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愛よ!風に乗れ
愛よ!風に乗れ
Author: 米兎

第1話

Author: 米兎
私の夫・平井雄也(ひらい ゆうや)は毎日、新しく入ってきた年下のアシスタントに「雄也兄ちゃん」と呼ばれている。

そのたった一言の「雄也兄ちゃん」のために、彼は彼女のために、水漏れする賃貸アパートを直し、ウォーターサーバーの水のボトルを持ち上げ、頭を抱えるようなデータの報告書を片付ける。

ふたりの関係がどんどん深まっていくうちに、彼の携帯には妊娠検査の証明書と、一枚の写真が保存されるようになった。

写真の中の彼は口元を緩めて笑い、年下のアシスタントを見つめる目には熱を帯びていた。

彼は友人とのチャットで、私と離婚すべきかどうか迷っていると言っていた。

「久保裕香(くぼ ゆうか)はいい子だよ。でもさ、毎日同じ料理を食べてると、ちょっと飽きてくるんだよね」

……

雄也のスマホには、私の指紋も登録してある。結婚して六年、信頼と尊重を築いてきたからこそ、今まで彼のスマホを覗いたことなど一度もなかった。

彼のことはよく知っている。誠実で、むしろ人付き合いが苦手なくらいの男だ。浮気なんてするはずがないと、私は思っていた。

それなのに……どうしても気になって、ロックを解除するボタンを押してしまったのだ。

そして、この胸が締め付けられるような、開けてはいけないパンドラの箱を、開けてしまった。

あの女の子のプロフィール画像は、自分の写真だった。

雄也の好みそうなタイプで、愛らしく可愛らしく、目は明るく澄んでいた。

心臓が微かに震えた。私はチャットのログをさかのぼった。

半年前、彼女が初めて挨拶したメッセージまで。

【平井社長、初めまして。新しく入りましたインターンの江原紗和子(えはら さわこ)です。これからアシスタントを務めさせていただきます!どうぞよろしくお願いいたします】

