LOGIN「……俺を、許してくれないか……」けれど七海は、ただ静かに口を開いただけだった。その声は、波ひとつ立たないほど穏やかだった。「渡辺さん、昔のことは、もうとっくに忘れたわ」忘れた。たったそれだけの三文字が、どんな非難よりも彼を深く傷つけた。彼女は恨んでいるのではない。本当に、もう何とも思っていないのだ。彼の懺悔も、落ちぶれた今の姿も、苦しみも、彼女にとっては何の意味も持たなかった。「私は今、とても幸せよ」七海は理央に目を向け、その瞳にやわらかな温もりを浮かべた。「夫は私をとても大切にしてくれるし、仕事も順調。だから私は、誰かを許す必要もなければ、許したいとも思わない。これからはもう、私の人生に関わらないで」そう言い終えると、彼女は理央の腕にそっと手を添え、そのまま立ち去った。振り返ることもなく、未練を残すこともなく。湊はその場に立ち尽くし、彼女の迷いのない背中を見つめながら、ついに耐えきれずその場にしゃがみ込み、声をあげて泣いた。通りすがりの人々が足を止め、訝しげに見たり、ひそひそと何かを言い合ったりしていたが、彼にはもう何も耳に入らなかった。彼はようやく知ったのだ。かつて七海が味わった痛みの、ほんの一端を。愛しても手に入らないこと。悔やんでも取り戻せないこと。望んでも届かないこと。それが、彼の受けるべき報いだった。……その後、七海が湊と再び会うことはなかった。噂では、彼はあの小さな地方都市でずっと働き続け、貧しく地味な暮らしを送りながら、二度と何かを巻き起こすこともなくなったという。かつて渡辺家の御曹司だった男は、結局どこにでもいる普通の人間へと成り果て、生涯を日々の暮らしのために追われて過ごすことになった。一方の美咲も、二度とあの街へ戻ることはなかった。辺鄙な地方の小さな町で名前を変え、ひっそり暮らしているという話もあった。相変わらず各地を転々としながら生きているが、昔のような傲慢さだけはもう失ったらしい、という話もあった。どちらにせよ、七海には何の関係もないことだった。父親と弟はというと、相変わらず高架橋の下で物乞いをし、脚が不自由なふりをしながら、惨めに命をつないでいた。借金取りがときおり彼らを見つけては、容赦なく殴りつけ、二人はそのたび
七海は静かに手を引き戻し、まるで他人を見るような冷え切った目で彼を見た。「渡辺さん、節度を持ってください」その「渡辺さん」の一言で、二人の間に残っていたものは完全に断ち切られた。理央が一歩前に出て、そっと彼女を自分の後ろへかばい、冷ややかな視線を湊に向けた。「これ以上、俺の恋人につきまとうなら、パリから無事には帰れないと思ってください」寄り添う二人の姿を見た湊は、胸を刃で抉られるような痛みに襲われたが、どうすることもできなかった。自分が手放した宝物を、今は別の誰かがかけがえのないものとして大切にしている。その現実を、ただ見ていることしかできなかった。帰国してから、湊は完全に腑抜けになった。会社を経営する気力もなく、金遣いは荒れ、判断も狂い、投資にも失敗した。その結果、渡辺家は完全に破綻した。家も、車も、会社も、すべて借金の返済に充てられた。かつてあれほど華やかだった渡辺家の御曹司は、一夜にして何も持たない人間になった。雲の上から泥の底へ落ち、人の情けの薄さも冷たさも、骨身に染みて思い知った。かつて自分の周りに群がっていた友人も、取引相手も、今では誰一人として近づこうとはしなかった。ようやく彼は理解したのだ。あの頃、七海が世界から見放されたような気持ちでいたことを。けれど、彼には同情される資格すらなかった。行き詰まった末、湊は大都市を離れ、見知らぬ地方へ移り住み、ごく普通の営業職に就くしかなかった。毎日満員電車に揺られ、安い弁当をかき込み、古びた賃貸で暮らしながら、生活のためだけに走り回る日々。かつての誇りも、自負も、選ばれた側だという思い上がりも、生活に削られて跡形もなく消えていった。彼は夜中に何度も目を覚ました。夢の中にはいつも七海の笑顔があった。そして、結婚式で彼を振り返ることもなく立ち去っていった、あの決然とした背中があった。後悔は、波のように彼を呑み込んだ。自分の幸せを壊したのは、自分自身だった。いちばん自分を愛してくれた人を、他の誰かのもとへ追いやったのも、自分だった。……七海が理央と結婚してからも、ブランドの国内店舗の仕事で、ときどき帰国することがあった。今回の帰国は、フラッグシップストアのオープニングイベントのためだった。テープカット
