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君が白髪になるその日を待ち、愛が燃え尽きるまで

君が白髪になるその日を待ち、愛が燃え尽きるまで

Oleh:  キョウキョウTamat
Bahasa: Japanese
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帝都では誰もが知っている――雨宮涼介(あまみや りょうすけ)が妻の雨宮澪(あまみや みお)を心の底から憎んでいることを。 結婚にしがみつく澪が煩わしく、束縛されることに嫌気が差していた。 だから涼介は、これまでに九十九回も離婚を切り出してきた。 そして迎えた百回目。今回も拒まれると思いきや、澪の声は氷のように冷たかった。 「分かった。離婚する」

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Bab 1

第1話

氷室彩葉(ひむろ いろは)は力なくベッドに横たわり、冷たい器具が、鈍く痛む下腹部を滑っていく感触に耐えていた。

「赤ちゃんは……大丈夫ですか……?」震える声で尋ねると、医師は憐れむように溜息をついた。

「切迫流産です。残念ながら……お子さんの心音は、もう聞こえません」

その瞬間、彩葉はシーツを強く握りしめた。心臓が氷の手で鷲掴みにされたように、軋む。

「仮に心音が確認できたとしても、出産は推奨できませんでした。火災で大量の有毒煙を吸い込まれている。胎児への影響は計り知れません」

二時間前──氷室グループ傘下の新エネルギー研究室で火災が発生し、彩葉は開発中の最新チップを守るため、躊躇なく炎の中に飛び込んだ。

チップは守れたものの、彼女自身は濃い煙に巻かれて意識を失ったのだ。

救急室に運ばれた時、体は擦り傷だらけで、下半身からは血が流れ、目を覆いたくなるほどの惨状だったという。

家庭と仕事に昼夜を問わず奔走し、心身ともに疲れ果てていた彼女は、この時になって初めて、自分のお腹に新しい命が宿っていたこと──妊娠二ヶ月だったことを知った。

「あなたはまだ若い。きっとまた授かりますよ」

医師はそう慰めながら、「今は安静が第一です。ご主人に連絡して、付き添ってもらってください」と告げた。

身を起こすことすら億劫な体で、彩葉は夫である氷室蒼真(ひむろ そうま)に電話をかけるのを躊躇った。

二日前、彼は息子の氷室瞳真(ひむろ とうま)を連れてM国へ出張したばかりだ。

「プロジェクトの商談だ」と彼は言っていた。仕事中の彼が、邪魔をされることを何よりも嫌うことを、彩葉は知っていた。ここ二日間、彼からの連絡は一切ない。それほど忙しいのだろうか。

その時、携帯の短い振動が静寂を破った。

画面に表示されたのは、異母妹である林雫(はやし しずく)の名前。

震える指でメッセージを開いた彩葉は、息を呑んだ。

そこに添付されていたのは、一枚の写真。雫が息子の瞳真を抱きしめ、二人で笑顔のハートマークを作っている。そしてその隣には、眉目秀麗な夫・蒼真が静かに座っていた。

結婚写真すら「くだらない」と撮ろうとしなかった彼が、その写真の中では、薄い唇の端をわずかに上げ、滅多に見せない穏やかな笑みを浮かべていた。

その姿は、まるで幸せな三人家族そのものだった。

【お姉ちゃん、今ね、蒼真さんと瞳真くんとミュージカルを観てるの。「ナイチンゲールの歌」って、お姉ちゃんが一番好きな作品よね?お姉ちゃんの代わりに、私が先に観ちゃった!】

チケットは常に完売で、手に入れることすら困難な人気の演目。

いつか一緒に観に行きたい、と何度も蒼真に伝えたが、いつも冷たく突き放されるだけだった。

「今忙しいんだ。それに瞳真もまだ小さい。また今度だ」

……忙しいんじゃなかった。ただ、自分と行きたくなかっただけなんだ。

元々張り裂けそうだった胸に、鋭い杭を打ち込まれたような激痛が走る。

それでも諦めきれず、病室に戻った彩葉は腹部の痛みに耐えながら、蒼真に電話をかけた。

数回のコールの後、低く、それでいて芯のある冷ややかな声が鼓膜を揺らす。

「……どうした」

「蒼真……ごめんなさい、体調が悪くて、病院にいるの。少しだけ、早く帰ってきてもらえないかな……?」彼女の顔は蒼白で、声には力がなかった。

「こっちはまだ商談中だ。戻るのは二日後になる。家のことは山根に任せろ」蒼真の態度は、どこか冷めていた。

彩葉はスマホとを握りしめる。「……ねえ。もしかして、雫と一緒にいるの?」

その問いに、蒼真の声は露骨な苛立ちを滲ませた。「彩葉、そんな詮索に何の意味がある?もう五年だぞ。雫は妹のようなものだと何度も言ったはずだ。仮に一緒にいたとして、それがどうした。

