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第6話

Author: 楽恩
まるで氷の底に沈んでいくようだった。

血の気が引き、体の芯まで凍りつくようだった。

一瞬、自分の耳を疑った。

今まで、何度か「彼らの関係は何かがおかしい」と感じたことはあった。けれど、そのたびに、宏はきっぱりと否定してきた。

たとえ血の繋がりがなかったとしても、宏は江川グループの跡取り、アナは江川家のご令嬢、一応名目上の姉弟だった。

それに、お互い結婚もしている。

宏のような、生まれながらにして選ばれた男が、そんな愚かなことをするはずがない。

そう思っていたのに――

数メートル先、宏は、アナを壁際に追い詰め、目を赤くしながら鋭く冷たい声を投げつけた。

「俺のために離婚?君が最初に他の男を選んだんだろ。今さら、どの口がそんなことを言える?!」

「……っ」

アナは、何も言えなくなった。唇を噛み、涙が溢れるままに落ち、震える指先で、宏の服の裾をそっと握った。

「……私が悪かった。宏くん、もう一度だけ許して?お願い……たった一度だけ。私だって……当時はどうしようもなかったの……」

「俺は結婚してる」

「結婚してるから何? 離婚すればいいじゃない!」

アナは、悲しい顔で、ひどく執着した声で問い返した。彼の答えがNOだったら、彼女はその場で砕け散ってしまうような――そんな表情で。

私は、彼女がここまで露骨に言うとは思っていなかった。

まるで他人の家庭を壊そうとしている自覚など微塵もない。

宏は、怒りに満ちた笑みを浮かべた。

「君にとって結婚はそんなに軽いものなのか?俺にとっては違う!」

そう言い放ち、彼は振り返り、歩き出した。

だが、アナは、彼の服を掴んだまま、離そうとしない。

本当なら――宏の力なら、振り払うことは簡単なはず。

なのに。

私は、ただ黙ってこの光景を見つめた。彼が何をするのかを期待して。

彼が振りほどくことを期待した。

彼がはっきりと線を引くことを願った。

そうすれば、私たちの結婚には、まだ希望がある。

そして彼は確かにそうした。

「いい歳して、バカなことを言うな」それだけ言い残し、彼女の手を振り払い、背を向けた。

これで終わり。

私は、ようやく息をついた。

これ以上、彼らの会話を盗み聞きする必要はない。

だが、その瞬間。

「あなたは南を愛してるの?私の目を見て答えて、宏くん!」

アナはまるで飴をねだる子供のように、望みが叶うまで諦める気配もなく、再び彼の腕を掴んだ。

私は、足を止めた。心臓が、再び宙に浮くような感覚に襲われた。

「……関係ない」宏は、低い声で答えた。

「じゃあ、私のことは?もう愛してないの?」アナは、必死だった。

彼の答えを求めることに、躊躇いすらない。私は、この瞬間、彼女の勇気を少しだけ感心した。

だが後に知る。それは「勇気」ではなく、「確信」だったのだと。

アナには、「勝算」があった。

彼女が宏にとって特別な存在であるという、揺るぎない自信。

私が決して持てなかったもの。

宏の引き締まった背筋が、一瞬硬直した。彼は、冷たい表情のまま沈黙した。

アナは、それを許さないように、彼の手を掴み続けた。

まるで、「このシーン、ドラマで見たことある」と思わせるような、典型的な恋愛の構図だった。

彼が沈黙する一瞬一瞬が、胸を締めつけるように苦しくて――まるで呼吸の仕方さえ忘れてしまったかのようだった。

「若奥様、夜は冷えます。春に着ていたジャケットですが、よろしければお使いください」

その時、使用人が上着を抱えて出てきた。距離があったせいか、少し声を張って呼びかけた。

その瞬間、遠くから宏が、こちらを見た。

私は、一瞬戸惑った。まるで、他人の秘密を覗き見てしまったようで、気まずくなった。けれど、すぐにその気持ちを消し去る。

説明するべきなのは――私ではなく、彼のほうだ。

宏は、アナの手を鋭く振り払い、数歩で私の元へやってきた。声のトーンは先ほどの冷たさとはまるで別人のように変わり、穏やかでありながらもどこか気だるげだった。

「聞こえてた?」

「……うん」

私は、隠さなかった。

彼は、特に弁解することなく、使用人から上着を受け取ると、私の肩に優しく掛けた。そして、自然に私の腰を抱き、ゆっくりと屋敷の中へと歩き出した。「風が強い。中に入ろう」

