Masuk奈緒は充を冷ややかに見据えた。その一言ひとことが、鋭い刃のように充の心臓を容赦なく抉る。「この5年間、私があなたにどう接してきたか、本当に分からない?なのに、自分に都合のいい話ばかり信じて、私の言葉は一度もちゃんと聞かずに、何も見ようとしなかったのは、あなた自身でしょ?それで勝手に疑って、勝手に敵みたいにして……そこまでこの子を自分の子だと思いたくないなら、ちょうどいいわ。今日、あなたたちは家族ぐるみで黎の百日祝いを台無しにしたんだもの。望みどおりにしてあげるよ」奈緒はくるりと振り返り、呆然と立ち尽くしている記者たちへ目を向けた。「報道関係の皆さん、青木家がここまで公に言う以上、私もここではっきりさせておきます。黎は充の子供ではありません。私が産んだこの子は、私が育てて、私が守っていく娘です。青木家の力なんて必要ありませんし、口出しされる筋合いもありません。今日をもって、娘と青木家は一切関係がなくなります。この子の名前は酒井黎、私の娘です。青木充、そして青木家とは、一切関係ありません。それから……」奈緒はふっと笑うと、青ざめている充と満足げに笑う夢香に視線を向けた。わざわざ自分たちから世間に『夫は妻に裏切られた』と公表したいというなら、どうぞご自由に。その汚名をそこまで欲しがるなら、望み通りにしてあげる。ただし、今日ここで行われた発言や報道については、必要があれば法的措置を取らせてもらうから」それだけ言うと、奈緒は充の絶望した顔にはもう目も向けずに、記者たちへ向かって、深く一礼をする。「皆さま、本日の百日祝いはこれで終了とさせていただきます。これから娘を連れて帰りますので、どうかお引き取りください」そう告げると、奈緒はそのまま控室へ向かった。蛍は立ち去り際、充へ拳を見せつける。「本当、最低な男!今日やったこと、すぐに後悔することになるんだからね!」そう吐き捨てると、奈緒のあとを追った。後に続いた仁哉は、充の横を通り過ぎる時にふと足を止めた。「充。今日の君には、本当に失望したよ」充はその場から動けなかった。奈緒の背中が遠ざかっていくのを、ただ呆然と見つめている。奈緒に、黎は自分の子ではないと認めさせたのだから、勝ったはずだった。だがなぜ、胸の中には、虚しさしかないのだろう?何か、とても大切
奈緒はその場に立ったまま、夢香の耳を疑うような言葉を黙って聞いていた。張り詰めていた肩が、逆に少しずつ力を失っていく。しかし、その視線だけは、ずっと充に向けられていた。怒りも、憎しみもある。けれど今、奈緒の胸の奥に最も強く湧き上がっているのは――心の底からの嫌悪だった。そこまで自分に汚名を着せたいというのなら……いいだろう、思い知らせてやる。「自業自得」というものがどういうものなのかということを。険しい顔で奈緒を見つめる充の声が、わずかに震えた。「……何も言わないのか?」奈緒のあまりの落ち着きぶりに、充は戸惑っていた。大勢のメディアの前で夢香が暴露すれば、奈緒は狼狽し、動転し、跪いて必死に否定するものだと、充は思っていた。だが、奈緒の目には後ろめたさなど微塵もなく、それどころか、まるで、これから何が起こるか知っている人間が、愚かな芝居を眺めているかのように、どこか冷めた目でこちらを見ている。その視線が、充の神経を逆撫でした。沈黙を肯定と受け取った充は、今にも奈緒を殺さんばかりの目つきで睨みつける。だが次の瞬間、怒りが限界を超えたように笑った。「そうか……まさか、否定すらしないとはな」奈緒は小さく笑みをこぼすと、耳元に落ちた髪を指先で整えながら、何でもないことのように言う。「だって、否定することなんてないもの。夢香さんの言ったことは……事実だから」ボンッ!充の頭の中で、何かが爆発した。充は表情を凍り付かせたまま、雷に打たれたように立ち尽くした。信じられないものを見るように、奈緒を凝視する。「何を……言っているんだ?」奈緒は真正面からその目を受け止めた。口元には微かな笑みが残っていたが、瞳はひどく冷えている。「だから、夢香さんの言った通り、黎はあなたの子じゃないの」会場全体が、息を止めたように静まり返った。事態を飲み込めない蛍は、奈緒が正気を失ったのだと思い、慌てて彼女の袖を引いた。「奈緒……」だが奈緒は小さく首を振り、大丈夫だと目で伝える。奈緒の真意を理解すると、蛍は口を閉じた。一方、充の頭の中は真っ白だった。耳鳴りだけが、やけに大きく響いている。奈緒が必死に否定する姿なら、何度も想像したが、まさかこんなにもあっさり認めるとは思っていなかった。「もう一度
