Share

愛は難く、別れは易し
愛は難く、別れは易し
Author: 橘州一

第1話

Author: 橘州一
西京市、パスポート申請窓口の前で、係官は目の前の静河をどこか気まずそうに見つめていた。

「榎木静河(えのき しずか)様、本当に海外へ移住するつもりですか。ご主人の榎木昭弘(えのき あきひろ)様は、まだ渡航の許可が下りていないと伺っております。ここにご署名、ご捺印なさいますと……当分、お会いになるのは難しくなるかもしれません」

静河に迷いはなかった。印鑑を手に取り、申請書に静かに判を押した。

――一生、会わなくていい。それでいい。

それ以上は何も言えず、係官は書類を受け取った。

「では、手続きには二週間ほどかかります。今しばらくお待ちください」

静河は小さく頷き、窓口を離れた。出口へ向かう背中に、職員たちの低い囁きが追いかけてくる。

「榎木様とご主人、何かあったのかしら……でも、ここまでなさらなくてもねえ。あのご夫妻、西京市内でも評判のおしどり夫婦だったのに」

「そうよ、うちの主人も昭弘さんの部下でね、いつも話を聞かされるんだけど……もう本当に奥さんを溺愛していてね。

静河さんのお肌が繊細だからって毎日牛乳を大量に取り寄せてお風呂に入れてあげたり、静かな環境が好きだからってわざわざ郊外に豪華な一軒家を建てたり。

前に静河さんが街へ出たきり、ほんの一時間ほど居場所が分からなくなっただけで、新聞に尋ね人広告まで出したっていうんだから。それなのに黙って国を出ようとしているなんて……昭弘さん、平気でいられるはずがないわ」

周囲の噂話を耳にしながら、静河はかすかに口の端を上げた。瞳に浮かぶ自嘲の色は、じわじわと濃くなるばかりだった。

そうだ。昭弘がどれほど静河を愛していたか――それは誰もが知っていた。

当時の静河は、舞踊団でもひときわ目を引く花形だった。

一方の昭弘は、市内でも名の通った旧家の御曹司。冷淡で近寄りがたく、三歩以内に女を近づけない男だと、周囲ではまことしやかに囁かれていた。

その昭弘が変わったのは、あの夜会の晩だった。

静河に一目惚れした昭弘は、狂ったように彼女にアプローチしていた。宝石やドレスを惜しげもなく贈り、三日三晩、夜空を染め尽くす花火を打ち上げた。

ある日、静河がふと「昔よく食べた栗のお菓子、もう生産終了だけど食べたいな」と呟けば、猛吹雪の真夜中に車を走らせ、いくつもの街を渡り歩いて探し出し、全身ずぶ濡れのまま、まだ温かい包みを両手で抱えて現れた。

だが、静河が彼を受け入れると決めたのは、そのためではない。

両親が急逝した日のことだった。

遠く離れた県外の病院へ非常勤医師として派遣された昭弘は、すべてを放り出して駆けつけた。よれたスーツに、血走った目。それでも、静河をそっと抱きしめた。

「静河、泣くな。俺がいる。ずっとそばにいるから」

その瞳に宿る深い愛情を見たとき、静河の胸が、一瞬どきりと跳ねた。

――この人だ。そう決めた。

しかし、それほど誠実だった人が、三ヶ月前、誘惑に屈した。職を探して田舎から上京してきた静河の従妹、森永純子(もりなが じゅんこ)と密かに関係を持つようになったのだ。

静河のために建てた一軒家のソファに、キッチンに、夫婦のベッドに……至るところに、彼らの痕跡が残っていた。

榎木家は国の機密に深く関わる家で、海外渡航には厳しい制限があった。昭弘も例外ではなかった。

静河がここを出てしまえば、彼はもう二度と追っては来られない。

静河は移住査証の申請控えをバッグにしまい、まっすぐ榎木家の屋敷へ向かった。

扉を押し開けた瞬間、妙な匂いが鼻をついた。

静河は拳を握りしめ、掌に爪が食い込む痛みで己を保ち、何でもない顔をして中へ入る。

壁に飾りをつけていた二人が振り返った。昭弘は一瞬ぽかんとしたあと、すぐに目元を和らげ、歩み寄って静河の手を握った。

「静河、そんな薄着で寒くなかった?買い物に行くと言ってたのに帰りが早かったね。まだサプライズの準備が終わってなかったのに」

サプライズ?

