立春を迎えたばかりの空気はまだひんやりしていて、週末の今日は小雨がぱらついていた。午前中、大半の人は布団の中でスマホをいじっていた。――#鳥取炭鉱事故このハッシュタグが、まさにその時、トレンドのトップに踊り出た。世論操作に長けた青城に倣い、海人も同じ手口を使った。前者は検索トレンドから消そうと動き、後者は金を投じてトップの座をキープした。河崎清志のあの動画は、逆にほとんど注目されなかった。皆が炭鉱事故関連のトピックに殺到し、話題の熱量は瞬く間に10万を突破した。しかも今なお、伸び続けていた。青城は焦りを覚え、村長に電話をかけた。村長は、遺体が埋められた場所には誰も近づいていないと言った。だが、彼の張り詰めた神経はそれでも緩まなかった。信頼できる何人かにも電話をかけた。どの人間も、海人の関係者が村に現れた形跡はないと答えた。「いくら海人でも、死人に口を利かせることはできんだろう?」青城の顔色を伺いながら、青城の父が恐る恐る問いかけた。自分が過去に多くの過ちを犯してきたことは、彼自身もわかっていた。今は、青城の足を引っ張るわけにはいかない。青城は疲れ切った目を押さえながら、問い返した。「でも、もし海人にそれができるとしたら?」青城の父はさすがにそれはないだろうと思ったが、反論はしなかった。「お前なら、なんとかできるよな?」だが今の青城には、それをはっきりと断言する自信がなかった。相手が別の人間なら、まだ可能性はあったかもしれない。けれど――海人だけは、違った。「当時、生き残った者はいないって、本当に確かなんだな?家族全員死んだって?」「確かだ。赤ん坊まで、誰一人残ってない」青城は、眩しいほどに輝くトレンド一位の文字を睨みつけた。もし海人が、ただ世論を操作し、炭鉱事故を公に晒し出しただけなら――そしてその世論の力で、政府に調査を促しているだけなら――それなら、まだ対応のしようはある。だがその裏に、さらなる罠が潜んでいるとしたら。……来依たち三人も、トレンドを目にしていた。紀香が言った。「もし道木家が本当に炭鉱事故のことを隠してたんなら、もう終わりね」来依と南は、肯定も否定もしなかった。これだけ多くの命が失われたのだ。事実が明ら
「生きている者からはもう何も聞き出せない。となると、死者から手をつけるしかないですね。検死の結果が異常死と判定されれば、正式な捜査に入れます。道木青城とて、すべてを隠し通せるわけじゃないですよ」海人は静かに返事をした。「お前がやれ。人手が必要なら、自分で用意しろ」「任務、必ず遂行します」そのやり取りを隣で聞いていた清孝が口を開いた。「道木家は冷酷非道だが、中でも青城はずば抜けてる。権力者として、手段も容赦ない。ただ、彼の父親がどうしようもない男でね。これまでに散々尻拭いをさせられてきた。鉱山事故の時も、青城は多忙だった。だから今回みたいに焦って現地に飛ぶってことは——何か処理しきれてないものがあるってことだ」海人はただ「ん」と短く答え、ソファに腰を下ろし、スマホを手にタイピングを始めた。清孝はそれを仕事の処理だと思っていたが、水を汲みに立ったとき、ちらっと画面を覗いて驚いた。——来依とのチャットだった。海人:【今何してる?】来依は一枚の写真を送ってきた:【テレビ観てる】海人が開いて見た途端、唇の端がわずかに上がった。【ご先祖様に倣って、不屈の精神を学んでるのかな?】来依:【紀香が言うには、今は危機的状況だから娯楽禁止で、戦争映画を観るべきだって。あなたがまだ何も処理しないから、彼女ストレスでキノコ生えそう】清孝が訊いた。「紀香はどうしてる?」彼は海人の隣のソファの肘掛けに腰を下ろしながら言った。「お前と嫁さんは芝居なんだから、紀香なんて出てこなくていい。出してこいよ」海人は来依に返信した。【この後どんな展開になっても、気にするな。もしきつかったら、南とたくさん話して。それでもダメなら、俺に電話してくれ】そして清孝に返答した。「来依は今、失恋中なんだよ。今紀香を彼女のそばから離したら、疑い深い青城にすぐ気づかれる。それに——紀香が来依の家を出たって、お前のところには絶対来ない」「……」清孝は海人に文句を言いたかったが、言葉を飲み込んで代わりに訊いた。「お前も昔、妻を追う修羅場やってたって聞いたけどさ、コツとかあれば教えてくれよ?」海人は容赦なかった。「俺は結婚してから三年間、相手を無視したことなんてない」「……」……その頃、青城はあの一家
