことは、あなたに任せる。私は、もう手を引く。幸せにしてあげて】紗良の言葉を見た瞬間、修也の頭は真っ白になった。しばらくして、胸の底から最悪の想像が浮かび上がる。紗良は、すべて知っていた。優花が二度目に身ごもったのは、修也が彼女を連れて海外を長く離れ、二人きりで過ごしていた時期のことだと、紗良は知っていた。人目を避けるように優花を伴い、自分には隠したまま、本家に何度も出入りしていたことも。そ
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