LOGINもしかして、充は何かを盾に奈緒を脅したのではないか?そう考えた途端、仁哉の胸に強い不安が広がった。反射的に車を追いかけようとする。だが、二人がまだ法律上は夫婦であることを思い出し、足を止めた。自分が踏み込みすぎるわけにはいかない。それでも奈緒の身が心配で、すぐにメッセージを送った。【奈緒さん、もし困ったことがあったらすぐ連絡して。いつでも僕は君の味方だから】メッセージを受け取った時、奈緒は後部座席に静かに座っていた。まるで彫刻のように微動だにしない。充はその横顔をじっと見つめ、胸の奥にわずかな満足感を覚えていた。奈緒の性格は、誰よりもよく知っている。これ以上無理に触れれば、ますます反発されるだけだろう。というのも、奈緒を脅すような手段を取ったのは、充にとっても苦渋の選択だった。本当の目的は、奈緒の心と、以前自分に向けてくれていた愛情を取り戻すことにある。車は静かに水鏡ヶ丘の門をくぐった。ここは充の手で全面的に改装され、以前とはまるで別の家のように生まれ変わっていた。庭には色とりどりの草花が植えられ、豊かな生命力に満ちている。リビングの内装や家具も、以前の無機質なモノトーンから、温かみのある木目調へすべて変えられていた。充はそっと奈緒の肩を抱く。「おかえり、奈緒。お前は家の家具が無機質すぎて落ち着かないって言ってただろ?だから、全部お前の好みに変えたんだ」奈緒はさりげなくその腕を外した。その目には何の感情も浮かんでいない。「あなたの家だから、好きにすればいい」奈緒の冷たさなどお構いなしに、充は優しくその頬を撫でた。「腹は減ってないか?井上に奈緒の好物を作らせたんだ。少し食べてから寝よう、な?」充は奈緒のコートを脱がせ、玄関のハンガーへ掛けた。それから膝をつき、彼女の靴を脱がせて、白いスリッパに履き替えさせる。充のスリッパは黒、お揃いのデザインだった。かつて、こうしたことをしていたのはいつも奈緒の方だった。「奥様、やっとお戻りになったんですね!奥様と黎様のお帰りをずっとお待ちしていたんですよ」恵が満面の笑みで駆け寄り、奈緒の手を握った。だが、奈緒の凍りついたような視線に触れた瞬間、気まずそうに手を離した。すぐに取り繕うような笑みを浮かべる。「旦那様から、奥様の好物を用意するように
奈緒は爪が食い込むほど手を強く握りしめた。焦りと怒りが胸の中で限界まで膨れ上がる。車の外では仁哉がドアを激しく叩き続けていたが、充には全く聞こえていないようで、その目にあるのは狂気じみた執着だけ。目の前の充が、かつての彼とは別人だということに、奈緒は気づいてしまった。これ以上追い詰めれば、本当に何をしでかすか分からない。奈緒は充を睨みつけ、なんとか声を絞り出す。「本当に、お母さんの動画を持ってるの?」充は妖しく目を赤く光らせると、携帯を取り出して一枚の画像を奈緒に見せた。奈緒はその画像を見た瞬間、心に剣を刺されたかのような衝撃を受け、深い憎しみを抱きながら全身を激しく震わせた。「分かった。水鏡ヶ丘へ戻る。その代わり……絶対にそれを世間に流したりしないで」充は残酷な笑みを浮かべて頷いた。「もちろん。大人しく俺の妻の役目を全うしてくれれば、データは完全に消去する。お義母さんの名誉は守ってやるよ」なんて皮肉だ。「よくもお義母さんなんて呼べるわね!あなたみたいなことをする人が、この世のどこにいるのよ!」充は、かえってぞっとするほど優しい声で答えた。「俺だって、こんなことはしたくないし、奈緒とお義母さんを傷つけたくもない。でも、俺にはもう他に方法がなかったんだ。どうしても、お前と黎に戻ってきてほしい。だからこうするしかないんだよ」その声はどこか虚ろで、顔には苦い悲しみが浮かんでいる。「死刑囚にだって、上訴する権利も、やり直す機会もある……奈緒……何一つ機会を与えず、いきなり俺へ死刑を言い渡すのはやめてくれ。そんなのは、あまりにも残酷だ」奈緒は目を閉じ、心臓を強く掴まれているかのような息苦しさに耐えていた。5年という長い歳月の愛と憎しみ。そして二人には可愛い子供までいるのに、二人の結末はこんなにも馬鹿げたものになってしまった。奈緒がきっぱり終わらせようとしても、それすら許されない。そばにいた時は、少しも大切にしてくれなかったくせに。いざ別れようとすると、ここまで激しく縋りつくなんて。今の充の態度は愛なのか、それとも、ただの歪んだ独占欲なのか?もう奈緒には分からなかった。ただ、ひどく滑稽で、言葉では表せないほど、皮肉だった。何よりも脅迫が嫌いな奈緒。それなのに今、かつて愛した男から、最