当時の雄也は彼女に対しても、他の人たちと同じようにそっけなく、たった一言だけ返していた。【ああ】

ところが、紗和子の熱意は冷めず、生活の些細な雑事をどんどん共有してくるようになった。

【平井社長、私たちゲームプロジェクトやってるんだから、若者の生活にもっと近づかないと!これ、私が行ったコミケの写真です】

【平井社長、このお店のデリバリー超まずい!絶対やめたほうがいいよ!】

【平井社長、この曲マジで神!ぜひ社長にも聴いてほしいです】

その中には、私のことも触れられていた。

【奥様、本当にお綺麗で優しい方ですね。社長、ほんと宝もの手に入れましたね!】

そして、彼女が私を褒めたこの言葉が、雄也の心の扉を開ける鍵となったのだ。

彼は心からその言葉に同意し、次第に彼女との会話を増やしていった。

少しずつ、雄也も最初の礼儀的な返信から、態度を変えていった。

海外に出張したとき、雄也は彼女を一緒に連れて行った。

たとえ壁一枚隔てただけの部屋に泊まっていても、ふたりは「おやすみ」を交わすのを忘れなかった。

しかも、その日から、ほとんど毎晩、欠かさずに交わし続けた。

大きなプロジェクトが終わるたびに、雄也は会社の誰も連れず、彼女だけを誘って、会社の近くのレストランで食事をして祝った。

東の都で私のためにバッグを買ったときでさえ、デパートで彼女が欲しがっていた化粧水を買ってきていた。

「どれが欲しいのかわからなくて、やっと見つけたコーナーだったから、全部買ってきたよ。使えそうなの選んで」

「わあ!社長、太っ腹!」

私たちふたりのもの以外で、誰のものも買ってこなかった。彼の母が欲しがったスカーフさえも。

「お母さん、勘弁してよ。時間ないんだ、探すのすごく面倒なんだよ」

後になって、高級なオーダーメイドのものを取り寄せてはくれたけれど、意味が違う。

彼は、彼女の水漏れする賃貸アパートを直し、ウォーターサーバーの水のボトルを持ち上げ、頭を抱えるようなデータの報告書を片付けた。

そして彼女は、彼の弁当を温め、社員に果物を買って配り、彼に付き添ってあちこちの接待にも行った。

酒が進んだとき、彼女はLINEに、口には出しにくい一言を送った。

【社長、本当に私の兄みたいです。これから、雄也兄ちゃんって呼んでもいいですか?】

最後のページまでたどり着いたとき、私の手は震え続け、息が詰まるような感覚が胸の奥を震わせた。

スマホを元の場所に戻し、天井を見つめ、空が明るくなるまでずっとそうしていた。

……

雄也が目を覚ますと、少し心配そうに私の頬をつまみ、まだ温かい涙を拭ってくれた。

「またドラマ見て夜更かししたの?泣いてるじゃない。ドラマの中の話は全部作り話だよ。最後には主人公たち、きっと幸せになるから安心して」

私は何も言わず、ただむきになってベッドから起きた。

いつものように、彼のネクタイを締めてやった。

雄也は困ったような、それでいて痛々しい表情を浮かべ、私の額に優しく、そして……絡みつくようなキスを落とした。

「早く二度寝しなよ。もう夜更かしはダメだ。お前がそんなことするのは辛いよ」

見慣れたその黒い瞳を見ていると、ふと、昨夜見たものの全てが夢だったような気さえしてきた。

雄也は今も、深く私を愛しているのだと。

「今日がお前の誕生日ってことで、今回は許してやるよ。今夜はちょっと忙しいかもしれないけど、できるだけ早く帰るから」

私は一瞬、言葉を失った。

彼のLINEメッセージが、再び脳裏に浮かんだ。

【雄也兄ちゃん、明日デスクトップPCの組み立て手伝ってくれるの忘れないでね】

【二人で『It Takes Two』やるって約束したからね!】

【おやすみ!】

ふたりが約束していたのは、最近話題のカップル向け協力プレイゲームだった。

私は反射的に雄也の手首を掴み、声を震わせて言った。「ずっと、ちゃんと一緒にいてくれなかったよね。今日もダメなの?」

雄也は振り返ろうとした足を止め、私の前に戻ってきて、甘やかすように私の頭を撫でた。

「今日はお前の誕生日だろ?ちゃんと早く帰って一緒にいるよ。でも会社にはまだやることが山積みなんだ。いい子にして、帰るの待ってて」

そう言うと、そっと私の手をほどいた。

その瞬間、私の心は完全に砕け散った。

昔、雄也の起業を支えていた頃は、毎晩彼と一緒に会社開発のゲームをして、徹夜することもあった。

そのせいか、夜になると習慣的に眠れなくなっていた。

彼は私を気遣って、私が反対しても聞かず、家にあの夢にまで見たカップル用のゲーミングルームを作ることはしなかった。

なのに今、別の女の子のためにパソコンを組み立て、彼女とカップルゲームをしようとしている。

思い出は、ドアが閉まる音と共にぷつりと途切れた。

雄也は行ってしまった。

私は家で呆然と座り、胃が痛むほど空腹を感じるまで動かなかった。