静河は夫を見つめた。だが視線は自然と、彼の首元で止まってしまう。

そこには、赤く散ったキスマークがあった。

睫毛がかすかに震えた。胸を抉る痛みを、静河はただ黙って押し殺した。

返事がないのを見て、傍らの純子がにこにこしながら近づいてくる。

「昭弘さんったら本当にお姉ちゃんが好きなのね。出会い記念日をこんなに盛大にお祝いするなんて……」

純子は意味ありげに言葉を切り、ソファに山積みになった贈り物を指さした。

「ほら、これ全部、昭弘さんが用意してくれたプレゼントよ」

静河が指先に目をやると、贈り物の山の下に、黒く染み広がった濡れ跡が見えた。

頭の中で、何かが弾けた。

玄関の匂い。目の前の痕跡。すべてが疑惑を残酷なまでに裏付けていた。

――好きだと?妻へのプレゼントを用意する傍らで、純子とソファでもつれ合い、布地に染みを作るほど乱れること。それが彼の「好き」なのか。

これほど心を抉る痛みが存在するものだとは、思わなかった。

昭弘は静河の異変に気づかぬまま、用意したネックレスを彼女の首にかけた。その声は、溶けそうなほど優しかった。

「静河、出会い記念日おめでとう。今夜はキャンドルディナーも用意してる。食材は全部、君の好きな洋食の高級食材を取り寄せたんだ」

静河は全身の震えを感じながら、首を横に振った。

「……食べられない。気分が、悪くて」

今の彼女にとって、昭弘と同じ空間にいる一秒一秒が拷問だった。

最初から伝えてあったはずだ。自分は不貞を極度に嫌う性分で、ほんの僅かな裏切りの傷ひとつ受け入れられないのだと。

あれほど惹きつけておいて、どうして裏切れるのか。

静河の言葉に血相を変えた昭弘は、すぐさま何人もの医師に連絡を入れた。

検査で異常なしと出ても安心できず、部下を走らせて栄養価の高い高級食材を山ほど買い込み、彼自身の手でホットミルクを温めて飲ませ、彼女を寝かしつける。

四、五時間かかって、静河はようやく眠りに落ちた。

深夜、喉の渇きで目を覚ました彼女は、水を飲みに立ち上がる。

だが、扉を開けた瞬間――足が止まった。

隣の部屋の扉が大きく開け放たれていた。皓々とした月明かりが差し込み、ベッドに絡み合う二つの裸の影を照らし出している。

「今日のネックレス、すごく高いやつでしょう。ずっとおねだりしてたのに、昭弘さんったら全然くれなくて。お姉ちゃんは何もしてないのに、ぽんと目の前に出してあげるんだから」

情事の余韻の中、純子は彼の腰に脚を絡めたまま唇を尖らせた。

昭弘は眉をひそめ、身を起こしてベッドの端に腰かけ、葉巻に火をつける。

「自分の立場を忘れたのか。俺が愛しているのは静河ひとりだと言ったはずだ。この関係を続けたいなら、人目につかない場所だけにしろ。もし彼女に知られたらどうなるか、分かっているな」