最近のお前は、仮病まで使って同情を引こうとするようになったのか?」

「パパ、声大きいよ!僕と雫の邪魔しないでよ!」

電話の向こうから、瞳真の高い声が響いた。「もうママなんてほっときなよ!本当にうざいんだから!」

彩葉が何かを言う前に、通話は一方的に切られた。

ほんの少しの時間すら、彩葉のために割いてはくれない。

がらんとした病室で、彼女は布団を固く握りしめ、体の芯から冷えていくのを感じていた。

三日後、彩葉は無理を言って退院した。

研究開発部の仕事が、まだ山のように残っていたからだ。

特に今回の新製品発表会は、蒼真も期待を寄せている。そして自分にとっても、この二年間心血を注いできたプロジェクトを、成功させたかった。

夕方、疲れ切った体を引きずってブリリアージュ潮見の自宅に戻ると、リビングから楽しげな笑い声が聞こえてきた。

息子の瞳真と、雫の声だ。

胸がどきり、と嫌な音を立てる。彩葉はとっさに身を隠し、鉢植えの影からリビングの様子を窺った。

ソファには、氷室父子の間に座る雫の姿があった。テーブルの上には、バースデーケーキ。そして彼女の首には、赤いルビーのネックレスが輝いていた。それは某高級ブランドの世界限定品だ。

先月、ショーウィンドウで見かけて心惹かれたものの、目を見張るような値段に諦めた、あのネックレス。

それが今、雫の胸元を飾っている。

「蒼真さん、素敵なプレゼントをありがとう。すごく嬉しいわ」雫はペンダントに優しく触れ、潤んだ瞳で男の端整で凛々しい顔を見つめる。「でも、こんな高価なもの……これからは無理しないで。気持ちだけで十分嬉しいから」