悲鳴を上げた美紀が、慌てて駆け寄り、起こそうと手を差し出したが、充はそれを乱暴に振り払った。充はそのまま奈緒を指さす。それは低く、押し殺した声だった。「言えよ。黎は……お前と仁哉の子なんだろ?」充は、とうとう自分で口にしてしまった。何度も頭の中を巡っていた疑念を、充自身の口で問いただしたのだ。奈緒は、自分の耳を疑った。胸の奥に、焼けた鉄でも押し込まれたような痛みが走り、息をするだけで苦しい。喉が詰まり、何度も唾を飲み込んだが、それでも言葉が出てこない。ただ、苦しかった。悔しくて、腹立たしい。奈緒はそのまま充に向かっていき、会場中に響くほどの勢いで、充の頬に平手打ちを叩き込んだ。奈緒は充を射抜くような鋭い眼差しで睨みつける。充の口元から、わずかに血が滲んだ。だが、その一発で少しだけ頭が冷えたのか、充は奈緒を見つめたまま、掠れた声を絞り出した。「じゃあ、俺が間違ってるっていうのか?」その言葉が終わるより早く、夢香が飛び出してきた。大勢の前で弟を平手打ちされたことに、完全に頭に血が上ったのだ。手を振り上げ、そのまま奈緒の頬へ叩きつけようとする。しかし、その手が触れるより先に、奈緒は彼女の手首を力強く掴んだ。二人の視線がぶつかると、夢香の目には隠しようもない怒りが燃えていた。「何が間違ってるのよ?証拠だってあるんだから!充、あんたは完全に裏切られてたのよ!今日は百日祝いなんでしょ?いいわ、あんたたち酒井家が目立ちたいみたいだから、望み通りにしてあげる。記者の皆さん、カメラを回して!今からとんでもない衝撃の事実を発表しますから!」夢香は奈緒の手を突き放すと、連れてきたマスコミの方を向いた。夢香が連れてきたボディーガードたちは、すぐさま彼女の周囲を囲み、安全を確保する。夢香は一度大きく息を吸った。そして次に顔を上げたときには、怒りと悲しみを巧妙に織り交ぜた表情を作っていた。ポケットから一枚の書類を取り出し、ゆっくりと開くと、記者たちの前へ掲げた。「奈緒は私の弟である青木充の妻です。二人は、5年間夫婦として暮らしてきて、弟は彼女をとても大切にしてきました。ところが彼女は、結婚している間に別の男と関係を持ち、その男との子供まで産んでいたんです!これは、私が二人の検体を直接採取し、
奈緒も顔を上げた。そこには夢香がいた。険しい表情のまま堂々と会場へ乗り込んできて、その後ろには大勢の記者と数人のボディーガードが続いている。カメラやマイクが、瞬く間に会場の中へ向けられた。夢香が先ほど口にしたあまりにも悪意のある言葉に、奈緒の胸が大きく揺れる。だが奈緒は、夢香を見ようとはせずに、ゆっくりと視線を充へ移し、その顔を真っすぐ見つめ、ぞっとするほど冷たい声で話しかけた。「充、たった今、夢香さんが言ったこと……聞こえた?」充は奈緒の視線を受け止め、眉間に深い皺を刻んだ。その目を見れば分かる。奈緒は今、心の底から傷ついているのだ。母親にとって、自分が産んだ子供を「夫の子ではない」と疑われることほど、尊厳を踏みにじられる屈辱はない。だからこそ、充もここまで踏み込むことには迷いがあった。しかし、美紀のお披露目パーティーをひと通り終えたあと、充は会場の隅から、栗原家の親族たちが次々と帰っていく姿を見ていた。それに、並んで入口に立ち、栗原家の年長者たちや、名だたる招待客を見送っていた奈緒と仁哉。そして何より――仁哉が黎を抱いて、奈緒と笑いながら言葉を交わし、そのそばでは蘭と、仁哉の両親が、まるで本当の家族のように楽しそうに黎をあやしていたのだ。その光景を見た瞬間、充の中で一晩中くすぶり続けていたものが、ついに抑えきれなくなった。もう2回目のDNA鑑定などする必要はない。