「そんな傷ついた顔をしても無駄だから!私の苦しみを見て見ぬふりしていた時に、いつか自分も追い詰められる日が来るって考えるべきだったのよ!放して!今のあなたは醜くて、見ているだけで吐き気がする!」一言一言が、鋭い刃となって充の心臓へ突き刺さり、あまりの痛みに、目の前が暗くなった。充は充血した目を閉じ、そのまま奈緒を力強く抱き寄せた。低い声で言い放つ。「俺はお前を離さないし、お前が仁哉と一緒になるなんて、絶対に認めないからな。離婚が成立していない以上、お前は俺の妻だ。今夜は一緒に水鏡ヶ丘へ帰れ」「妻だなんて笑わせないで!あんな場所二度とごめんだから!」奈緒の怒りが完全に爆発した。全身の力を振り絞り、膝を勢いよく突き上げる。その一撃は、充の急所へまともに入った。「ゔっ!」苦悶の声を上げ、その場にうずくまった充。奈緒の両手を押さえていた力が、一瞬だけ緩んだ。そのわずかな隙を、奈緒は見逃さなかった。怒り狂った雌豹のように身体を翻し、肘を充の胸へ思い切り叩き込む。「ぐっ!」充の身体が後方へ倒れ、背中が激しく車のドアへぶつかった。奈緒はその隙に拘束を振りほどき、這うようにして反対側のドアへ飛びついた。震える指で、ロックへ手を伸ばす。ガチャという音と共に、ロックが外れた。窓の向こうでは、仁哉が必死にガラスを叩き、ドアを蹴っていた。顔には、隠しきれないほどの焦りが浮かんでいる。狂ってる。今の充は、完全に正気を失っている。奈緒は大きく息を吸い、残った力のすべてを込めてドアを押した。外の自由な空気が吹き込んでくるその刹那、後ろから充の低い声が聞こえた。まるで地獄の底から響くような声に、奈緒は凍りつく。「今夜水鏡ヶ丘に来なければ、明日にはお前の母親のあの時の記録がネット中に出回るぞ……奈緒、よく考えろ」ドアを掴んだまま、奈緒は固まった。全身の血の気が引いていくような感覚と共に、凍てつくような悪寒が背筋を走り抜ける。奈緒は愕然として振り返った。そこには、底の見えない漆黒の瞳で自分を見つめる充の姿。今の彼は、全身を息苦しいほど濃い闇に包まれていた。まるで悪魔のようで、その瞳は真っ赤になっている。「今……なんて言ったの?」奈緒は震える声で尋ねた。耳を疑うほどの、あまりにも残酷な冗談のように聞こ
仁哉の瞳からも、一瞬で熱が消えた。二人はほぼ同時に足を止める。奈緒は驚きと冷気を宿した目で充を見据えた。「ここで何をしてるの?」充は片手をポケットに突っ込み、暗がりに立っていた。漆黒の瞳には、感情のひとかけらも映っていない。冷たい風が彼のコートの裾を揺らす。夜の中に響く低い声は、ひどく掠れていた。「見ての通り……お前を待っていたんだ」充は一息つくと、鋭い刃のような視線で奈緒を見つめた。「ただ、少し待たされた。夜の6時から今まで、ずいぶん栗原家で楽しんだらしいな」言葉に込められた棘を感じ取り、奈緒は鼻で笑った。「まさか、私をつけてきたの?離婚するのに、今さらこんな妻を待つ健気な旦那を演じて、誰に見せてるわけ?」充は仁哉をちらりと見てから、再び奈緒に視線を戻す。夜風が吹きつけ、充は喉の痒みに耐え切れず、口元を覆って何度か低く咳き込んだ。強く握った指の関節が青白く浮き出ている。「俺が半月以上入院していて、今日ようやく退院したことを、お前は知っていたか?」奈緒の目は冷たく、心にも波は立っていない。「知らないし、知りたいとも思わないから。私たちはもう他人も同然。お願いだから、もうこれ以上付きまとわないで。お互い、綺麗に終わりにしようよ」充は奈緒の目をじっと見つめた。その目に一片の憐れみも浮かんでいないと悟った瞬間、充の押し殺していた感情が爆発した。