二郎が西園寺家を訪れる前に、海人からあらかじめ指示を受けていた。西園寺家がこのような反応を示すことは、海人にとっては想定内だった。そのため、二郎はただ伝言だけを残し、余計な言葉は一切なく、すぐに立ち上がってその場を後にした。だが、芹奈び父と母は彼を追いかけてきた。もちろん、後悔して引き止めるためではなく、牽制するためだった。「本来なら、我々は協力する機会があったんです。しかもそれはまさに天作の縁。うちの家系には一切の汚点がありません。海人様の将来にも何の影響も及ぼさないはずでした。でも残念ですな、海人様はあんな女を選んでしまった。それだけではなく、我が娘を傷つけた。今さら我々に協力を持ちかけるなんて、遅すぎるんですよ」二郎は無表情のまま車に乗り込んだ。愚か者と話すこと自体、知性の無駄使いでしかない。……家で何もすることがなかった来依は、気分転換にトランプでもしようと提案した。だが、紀香は今の状況を気にしており、こんな緊迫した時に娯楽なんてできないと反対した。結果、三人はただ無言で見つめ合うだけの時間が続いた。雰囲気を和らげようと南が言った。「じゃあ、私と鷹の話でもする?」だが紀香は首を振った。「今は素敵な恋バナを聞くタイミングじゃない」来依と南は苦笑しながら顔を見合わせた。「可愛い紀香ちゃん、トランプじゃなくてもいいから、何かしようよ。このまま黙って座ってるのはつらいよ」紀香はスマホを睨みながら呟いた。「なんで恩人はまだネットのことを処理してないの……」来依は時計を見ながら言った。「まだ時間が早いわ。最低でも夜中まで待たないと」——観客が一番多い時間。紀香は頬杖をついて、不満げに唸った。「でも、みんな今はあなたを叩いてるんだよ!」来依は肩をすくめて、平然と答えた。「私の過去と比べれば、大したことない」紀香は突然立ち上がり、来依をぎゅっと抱きしめた。「来依さん、これからは私が守る!」来依は笑いながら言った。「はいはい、まずは自分をちゃんと守ってからね」「トランプはやめて、代わりにテレビでも観よっか」紀香はすぐにテレビをつけ、戦争映画を選んだ。「今は戦いの時よ!燃える展開じゃないと!」来依と南「……」……その頃、青城は村
来依は紀香に説明した。「少し様子を見てから釈明した方が、説得力があるの」紀香はぱっちりした瞳を丸く見開いて聞いた。「えっ、まだ逆転できる動画あるの?」来依が持っていた証拠類は、すべて海人に渡してあった。彼が昨日公開した映像は、ほぼ全ての証拠だった。その後どう処理するのかは、彼女も知らなかった。「私は海人を信じてる。彼は、私を傷つけたりなんてしない」紀香はゲップをひとつ。「ご飯なんていらなかったわ。あなたたちのラブラブぶりでお腹いっぱい」来依と南は顔を見合わせ、笑い合った。……青城が投稿した動画は、夜になっても熱が冷めることはなかった。清孝が海人の様子を気にしてリビングに入ってきたとき、彼は窓際に立ち、煙草を一本また一本と吸っていた。清孝は尋ねた。「何か手伝おうか?」返ってきた答えは——「必要ない」清孝には理解が難しかった。今のネット上の動画は、来依にとって非常に不利な内容だった。親が子を叱る、殴る——法的に明確な判断基準があるわけではない。昔から、親のしつけは当然のこととされてきた。たとえ親が間違っていたとしても、子供は親を扶養しなければならない。法律はそう定めている。現在、河崎清志はネット上で涙ながらに訴えていた。来依に学費を出すために金を稼ぐ道を探しただけで、ギャンブルに走ったのは仕方なかったと。酒を飲むのも生活が辛かったからで、暴力は酔っていたせいで意図的なものではないと。来依が当時、進学を望んでいなかったため、ついカッとなって手が出たと語っていた。極めつけは——シングルファザーとしての苦労という自己美化のストーリーだった。それによって、来依が提供した暴力の映像証拠も、少し信憑性を失いつつあった。世論の風向きが部分的に反転し始め、一部のネットユーザーは河崎清志を擁護するようになっていた。「DNA鑑定、今日中には出ないのか?」「出た」海人は吸い終えた煙草をもみ消し、しゃがれた声で返答した。清孝は、彼の様子からただならぬ空気を察知し、尋ねた。「実の親だったか?」しばしの沈黙の後——男は冷たく二文字を吐いた。「違う」「……」清孝は、海人と長年付き合ってきた。彼が本当の恋人を見つけるなんて、ありえないと思ってい