純子は青ざめながらも、裸の背中から抱きついて言った。

「まあ、お姉ちゃんを愛してるのは分かってるわ。でも私だって好きなの。少し焼きもちを焼くくらい、いけないかしら」

昭弘は答えず、引き出しから静河と同じデザインで色違いのネックレスを取り出した。

「そういう顔をするな。お前にも買った。ただし、人前では絶対につけるな。彼女に見つかったら、この関係は終わりだ」

純子の顔が輝いた。キスマークが浮かぶ首にネックレスを当て、弾んだ声を上げる。

「ありがとう!やっぱり昭弘さんの中に私の居場所があるのね。それにしても、そんなにお姉ちゃんに逃げられるのが怖いの?」

昭弘はほとんど間を置かずに答えた。

「ああ。彼女なしでは生きていけない。もし離れていったら、俺は狂う」

言葉と同時に、昭弘は純子を再び押し倒した。ベッドが軋む音と、純子の声が闇に響く。

廊下に立ち尽くしたまま、静河の頬を涙が伝った。

赤く腫れた目で、壁の結婚写真に写る夫の笑顔を見つめる。

――昭弘。十五日後、あなたが狂うを待っているわ!

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 愛は難く、別れは易し   第25話

    静河は軽く笑った。「どれほど私を愛していたとしても、それが何だというんですか。結局、あの人は浮気したじゃありませんか。あの人だけじゃない、彼の友人たちも、みんな私に隠していました。もしかして、あなたも私に隠していたのではありませんか?」かつて純子が静河の誕生日パーティーの最中に、妊娠が原因で倒れた一件。あれほど大騒ぎになったのだ。喜久美が知らなかったなど、静河にはどうしても信じられなかった。案の定、喜久美の表情はこわばった。昭弘と静河が結婚してから、喜久美はずっと、早く子どもを作るよう二人を急かしていた。けれど一人は体の問題で子どもを産めず、もう一人は妻を思いやるあまり、子どもを望まなかった。それが喜久美には腹立たしくて仕方なかった。だから静河の顔を見るたびに、心の中がひどく不快になり、自然といい顔などできなくなっていた。だからこそ、純子が妊娠したと知ったとき、喜久美はとうに礼儀も何もかも置き去りにしていた。浮気が榎木家にとって、どれほど恥ずべきことなのかも忘れていた。たとえ昭弘の父の太郎がそのことで毎日のように喜久美に冷たい顔を向けても。たとえ静河がそのことで、毎日ひそかに心を痛めていても。喜久美には、そんなことはどうでもよかった。何よりも大切なのは、榎木家の跡取りとなる孫の顔を見ることだった。喜久美のその反応を見て、静河の目にかすかな皮肉がよぎった。自分の息子の浮気を後押ししておきながら、なぜ今さら、昭弘に完全に失望し、心を閉ざした自分を説得しに来るのだろう。「奥様。帰ったら、あの人に伝えてください。彼は自分を苦しめているだけではありません。私のことも苦しめています。昔、私に与えた傷だけではまだ足りないとでもいうのでしょうか。私を死ぬまで追い詰めなければ、気が済まないのですか?」そう言い終えると、静河はもう喜久美の反応を見ることもなく、軽く手を上げ、出ていくよう促した。喜久美も、立ち上がって出ていくしかなかった。一方、病院。喜久美の後ろに誰の姿もないことを見た瞬間、昭弘の目に残っていた最後の光が、完全に消えた。彼は何も言わなかった。ただ手を振り、喜久美に外へ出るよう示した。昭弘は手の中の結婚写真を持ち上げた。後悔の涙が、写真の中で花のように笑う静河の顔の上へ落ちた。