充は勢いよく踏み出し、奈緒の手首を乱暴に掴み上げる。その瞬間、奈緒の視界が反転した。奈緒は叫ぶ暇もなく、車の中に引きずり込まれた。重い音がしてドアが閉まり、外から必死に仁哉の叩く音も遮断された。「何するのよ!?」怒りに震え、奈緒は暴れたが、充に力任せに押さえつけられる。充は身体を覆いかぶせるように迫り、恐ろしい目で彼女を見下ろした。「俺はお前に甘くしすぎたみたいだな。だから、お前は何度も好き勝手に俺の心を踏みにじる!仁哉とは車の中で絡み合い、次は家へ行って両親に挨拶?その次は何だ?離婚が済んだらすぐ再婚でもするのか?」目は赤く血走り、声はまともに出ないほど掠れていた。「奈緒!お前が俺のことを裏切っている間、俺が高熱と肺炎で入院し、生き地獄を味わっていたことを考えたことがあるのか?雨の中で何時間も跪いた時の気持ちなんて、考えたことも
食事を終えたあと、奈緒は先ほど通りかかった書斎のことを思い出した。壁一面にそびえる本棚があまりにも壮観で、どうしても気になって仕方がない。そこで遠慮がちに、中を見せてもらえないかと尋ねてみた。宗時は、その申し出に目を細めて喜ぶ。電子情報があふれるこの時代、埃をかぶった彼の書斎に興味を示す者など、ほとんどいない。そんな中、自ら本を読みたいと願い出る者が現れたのだ。宗時は大喜びで、奈緒を自ら案内した。2階建てで広く、古風で上品な造りをしている書斎。室内は静寂に包まれ、空気には淡い白檀の香りが漂っている。中へ入った途端、奈緒の目は本棚の最上段に置かれた一冊の和綴じの古書へ吸い寄せられた。背表紙は擦り切れているが、長い歳月をくぐり抜けてきた重厚な風格をたたえている。奈緒はつま先立ちになり、仁哉に手伝ってもらいながら、その本を棚から下ろした。表紙には、力強く「作庭記」と書かれていた。奈緒はそっと指先で表紙をなぞった。思わず呼吸が速くなる。これは、かの有名な造園家の著書で、世界でもっとも古い庭園の専門書ともいわれている。土地の選定、基礎造り、建築、内装などの造園技法が詳しく記されているだけでなく、「借景を巧みに活かし、土地に適した美を極める」という伝統的な美学と哲学が詰め込まれていた。現在、世に出ているのは複製が大半なのだが、今手にしている本は、紙が黄ばみ、乾いて硬くなっている。古くなった墨の香りや版面、紙の年代から見て、初期のものである可能性が高い。ひょっとすると、原本に極めて近いかも……「これは……」奈緒は顔を上げ、信じられないものを見るような目で尋ねた。「これは初期の頃に書かれた『作庭記』なんですか?」奈緒がその価値を知っていることに気づき、宗時はさらに顔を綻ばせた。「さすがです!昔、海外のオークションで手に入れたものなんですよ。今の若い人たちは『作庭記』という名すら知らないし、ましてや一目でそれだと見抜ける人間はまずいません」奈緒は細心の注意を払いながら、一枚だけページをめくった。紙の間には、乾燥したイチョウの葉が栞として挟まれていて、まるで百年も昔の職人が残した温もりが、そこに宿っているようだった。精緻な図面や注釈を見つめていると、数百年前の職人たちが庭園の中で汗を流す姿まで目に浮かんでくる。建築と自
奈緒は仁哉たちと共に栗原邸へ足を踏み入れた瞬間、時代を飛び越えたような錯覚に陥った。深津市郊外にある栗原邸は、歴史ある豪邸が集まる場所にあった。門は年月を経ているのに威厳を放っていて、歴史を感じさせる。奈緒は妙子と腕を組んで、仁哉たちと共に回廊を歩いた。歩を進めるたびに景色が変わる。曲がりくねった小径の先には、池に沿って東屋や卒塔婆が点在し、枯山水や植木が巧みに配された回遊式庭園が広がっていた。長い回廊は龍のように庭園を巡り、すべてが人の手で造られたはずでありながら、まるで自然そのものが形づくったかのような調和を見せていた。これまで奈緒は、青木家の本邸こそが豪邸の極みだと思っていた。しかし、それはどうやら間違いだったらしい。栗原邸はまるで迷路のように広く、あちこち曲がるうちに、奈緒はまるで歴史小説の世界に入り込んでしまった少女のように緊張していた。やがて居間に到着すると、室内には重厚感のある伝統的な調度品が整然と並んでいた。