まるで、今の出来事は何でもないことのように。

「宏くん」

背後では、アナの執拗な声が響いた。

「宏くん!!」

彼は、一度も振り返らなかった。

その夜、彼はどこか落ち着かない様子だった。スマホを何度もチェックしていた。

そして、ようやく9時。祖父が、いつものように寝る時間になる。

「もう家庭を持つ身なのだから、分別をわきまえろ!」

玄関まで私たちを見送ると、彼は冷たい視線で宏に釘を刺した。

「南ちゃんをしっかり大事にしろ。南ちゃんには実家がない。それをいいことに、お前が好き勝手していいわけじゃない!」

私は、不意に目頭が熱くなるのを感じた。

宏は、柔らかく微笑んだ。

「ええ、彼女を傷つけることはしませんし、誰にも傷つけさせません」

祖父は、私の頭を軽く撫でた。

「何かあったら、わしのところに来なさい。お前の味方は、ここにいる」

私は微笑み、頷いた。「ありがとうございます、お祖父様。また会いに来ますね」

帰り道――。

私は助手席に座り、まぶたが重くなるのを感じていた。

最近、妙に眠気がひどい。妊娠初期のせいだろうか。

けれど、今日はどうにも寝付けなかった。体は疲れているのに、頭だけが冴えわたっている。

本当は、家に帰ってから聞こうと思っていた。

でも、待てなかった。

喉の奥が詰まるような、じれったい感覚に耐えきれず、意を決して口を開いた。

「ねえ……あなたとアナって、結局どういう関係なの?」

ただの初恋?

それとも、心の奥にいる「高嶺の花」?

宏は、車の速度を少し落とした。そして、まるで何でもないことのように言う。

「アナとは……昔、もう少しで付き合いそうになったことがある」

胸の奥が、鈍く痛んだ。私は、唇を少し噛み、ようやく声を絞り出した。

「……あなたの大学時代?」

そう言いながら、記憶の欠片が頭の中に浮かぶ。

そうだ――

私は、彼の一つ下の学年だった。彼は、鹿児島大学の伝説的な存在だった。

江川グループの後継者であり、優れた能力を持ち、冷静で、完璧な男だ。どこからどう見ても、女の子にモテる要素しかない。

彼のリュックを適当に漁れば、女の子からのラブレターがゴロゴロ出てくるのだ。

私も、彼を好きだった。でも、告白する前に、彼には想い人がいるという噂を耳にした。

まさか、それがアナだったなんて。

「……知ってたのか?」

宏は、驚いたように一瞬こちらを見た。

私はそっと顔を傾けて彼を見つめ、胸の奥の思いを押し殺すように、苦しげに問いかけた。

「忘れたの?私も鹿児島大学だったこと」

彼の口調は、まるで過去のことなんてどうでもいいかのように、淡々としていた。

「悪いな。昔のことだから」

私は、彼のその言い方に、妙な虚しさを覚えた。

それは、時間が経ちすぎたせい? それとも――最初からどうでもよかっただけ?