  • 愛は難く、別れは易し   第24話

    しかし昭弘は、その場に微動だにせず立ち尽くしたままだった。それどころか、また静河の手を掴もうとした。静河は彼の手をそのまま押しのけ、先ほど酔いが回っていた友人を、ほかの友人たちと一緒に病院へ送ろうとした。けれど一人の友人がすぐに前へ出て、静河の申し出をやんわり断った。そもそも今日の食事は、静河を見送るために開いたものだった。それなのに、最後はこんなことになってしまった。自分たちは申し訳なく思うことこそあれ、これ以上、彼女に迷惑をかけるわけにはいかない。そう言って、その友人は静河の背を軽く押し、早く帰って荷造りをするよう促した。静河もそれ以上は何も言えなかった。そして身を翻し、外へ向かって歩き出した。「待って、静河!」昭弘はずっとそばで彼女を見ていた。彼女の友人が、早く帰って荷造りをするようにと言ったのを聞いた瞬間、彼の胸に突然、激しい不安が走った。彼は思わず静河の手を強く掴んだ。「荷造りって……またどこへ行くつもりなんだ?」昭弘の額の血は手当てされていたが、そこには痛々しく裂けた傷だけが残っていた。その傷の下にある、怯えきった目。そのせいで、今の彼はひどく哀れで、どこか滑稽にさえ見えた。静河は答えなかった。ただ、自分の手を彼の手から引き抜こうとした。けれどどれほど力を込めても振りほどけない。それどころか、逆に昭弘に強く抱きしめられてしまった。「教えてくれ。いったいどこへ行くつもりなんだ?」昭弘の声には震えが混じっていた。それでも静河は、相変わらず冷たい表情のままだった。「静河……っ」静河はようやく目を上げ、目の前の男を見た。そして、まるで気にも留めていないように言った。「私がどこへ行こうと、あなたに関係あるの?」昭弘が呆然とした隙に、静河は一気に彼の手を振り払った。そして、そのまま店の外へ歩いていった。「静河!」昭弘が追いかけようとした、まさにその瞬間。次の刹那、凄まじい衝撃が彼の体をまともに襲った。ドン!静河ははっと振り返り、目の前の光景に恐怖で目を見開いた。……昭弘は交通事故に遭い、両脚に障害を負った。それ以来、彼はまるで生気を失ったように、抜け殻のような人間になってしまった。一日中、静河との結婚写真を抱きしめ、何度も何度も彼女の名を呼び続けた。そ

  • 愛は難く、別れは易し   第23話

    静河はしばらく黙っていたが、やがて昭弘の手を振りほどき、そのまままっすぐ歩き出した。「静河!」昭弘は苦しげに彼女の行く手を遮り、どうして一度もチャンスをくれないのかと問いかけた。再会したあの日から、彼はずっと静河を取り戻そうとしていた。けれど、どれほど弁明しても、どれほど尽くしても、彼女の心は少しも動かなかった。「あんなに俺を愛してくれていたじゃないか。どうしてもう一度だけ機会をくれないんだ?家に純子がいた痕跡が嫌なら、家ごと売る。昔、俺が贈ったものが目障りなら、全部新しく買い直す。俺が汚いと思うなら、何度でも風呂に入る」「じゃあ……あなたの心が汚れてしまったら?」静河が不意に口を開いた。けれど昭弘は、いつまでたっても答えることができなかった。静河は笑った。もう彼を見ることもなく、その場に一人残して去っていった。翌日から、静河は荷造りを始め、M国へ戻る準備を進めた。本来は、稔と菊恵も一緒にM国へ連れていくつもりだった。けれど稔と菊恵は、田舎で一生を過ごしてきた人たちだった。この土地を離れることにも、どうしても未練があった。それを見て、静河もそれ以上は何も言わなかった。ただ出発の前夜、稔と菊恵が気づかないうちに、そっとふたりの枕の下へまとまった現金を忍ばせておいた。それから、国内にいる友人たちを誘って食事をした。食事のあいだ、友人たちは静河がまた遠くへ行ってしまうことを思うと、悲しみが込み上げてきた。「あなたが行ってしまったら、次はいつ会えるかわからないね」「いつか機会ができたら、私たちもM国まで会いに行くから」静河はうなずいた。そして友人たちと互いに住所を残し合い、これからは手紙で連絡を取り合えるようにした。皆は酒を一杯、また一杯と重ねながら、静河と話をしていた。静河が湯呑みの最後のお茶を飲み干し、店員を呼んで淹れ直してもらおうとした、そのときだった。酔いが回った友人の一人が手を振り、自分が淹れてくると言った。皆は慌てて座るよう勧めたが、その人はどうしても聞かず、急須を手に個室の外へ出ていった。ところが、しばらくもしないうちに、外から激しい口論の声が聞こえてきた。個室にいた数人は顔を見合わせ、慌てて外へ飛び出した。見ると、さっきの友人が向かいの席にいた酔客