スマホを取り出し、昔ふたりでよく食べたデリバリーをたくさん注文し、口に押し込み、そして苦しそうに吐き出した。

いつの間にか、雄也の起業を支えたあの数年で身体を壊したツケが、今、一つ一つ回ってきていた。

交際四年、結婚二年。その半分以上の時間を、私は雄也の起業に捧げてきた。

命知らずで彼と共に戦い、接待の場で彼の代わりに酒を飲み、胃から出血したこともある。

会社が上場した後、医者に言われたのは、長年の夜更かしと飲酒で、私の体は妊娠に適しておらず、まず体重を増やすのが望ましいということだった。

仕方なく、私は表舞台から退き、専業主婦になることにした。

身体をしっかり養って、ふたりの子供を授かりたかったから。

だって、私の家族は、雄也ただ一人きりだったのだ。

両親は私を訪ねる途中、事故に遭い、亡くなってしまった。

それは事故だった。私はその苦しみを晴らす場所もなく、ただ唯一持っている小さな家に望みを託すしかなかった。

けれど今、子供はなかなか授からず、雄也も去ろうとしている。

胃の中のものをすべて吐き出し、私は一人ソファに座り、心臓の鈍い痛みが全身に広がっていくのをただ感じていた。

どれくらい経っただろう。外は完全に暗くなっていた。

その時、突然、私のスマホが光った。

雄也からのメッセージかと思い、慌てて手に取ったが、それは見知らぬ番号からのメールだった。

内容は、一枚の妊娠検査証明書と、一枚の写真。

写真の中の雄也は、口元を緩めて笑っている。

自ら進んで一緒に写真を撮り、とても嬉しそうなのが見て取れた。

心臓の痛みは、もう私の限界を超えていた。大きな涙がこぼれ落ち、その直後、スマホも床に落ちた。

妊娠検査証明書から、私は彼女の名前を知った。

江原紗和子だ。

……

私が昨夜想像していたことと、まったく同じだった。

半年前に会社に入ったインターンの中でも、彼女だけは小さな太陽のようだった。

私の前でも忙しそうに動き回り、献身的に振る舞い、真剣な顔で恋愛の秘訣を尋ねてきた。

私は笑って、秘訣の言葉をかけてやった。「真心は真心で応える」と。

まさかそのアドバイスが、半年後に私自身を刺す刃になるとは、夢にも思わなかった。

どんな気持ちからか、スマホを拾い上げ、その二通のメールを消去した。

そして、ただ静かにソファに座り、雄也が帰ってくるのを待った。

十二時近くなって、何度も電話をかけたが、すべて話し中だった。

時間が刻々と過ぎ、壁の時計の針は零時を回った。

座り続けて足が痺れてしまいそうになった頃、ようやく玄関に物音がし、ドアが開いた。

「ごめん、裕香。帰り道でケーキを落としちゃって、作り直してもらってたんだ。遅くなっちゃって。お誕生日おめでとう!」

雄也は宝物を見せるように手にしたバースデーケーキを掲げ、私の前に置いた。

そして、胸の内ポケットから、精巧な小箱を取り出した。

ダイヤのブレスレットだった。去年のものと同じで、デザインが少し違うだけ。

涙で視界がぼやけながらも、私は手を差し出してブレスレットを着けてもらい、笑った。

少なくとも、彼はまだ私を騙そうとしてくれている。少なくとも、誕生日プレゼントはもらえた。そうじゃないか?

私は何事もなかったかのように振る舞い、雄也と一緒にケーキの箱を開けた。そして結婚二年を意味するろうそくを二本、立てた。

けれど、ケーキの上に乗っているフルーツがマンゴーだと気づいたとき、私はその場で凍りついた。

雄也は私の様子をずっと気にしていたようで、すぐに私の異変に気づいた。

「どうしたんだ、裕香?」

彼は何度も尋ねたが、私の傷だらけの心は完全に奈落の底へと落ちていった。

高校を卒業したとき、担任の先生が大きなマンゴーケーキを買って、みんなの受験終了を祝ってくれた。

みんなは夢中になって遊び、残ったケーキを顔に塗り合った。

ふざけ合いであり、祝福でもあった。

雄也もみんなの真似をして私の顔にケーキを塗りつけたあと、私はすぐにマンゴーアレルギーの反応を起こし、病院に運ばれて丸一週間入院した。顔は腫れ上がり、見るも無惨だった。

あの時の雄也は、涙を流して心を痛め、私の顔を両手で包み、一言一言誓ったものだ。

「裕香のすべてのことを、俺は覚えておく。これからは、お前の習慣が俺の習慣になる」

彼は元々実行力のある男だった。一番苦手な感情表現でさえ、私に関することなら完璧にやってのけた。

当時はフルスクリーンのスマホを買う金もなく、彼は私に関する注意事項を全部、机に貼り付けていた。

私はパクチーは食べない。生姜もダメ。酸味と辛味が好き。それにマンゴーアレルギー。

会社ができて、スマホも買えるようになると、それらの注意事項は彼のスマホのロック画面になった。

けれど今、彼のスマホのロック画面は、シンプルな初期設定のままで、私の痕跡はどこにもない。

いつからそうなったんだろう?