何か言おうとした、その時、スマホのバイブ音が鳴った。

宏は、チラリとも見ずに、そのまま通話を切った。

しかし、すぐにまた鳴った。

一度切っても、二度、三度と執拗に。

まるで、彼が出るまで鳴らし続けるつもりかのように。

宏は、深く息を吐き、もう一度切った。眉間に薄い皺を刻みながら、少し苛立った様子で言った。

「……温子叔母さんと親父に甘やかされすぎたな」

私は、軽く笑いながら、彼のスマホを取り上げた。

そして、無言のまま画面を操作し――

ブロックし、連絡先を削除した。

これで、彼女からの着信はもう鳴らない。

私は、それを彼に返しながら、小さく微笑んだ。

「……これで静かになったわね」
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Comments (2)
goodnovel comment avatar
yas
「おばさん、うるさいんだけど!!」って南ちゃんが出れば良かったのに!
goodnovel comment avatar
かほる
アナは宏を手離す気は毛頭無さそう。 後先考えず、宏が婚姻してるにも 拘らず離婚するくらいだし、 相手の事情など考え無さそうだ。
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    「君に必要だって分かってたよ。礼はいらない」「……」清孝は海人が酒を受け取らなかったことに特に気にする様子もなく、顔を来依の方に向けて言った。「この件は来依さんに一任するよ。きちんと進めてくれれば、特に注文はない。ただ、いくつか注意点があるから、それは後で秘書から送らせる」来依は軽く腰を折って礼をした。「信頼いただき、ありがとうございます」清孝は他の招待客へ挨拶に行く予定があり、海人に向かって言った。「まず来依さんに何か食べさせてあげて。その後、上の階で麻雀でもしよう。来依さんの先輩も一緒に残って参加してくれ。これから付き合いのある人たちとも顔を合わせる機会だ。ちょうどいい」勇斗は感激で言葉も出なかったので、来依が代わりに礼を言った。清孝が去った後、来依は勇斗の背中を軽く叩いた。「先輩、ビビらないでよ! 私は無形文化財とか和風とか全然分かんないんだから、ちゃんと説明して、あんたの強みを伝えて」勇斗は頭を掻きながら答えた。「来依の言う通りだ。ちょっと緊張しちゃっててさ」そう言われると、来依も納得した。彼女自身、清孝の存在を知ったときには、かなり緊張していたのだ。だから、それ以上は何も言わずに笑って声をかけた。「何か食べよう。あっちで座ろう」「うん」勇斗は食べ物を取りに行った。来依が歩き出そうとした瞬間、腰をそっと抱き寄せられた。振り返ると、海人の冷たくもどこか拗ねたような目がそこにあった。「感謝、いるんじゃないの?」確かに、礼は礼として言うべきだった。助けてもらったことは事実。「ありがとうございます、菊池社長。じゃあ、今度ご飯ご馳走するわ」海人は一歩近づき、声を抑えてささやいた。二人にしか聞こえないように。「ベッドでの『ごちそう』なら、受け取るよ」「……」ちょうどそのとき、勇斗が料理を持って戻ってきた。二人が今にもキスしそうな距離だったのを見て、ようやく気づいた。「この前の食事、お前もいたのか!来依の彼氏だったのか!」海人は来依の手を取り、眩い輝きを放つダイヤの指輪を見せた。「婚約者だ」勇斗は「うわー!」と声を上げた。「おめでとう、来依!そんな大事なこと、先に言ってくれよ。ご祝儀の準備もしてない。まあいいや、結婚式には招待してくれよ。