  • 愛は難く、別れは易し   第22話

    純子の瞳に宿っていた憎しみが、みるみるうちに恐怖へと塗り替えられていった。榎木家で過ごした日々の中で、純子は昭弘の「やり方」というものを骨身に染みて理解していた。喜久美が二十四時間体制で見張っていても、昭弘の息のかかった者はどこからともなく病室へ忍び込んできたのだ。運がよかったから生き延びられただけで、一歩間違えれば、とうに静かに消されていたはずだった。掴まれた純子の顎が小刻みに震えているのを感じて、昭弘の目がわずかに陰った。静河があのような残酷な真似を嫌うと知っているから、こいつはここまで生かしておいた。ただ、それだけのことだ。腹の子も死んだ。これでひとつ、厄介事が片づいた。昭弘は汚いものを見るように純子の顎を放し、ハンカチで指先をぬぐった。「二度と俺の前に現れるな。もう一度でもその顔を見せたら……今度は、今日みたいな話じゃ済まないぞ」警告を残し、昭弘は病室の扉を力任せに閉めた。その容赦ない言葉に、純子は思わず身震いした。手にしていた布団も、次第にぎゅっと握りしめていた。西京市の反対側。駅で、静河は名残惜しそうに稔と菊恵を見送っていた。電車が走り去るのをしばらく見届けてから、ゆっくりと歩き出す。こちらでの用事は、これで期せずしてすべて片がついた。あとはM国へ戻るだけだ。ここにこれ以上長居しても、余計な煩わしさが増えるばかり。足早に帰り道を歩きながら、静河は借りていた一軒家を家主に返しに行こうと思い立った。「え……?もう誰かが買い取って、私に贈る手続きをしたんですか?」隣に住む老人の言葉を聞いて、静河は目を丸くした。老人は籐椅子に座ってゆったりと団扇を揺らしながら、売買契約の書類を差し出してくる。「ほら、ここにあんたの名前が書いてあるだろう」静河は半信半疑でそれを受け取り、書類の隅に自身の名前を見つけた。見覚えのある筆跡に、眉をひそめる。何かを言いかけたとき、老人が団扇の先で門の外を示した。「ほら、買った本人がそこにいるよ」顔を上げると、逆光の中にひとりの男が立っていた。かつてと何も変わらない、やわらかなまなざしでこちらを見つめている。「静河」「昭弘、これはどういうつもり?」老人に手短に礼を言うと、静河は昭弘の腕を掴んで門の外へと引きずり出した。「こんな埋め合わせ、必