掛け軸も、飾り棚に置かれた器も、照明を受けて厳かな雰囲気を放っている。どれも値段のつけられないほど貴重な骨董品ばかりだ。宗時から連絡を受けていたのだろう。仁哉の母親が、すでに待っていた。彼女はすぐに立ち上がり、穏やかで慈愛に満ちた笑みを浮かべる。紹介によれば、この上品な女性の名は栗原琴葉(くりはら ことは)というらしい。大学で文学を教える教授であり、著名な童話作家でもあるという。琴葉は鮮やかな黄色の服を身にまとい、すらりとした長身を美しく保っていた。歳月さえ味方につけたのか、彼女からは優雅で教養ある知性が滲み出ている。琴葉は親しげに奈緒の手を取り、驚きと喜びが混じり合った表情を浮かべた。「まさか、あのセイフウさんが、こんなに聡明で可愛らしいお嬢さんだったなんて」すぐさま琴葉は妙子へ向き直り、わざと責めるように言う。「お母さん、なぜもっと早く教えてくれなかったの?セイフウさんのコラムは、宗時が私にも読ませるから、二人でずっと一度はお目にかかりたいって話してたんだから。それに、セイフウさんがどんな方か賭けまでして。私はお母さんのような知的で堂々とした女性だと言って、宗時は頑固な年寄りの学者だと言い張っていたの。結局、二人とも外れだったわね。ふふふ……」明るい笑い声が響き、古い屋敷に漂
パーティー会場のなか。奈緒は、充から目を離さずにいた。彼は上機嫌な様子で、グラスを片手に美紀を連れて、各テーブルに挨拶回りしている。「仁哉は今、大事な仕事で海外なんだ。戻ってくるのに1年はかかりそうだから、今日は、彼の代わりに、俺が皆の相手をするよ。それに美紀は産後でまだ本調子じゃないし、お酒とかは控えた方がいいだろうから、彼女の分も、俺が飲むよ」……一方、それを聞いた奈緒は、口にしたオレンジジュースが、やけに冷たく、苦く感じた。そして、その冷たさは胸の奥まで、染み渡っていくようだ。二人は長年一緒に仕事をしてきたが、どんな付き合いの場でも、充は彼女のことを酒豪だと言って
「充、今日で赤ちゃんが産まれてから1ヶ月経つの。私たちを迎えに来てくれない?」青木奈緒(あおき なお)は、おくるみに包まれた娘を抱きながら、期待を押し殺した落ち着いた声で言った。しかし電話の向こう、夫の青木充(あおき みつる)は感情の起伏がなく、平坦な声で言った。「すまない、急に予定が入った。運転手にお前たちを迎えに行かせるよ」出産も、産後の大事な時期も、充はずっと仕事で忙しいと言ってそばにいなかった。今日は赤ちゃんと一緒に産後ケアの施設から帰る、記念すべき日なのに、やっぱり彼は来てくれない。奈緒は切なくなったが、それでもこぼれ落ちそうになる涙を必死にこらえた。「…
一方、荒れ果てたリビングを眺めながら、充は力なくソファに腰掛け、タバコに火をつけ、胸が締め付けられるように苦しかった。「井上、俺は奈緒に優しくしてこなかったかな?あそこまで怒ることないだろう?」恵は、床を掃きながら、そっと声をかけた。「旦那様は奥様にとてもよくしてらっしゃいますよ。ご結婚されてから5年、お二人が言い争うのを見たことがありません。ですが、子供を産んだ後の女性は気持ちが不安定になりやすいんです。産後うつにもなりやすいですし、旦那様の支えがもっと必要なんですよ」充は眉をひそめた。「産後うつだって言うのか?でも、他の女は子供を産んだって、こんなに変わったりしない。今
それから、蛍は奈緒が傷つくのを心配して、充から返信ひとつないことは、結局言い出せなかった。そして、奈緒が退院するまで、充は結局、姿を見せなかった。退院後、二人は黎と香織を連れて、碧瀾郷へと引っ越した。そこは、奈緒が半年前に入手した、リノベーション済みのマンションの一室だった。蛍の家はその真向かいの部屋で、隣同士に住むのは大学時代からの二人の夢だったのだ。だから半年前、蛍の向かいの部屋が売りに出されたと聞いて、奈緒は迷わず購入した。部屋には家具や家電が揃っていたが、まだどこか殺風景だった。蛍はすぐに自分の家から布団やポットなどの日用品を運んできた。奈緒は買い物リストを