蒼真は淡然とした表情で言った。「金などどうでもいい。お前が喜んでくれるなら、それが一番だ」

「ねえねえ雫、お目々閉じて!」瞳真がはしゃいだ声で言った。

雫が素直に瞳を閉じると、瞳真は小さな手で、色とりどりのクリスタルが繋がれたブレスレットを彼女の腕に通した。

「もう開けていいよ!」

「わぁ、綺麗!」雫は驚きの表情を見せた。

瞳真はへへっと笑い、頭を掻く。「これね、僕が一つひとつ選んで、糸に通したんだ。雫への誕生日プレゼント!」

「ありがとう、瞳真くん。一生大切にするわ」雫が身をかがめて瞳真の額にキスをしようとした、その時。

瞳真は自ら顔を上げ、ちゅっ、と音を立てて雫の頬にキスをした。

瞳真は父親に似て、どこか冷めた子供だった。実の母親である彩葉にさえ、ほとんど懐こうとしなかったのに。

自分が喉から手が出るほど欲しかったものを、雫はこんなにもたやすく手に入れてしまう。

嫉妬と絶望で、胸の奥がキリキリと痛んだ。

瞳真はキラキラした目で雫を見つめ、真剣な顔で言う。「雫は体が弱いから、これからは僕とパパが守ってあげる。だから安心してね」

「ふふっ……ありがとう。頼りにしてるわね」雫は恥じらうように頬を染め、ちらりと隣の男に視線を送る。

蒼真は切れ長の瞳を細め、自らケーキを一切れ切り、雫の手に渡す。

血の気が、すうっと引いていく。立っていられなくなりそうだった。

全身全霊で愛した夫は、他の女の誕生日を祝い、命がけで産んだ息子は、母親からすべてを奪った女を守ると誓う。

彩葉は、赤く染まった目で静かに笑った。そして踵を返すと、五年もの間自分を縛り付けた結婚という名の牢獄から、毅然と歩み出した。

自宅の外は、冷たい雨が降っていた。

全身ずぶ濡れになりながら、彩葉は道端に立ち、久しぶりにかける番号を呼び出す。電話の向こうから、懐かしい声が聞こえた。

「お嬢!お久しぶり!元気か?」

「えぇ、元気よ」彼女は微笑んだ。その美しい瞳には、かつてないほど冷徹な光が宿っていた。

「離婚することにしたの。だからお願い、離婚協議書を用意してちょうだい。なるべく、早くね」
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松坂 美枝
松坂 美枝
林先生が可哀想!!!
2025-07-11 12:40:12
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第1話
帝都では誰もが知っている――雨宮涼介(あまみや りょうすけ)が妻の雨宮澪(あまみや みお)を心の底から憎んでいることを。結婚にしがみつく澪が煩わしく、束縛されることに嫌気が差していた。だから涼介は、これまでに九十九回も離婚を切り出してきた。そして迎えた百回目。今回も拒まれると思いきや、澪の声は氷のように冷たかった。「分かった。離婚する」「本気なのか?」「涼介、おめでとう!ついに自由の身だな!」個室では数人の友人たちが冗談を飛ばしていた。目には驚きが浮かび、まだ信じられない様子だった。そんな中、涼介自身も「離婚する」という言葉を聞いた瞬間、一瞬だけ目を瞬かせた。だが、それ以上に心に広がったのは解放感だった。涼介は勢いよく腕を上げ、今夜の会計をすべて引き受けた。騒がしい空気の中、薄暗い照明の下で澪だけが背を向けて静かに立っており、その姿に思わず目を奪われた。「さて、今度はどれくらいで泣きついてくるかな?」「一週間?それとも二週間?」笑いながら、彼は手元のチップを七日後にすべて賭けた。「七日後、俺は琴音と式を挙げる。お前ら、ちゃんと祝ってくれよ」友人たちはさらに盛り上がった。澪はすでに個室を後にしていた。外の陽射しが眩しくて、ようやく深く息を吐いた。涙をこらえるのに必死で、心はどこか麻痺していた。車に乗り込み、家路につく。スマホには、涼介のプロポーズ動画がインスタで拡散されている通知が次々と届いていた。見てはいけないと分かっていながら、ふとした衝動で再生してしまった。画面の中の南条琴音(なんじょう ことね)は高級ブランドのドレスを纏い、頬を染めながら突然のプロポーズに驚きと喜びを隠せずにいた。澪は琴音のことをよく知っていた。涼介のそばに一番長くいた琴音に、彼は三百六十平米の高級マンションを用意し、世界に一つだけのランゲの指輪を贈っていた。涼介はよく話していた。琴音がどれほど我儘で、彼が何かをしようとすればすぐに子どものように拗ねて、強気な顔でこう言うのだと。「雨宮涼介、私は愛人なんかじゃない!」だからこそ、涼介は澪に離婚を求め続けた。二人でゼロから築き上げた会社が成功したとき、涼介は夫という立場を利用して澪の事業をすべて奪った。澪は彼を憎みながらも、結婚にすがるしかなかった