答えは、目の前にあるではないか。最近の奈緒の徹底した拒絶、離婚への執着、自分への冷たい態度……そのすべてに、ようやく説明がついたような気がした。これは、あまりにも明らかな裏切り行為だ。奈緒と仁哉はずっと前から関係を持っていて、黎だって二人の子どもに決まっている。離婚も結局は、二人が一緒になるために、それぞれ自分と美紀を切り捨てようとしているだけだったのだ。充は奈緒をじっと見つめた。その眼差しには、裏切られた男の怒りと嫌悪、そして深い痛みが入り混じっていた。「俺の姉さんが言ったこと……事実なんだろ?奈緒、自分で答えてくれ」激昂した充は、奈緒の手首を強くつかみ、低い声で怒鳴りつけた。「答えろ!」会場の空気が凍りついた。ちょうどそのとき、親族を車まで見送って戻ってきた仁哉が、その光景を目にした。一切ためらわず駆け寄り、
そう言って奈緒は、ベビーベッドですやすや眠る娘に目を向けた。その眼差しは、母親らしい誇らしさと愛情に満ちている。「うちのお姫様、今夜だけでプレゼントが山みたいになってるの。まだ半分も開けられてないくらい。青木家に可愛がってもらえなくたって、別にいい。黎はもう、十分すぎるくらいたくさんの人から愛されてるもの」蘭は迷いなく頷いた。「青木家の人間なんて、誰一人として黎ちゃんの家族を名乗る資格はない。あんな愛情、こっちから願い下げ。奈緒が正式に離婚したら、黎ちゃんも青木家とは完全に関係が無くなるんだから、これからは、お互い一切関わらなければいいのよ!」奈緒が頷き、何か言おうとしたそのとき、外から騒がしい声が聞こえてきた。奈緒と蘭が控室のドアを開けると、そこには顔を真っ赤にして男女二人を怒鳴りつけている蛍の姿があった。奈緒が目を凝らすと、そこにいたのは充で、その隣には――美紀が寄り添っていた。充は深い紺色のスーツ、美紀はインクブルーのイブニングドレス。色合いまで妙に調和した二人が並んで立つ姿は、まるで最初から連れ立って来た恋人同士のように見えた。黎の百日祝いという大切な日に、二人は悪びれることもなく、堂々と並んで立っている。その光景を見た瞬間、奈緒は胸の奥に重いものを突きつけられたような気がした。喉の奥まで苦くなる。何度か唾を飲み込んでも、その不快感は消えてくれない。娘の百日祝いだと分かっていながら、祝いの言葉やプレゼント一つ用意しなかったことはもういい。それなのに、宴も終わろうという今になって、美紀を連れてここへ現れるなんて。一体、何を考えているのだ?奈緒は湧き上がる怒りを押し殺し、冷たい目を二人へ向けた。すると美紀も、すぐに奈緒を見つけた。その目に、嘲るような色が浮かぶ。美紀は奈緒を上から下まで見下し、奈緒が口を開くよりも早く先に言い放った。「奈緒さん、今夜のこと、充さんにちゃんと説明するべきじゃない?」そんな二人の姿を見た蛍は我慢できず、テーブルに残っていたミニトマトを掴み、そのまま投げつけようとした。奈緒は咄嗟に蛍の手を押さえ、落ち着くようになだめる。そして、美紀に冷めた視線を向けて、淡々とした口調で問いかけた。「充に何か説明しなきゃいけないことなんて、何かある?」美紀は腕を組
百日祝いの会場は、煌びやかな光に包まれ、大勢の招待客で溢れかえっていた。用意された100のテーブルは全て埋まり、豪華なドレスやスーツに身を包んだ人々が行き交い、乾杯の音が至るところで響いている。招待状を送った客のほぼ全員が顔を揃えたばかりか、普段は滅多に公の場へ姿を見せない大物まで何人か出席していた。これだけの顔ぶれが揃えば、酒井家の面目も十分すぎるほど立つというものだろう。長年、ナイトクラブを経営してきた蘭は、人付き合いにも世渡りにも長けていた。遠方から足を運んでくれた招待客のため、雲際ホテル最上階のエグゼクティブラウンジからスイートを含む客室まで、まとめて押さえている。その蘭の豪快なもてなしぶりには、誰もが驚かされた。控室。顔見せを終えた黎が、すっかり疲れて奈緒の腕の中で気持ちよさそうに眠っていた。香織はそばで音を立てないよう、そっとベビー用品を片づけている。