LOGIN婚約式の前日、後でまとまった休みを取って黒崎智司(くろさき さとし)と少しでも長く一緒に過ごせるよう、私は急な残業を引き受けた。 だが、患者に催眠療法を施し、「三、二、一……」とカウントダウンした瞬間、私の意識はふっと途切れた。 再び目を覚ました時、診察室には人があふれ返っていた。 そして私は、服を乱した状態で診察ベッドに横たわっており、すぐ隣にはあの患者が寝ていたのだ。 私が周囲から向けられる無数の冷ややかな視線を浴びていた。 そこへ、智司が入ってきた。 私はすがるように彼のもとへ駆け寄ろうとした。 だが、彼はさっと一歩後ずさり、冷たく言い放った。 「白石初(しらいし はつ)、婚約は破棄しよう」 何が起きたか理解できずにいる私をよそに、彼はまっすぐ歩み寄り、私の乱れた襟元を直しながら面白がるような低い声で耳打ちした。 「怖がるな。これは全部、俺が仕組んだことだから」 私は言葉を失い、信じられない思いで彼を見上げた。 「お前、前に心奈の心理カウンセリングをした時、あいつがうつ病のフリをしてるって見抜いたろ? そのせいで、あいつは婚約者からその場で破談にされたんだ。 心奈は泣き崩れていたんだ。 だから俺も、大勢の前で恥をかかされて婚約破棄される惨めさを、お前に味わわせてやろうと思ってな」 彼がまた小林心奈(こばやし ここな)の名前を口にした。ずっと彼にまとわりついている、あの女のことを。 彼はそう言って、震える私の肩を軽くポンと叩いた。 「安心しろ、心奈の気が済めば予定通り結婚してやるから。 七年も付き合ったんだ、お前を見捨てたりはしないさ」 丸七年間、自分のすべてを懸けて愛した男の顔が、今この瞬間、恐ろしいほど見知らぬ他人のように思えた。 胸の奥で心臓はまだ脈打っているというのに、私の中の何かが完全に踏みにじられ、粉々に砕け散っていた。
View More一年後。旅館は営業を再開した。私はもう心療内科医としては働いていないけれど、別の形で人々を癒やす日々を送っている。旅館の名前は「新生(しんせい)」に改めた。長谷川先生が一緒に考えてくれた名前だ。夏目は店長になり、以前よりも忙しく立ち回っているが、その笑顔はより一層輝くようになった。あの日、私がお客様にお茶を淹れていた時、スマホに一件のニュース速報の通知が届いた。見出しは非常に短いものだった。【黒崎グループ元後継者、黒崎智司氏(28歳)、南洋の島に病死】私はお茶を持った手を、ピタリと止めた。記事によれば、彼があの島へ追放した後、黒崎家は完全に彼との連絡を絶っていたらしい。言葉も通じず、頼れる友人もいない異国の地で、病に倒れても看病してくれる者など誰もいなかった。現地での医療環境は絶望的であり、彼にはまともな治療を受ける金すらなかったのだという。最後は安アパートで孤独に息を引き取り、数日が経ってからようやく発見されたとのことだった。夏目が近づいてきて、スマホの画面を見た。「初さん……」「お茶が冷めちゃうわ」私はスマホの画面を裏返してテーブルに置き、何事もなかったかのように客にお茶を差し出した。同じ日、もう一つの知らせも耳に入ってきた。心奈が刑務所内でひどいイジメに遭っているというのだ。彼女は外の世界で、あまりにも多くの人の恨みを買っていた。塀の中には、彼女に陥れられた被害者の親族や友人が大勢収監されていたのだ。仲間外れにされ、毎日のように殴る蹴るの暴行を受け続けていた。長引く恐怖と絶望の中で、彼女はついに、本当にうつ病を患ってしまった。彼女は外部の病院での治療を申請しようとしたが、小林家はとうの昔に彼女を勘当しており、誰も身元引受人にはならなかった。彼女は冷たい檻の中で、生き地獄のような毎日を送っている。皮肉な話だ。三年間もうつ病のフリをして他人を欺き、あれほど多くの人を不幸のどん底に叩き落とした彼女が、今になって、本当にうつ病になったのだ。夜。私は母の部屋に座り、遺影に向かってそっと語りかけた。「お母さん、これで全部終わったよ」母は、以前と変わらないあの優しい笑顔を私に向けていた。夏目が、うどんを手に部屋へ入ってきた。「初さん、今日は誕生日で