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第2話
澪は呆れたように目を閉じ、思いきって涼介のLINEを削除した。翌日、澪は手元に残った全財産を使って墓地を購入し、連絡先の欄に涼介の名前を記入した。暗記しているその番号を見つめながら、澪は自分がどれほど惨めな存在なのかを痛感した。葬儀の手配をすべて終えた澪は、静かに別荘へと戻った。だが玄関先では、自分の私物がまるでゴミのように無造作に散乱していた。状況を飲み込む間もなく、甘ったるい声が耳に入る。「ねえ涼介、ここの全部、本当に私のものなの?」涼介は穏やかな笑みを浮かべ、琴音の唇に何度もキスを落とした。「全部、君のものだ。君がこの家の女主人だよ」二人は、玄関先で立ち尽くしている澪の存在に気づかなかった。澪は拳を握りしめ、これ以上惨めに見えないよう努めようとしたが、抑えきれずに一気に駆け寄った。地面に散らばったかつての思い出の写真は、すでに粉々に破かれていた。その中で澪が最も目を背けたくなるのは、両親の位牌が汚水の中に落ち、泥まみれになっていた光景だった。「誰がやった!?」拳を震わせながら、澪は怒りをにじませた視線を向ける。琴音は怯えた素振りで涼介の背に隠れ、か細い声で訴える。「涼介、彼女、怖い……私のこと殴ったりしないよね?」涼介の顔には無表情が張りついていたが、その手はしっかりと琴音を庇い、口調にはわずかな怒気がにじんでいた。「俺がやった。何か文句あるか?」「ここは俺の家だ。お前はもう離婚協議書にサインした。嫌なら出ていけ」澪の胸に鋭い痛みが走ったが、顔からは感情が抜け落ちていた。「まだ離婚届は提出してないわ。ここは、私の家でもある」「後ろのその人、何の立場?警察に通報して身元を確認してもらった方がいいかしら?」その一言が、涼介の怒りに火をつけた。彼は眉間に皺を寄せ、露骨な嫌悪を滲ませながら冷笑を浮かべた。「澪……お前、プライドはどこに捨てた?自尊心はどうした?」澪は汚れた位牌を拾い上げ、無言で階段を上がると、琴音の荷物をすべて引きずってきて、涼介の目の前で床に叩きつけた。琴音の目はたちまち真っ赤になり、泣き叫びながら家を出て行こうとした。だが、澪はすでに部屋のドアを閉め、すべてを締め出していた。疲れた。本当に、心の底から疲れた。目を閉じると、頬を一筋の涙が静かに伝った。
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第3話
再び目を開けると、視界に映ったのは、病院の真っ白な天井だけだった。鼻をつく消毒液の匂いに、澪は思わず身を起こしかけた。けれどその瞬間、顔や体のあちこちに鋭い痛みが走った。「澪さん!」林先生は、澪が顔の傷に手を伸ばそうとするのを見て、すぐさま駆け寄ってその手を掴んだ。「動いちゃダメです。植皮手術を終えたばかりで、今がいちばんデリケートな時期なんですから……」植皮?澪は一瞬呆然とし、次の瞬間、洗面台へと駆け出していた。鏡に映る自分の顔には、大小さまざまな傷がにじみ出た血で覆われ、無数の痕が刻まれていた。澪はその姿に目を閉じるしかなかった。背後から林先生の必死な声が追いかけてくる。「やっぱり、動かないほうがいいです。今は辛いかもしれませんが、ちゃんと治療を続ければ、元の姿に戻れる可能性だってあるんです」澪の頬を、涙が一筋、音もなく滑り落ちた。傷に染みて、ひりひりとした痛みが募った。「でも……もう私には、未来なんてない……」そのとき、病室の入口に涼介が立っていた。彼の目には、深い影のような暗さが宿っていた。「今回の件は、お前が琴音に迷惑をかけたんだ」「琴音の肌は繊細なんだ。お前の平手打ちで顔に傷が残って、顔まで台無しになった。だから、お前が責任を取るべきだ」「昼間の件は琴音が先に手を出した。でも、もう十分に痛い目を見た」澪は呆れて笑った。笑った拍子に顔じゅうに鋭い痛みが走り、血がまた滲んだ。「どんな罰を受けたっていうわけ?」涼介は眉をひそめ、不満そうに答える。「琴音は痛みに弱い。