南が口を開こうとしたそのとき、彼がふと、意味深な一言を口にした。「外は危険がいっぱいだ。俺と一緒に帰った方が、安全だぞ」「……」また調子のいいこと言ってる、と彼女は呆れ顔で彼を睨んだ。鷹は彼女の頭を軽く押さえながら言った。「さっきのは本気の話だ。追い詰められた奴が何をするか分からない。不確定な要素が多すぎる。しばらくの間だけ、我慢して家で大人しくしてろ」南はリビングの方へ視線をやり、訊ねた。「海人の方は?」鷹はすぐに察して答えた。「順調だ」南は小さく頷いた。「改めてありがとう。じゃあ、あなたは仕事に戻って。私達はご飯食べに行くから」鷹は眉を上げ、唇の端に悪戯っぽい笑みを浮かべた。「言葉だけのお礼か?俺たち、しばらく……してないよな?」南はすぐさま彼の口を手で塞ぎ、少し押し出すようにしてドアの方へ向かわせた。そしてドアを閉めようとした。だが鷹は足でドアを押さえ、素早く彼女の唇にキスを一つ落とした。「お礼、受け取った」「……」南がまだ反応する前に、彼はさっとドアを閉めた。「うわああ——」振り向くと、屏風の後ろで二つの小さな頭が重なり合って、からかうような目で彼女を見ていた。彼女は二人の額をぺちぺちと軽く叩き、食事を促した。紀香は箸を咥えながら、羨ましそうにため息をついた。「南さん、旦那さんとほんとに仲良しだね」南は彼女に料理を取り分けながら言った。「あなたにも、いつかきっと運命の人が現れるわ」紀香は大きなため息をついた。「私、離婚すらできてないのに、運命の人を探しなんて……」彼女と清孝の間に何があったか、来依と南も詳しくは知らない。恋愛なんて、当人同士の問題。彼女たちが四六時中見ていたわけでもなく、口を出す立場にはなかった。だから、無責任な助言はできない。「紀香はこんなに可愛くて優しいんだもの。きっと神様があんたに望む幸せを与えてくれるよ」来依も彼女に料理を取り分けながら言った。「私を信じて」紀香は酢豚をかじりながら、力ない声で返事をした。来依と南は視線を交わし、南が口を開いた。「何があっても、自分を責めすぎちゃだめ。まずは一日一日を笑って過ごすこと。ほかのことは、それから考えればいい」紀香は口の中の肉を飲み込むと、突然
同時に、海人の元に一通の報告が届いた。【若様、青城が鳥取へ向かいました】彼は唇をわずかに持ち上げた。【証拠を少しずつ公開しろ】四郎:【了解】ネットでは毎日、多くの出来事が起こっていた。芸能人のゴシップは、いつだって検索ランキング上位の常連。来依のような「恩知らず」扱いのニュースも、通常なら一日で沈静化するはずだった。だが、青城が金を使って操作していたため、話題はずっとトップ10に居座っていた。だからこそ、証拠を出したタイミングで、野次馬たちはまだそこにいた。「まさかの展開来たぞ皆!」「なにこれ!?教育どころか、完全にDVじゃん!」「女の子が殺されかけてるやん。俺だってあんな親、絶対に養いたくないわ!」……まず公開されたのは、河崎清志による暴力に関する一部の証拠だけだった。その他の情報は、ネットの熱が続くタイミングを見計らってから出す予定だった。「寝ないで、窓辺に座ってなにしてるんだ?」酒で喉が渇いた清孝が水を飲もうと起きてきて、海人の姿に驚いた。彼は部屋の影に佇み、その周囲には冷気がまとわりついており、リビングの空調すら無力だった。まるで空気の中に氷の結晶が漂っているようだった。清孝は水の入ったグラスを手に持ちながら、近づいて尋ねた。「別れ話が原因で眠れないのか?」海人は無言でスマホを差し出した。清孝が画面を覗き込むと、来依が暴力を受けていた映像が流れた。「……クソッ」彼は思わず罵りの言葉を吐いた。「これ、実の父親かよ?」自分たちの家では確かに厳しいし、仏間に跪かされたり家の掟に従ったりもするが——河崎清志のようなやり方はなかった。あれは殺すつもりでやっている。海人の声が響いた。一言一言が氷のように冷たかった。「青城を警戒させないために、DNA鑑定は今も継続中だ。手を加えられないように、何度も確認してる」清孝は、海人がこの場所に佇んでいる理由をようやく理解した。彼は動画を止め、海人の肩を軽く叩いた。「もう全部終わった。お前がいれば、あいつを二度と誰にも傷つけさせない」海人は何も答えなかった。清孝は水をひと口飲み、さらに言葉を続けた。「俺の直感だが、あの男は実の親父じゃねぇ」……来依たち三人は、ひどい二日酔いで、昼近く