たぶん、数ヶ月前、彼が紗和子と兄妹のように呼び合い始めた頃からだろう。

「裕香?」

雄也のやや焦った口調が、私を記憶の世界から引き戻した。

一日中自分に言い聞かせてきたにもかかわらず、彼の心配そうな表情を見ると、私は反射的に涙を流し、心臓が締め付けられるように痛んだ。

「大丈夫よ」

雄也も私をよく知っている。

彼は信じず、私を腕の中に抱きしめ、低い声でなだめた。

「大丈夫だよ。何でも話してくれていいんだ。お前が悲しんでたら、俺が慰めてやるから、ね?お前が何も言わなかったら、どうしてお前が悲しんでるかわからないだろ」

一瞬、全てを打ち明けようかと思ったが、結局は笑って首を振った。

……

「違うの。ただ、ふと一緒に歩んできたこの数年間を思い出して、時の流れがこんなに早いんだなって、ちょっと感慨深くなっただけ」

雄也は甘やかすように私の鼻先を軽くつまんだ。

「安心しろ。これからはずっとお前のそばにいる。俺たちにはまだまだ何十年もあるんだから」

何十年も?

心の中で、無意識に反論が湧いた。

やはり、信頼が崩れた感情には、際限のない疑いと苦しみしか残らないのだ。

考えないように自分に言い聞かせた。「うん、何十年もね。ろうそくに火をつけよう」

ライターを置いた直後、窓の外にかすかに見えていた明かりも突然、完全に消えた。

ろうそくの炎が、世界で唯一の光になった。

私はスマホを取り上げて時間を確認した。十二時三十分ちょうど。

雄也が先に立ち上がり、リビングの大きな窓の前に歩いていった。「外まで真っ暗だ。停電みたいだ」

私はその時、思い出した。

「ああ、確か管理人の連絡で、この団地は零時過ぎに停電するって言ってた。電気設備の点検だとかって」

雄也は戻ってきて、私の向かいに座り、相変わらず優しい口調で言った。

「ちょうどいいタイミングじゃないか。団地全体がお前の誕生日を祝ってるみたいだ。さあ、お願いごとをして」

私は素直に目を閉じた。

視界が暗くなる直前、私は雄也がテーブルに置いたスマホの画面が……また光るのを見た。

心痛が再び私を飲み込んだ。

二秒間目を閉じた後、ためらいながら目を開けた。

ちょうどその時、雄也がうつむいてロックを解除し、スマホに届いたメッセージを眉をひそめて見ていた。

直感が告げた。

それは、江原紗和子からのメッセージだ。

心臓が激しく痛みだした。私は再び目を閉じたが、今この瞬間、何一つ願い事が思い浮かばない。

それなら……

どうか、私が死にませんように。

どうか、早く妊娠できますように。

どうか、雄也が彼女と縁を切れますように。

叶うかどうかはわからない。だって、私の誕生日は昨日だったもの。

突然の着信音が、私の願い事を中断し、私はハッとして目を開けた。

雄也の顔に一瞬慌てた表情が走り、私が気づく前に電話を切ろうとした。

私は不満げなふりをして眉をひそめた。「どうして出ないの?」

その着信音は、初期設定の音ではなかった。誰かが作った特別な着信音だ。

恋愛を称える曲調を、澄んだ声でハミングしている。

あの女の子の声だろうか?