植皮手術の痛み、それだけでも十分だ」涼介が琴音に甘いことくらい、澪だって知っている。でもその言葉を聞いた瞬間、もう感情が抑えきれなかった。限界だった。「……つまり、私の顔についた三十以上の傷と引き換えに、琴音が感じた痛みが罰だって言いたいわけ?」涼介のまとう空気が一気に冷たくなったが、表情は相変わらず氷のように無機質だった。「澪、お前は何をそんなに抗っている?」「素直に謝れば、お互いにとって悪くない選択になる」澪は拳を握りしめ、爪が掌に食い込んだ。彼女は勢いよくスマホを掴み、警察に通報しようとした。だが、涼介は冷たく一瞥を送るだけだった。「お前、昼間言ってただろ。俺たちはまだ離婚していないって」「
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第4話
意識がぼんやりとしていく。今日は目覚めて二日目だったが、澪はまだ嗄れた声のまま、一言も口をきかなかった。琴音は、まるで理不尽な仕打ちを受けたかのように目を赤くし、もじもじと立っていた。「ご……ごめんなさい!」「でも、最初にいじめてきたのはあなたのほうよ!」涼介が琴音の背後に立ち、口を開いた。「今回のことは、琴音にも分別が足りなかった」それでも澪は無反応で、呼吸さえ浅くなっていた。「琴音は若くて血の気が多いから、多少の過ちは仕方ない。家は離婚協議の中でお前に譲渡する」澪はベッドに座ったまま、虚ろな目で泣き笑いを浮かべ、手に届くものを次々と叩きつけた。かすれた声で叫ぶ。「出て行って!出て行け!」涼介は無理に抑えつけようとはせず、反射的に琴音を背後に庇った。その後、一日中、涼介は澪のそばにいた。殴られて青あざだらけになり、どれだけ罵倒されても、彼は昔のように澪の発音練習に付き合い、夜になるとベッドサイドにランプを灯して、眠ることなく昔話を語り聞かせた。まるで、かつての時間が戻ってきたかのようだった。だが澪は知っている。涼介という男は、誰よりも「迷惑をかけられること」を嫌う人間なのだということを。つまり、今の彼は「罪悪感」で動いている。琴音のために。涼介は点滴のボトルを懐で温め、苦い薬のあとにはそっと飴を添える。その気遣いは細部にまで行き届いていて、澪は思わず錯覚しそうになる。もしかして、涼介はまた私を――愛してくれているんじゃないか、と。しかしその夜。喉の痛みで目を覚ました澪は、水を探して立ち上がった。部屋は真っ暗で、微かな光が漏れているドアのほうへ、反射的に足を向けた。けれど、次に聞こえてきた賑やかな声に、澪はその場で立ち止まった。友人たちの笑い声のなか、涼介の低い声が混じっていた。「騒ぐのは構わないけど、彼女を起こすな」気を利かせた友人たちは頷き、動きを控えたが、琴音は唇を尖らせ、不満げに言った。「ねえ涼介、あんなに長く彼女に付き添ってるのに、いつになったら私のそばにもいてくれるの?」涼介は答えず、代わりに琴音の小さな顔を優しくつまんだ。友人たちはそれを羨ましそうに見て、冷やかしの声を上げた。王様ゲームのルーレットが涼介の番で止まり、友人たちは顔を見合わせながら、ずっと聞きたかった
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第5話
涼介の視線が澪に向けられ、どこか複雑な表情を浮かべたものの、やがて静かに頷いて了承した。ただひとつ、涼介には条件があった。琴音を、かつて涼介と澪が結婚した時、澪のために購入した別荘に住まわせるというものだった。その日の午後には、琴音はもう引っ越してきた。外は雨。琴音は涼介に抱きかかえられたまま、両足を地につけず、顔を赤らめながら口を開いた。「ばか。こんなに人がいるなんて、ちゃんと教えてよ……早く下ろして」涼介は無表情のままだったが、口元にだけわずかな笑みを浮かべ、どこか愛しげに、そして脅すように言った。「そんなふうに俺を呼び続けるなら、お前の舌、切り落とすぞ」澪は一瞬、呆然とした。その言葉。かつて涼介が澪にもまったく同じことを言ったのを、思い出した。「もうわがまま言うなら、お前の舌、切るよ」涼介は、自分が好きな相手にだけ、いつも口では逆のことを言う。その瞬間、澪は確信した。涼介は、本当に琴音を好きになったのかもしれない。心はとうに麻痺していた。それでも、澪の手は止まらなかった。星那は児童養護施設にいる間に、以前よりもますます口数が少なくなっていた。