  • 愛は難く、別れは易し   第21話

    昭弘は一気にまくし立てると、期待を込めた目で静河を見つめた。静河が頷きさえすれば、今すぐ純子も子どもも消してみせると言わんばかりだった。静河はその瞳を見つめ、深い失望が胸に広がるのを感じた。これだけ話しておきながら、全部こっちのせいにしている。自分に苦労をかけたくないから純子に産ませたなどと。この男は今でもまだ、彼女が出ていったのは純子のせいだと思い込んでいるのだ。返事がないのを、昭弘は都合よく肯定と受け取ったようだった。純子と子どもさえ片づければ静河が戻ってくると思い込み、気持ちが高ぶるあまり、思わず口づけしようと顔を近づけてきた。すると、乾いた破裂音が廊下に響き渡った。唇が触れるより早く、静河の平手が昭弘の頬を鋭く張り飛ばしていた。「榎木昭弘、狂ってるの!?」静河は今になってはっきりと悟った。昭弘はこの結婚の失敗について、ただの一度たりとも己の非を認めたことがないのだ。純子と子どもを消せば静河が戻ってくると、本気で信じている。すべての元凶は、ほかならぬ昭弘自身にあるというのに。二つの命を平然と消そうとする元夫を前に、静河の声に底知れぬ失望が滲んだ。「どうしてこんな人になったの?どうして、自分に原因があるとは考えられないの!」昭弘は打たれた頬を押さえ、しばらく呆然としてから、ひどく苦く笑った。「そうだ、俺は狂ってるさ!君が出ていってから、毎晩悪夢を見てるんだ。夢の中で君は、夜ごと違う姿で、俺を捨て去っていく!俺はもう限界だ!君を取り戻せるなら、手段なんか選ばない!」叫び終えると、昭弘はもう静河を見ず、土砂降りの雨の中へ飛び出していった。「昭弘!」静河が背中に声をかけても、彼は一度も振り返らなかった。狂っている。しかし昭弘が手を下すより早く、純子が再び早産を起こした。生まれた子どもはすぐに保育器へと入れられたが、三日ともたなかった。純子を病院へ連れてきた喜久美は、息絶えたその子を見下ろし、ほんのわずかに惜しむような色を目に浮かべた。「やっぱり、生まれつき福の薄い子だったわね!」純子がもう役に立たないとわかると、喜久美はつけていた世話人を全員引き上げさせた。最後に言い残したのは、ただひと言だけだった。「このお金を持って、できるだけ遠くへ行きなさい」ほどなく病

  • 愛は難く、別れは易し   第20話

    夢の中で、昭弘は片膝をついていた。自ら丹精込めて作り上げた婚約指輪を手に、白いウェディングドレスをまとった目の前の女性を、深い愛情を込めた瞳で見つめている。「静河、俺と結婚してくれるか?一生、君だけを愛し続ける。ずっとそばにいる。絶対に、裏切らない」やがて目の前の女性がゆっくりと顔を上げた。そこに浮かび上がったのは、静河ではなく、純子の顔だった。それでも昭弘は気づかないかのように、変わらぬ眼差しで見つめ続けている。純子が口を開こうとした瞬間、静河は夢から覚めた。ぼんやりと窓の外を見つめながら、なんとも後味の悪い夢だと思った。扉をノックする音が響いた。「静河ちゃん、起きてる?」菊恵の声が聞こえ、静河は頬を軽く叩いて声を返した。「はい、起きてますよ」菊恵がドアを開け、封筒を差し出した。菊恵によると、友人から届いたものらしい。帰国してすぐ旧友と偶然顔を合わせたとき、別れ際に住所を聞かれた。近々結婚式の招待状を送ると言っていたのだ。礼を言って受け取り、封を開けると、中身は案の定、その招待状だった。大切な友人のため、静河は翌朝いつもより早く起き、デパートへ贈り物を選びに行った。ところが二階へ上がった途端、前方から大勢の客がぞろぞろと歩いてきた。人々が道を譲るなか、静河は慌てて脇の店舗へと身を寄せた。人の波が目の前を過ぎ去ろうとしたとき、ふと、ある一点に視線が引き寄せられた。次の瞬間、静河は思わず目を見開いた。純子?かつてぱっと目を引く鮮やかな花のようだった純子は、今や色あせた影のようにやつれていた。骨ばった体に不釣り合いなほど大きなお腹を抱え、生気のかけらもない顔でそこに立っていた。まるで、全身から生気が抜け落ちたように見えた。静河だけでなく、傍を歩く人々もひそひそと囁き合っていた。「あれが純子さん?見る影もないわ。榎木家はご飯も食べさせてないの?」そばにいた人が、せせら笑うように言った。「とんでもない。榎木家の人間が口の中に押し込むくらい食べさせてるって、あそこで勤めているうちの妹が言ってたわ。ただ、悪いことをしすぎたせいで、食べるそばから吐いてしまうらしいの。昭弘さんも妊娠を知ってからというもの、あの手この手で精神的にいたぶっていて。奥様が見張ってなかったら、お腹の子もとっくに

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status