私がそう尋ねたとき、雄也は返事さえできずにいるうちに、着信音は途切れ、そしてすぐにまた鳴り響いた。

雄也は眉をひそめ、電話に出ようと立ち上がったが、その拍子にろうそくが立った誕生日ケーキをひっくり返してしまった。

ケーキ全体が私の一番好きなワンピースに落ち、大きな汚れを作った。

「ごめん、裕香!動かないで、片付けるもの持ってくるから」

雄也は無意識にケーキを支えようとし、スマホをテーブルの上に置いた。

私は彼のことをよく知っている。

今の彼の行動は、私を深く愛しているからではない。心底後ろめたいから、取り繕おうとしているだけだ。

雄也が離れた後、私は彼のスマホを開き、紗和子がさっき送ったメッセージを見た。

【雄也兄ちゃん、停電です。さっきドアをノックする音がしたみたいで、すごく怖いです。見に来てくれませんか?】

スマホを元に戻すと、すぐに雄也が雑巾を持って戻ってきた。

彼はスマホの方向に一瞥をくれ、変化がないのを確認すると、目に見えて安堵の息をついた。

私の心の奥に冷たいものが広がり、思わず皮肉を込めて口にした。

「どうしたの?落ち着きがないみたいだけど。出かける用事でもあるの?」

雄也が私の本心と違う口調に気づくかと思ったが、彼はわずかに間を置くと、申し訳なさそうに顔を上げた。

「裕香、会社で急なトラブルが起きて。行かなきゃいけないみたいなんだ」

……

心臓がまた締め付けられるように痛んだ。

さっきのメッセージを無意識に思い浮かべた。

「今日は行かないでくれない?停電で、私……怖いんだ」

嘘じゃなかった。

子供の頃、田舎にスケッチに行ったとき、間違って二日間も地下貯蔵庫に閉じ込められたことがあった。

あれ以来、私は暗闇を極度に恐れるようになり、夜暗すぎると電気をつけっぱなしで寝なければならなかった。

雄也がそのことを思い出したのか、彼は振り返ろうとした足を止めた。

今回は私が勝つと思った。

しかし次の瞬間、彼の諦めたような口調が、私の心臓を完全に引き裂き、深淵へと投げ捨てた。

「裕香、お前は先に寝ててくれ。ドアはしっかり閉めるから、家の中なら大丈夫だよ。それに、俺の裕香は一番強いんだ。この前だって、真夜中に一人で俺を家まで運んだじゃないか」

「……」

私は、雄也という男から、これまで味わったことのない絶望を初めて感じた。

彼は本当に変わってしまった。

少年の頃の雄也は心の全てが私に向いていて、今のように、過去のことを盾に現在を約束したりしなかった。

彼が言っているのは、起業したばかりの頃、取引先との接待で真夜中まで飲み、私が暗い夜道を一人で歩き、半ば背負いようにして彼を家に連れ帰ったあの時のことだ。

あの夜の路地は、恐ろしいほど暗かった。

暗くて、私の両足は震えていた。

やっと家に着き、それから一晩中彼の世話をした。

雄也は翌朝目を覚ますと、私を抱きしめて繰り返し謝り、もう二度と私に暗い路地を一人で歩かせたりしないと約束した。

なのに今、この部屋は口を開けた暗黒の穴のように、あの日の路地よりも何百倍、何千倍も暗い。

雄也は去って行った。

私の砕け散った心臓の上を踏みつけて、去って行った。

私はソファで丸くなったまま、一晩を過ごした。そして夜が明け、ついに団地の電気が戻った。

同時に、インターホンが鳴った。

ドアを開けると、そこには彼女がいた――江原紗和子だ。

彼女は私が彼女のことを知っているとは思っていないらしく、笑顔で自己紹介した。

「奥様、私のこと忘れちゃいましたか?江原紗和子です。今は正社員になって、平井社長の秘書をしています。書類を取りに来ました」

顔がこわばっているのを感じたが、それでも体を横にずらして中へ通した。

彼女が私の横を通り過ぎるとき、なぜか視線が下がり、彼女の首にかけられたネックレスを見てしまった。

前に雄也のスーツのポケットで見つけたあのネックレスだ。私へのサプライズだと思っていた。

だってあの時、デパートで高すぎると言って、雄也に買うのを止めさせたから。

でも、ずっと待っても渡されず、最初はムッとしていたものの、次第にそのことさえ忘れかけていた。

今、改めて思い出して、心臓に突き刺さった刃がさらに深く沈んだ。

真実を知った瞬間よりも痛いのは、真実を知った後だ。

私は無意識に、私と彼女の時間軸を重ね合わせる。

一つ一つの細かい点を照らし合わせ、そしてその度に心が蝕まれていく。

紗和子は書類を受け取るとすぐに帰ろうとした。私の視線が彼女に注がれているのに気づいて、彼女は一瞬驚いたようだったが、それから優しくうつむき、自分のお腹をそっと撫でた。「もう三ヶ月なんです」

私は思わず聞き返した。「そうなの?結婚したって聞いてなかったけど」

紗和子は顔を上げて私を見つめ、質問には答えずに言った。「私たち、幸せです」

彼女は笑っていたが、その瞳の奥に一瞬よぎった挑発的な光を、私は見逃さなかった。

私は目をそらし、うなずくだけで、彼女が去っていくに任せた。

以前の私なら、間違いなく彼女の髪を掴んで雄也のところに引きずっていき、全てをはっきりさせただろう。

けれど今、突然、そんな気力が湧いてこなかった。

ここ数年の経験と年齢が、私に無理を感じさせた。

一瞬、雄也の子供を身ごもっている彼女が羨ましくさえ思えた。

そう考えていると、出て行ったばかりの紗和子に、何かが起きた。

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