湊という後ろ盾を失ったことで、七海の父は博打の借金に追われ、彰人も投資の失敗で多額の負債を抱え、借金取りが毎日のように押しかけるようになった。家の中の物は次々と壊され、返済しなければ足をへし折ると脅された。父子は怯えきって家にも帰れず、あちこちを逃げ回るしかなかった。最初のうちは、まだ七海を頼ろうとしていた。けれど電話はいつかけても繋がらず、送ったメッセージもすべて返事がなかった。フランスまで探しに行こうにも、飛行機代すら出せなかった。行き場を失った二人は、とうとう高架下で物乞いをするまでに落ちぶれた。少しでも多く金を恵んでもらおうと、わざと脚に布を巻きつけて障害者のふりをし、地面に這いつくばって通行人に哀れっぽく施しを乞うた。昼は哀れな芝居で金を騙し取り、夜は橋の下に身を潜め、拾ってきた残飯を口にしながら、借金取りに見つからないかと怯え続けた。かつては威張り散らし、七海に自分の幸せを犠牲にしてまで尽くせと迫っていた父子が、今では野良犬以下のような有様で生き延びていた。すべて、自業自得だった。……三年という歳月は、あっという間に過ぎた。七海の名は、国際的なファッション界で完全に知れ渡っていた。彼女は先生のアトリエに所属するデザイナーから、一歩ずつ自分の独立ブランドを立ち上げるまでに至った。その作風は無駄を削ぎ落とした上質さの中に、東洋の女性らしい柔らかさと芯の強さを宿していた。発表されるやいなや、パリ・ファッションウィークで大きな話題を呼んだ。女優も、社交界の名士たちも、世界的なトップモデルたちも、彼女のデザインした服を身にまとうことを誇りにするようになった。彼女は数々のファッション誌の表紙を飾り、海外メディアのインタビューにも応じ、落ち着き払った自信と圧倒的な輝きを見せていた。かつて、家庭環境のせいで引け目を抱え、敏感に傷ついていたあの少女は、とうにひとりで立てる女王へと変わっていた。彼女はパリで自分のアパルトマンとアトリエを持ち、そしてその傍らには、穏やかで落ち着いた一人の男性も現れていた。男の名は早川理央(はやかわ りお)だ。投資家で、ファッションとアートの分野に特化して投資を行っていた。彼は七海の才能を高く評価していたし、同時に彼女の過去に胸を痛めてもいた。彼女の
その瞬間、湊は初めて、本当の恐怖というものを知った。いつだって自分の帰りを待ち、いつだって自分を受け入れ、いつだって自分を何よりも優先してくれていたあの子が、本当に自分を見限ったのだと、ようやく思い知らされた。……七海がパリで仕事に没頭していたこの一年のあいだ、国内に残された者たちは皆、自分のしたことの報いを受けていた。真っ先に無様な末路を迎えたのは、美咲だった。結婚式での一件以来、湊は彼女に対してひどく冷淡になり、以前のような甘さも、露骨な肩入れも、すっかり消えていた。彼ははっきりと告げた。もう今後は連絡してくるな、二十年以上の付き合いもここで終わりだ、と。美咲は一気に取り乱した。彼女はもともと、七海さえ追い出せば、渡辺夫人の座は自分のものになると信じていたのだ。どうして、あんな平凡な家庭に育ち、物静かなだけの女が、湊にあれほど大事にされるのか。それが悔しくてたまらなかった。だからこそ、あの結婚式を壊したかった。七海を人前で徹底的に恥をかかせたかった。けれど、彼女は読み違えていた。湊は彼女をひいきすることもできたし、曖昧な距離感のまま思わせぶりに接することもできた。それでも、最初から彼女を妻にするつもりなど一度もなかった。湊にとって美咲は、いつまでも子どもっぽさの抜けない、昔なじみの遊び相手でしかなかったのだ。湊に突き放されたあとも、美咲は諦めきれなかった。やがてまたバーに出入りし、新しい獲物を探し始め、無邪気で害のないふりをした媚びた女を演じ続けた。ほどなくして、見た目のいい、口のうまい男と知り合った。その男は気前がよく、甘い言葉を絶えずささやいてきた。美咲は、自分はついに理想の相手をつかまえたのだと思い込み、すっかりのめりこんでいった。服を買い、腕時計を買い、男にせがまれるまま金を使い、要求をひとつずつ満たしていった。だが彼女は知らなかった。その男は金持ちなどではなく、女に寄生して食いつなぐ、ただの詐欺まがいの男だったのだ。しかも、その男には本命の彼女がいた。気が強く、やり方も容赦のないその女は、以前から美咲の存在に目をつけていた。美咲がまた男の腕にしなだれかかり、バーで親しげに酒を飲んでいたそのとき、女は数人を引き連れて店へ乗り込み、その場で二人を隅へ