あの子は「お母さん」と呼んで手を握ってくるたびに、澪の胸の奥が張り裂けそうに痛んだ。でも彼女は、もうすぐ死ぬ。この先、星那を守ってやることはできない。せめて少しでも多くお金を残して、服を買って、温かい家庭を見つけてやりたい。澪は、ずっと苦労ばかりの人生だった。だから、自分の子供まで巻き込むわけにはいかない。なのに涼介は、澪を待たせ続けた。「琴音が住み始めたら、連れて行く」そう言われて、澪は待った。「琴音が落ち着いたら、連れて行く」そう言われて、澪はまた一晩待った。そして今度は、「琴音が部屋を片付けたら」と言われたとき、澪は、自分の体が限界に近づいていることをわかって、もう待てない。だから澪は、涼介の前で初めて怒りを爆発させた。澪の冷たい瞳に、涼介の心が揺れ、最終的にようやく彼は、澪を連れて行った。だが、そこにいたのは、生きている星那ではなく、冷たい墓石だった。涼介は澪の背後から、淡々と、けれど少しだけ同情をにじませて言った。「星那の白血病、移植できる骨髄がなかった。助からなかった」「澪、もうこれ以上、馬鹿な真似はやめろ」でも澪は、忘れていなかっ
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第6話
しかし澪はやはり一歩遅く、刺すことはできなかった。涼介は錯乱したままの澪を見て、怯えて泣いている琴音の体を念入りに調べ、異常がないことを確認してから、澪を睨みつけた。その目には、冷たさがより一層深く宿っていた。「澪、お前、正気か!」澪は涼介の顔を真っ直ぐに見つめ、震える声で言葉を絞り出した。瞳は真っ赤に染まっていた。「悪いのは琴音」「あいつが、私の子に手を出した」涼介は琴音を抱き上げ、庇い続けた。「琴音は口にしただけだ。薬を止めたのは俺だ。なら、なぜ俺を狙わない!?」その言葉に、澪は目を見開き、赤く染まった瞳のまま、乾いた笑いを漏らした。琴音が口にしただけで、涼介は薬を止めた。琴音が間接的に星那を殺したというのに、琴音は無罪。涼介、あなたは琴音のことを、どこまで愛しているの?澪は突然涼介の目の前に詰め寄り、憎しみに燃える瞳で彼を睨みつけた。「琴音が憎い。涼介、そんなに守りたいっていうなら、一生あの女を私の前に出すな!」「顔を見るたび、本気で殺してやる」涼介の目にも、深く黒い憎悪が渦巻いていた。泣き続ける琴音を一瞥すると、彼は黙ってその場を去った。広々とした別荘には、澪だけが取り残された。そして涼介の冷え切った声が響く。「澪、お前はお前のクソ母親そっくりだ。毒親に育てられたら、娘もやっぱり毒になるんだ!」「琴音に何かあれば、お前も一緒に地獄へ落ちろ」二十六年の付き合い、十年の結婚生活。涼介はこれまで一度も、澪の母について口にしたことはなかった。どれだけ激しい喧嘩をしても、その名前を出すことはなかったのに。今、涼介は他の女のために、その刃を澪に向けた。澪はその場に崩れ落ち、両腕で自分を抱きしめるようにして座り込んだ。絶望の中、ぽたりと落ちた涙が床を濡らす。口を開いたときの声には、静かな決意が滲んでいた。「涼介、私は琴音のために命も捨てた。それでも足りないっていうの?どうして子どもの命まで奪った?」「わかってるのに、この子のために全部捧げた私に、どうしてそこまで残酷になれるの?」澪の問いに、涼介は一度も振り返ることなく去っていった。代わりに返ってきたのは、ボディーガードの無機質な声だった。「涼介さんのご命令です。あなたはわざと琴音さんを害そうとし、ひどく驚かせました。家の決
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第7話
翌日になって、ようやく澪は涼介の言葉の意味を理解した。まだ反応する暇もなく、何人かのボディーガードに無理やり輸血室へと押し込まれた。青あざだらけの腕に、太い採血管が容赦なく突き刺さる。その様子に、採血していた林先生でさえ目をそらし、思わず口を開いた。「涼介さん、澪さんはついさっき命の危機を脱したばかりなんですよ。今また採血したら、おそらく……」涼介は黙ったまま背を向けている澪に冷たい目を向けて、力を込めて言った。「構わない。琴音とお腹の子が無事なら、それでいい。他のことは気にするな」その時、澪は初めて琴音が妊娠していることを知った。琴音は普通のA型なのに、それでも涼介は無理やり澪に輸血させた。澪の腕からは、すでに血液パック一袋分くらいの血が抜かれ、まぶたはどんどん重くなる。