カチャリとドアが開く音と共に、満面の笑みを浮かべた蘭が入ってきた。その顔には、喜びと誇らしさが隠しきれないほど溢れている。蘭は後ろ手にドアを閉めると、足早に奈緒のそばへやって来た。「奈緒、どうだった?今夜のお母さん、なかなかやったでしょ?」奈緒は顔を上げ、得意げな母を見て笑った。そして素直に親指を立てる。「うん。正直、びっくりした。お母さんが、あんな大物たちと知り合いだったなんて思わなかったもの」蘭は得意そうに顎を上げると、奈緒の肩を抱いて、豪快に笑った。「当たり前でしょ?お母さんが何年、この世界で生きてきたと思ってるの?深津市でここまで店を大きくしてきたんだから、人を見る目も、人脈も、それなりに培ってきたつもりよ」そこまで言うと、蘭の目には一瞬だけ陰りが差し、次いで、過去の苦しみを思い出したかのような、鋭く冷たい恨みが宿った。蘭が奈緒の肩に置いた手に、自然と力がこもり、声も一段と低くなる。「あの夜のことがあったからこそ、自分に力がなければ、理不尽な目に遭っても踏みにじられるだけだって、嫌というほど思い知らされた。優しいだけじゃ、自分も大切な人も守れない。だから私は、二度と誰にも見下されない人間になろうって決めたの。自分の足で立って、誰にも奪えないものを手に入れる。そうすれば、昔私を見下していた人間だって、簡単には手を出せなくなるか
それから、蛍は奈緒が傷つくのを心配して、充から返信ひとつないことは、結局言い出せなかった。そして、奈緒が退院するまで、充は結局、姿を見せなかった。退院後、二人は黎と香織を連れて、碧瀾郷へと引っ越した。そこは、奈緒が半年前に入手した、リノベーション済みのマンションの一室だった。蛍の家はその真向かいの部屋で、隣同士に住むのは大学時代からの二人の夢だったのだ。だから半年前、蛍の向かいの部屋が売りに出されたと聞いて、奈緒は迷わず購入した。部屋には家具や家電が揃っていたが、まだどこか殺風景だった。蛍はすぐに自分の家から布団やポットなどの日用品を運んできた。奈緒は買い物リストを
「産後の回復がかなり遅れていますね。出産時に出血が多かったですし、低血糖で倒れやすい状態です。しっかり栄養をとって、気持ちをあまり高ぶらせないようにしてください」診察が終わっても、奈緒はまだ眠ったままだった。医師は病室で蛍に病状を説明した。隣で聞いていた香織が、ため息をついた。「奥様は産後の肥立ちが悪くて……最初の2週間はお乳が張って痛くて食事が喉を通らなかったんです。その後は赤ちゃんが夜泣き続きで……それでも奥様は自分で母乳をあげていたから、夜もまとまって眠れていませんでした。昼間は仕事もしていて、体が回復する暇もなかったんですよ」それを聞いて、蛍は怒り心頭になりそうだった。
一方、音を聞きつけた恵が慌てふためいて部屋から飛び出してきて、声を張り上げた。「地震です!地震が来たんですよね?」そして、香織もギャンギャン泣いている赤ちゃんを抱っこしていたけど、その音を聞いて、裸足のままバッグを掴んで外へ飛び出し、靴を履くのも忘れてしまうほどだった。……しかし、二人がリビングに駆け込むと、いつもは冷静な奈緒が、狂ったように大切にしていた置物を次々と床に叩きつけていた。その光景に、二人はあっけにとられた。それを見て恵が慌てて駆け寄り、止めに入った。「奥様、おやめください!ちゃんと話し合ってください、奥様!」香織も泣きやまない赤ちゃんをあやしながら、
一方、奈緒は会場を出るとアクセルを踏み込み、二人の新居である水鏡ヶ丘の家へと車を走らせた。そして、ドアを開けると、昔からいる使用人の井上恵(いのうえ めぐみ)と、奈緒が雇ったベビーシッターの黒崎香織(くろさき かおり)が、一緒になって赤ちゃんをあやしていた。二人は、奈緒の顔が真っ青なのを見て、ぎょっとした。「奥様、どうかなさいましたか?」そう言われ奈緒は、なんとか笑顔を作って答えた。「なんでもないの。お腹が空いちゃって。温かいうどんかなんかを作ってくれる?」そして、香織から赤ちゃんを受け取ると、奈緒の荒れ果てた心は、そのあどけない寝顔を見てようやく落ち着きを取り戻した。







