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第909話

Author: 楽恩
会議室は一気に静まり返り、広々と感じられるようになった。

勇斗はやや不安げに来依に尋ねた。

「来依……俺、続けて話していいのか?」

来依はうなずいた。

「もちろん、先輩。続けて」

約三十分後、勇斗は残りのプレゼン内容を話し終えた。

来依は拍手しながら言った。

「素晴らしい、先輩。そのまま計画通りに進めましょう」

その言葉が終わらぬうちに、彼女の指先が強くつままれた。

来依は後ろを振り返り、目をぱちくりさせながら海人にアイコンタクトを送った。

「なに?先輩に嫉妬?」

海人は微笑んだ。

「してる。めちゃくちゃしてる」

「じゃあ、ちょうどみんな揃ってるし、先輩に食事をご馳走しよう。私にいろいろ気を配ってくれてるから、感謝の気持ちも込めて」

もともと来依はご馳走するつもりだった。今こそ、ちょうどいいタイミングだった。

一行は石川で最も格式高い料理店へと向かった。

それは以前、来依が海人と芹奈にばったり会ったあの店ではなく、プライベートシェフがいる別の場所だった。

「この店、予約するのは本当に大変なんだよ。金があってもダメ。店主とコネがなきゃ」

勇斗が来依にこっそり言った。

「お前の婚約者、やっぱりすごいね」

実際のところは、清孝のおかげだった。

だが海人は何も言わず、そのことにも触れなかった。重要ではないのだろう。

用意された個室には、清孝が派遣したプロジェクトの担当者たちも同席していた。

ちょうど席もぴったりで、全員が落ち着いて座ることができた。

メニューを選んでいるとき、南が鷹に訊ねた。

「今日、やけに静かじゃない?」

鷹は肩の力を抜いた笑みを浮かべて答えた。

「何を話して欲しいんだ?」

南は尋ねた後で気づいた。

この場で鷹があまり話さないのも当然だった。

彼はただの商人で、ここは政治や業務の場でもあった。

「この鶏の料理、美味しそう。頼んでいい?」

鷹の表情が柔らかくほころぶ。

「ああ、君が決めていいよ」

南は来依に話しかけ、来依は勇斗にこの店のおすすめを尋ねた。

「せっかく地元に来たんだから、その土地の料理を食べなきゃ。どこにでもあるようなメニューはいらない」

勇斗は反論した。

「それが違うんだ。同じ料理でも、ここで食べるのと大阪で食べるのとでは、全然違う。食べてみる?」

来依は半信半疑だっ
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