二人の会話のひと言ひと言が、小さな針みたいに澪の胸を刺してくる。琴音のためなら、私の命だって差し出すつもりなの、涼介?体がどんどん冷えていくなかで、意識も遠のいていった。そんな中、ようやく涼介が林先生に軽く言った。「鎮痛剤を打て。気絶はさせるな」澪はうつむき、もう深呼吸すらできなかった。林先生は部屋の外から駆けつけて、きっぱり言い放った。「涼介さん、これ以上は本当に無理です」しかし、澪は自ら腕を差し出し、虚ろな目で問いかけた。「採血が終われば帰れる?」涼介の目がわずかに揺らいだが、結局は澪の腕を無理やり掴み、林先生に渡した。「採血しろ。終わったら離婚しに行く」もう話す力も残ってなくて、口の中は血の匂いでいっぱいだった。澪は頭を垂れたまま、まるで操り人形みたいに動かされていた。どれくらい時間が経ったのかもわからない。ただ、すべてが終わったとき、澪はテーブルに崩れるように倒れ込んだ。涼介は鼻で冷たく笑って、ボディーガードに澪を抱えさせ、市役所へ向かった。澪の口からは止めどなく血が溢れ、震える手でどうにか離婚届にサインした。離婚証明書を手に取って立ち去ろうとした瞬間、涼介が澪の手首を掴んだ。顔には、相変わらずあの皮肉な笑みが浮かんでいる。「どこ行くつもりだ?琴音はまだ体調戻ってない。お前には、保険の血袋として、もう少し働いてもらう」澪はうつむいたまま、抵抗する気力もなく連れて行かれた。結婚式の日、涼介は琴音の手を
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第8話
涼介の胸にズキッとした痛みが走った。椅子にもたれながら、少し酔いが回っていた。ふと、澪の顔が頭に浮かぶ。決して諦めることを知らない、あの女のことが。澪はいつも穏やかで、でも芯の強い女だった。涼介と喧嘩しても、いつだって黙って耐えていた。最初に必死に懇願してきた姿。崩れ落ちて泣き叫んでいた姿。そして最後には、歯を食いしばって必死に耐えていた――その全部を、涼介はずっと見てきた。何度も振り回して、一ヶ月まるまる無視して避けたこともあった。でも彼女は騒ぎもせず、ただ黙ってコーヒーを出してくれた。この女は、一体何を守ろうとしてたんだ。涼介はわざと冷たく接して、必死で澪を突き放そうとしてきた。挙げ句には、琴音との間に子どもができたなんて、そんな嘘までついた。でも、自分で一番わかってた。あれは全部、澪を愛してたからこその行動だったってことを。震える手を抑えられず、頭の中は澪のことでいっぱいだった。林先生から、澪が輸血を終えて休んでいると聞いて、涼介は少しだけホッとした。彼女に行くあてもないことくらい、分かってる。なのに、どうしてだろう。胸のざわつきはまったく消えてくれない。琴音がキッチンから温めたミルクを持ってやってきた。「涼介、ミルクよ。これ飲めば、すぐ眠れるわ」甘えるような笑顔が胸に突き刺さる。三年前の澪と、そっくりだった。そう、琴音は澪に似ている。顔も、しぐさも、性格までも。婚約したのも、素直で扱いやすかったからだけじゃない。澪に似ていたからだ。涼介は琴音の肩を引き寄せた。でも、心はますます沈んでいくばかりだった。澪みたいな女、いくらでもいる。澪一人くらい、忘れられないわけがない。琴音の頬がほんのり赤くなり、うれしそうに涼介にもたれかかってきた。取引を始めてから、涼介のほうからこんなふうに近づいたのは初めてだった。もしかしたら、今夜がその次のステップかもしれない。琴音は唇をうっすら濡らし、甘い声で涼介の名前を囁くと、彼の腰にそっと腕を回す。袖口に手をかけ、自分から唇を差し出す。けれど涼介の瞳は淡々としていて、どこまでも冷たかった。涼介は、澪以外の女性を受け入れることができない。「琴音、取引のこと、忘れたのか?」琴音は唇を噛んで、目に不満が浮かぶ。「涼介、もう私たち、
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第9話