心奈の裁判は驚くほど早く結審した。名誉毀損、虚偽告訴、そして殺人を依頼し死亡事故を引き起こした罪、いくつかの罪状が併合され、最終的に懲役12年の実刑判決が下された。彼女が刑務所へと連行されていく日、私はテレビのニュースでその姿を見た。囚人服を着て、長く美しかった髪は短く刈られ、すっぴんのその顔は直視できないほどに憔悴しきっていた。彼女はカメラに向かって金切り声で叫んでいた。「私は悪くない!全部、あの白石初が私を嵌めたのよ!」そしてそのまま、刑務官たちに両脇を抱えられて引きずられていった。智司は刑事責任こそ免れたものの、黒崎家は保身するため、すべての責任を彼一人に押し付けた。黒崎グループは公式声明を発表した。【黒崎智司の個人的な不祥事は、当グループとは一切無関係であります。つきましては、彼のすべての役職を解任いたします】彼は黒崎家から完全に切り捨てられ、家名を汚す一族の恥として、海外へ島流しにされてしまったのだ。海外へ行く直前、彼は人を介して「最後にもう一度だけ顔が見たい」と伝言を寄越してきた。夏目は怒りで歯噛みしながら、叫んだ。「初さん、絶対に会っちゃダメです!あんなクズ、会う価値なんてありません!」私は少し考えた後、やはり会うことにした。旅館の玄関で、私が階段の上に立ち、彼がその下に立っている。智司は酷く痩せこけ、身につけたスーツさえもが、まるでハンガーに掛けられた布のようにすっかりくたびれていた。彼の目は赤く血走り、唇は小刻みに震えていた。私の顔を見た瞬間、彼はその場にドスンと膝をついた。「初、俺が悪かった。本当に申し訳ない、お母さんにも……」彼の声はしゃがれきって、ほとんど聞き取れないほどだった。「許してほしいなんて、とても言えない。ただ、謝りたかったんだ」私は彼を見つめた。この男を、私は七年間も愛し続けたのだ。彼はかつて、黒崎家の本邸の前で三日三晩ひざまずいてくれた。そして、母の命を盾にして、私を脅迫した。「土下座したいなら、勝手にすればいい……」私は踵を返し、中に入ってドアを閉めた。彼はその夜、ずっと外で土下座していた。秋の夜風は冷たく、薄いシャツ一枚しか纏っていない彼の唇は真っ青に染まり、全身を小刻みに震わせていた。夏目がこっそり窓から
三日後、ネット上はまるで蜂の巣をつついたような大騒ぎとなった。最初に火をつけたのは、あるメディアの記事だった。【うつ病を偽装し三年間の結婚詐欺、逆に主治医の捏造だと逆ギレ?!】その記事には、当時の心理検査の録音データ、専門医による診断書、そして心奈の元婚約者の直筆の証言が添付されていた。録音の中で、心奈の声は誰の耳にもはっきりと聞き取れた。「うつ病なんかじゃないわ。私はただ、彼に私のことを可哀想に思わせて、優しくしてほしいだけだから、病気のふりをしてるだけ」コメント欄の風向きは、一瞬にして完全に変わった。【えっ、マジかよ!詐欺師だったのはこいつの方じゃん!」【前に白石先生のこと叩きまくってた奴、今すぐ出てきて土下座しろよ!】【この女、悪意の塊すぎだろ?