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    「……」結局、来依はジャケットを羽織らなかった。彼女が宴会場に足を踏み入れた瞬間、周囲の視線を一身に集めたのは言うまでもなかった。一つには、彼女が石川では見かけない顔だったこと。もう一つは、今日の彼女の装いが、主催者の風格を奪うようなものではないにせよ、彼女自身にとても似合っていて、見る人すべての目を惹きつける鮮やかさを放っていたからだった。誰かが声をかけようと歩み寄ろうとした。だが、その腰を軽く抱く男の存在を見た瞬間、ピタリと足を止めた。「菊池家の若様の女か?」「間違いない。あの独占欲、尋常じゃないからな。それに彼の側には長年誰一人女の影がなかったし。あんな堂々とした態度、正妻じゃなきゃ説明つかない」「高杉芹奈じゃないの?今回、彼女を連れてきたって聞いたけど。菊池家と高杉家、縁談の話があるとか」「違うよ。高杉芹奈なら見たことある」「聞いてない?菊池様にはすごく愛してる女性がいるらしいけど、後ろ盾がなくてさ。名前は確か河……」「河崎来依だ」「そう、それ!」そう答えた人物が興奮気味に振り返ると、相手の顔を見て、慌ててお辞儀した。「ふ、藤屋社長……」藤屋清孝は軽くうなずくと、そのまま海人の方へ大股で向かった。彼に酒を一杯手渡す。「今回は一人でうちに来たんじゃないんだな。めでたいことだ」海人は自分の酒を来依に渡し、その背中を半身で覆うようにして紹介した。「藤屋清孝だ」来依はちょうど口元に酒を運んだところだったが、その名前を聞いて、思わず酒が逆流しそうになった。「藤屋清孝?あの藤屋清孝?」清孝の唇にはうっすらと笑みが浮かんでいたが、その瞳には冷たさが残ったままだった。整った顔立ちに、年月を経て自然と備わった威厳がにじみ出ていた。来依は感嘆の声を漏らしてから、ようやく気がついた。目の前に立っているのは、自分の力では一生関わることすらできないような人物なのだ。たとえ彼が海人の親友だったとしても、自分の今の態度はあまりにも無遠慮で、失礼だったかもしれない。急いで頭を下げた。「藤屋社長、失礼しました。さっきは少し無礼でした」清孝の視線にはどこか意味ありげな光が宿り、海人を一瞥してから、口を開いた。「弟分の嫁なんだから、そんなに堅くならなくていい。俺と海人は古い友人

  • 慌てて元旦那を高嶺の花に譲った後彼が狂った   第887話

    石川は大阪より少し暖かいとはいえ、年の瀬も近づき、また雪が降るかもしれなかった。どこが寒いのか?四郎は反論することもできず、おとなしくエアコンを入れた。設定温度は26度。来依は手で風をあおぎながら、わざとらしく言った。「この車、ダメね。なんかムシムシする」四郎も確かにそう思った。仕切り板すら付いていないのだ。海人が静かに笑った。「いいよ。お前の言うとおり、車を替えよう」「……」――来依はあるプライベートサロンに連れて行かれた。彼女は迷うことなく赤を選んだ。だが、海人は背中が大きく開いたデザインを見て、スタイリストに指示を出した。「ショールを足して。寒いから」スタイリストは少しためらった。「菊池さん、このドレスのポイントは背中の蝶モチーフのレースなんです。肩甲骨をあえて見せて、うっすらとウエストラインも……」海人の冷たい視線を浴びて、スタイリストはそれ以上言葉を続けられなかった。海人は石川の人間ではなかったが、石川のトップと繋がっている。このサロンは藤屋家の出資で運営されている。しかも、藤屋家からも海人とその奥様を丁重にもてなすよう指示が来ていた。とても粗末に扱える相手ではない。「ショールはいらないわ」来依は大きな姿見の前でくるりと一回転した。「すみません、アップスタイルでお願いします。この背中、しっかり見せたいの」海人の口元が、わずかに引き結ばれた。スタイリストはどちらを見ていいか分からず、動けなかった。来依が言った。「彼を見ないでください。着るのは私、決めるのも私ですよ」そう言って、回転式の椅子に腰を下ろした。「それと、メイクは少しレトロな感じにしてください。でも濃すぎないで。他人のパーティーですし、主役はあくまで他の人ですから」「かしこまりました!」スタイリストはすぐに準備に取りかかった。来依の要望どおりに仕上げた後、スタイリストの目が輝いた。「もしよければ、うちのモデルになってくれませんか?あるいはスタイリングのアドバイザーとして来ていただくとか……センスが抜群です!」来依は立ち上がってスカートの裾を整え、微笑んだ。「自分のことをよく分かってるだけですよ。アドバイザーなんて無理無理、そんな才能ありませんから」スタイ