林先生は、すでに切れた電話をしばらく見つめたまま、静かにため息をついた。涼介という男は、本当に素直じゃない。明らかに澪のことを心配しているくせに、それを絶対に認めようとしないのだ。林先生は、二十年以上にわたって涼介の背中を見守ってきた。その間、澪に対する態度は変わっていったけれど、ただ一つだけ変わらなかったのは――澪への想いだった。まだ子どもだった涼介が、澪の母親が、自分の母を死に追いやった張本人だと知ったとき、一週間近く誰とも口をきかなかった。林先生は昼間の涼介を見かけた。彼は向かいの澪の部屋が見える窓辺に座っていた。その窓の向こうには、澪がきれいなワンピースを着て立っていて、まるで今にも涼介のもとへ駆けてきそうな――そんな姿が映っていた。「涼介、一緒に遊びに行きましょう」涼介はずっとそこに座っていた。林先生が気づいたとき、彼の目は虚ろで、静かに涙を流していた。それは、林先生が初めて見た、深い悲しみと無力さに満ちた涼介の顔だった。「林先生、俺は澪を愛さずにはいられないんだ」涼介が憎しみと愛情の間で揺れながら、それでも澪と結婚する姿を、林先生はずっと見てきた。最初の数日、ふたりは確かに幸せそうだった。澪の家に対する憎しみを胸に抱きながら、涼介はすべてを計算し尽くしていた。澪だけに幸福を与えるための壁を築いた。けれど、澪はやがて財産の真相に気づき、資料を手に涼介を問い詰めた。澪の涙が涼介の腕にぽつりと落ちたとき、彼は崩れそうになっていた。最終的に、涼介は自ら背を向けることを選び、心にもない言葉を吐き捨てた。「俺はお前を憎んでる。本気で……死んでほしいほどに」涙を流しながら、それでも信じようとしなかった澪は哀願し続けた。誰もが信じられなかった。あれほどまでに澪を愛していた涼介が、彼女を憎むなんて。澪は、何度も涼介のもとを訪ね続けた。でも、その想いは失望に変わり、やがて絶望へとたどり着いた。そして部屋で大量の睡眠薬を服用してしまったのだった。それは、涼介が初めてあれほど取り乱し、澪を抱えて林先生に助けを求めた。「もう愛していない」と言いながら、涼介は、どうしても彼女に生きていてほしいと、必死に救いを求めたのだ。「どうすれば澪を助けられる」そう尋ねる涼介に、林先生はため息をついて答えた。「時に……憎
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第10話
そのとき、涼介の心臓にまた鋭い痛みが走った。彼は思わずテーブルの縁を握りしめ、ソファにもたれながら荒く息を吐いた。今回は前よりも痛みが強くて、頭の中にはなぜか澪の笑顔ばかりが浮かんでくる。本能的に澪に電話をかけようとしたが、スマホの画面を見つめたまま手が震えて、けっきょく何もしなかった。もはや、澪を探す資格なんてない。――あのとき、澪を突き放したのは自分自身なんだから。苛立ちが収まらず、指はテーブルを何度も叩いていた。気持ちはまったく落ち着かず、ただ募るばかりだった。琴音が部屋の外から歩いて入ってきた。甘い笑顔を浮かべ、身に着けた白いワンピースが目に入った。その瞬間、昔の澪が笑いながら告白していた姿が、ふと重なって見えた。琴音は涼介の目に迷いがあるのを見て、得意げに微笑み、用意していた航空券を手渡した。「涼介、決めたの。今度のハネムーンはモルディブに行きましょう?」涼介は返事も拒否もせず、黙ったまま一瞥しただけ。琴音は少しうつむいて、悲しそうに口を開いた。「ずっとここに行きたかったの。以前、お父さんが大きくなったら連れて行ってくれるって言ってたけど、もう無理になっちゃった」その弱々しい姿は拒否しづらかった。ただそれは、琴音がうつむいた瞬間に澪の姿が重なったからだった。澪もすねた時は、同じように悲しそうな顔で、迷いながら表情を伺っていた。承諾すれば、澪は爆発しそうなほど嬉しそうな顔で飛びついてきて、こう言うのだ。「涼介、あなたは世界で一番素敵な男性よ!」そう思った瞬間、また胸が締め付けられ、涼介は気づけばうなずいていた。名目上の夫婦として、体裁を保つなら完璧にやるしかない。琴音は興奮して部屋を行ったり来たりし、いろんな友達に話して自慢し始めた。琴音は慌ただしくスーツケース三つ分の服と靴を詰め込んでいた。涼介はというと、ずっとスマホを見つめたまま、誰かからの連絡を待っているようだった。その様子に、琴音の目には嫉妬と憎しみが浮かび、手のひらに爪を強く食い込ませた。富豪令嬢からギャンブラーの娘になった琴音は、多くの男を見てきた。その中で涼介だけが、特別だった。この男を手に入れられないなんて、ありえない。荷物が揃い、涼介はプライベートジェットを手配してモルディブへ向かった。道中、琴音は
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