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第8話

Auteur: 黒い土地
翌日、東都大聖堂。

長い廊下は、空輸された数千本のワスレナグサで埋め尽くされている。メディアもカメラを構えて準備万端だ。

「前田社長、奥様は今日、さぞお美しいでしょうね?」と、記者がお世辞を言った。

勲はそつなく微笑んで答えた。「彼女は、いつも美しいですよ」

そう言って勲は腕時計に目を落とした。時刻は11時50分。もうすぐ、愛する女性を妻に迎えられる。

結婚式が終わったら、美羽を海外で出産させよう。勲はそう心に決めていた。

私が機嫌を損ねても、少しご機嫌をとって、家でも数軒プレゼントすれば、いつものように許してくれるはずだ。

だって、私は、彼のことをあんなにも愛していたのだから、そう思っているのだろう。

一方サイドドアの近くに、美羽が立っていた。デザイン性の高い白いドレスを着ていて、招待客の中でもひときわ目立っている。

そのドレスは、ブライズメイドにしては豪華すぎるくらいで、ウェディングドレスだと言っても過言ではないほどのデザインだった。

それを見て、勲は眉をひそめ、哲也に目配せして美羽を外へ連れ出すよう指示した。

時刻は、11時58分になった。

本来なら、教会の扉が大きく開かれ、花嫁が入場してくるはずの時間だ。

しかし、重々しい扉は、固く閉ざされたままだった。

その時、勲の背後にあった巨大なLEDスクリーンが、突然明るくなった。

波形が画面で揺れ動き、勲の冷酷な声が聖堂に響き渡った。

「美羽は体が弱い。上田家の血を継ぐ子供が必要なんだ。

体外受精が成功したことは、絶対に遥には知られてはならない。

子供が生まれても、別の場所で育てて、遥の前にさえ現れなければ、裏切りにはならないさ」

その瞬間招待客たちの間に、どよめきが広がった。

勲の顔から笑みが消えた。彼は音響ブースに向き直り、叫んだ。「消せ!今すぐ消すんだ!」

しかし画面が切り替わり、今度は高画質の監視カメラの映像が流れ始めた。勲が跪いて美羽に靴を履かせたり、高級なデザートを食べさせたりしている場面だった。

続いて、スライドショーのように次々と写真が映し出される。勲のサインが入った体外受精同意書、美羽の妊娠検査結果……

すると会場は一斉にフラッシュの嵐となり、シャッター音が鳴り響いた。

祭壇の上に立つ勲の顔は、真っ青だった。

混乱する人々を前にして、彼は初めて、骨の髄まで凍るような寒気を感じた。

ポケットのスマホが震えた。勲は震える手でそれを取り出した。

差出人は、「遥」だった。

【勲、もうこのお芝居は疲れたの。あなたが欲しがった前田家の血筋も、あなたが守りたがった体面も、私にとっては必要のないものよ】

それを見た勲は招待客のことも、怒鳴る母親のことも、床で泣き叫ぶ美羽のことも、もうどうでもよかった。

彼は司会者を突き飛ばし、狂ったように聖堂を飛び出すと、飾り付けられたウェディングカーに飛び乗った。

40分はかかる道のりを、勲はわずか20分で駆け抜けた。

そして家のリビングに飛び込むと、部屋中のブライダルの飾りだけがやけに目について、テーブルの上には、まだ引き出物の箱が残っていた。

「遥!」と勲が叫ぶ。その声は部屋に響き渡ったが、返事はなかった。

2階へ駆け上がり、寝室のドアを開ける。ベッドサイドのツーショット写真はなくなり、ドレッサーの化粧品もすべて消えていた。

クローゼットを開けると、オーダーメイドのドレスも、ブランドバッグも、すべてが消え去っていた。

ただ、あのルビーのジュエリーセットだけが、箱に入ったまま、隅に捨てられていた。

勲は狂ったように全ての引き出しを漁り、私の痕跡を探した。

そしてついに、ベッドサイドテーブルの一番下の隙間に、指先が触れた。

プラスチックが折れるような感触がした。

力を込めて、それを引き抜いた。

そこから、真っ2つに折れた妊娠検査薬と、私が偽造した、しわくちゃの病院の書類が落ちてきた。

勲の手は激しく震え始め、ぼやける視線が【妊娠中絶同意書】という文字を捉えた。

【患者氏名:遥。診断:子宮内妊娠(8週目)。手術内容:妊娠中絶。署名日:1月15日】

1月15日。

勲の呼吸が止まった。

その日、私に、西区へ出張に行くと嘘をついていた。

実際には、東都の病院で美羽の妊婦健診に付き添っていたのだ。

その日、電話でこう言った。「お前との未来のために、必死で頑張っているんだ」と。

勲は、ようやく全てを理解した。

私は彼にチャンスをあげた。何度も、何度も。

彼自身のその手で、私を絶望の淵に突き落としたのだ。

「あああああっ!」

その事実に打ちひしがれ、勲はがらんとした部屋の中央に膝をつき、偽の中絶同意書を固く握りしめながら、獣のような雄叫びを上げた。

……

一方、上空1万メートル。機内には、まぶしいほどの陽光が差し込んでいる。

「お客様、お飲み物はいかがですか?」と、客室乗務員が優しく声をかけてきた。

私はサングラスを外した。かつて涙をこらえていた瞳は、今では澄み切っているのだった。

「オレンジジュースを一杯いただけますか」

ジュースを受け取ると、左手で少し膨らんだお腹をそっと撫で、窓の外に広がる雲海に目をやった。

「赤ちゃん、今日から、私たちだけの人生が始まるのよ」

そう呟き、窓の外のうねる雲を眺めながら、私は、本物の自由へと飛び立った。
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