  • 慌てて元旦那を高嶺の花に譲った後彼が狂った   第886話

    来依は彼に白い目を向けた。海人の目には、深い笑みがじわじわと浮かんでいた。「ここで楽しんでて。俺は少し用事を済ませてくる。夜は一緒に宴会へ行こう」来依はむしろ、彼がいない方が気が楽だったので、手をひらひら振って追い払った。海人は彼女の頭を軽くぽんぽんと叩き、歩き出した。傍らにいた若い女性が笑いながら言った。「彼氏さんと、すごく仲が良さそうですね」「……」来依は一瞬、弁解しようか迷ったが、まあもうこの場所に来ることもないかもしれないと思い直した。仮にまた来るとしても、その時に言えばいい。彼女は笑って言った。「刺繍、教えてもらえますか?」相手は快く頷いた。刺繍は集中力と時間を要する作業だった。来依は、その日一日ほとんどを刺繍に費やした。食事とトイレの時間以外は、ずっと座って縫っていた。ひとつの刺し方を習得し、小さな作品を一枚仕上げた。立ち上がって、固まった背中と首をほぐしていると、海人がゆっくりと彼女の前に現れた。「楽しかった?」来依は手に持っていた刺繍布を彼に放り投げた。「あんたへの誕生日プレゼントよ。ここに連れてきてくれたお礼」それだけ言って、さっさと更衣室へ向かった。海人はその手の中のハンカチを見つめた。そこには竹と竹の葉が刺繍されており、対角に彼の名前が縫われていた。「お兄さん」近くの女の子が笑いながら言った。「ハンカチって、告白の意味があるんですよ」海人はそれをしまいながら、にこりと微笑んだ。「これ、彼女が自分で刺したの?」女の子は大きく頷いた。「すごく真剣でしたよ。きっと本気で好きなんですね」海人の全身が、喜びに染まっていた。来依が着替えて戻ってきた時、遠くからでも彼が妙に浮かれているのが分かった。近づくと、彼の視線はあまりにも熱っぽく、彼女は鳥肌が立った。ふと視線をそらすと、さっきの女の子がニコニコしていた。だいたい察しがついた。彼の腕を引っ張って車に乗せ、乗車後に言い訳を始めた。「私は初心者だから、ハンカチが一番簡単だったの。ただの練習用よ。名前を縫うのって、一番最初に習う基本なの」海人は意味深に「へえ」と返事した。「……」来依は説明するのが無意味だと感じ、顔をそむけて車窓の外を見た。だが海人は身を寄せ、半ば彼女を包み込むよ

  • 慌てて元旦那を高嶺の花に譲った後彼が狂った   第885話

    まるで彼女の心の声が聞こえたかのように、海人は呟いた。「お前にだけ言ってるんだよ」「……」来依は彼を押し返した。「向かいに座って」「俺の顔を見ると食欲がなくなるって言ってたろ?なら隣に座る方が逆にいいんじゃないか?」隣に座られると、何かとちょっかい出してくる。それでこそ食べられなくなる。「いいから向かいに行って」海人は素直に立ち上がり、向かいの席に座った。そして金沢ガレーを彼女の前に置き、「熱いからゆっくり食べな。火傷しないように」そんな風にして始まった朝食は、酸っぱくて、甘くて、苦くて、辛い――まるで心情そのままだった。来依は海人と一緒にいたくなかったので、無形文化遺産と和風フェスの件で勇斗と話すつもりだった。だが海人は、彼女を強引に車に押し込んだ。逃げられない来依は、ふてくされたように背を向けたまま無言で座っていた。海人は特にちょっかいを出さず、隣でタブレットを開いて仕事の予定を確認していた。運転席の四郎と五郎が目を合わせる。五郎はカーブを曲がる時にスピードを落とさなかった。その瞬間、来依は海人の胸元に倒れ込んだ。「……」車が安定するとすぐに、来依は彼の腕から抜け出し、皮肉混じりに言った。「やっぱり主が主なら、従者も従者ね」五郎も四郎も、一気に背筋が冷えた。一郎のように、また『左遷』されるんじゃないかとヒヤヒヤした。だが彼らの若様は、ただ一言、 「その通りだ」「……」恋愛ボケかよ。しかも最上級の。あれだけ頭のキレる男が、なぜこんなに恋愛に弱いんだ――。来依はもう海人と会話する気も起きなかった。言えば言うほど、パンチが綿に吸い込まれるようで、全然スカッとしない。外の風景がどんどん後ろに流れていく。だんだん建物も人影も少なくなっていった。「もしかして……私を売り飛ばすつもり?」「そんなこと、できるわけないだろ」「……」ああ、来依……余計なこと言うから、また変な空気になるのよ。車が止まると、彼女は逃げるように飛び出した。気まずさからの逃走だった。海人はそんな彼女を見て、軽く笑った。車を降りて彼女の横に回り込み、自然に彼女の手を取った。来依はそのまま連れられて、ある屋敷の中へ入っていった。そこでは何人もの人が、伝統衣装を着て刺繍をし

