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第3話

Author: 大江
電話を切り、家に帰ると、そこにはがらんどうの空間だけが広がっていた。

この家は海斗と一緒に内装を選んだものだ。

あの時、彼は「一生この温かい家で暮らそう」と言った。

今、海斗と一緒に選んだ茶器も、飾り物も、彼に関わる全てのものが失われていた。

私が過去を思い出さないよう、ベランダで一緒に育てた花まで土ごと入れ替えられている。

空っぽの家を見て、私は自嘲的に唇を歪ませた。

海斗、ここまで周到に準備して、私が苦しむのが心配なのか?

それとも、私が全てを思い出して、あなたと夏美の結婚式を台無しにするのが怖いのか?

もし解毒剤がなく、私が永遠に記憶を取り戻せないと知ったら。後悔するだろうか?

私は結婚指輪を外し、手紙を書いた。

最後に指輪を封筒に入れ、植木鉢の隙間に隠した。

その時、携帯が鳴った。

親友の春野良子(はるの よしこ)が躊躇いながら告げる。

「葉子。海斗が浮気してるみたい。病院の前で、女と抱き合ってるのを見た」

「うん、別に。どうでもいい」

良子は私の反応に驚いた。

「葉子……大丈夫?」

彼女の心配そうな声に、私はふっと笑った。

「何も問題ないよ。もう海斗とは離婚したから」

「離婚!?」

事情を説明すると、薬を飲んだ話を聞いた良子は怒鳴った。

「クソカップル!あの女と結婚するためなら何でもするのね!

あなたは研究院の機会を捨ててまで彼を支えたのに!彼の成功の半分はあなたのおかげよ!」

私の目にようやく痛みが浮かび、顔が青ざめた。

5年前、海斗が最も落ちぶれていた時、私は迷わず彼に嫁いだ。

全ての人脈を駆使し、彼の会社を再建させた。

あの頃の彼は毎晩私を抱きしめ、「永遠の恋人だ」と囁いた。

だが次第に全てが変わっていった。

彼の心にはまた別の人が宿り、私の献身は忘れ去られ、夏美への憐れみばかりを許せと要求された。

一人を愛し続けるのは、そんなに難しいことか?

私にはできたのに――

良子が電話で罵倒し尽くした後、結論を出した。

「離婚して記憶喪失薬まで飲ませた海斗は、きっと後悔するわ!

解毒剤がないこと知らないんだから、痛めつけてやりなさい!あなたはきっぱり忘れるのよ」

私の視線は植木鉢の隙間に向かった――そこに手紙を隠した。

海斗との長年の生活で、私は彼の習慣を熟知している。

彼は悩むとベランダで酒を飲む。

もし私が去った日に彼が後悔すれば、きっとこの手紙を見つけるだろう。

夜更け、海斗が家に入り、部屋でがさごそと音を立てていた。

「何してるの?」

海斗は手を止め、パジャマ姿の私がドアに立っているのを見ていた……

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