飛行機がパリに着陸したとき、現地はちょうど夕暮れどきだった。柔らかな金色の光がシャンゼリゼ通りに降り注ぎ、夕風にはほのかなコーヒーの香りが混じっていた。七海は監視カメラの映像を閉じた。小さなスーツケースを引きながら、彼女は見知らぬ空を見上げた。胸の奥に五年間ずっと澱のように溜まっていた息苦しさが、ようやく少しずつほどけていくのを感じた。先生はすでに空港で彼女を待っていて、顔を合わせるなり、ただ穏やかに抱きしめてくれた。「やっぱりね。あなたは、あんな場所に閉じ込められたままの人じゃないと思っていたわ」そのひと言は、七海の胸のいちばん柔らかいところに深く触れた。五年間の恋だった。彼女は心の底まで差し出して尽くした。まだ幼さの残る頃から彼を想い続け、ついには花嫁衣装を身にまとうところまで来たのに、人生で最も神聖であるはずの瞬間に、いちばん愛した相手と、その相手が親友だと言い張る女に、揃って背中から刃を突き立てられた。彼女が足りなかったわけではない。ただ、彼らのほうが、彼女の真心にふさわしくなかっただけだった。パリのデザイン学院は、とにかくテンポが速かった。七海は、自分の感情をすべて学びの中へ叩き込んだ。昼間は工房にこもり、素材やデザイン画、ショーの企画案に何度も向き合って磨き続けた。夜は資料を読み込み、デザイン画を描き、疲れ果ててベッドに倒れ込めば、そのまま眠りに落ちた。過去の痛みを振り返る暇など、まるでなかった。もともと彼女には非凡な才能があった。ただ湊のために、その先の学びの機会を諦め、自分の輝きを必死に押し殺していただけだった。今はもう彼女を縛るものはない。その才能は土を破って伸び出す蔓のように、勢いよく育っていった。先生も彼女を高く評価し、惜しみない賛辞を送りながら、自身のアトリエに直接迎え入れ、一流ブランドのデザイン案件にも参加させた。国内のことが耳に入らなかったわけではない。パリに着いて最初の数日、スマホは湊からの電話とメッセージでひっきりなしに鳴り続けた。並んでいたのは、謝罪と後悔と弁明ばかりだった。【七海、俺が悪かった。本当に反省してる】【結婚式の件は俺が最低だった。美咲をかばうべきじゃなかった。戻ってきてくれ。今すぐ彼女とはきっぱり縁を切る】【
「これからは、もうこんなふうに癇癪を起こすんじゃないよ。渡辺家みたいな家なら、狙ってる女なんていくらでもいるんだからな」「湊の気が長いから、お前みたいなのでも受け止めてくれるんだ。ほかの男だったら、とっくに見限られてるぞ」「俺たちはみんな、お前のためを思って言ってるんだ。ありがたみも分からないなんてことはないだろうな」私はもうこれ以上、二人の戯れ言を聞く気にもなれず、立ち上がった。「疲れたから、休む」そう言ったのに、二人には帰る気配がまるでなかった。父は困ったような顔をした。「今うちの前には借金取りがうろついてるんだ。帰ったら殴られる。だから今夜はここでひと晩しのぐしかない」彰人はさらに当然とでも言いたげにソファへ寝転がった。「どうせ明日になれば湊さんが姉ちゃんを迎えに来るんだろ。借金さえ返せば俺たちも家に戻れるし、今日は仕方なくここで泊まるよ」私はもう反論しなかった。どうせ、私がここで過ごすのも今夜が最後だったから。私はそのまま寝室へ入り、ドアを閉めた。しばらくして、スマホが一度震えた。見慣れない番号から届いたメッセージだった。【航空券の情報はあなたのスマホに送っておいた。空港で待ってる。そこで合流する】私は指先をわずかに動かし、ひとことだけ返した。【分かった】深夜。私は小さなスーツケースに必要最低限のものだけを詰めた。持っていくのはパスポートとキャッシュカード、それに着替えを数枚だけ。金庫の中には、湊が最初に大きなお金を稼いだとき、私に買ってくれたブルーダイヤがまだ入っていた。暖色の灯りの下で、それは眩しいほどに輝いていた。あのとき彼は、一生分のダイヤを贈ると言っていた。私は嬉しくて、長いことその言葉を信じていた。けれど今はもう、見た目ばかりで中身のないものなんて、置いていけばいいとしか思えなかった。寝室の外では、父と彰人が大きないびきをかいて眠っていた。私はそっとドアを開け、そしてまた音を立てないように閉めた。まるで全身を縛っていた鎖から、ようやく抜け出したような気分だった。飛行機は離陸し、空高く舞い上がり、雲を突き抜けていった。足元の街はどんどん小さくなり、やがてぼやけた輪郭だけになった。私は目を閉じ、そしてもう一度開いた。そのとき