  • 慌てて元旦那を高嶺の花に譲った後彼が狂った   第884話

    だが彼は、眉ひとつ動かさなかった。「もし俺を殴って気が済むなら、好きにしてくれ。ただ、死なない程度に頼むよ。後で誰かにお前がいじめられた時に、ちゃんと対応できるようにしないと」来依は鼻で笑った。「私をいじめてるのは、あんただけよ」「それは認める」海人はまっすぐに彼女を見つめた。「お前なしでは生きていけない」「……」来依は冷たく笑った。「へえ、だからって私をいじめていいわけ?」「ベッドの上のことを『いじめ』とは言わないだろ?」「……」うざすぎる。来依はもうこれ以上、こういう話をしたくなかった。「どいて。歯磨きしたい」海人は素直に手を離した。だが来依は怒りが収まらず、もう一発蹴りを入れた。それでも海人は上機嫌だった。彼女がメイクをして服を着替えた後、ふたりは一緒に食事に出かけた。海人が石川のことをあれこれ説明してくるにつれ、来依の怒りは再燃した。「石川にそんなに詳しいなんて、どうせ前もって調べてたんでしょ?昨日の『助けて』って演技、ぜんぶ嘘だったんじゃないの!」海人は彼女を抱き寄せた。「昨日、お前が助けてくれなかったら、敵でも友でも構わず、適当な女に頼んでただろうな。たとえクリーンだったとしても、やったらもう後戻りできない」「病院に行けって言ったでしょ!」来依は歯ぎしりした。「友達に送ってもらえば良かったじゃない!」「病院なんか行ったら、敵にバレる。そしたら命が狙われる」「じゃあ、死ねば?」来依は彼を突き飛ばし、怒って前を歩き出した。車に気づかず、ふらっとしたところを、後ろから強く腕を引かれた。そのまま海人の腕に守るように抱き寄せられた。来依は彼を押し返そうとしたが、その腕はびくともしなかった。顔を上げて罵ろうとした瞬間、彼の深い眼差しにぶつかった。「来依。お前が生きていてくれるなら、俺は絶対に死なない。なぜなら、お前を守らないといけないから。「でも、もしお前が……」数秒の沈黙のあと、彼は言った。「縁起でもないことは言わないよ。俺は仏様の前でちゃんと結婚を願ったんだ。だから仏様がきっと守ってくれる」「プロポーズ」という単語を聞いた来依は、彼の目の前で指輪をひらひらさせた。「この指輪、どうやって外すの?「私の恋愛運に影響が出るからね」海人は彼女の手を取っ