うつ病のフリして婚約者を騙した挙句、他人を陥れるなんて!】それから間もなく、第二弾の証拠がもたらされた。【盗撮事件の真相、被害者と名乗る女の完全なる自作自演!】この記事には、カメラの購入履歴、銀行の送金明細、そして設置時の監視カメラの動画までがすべて公開された。一連の証拠は、言い逃れができないほど完璧に揃っていた。【ってことは、隠しカメラを仕掛けたのも自分だったわけ?それで旅館を陥れたってわけ?】【どんだけ性根が腐ってんだよ】【警察呼べ!即逮捕だ!】そして第三弾の証拠は、長谷川先生が手を回して公開してくれたものだった。それはある通話の完全な録音データだ。スマホのスピーカーから、智司の氷のような声が流れてきた。「ドナーの心臓は手配してやる。だが、心奈への嫉妬からあんなデマを流したと謝罪文を出せ。さもなければ、俺の手でドナーの提供を正式にキャンセルさせる」ネット上は、完全に静まり返った。そして、凄まじい怒りの炎が一気に燃え上がった。【こいつ本当にクズだな!他人の母親の命を盾にして脅迫するとかありえない!」【白石先生のお母さん、こいつが時間稼ぎしたせいで死んだようなもんじゃん】【クズだ!この男とあの女も、正真正銘のクズだ!】その日のトレンド上位十位のうち、八つが彼らに関するものだった。【小林心奈 詐欺】【黒崎智司 録音】【白石初 無実】【小林心奈 うつ病偽装】私のスマホは丸一日、通知の振動が途絶える
智司は諦めなかった。彼は毎日やって来ては、決まってプレゼントを持ってきた。彼が業者を呼んで入り口の赤いペンキを綺麗に塗り直させ、ネット上に拡散された写真もすべて消させた。夏目は彼の甲斐甲斐しく立ち回る姿を見て、小声で私に尋ねた。 「初さん、彼、本当に反省してるんでしょうか?」私は答えなかった。過ちというものは、ただ謝れば済むような簡単なものではないのだ。その日の夕方、智司がまたやって来た。今度は何も手提げを持たず、代わりに小さな赤いボックスを手にしていた。彼は私の目の前で片膝をつき、そのボックスを開けた。中にはダイヤモンドの指輪が入っていた。「初、結婚しよう」彼の声は微かに震えていた。「前に予定していたよりも、もっと広くてずっと素晴らしい披露宴の会場を予約したんだ。これまでたくさん酷いことをしてきたのは分かってる。でもこれからの人生、必ずお前を大切にして、一生守り抜くから」私は彼を見つめた。これは、私が七年間、愛して来た男だ……「智司、あなた……忘れたの?」私は噛み含めるように言った。「私の母さんは、まだ死んだばかりなのよ」彼の顔色が一変した。「彼女はもう亡くなったんだ。今更そんなことを蒸し返して何になる?人は前を向いて生きるべきだろ」ドアの隙間から風が吹き込み、私の背筋を凍らせた。前を向いて生きろ、だと?あの時、ドナーの心臓を盾に取り、私にありもしない罪を認めさせようとしたのは彼だ。大勢の前で土下座を強要したのも、母の命がかかった私のSOSの電話を、無情にも叩き切ったのも彼なのだ。その彼が今、私に前を向いて生きろと言い放った。目の前でひざまずくこの男を見て、私は骨の髄からこみ上げるほどの強い吐き気を覚えた。「智司、もう帰って」私は彼に背を向けた。「二度とここへは来ないで。あなたの顔を見るだけで吐き気がする」「初!」私は振り返らなかった。彼はドアの外に長いこと立ち尽くしていたが、最後には諦めて立ち去った。夏目がうどんを運んできて、恐る恐る私の顔を覗き込んだ。「初さん……」「食べよう」私は席につき、箸を取った。食べているうちに、涙がポロポロとうどんの中に落ちた。智司のためじゃない。母のためだ。この旅館は