  • 慌てて元旦那を高嶺の花に譲った後彼が狂った   第883話

    でも、まだ電源が切られていた。腹は立ったが、来依も理解していた。海人はそこまで狂って誰彼かまわず手をかけるような男ではない。おそらく、今夜彼女が勇斗と連絡を取れないようにしただけだった。ならば、明日また連絡すればいい。だが、思ってもみなかった。目が覚めた時、勇斗から電話がかかってきたのは、彼の方だった。「大丈夫か?」ふたりはほぼ同時に声を発した。言い終わると、ふたりとも笑い声を漏らした。勇斗はまだ状況がつかめていない様子だった。「お前、俺に何があったか知ってる?昨日、会計済ませた直後に、黒服の大男が二人現れて、いきなり車に押し込まれた。で、ものすごく眠くなってさ。「今朝目が覚めたら、床で一晩寝てて、首は寝違えるし、ちょっと風邪引いたっぽい。ハックショーン!」来依は心の中で海人を罵った。器の小さい男め。ベッドに寝かせるくらい、何だっていうのよ。「友達が、ちょっと頭おかしいの。驚かせてごめん」勇斗は鼻をすする音を立てた。「いや、まぁそんなに驚いてもないけど。あれってお前の彼氏か?」「元カレ」来依は正直に答えた。「ちょっと待ってて。今から一緒に病院行って、それから夜は宴会に一緒に出席してほしいの」「宴会?」「うん、あんたにとってもプラスになる」「俺、もう風邪なんてどうでもいいや。しっかり準備するから、来なくて大丈夫。体調より、稼ぎが大事だし」「じゃあ薬はちゃんと飲んでよ。夜に体調崩されると困るから」「うん、分かってるよ。俺、そういうところでは抜かりないから。で、お前は本当に大丈夫?」来依は頭を押さえた。海人とのあれこれを一言では説明できなかった。「平気よ」「それなら良かった」電話を切った直後、カードキーの音が聞こえ、すらりとした長身の男が入ってきた。その目には、どこか冷たい気配が漂っていた。来依は鼻で笑った。「昨日は『ここは自分の縄張りじゃないから』って私に頼んでたくせに、今日はホテル内を自由に動き回って、他人の部屋にまで入ってくるんだ?」「他人の部屋には入らない」つまり、「お前の部屋にしか入らない」という意味だった。来依は無視して、寝直そうと布団に潜り込んだ。海人はベッドの脇に置かれた塗り薬を見つけたが、まだ封も開けられていなかった。「薬、塗ってな

  • 慌てて元旦那を高嶺の花に譲った後彼が狂った   第882話

    ピンポーン——ノックの音が響いた。海人が立ち上がり、ドアを開けた。四郎が鶏肉入りラーメンを手渡してきた。部屋の空気が重いのを感じた四郎は、少し勇気を出して尋ねた。「今夜あまり食べてらっしゃらないようですが、ホテルに何か追加で頼みましょうか?」海人は頷き、いくつか料理の名前を口にした。四郎は了承し、ホテルへ指示を伝えに行った。ちょうどその時、五郎が戻ってきたので、ついでに世間話を始めた。「河崎さんが何食べたいのか分からないってのに、若様は自分の好物すら忘れてるくせに、彼女の好物だけは覚えてるんだぜ」五郎は冷麺を食べながら言った。「若様、酢豚が好きだったんじゃなかった?」前に若様の部屋で来依が弁当を届けに来た時、そう言っていたのを思い出したらしい。四郎は呆れたように白い目を向けた。「お前は本当に単細胞だな。それは河崎さんの好物だ。今の若様の『好きなもの』は、全部河崎さんの“好きなもの”に変わってるんだよ」五郎「あ、そう」四郎「……」 余計なことを言ったと後悔した。――室内――海人は鶏肉ラーメンをテーブルに置き、来依に「先に食べな」と声をかけた。来依は夕飯をしっかり食べていたが、いろいろ消耗して、この時間にはもうお腹が空いていた。彼女はテーブルの前まで来て、床に座り込んだ。海人はすでに包装を外し、箸を渡した。来依はそれを受け取りながら、複雑な表情を見せた。少しラーメンをかき混ぜ、食べようとした時、ふと動きを止めた。「これはこの辺りの名物だ。もし口に合わなかったら、他のを買ってくる。それに、もうすぐホテルからお前の好きな料理も届く。とりあえず、これを先に食べて」来依は自分でも今の気持ちがよく分からなかった。ただ、首を横に振った。「違うの……」少し間を置いて、尋ねた。「あんたも食べる?」海人の目元の陰りが薄れ、わずかに笑みを見せた。「お前が足りないかもって思って」「……」来依は黙って麺を食べ始めた。しばらくして、彼女の好きな料理が届いた。「食べきれないから、あんたも食べて。無駄になるの嫌だし」海人は彼女の隣に座った。同じく床に座り、形式ばらずに食べ始めた。少し遅れて出て行った四郎は、その様子を見て、呆れたように頭を振った。一方、五郎はホテルで餃子を頼

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