LOGIN
「これから一年間の生活費は、自分たちで払え」直樹が口を開いた。その目には厳しさしかなかった。「理沙のドレス代を弁償したら、その時点でこれまでと同じ待遇に戻す」「お父さん!」海斗はその決定に不満をあらわにした。直樹が一瞥する。それだけで、海斗はすぐに大人しくなった。「あとでドレスを何着か追加で用意させる。万が一に備えておけ」直樹は理沙にそう言ってから、柚香へ目を向けた。「今夜は助かった。ありがとう」「余計なことをしたと思われていなければ、それで十分です」柚香は礼儀正しく答えた。「理沙のために危ないところを事前に見つけてくれたんだ。こちらこそ感謝している。どうして責めたりするものか」直樹は感情をほとんど見せず、社交辞令のように続けた。「時間があるときは、理沙と一緒に家に遊びに来なさい」「お時間があるときに、ぜひ伺わせていただきます」柚香も同じように当たり障りのない返事をした。直樹は軽く頷くと、佳代を連れてその場を去っていった。その瞬間、そこには柚香たちだけが残った。「まだ帰らないの?人を呼んで下まで連れていかせようか?」理沙は海斗と静香に目を向けた。口調はいたって穏やかだったが、どこか有無を言わせないものがあった。海斗は柚香を思いきり睨みつけると、静香を連れて出ていった。柚香と理沙には話があるだろうと、慎吾と康平もその場を離れた。しばらくして、そこには柚香と理沙の二人だけが残った。さっきのことを思い返しながら、柚香はドレッサーにもたれ、ドレスの前に立つ理沙を見た。そして、疑問を口にする。「この件、本当にこれで終わり?」「うん」理沙は頷いた。柚香はほんのわずかに眉を寄せた。誕生日パーティーを台無しにしようとして、十着以上ものドレスを切り刻んだのに、これから一年間の生活費を自分たちで払うだけ。謝罪の一言すらない。「うちって、昔からこうなの」理沙は、もうどうにもならないほど傷んだドレスを見て、それ以上気にすることもなかった。「父は、海斗や静香が私にこんなことをしたこと自体を問題だとは思ってない。ただ、やり方が下手だと思ってるだけ」「……?」柚香は呆気に取られた。理沙はごく自然な口調で続ける。「父は、私たち四人が家の中で争うこと自体は許してるの。誰かが死ぬようなことにならなければ、取り返しの
「お父さん、絶対にこいつの言うことを信じちゃダメだ!」海斗がすぐさま口を挟んだ。いかにも筋が通っているような口調だった。「お姉ちゃんの誕生日パーティーをめちゃくちゃにしたくて、わざとこんなことをしたんだ」直樹は険しい顔のまま尋ねた。「どういう意味だ?」「今夜はお姉ちゃんの誕生日パーティーだよ。もしここに警察が来たら、下にいる人たちは何があったのか気にするに決まってる」ずっと黙っていた静香が口を挟んだ。「そうなったら、変な噂が立つかもしれない」「それだけじゃない」海斗も続けた。「お姉ちゃんの誕生日パーティーだって台無しになる。柚香は、お姉ちゃんの誕生日を蒼海市中の噂話にしたいんだよ」二人は交互に言葉を重ねた。まるで、さっきまで話していたことがすべて本当であるかのように。「私は別に構わないけど」理沙は柚香の隣に立ったまま、気だるそうに髪を軽くかき上げた。「警察を呼んで」「お姉ちゃん、本当にそれでいいの?」海斗は拳を強く握りしめた。冷や汗が滲んでいる。「警察が来たら、お姉ちゃんの誕生日パーティーのことを、蒼海市のほかのお嬢様たちの間で、必ず噂になるよ」理沙は淡々と答えた。「別にいいよ」海斗は歯を食いしばった。静香はしばらく考えたあと、心配そうな顔で直樹に言った。「これはお姉ちゃん一人の問題じゃない。池田家全体にも関わることだ」「誰に関係する話だろうと、警察には届けるべきよ」佳代は二人の様子を見て、柚香の言った通りだと分かった。「ここにあるドレスだけでも、全部合わせれば二億円以上の価値があるのよ。こんなふうにうやむやにしていい話じゃないわ」「じゃあ、パーティーが終わってから警察に届ければいい」海斗は折衷案を出した。「それまでは誰もここに入れないように見張っておけばいい。警察が来るまで、この部屋には誰も入らせない」そう言って、海斗は何食わぬ顔で柚香を見た。そして、一言ずつ区切るように言った。「特に、柚香の人間はな」「そんな面倒なことをする必要ないよ」柚香が一歩前に出た。その場にいた全員の視線が柚香に集まる。柚香はスマホのアルバムを開き、直近の動画を選んで理沙に見せた。「動画を撮ってたの。海斗と静香がドレスを切ってるところ、最初からはっきり映ってるよ」海斗の顔から、一気に血の気が引いた。静香も、動揺
「どうしたの?」理沙は何事もなかったような顔で、柚香のところへ歩いてきた。「海斗と静香がハサミで予備のドレスを切り刻んで、それだけじゃなく、持ってきた化粧品であなたのものを入れ替えようとしてた」柚香は二階で起きたことをすべて話した。「いくらになるか、見積もってもらって」理沙は頷いた。「分かった」そう言って、両親を見る。「二人も見に行く?パーティーが始まるまで、まだ一時間くらいあるけど」直樹は何も言わずに立ち上がり、理沙と一緒に向かった。海斗と静香が何をしようとしていたのか、直樹はさほど気にしていなかった。彼が知りたかったのは、理沙と柚香が本当に友人なのかどうかだった。もし本当に友人なら、湊人との結婚話を少し先延ばしにすることもできる。そんな父親の考えを、理沙はすべて分かっていた。柚香と並んで前を歩きながら、さっきのことを思い出して、小声で尋ねる。「外で、いつから盗み聞きしてたの?」「堂々と数分ほど聞いてた」柚香は平然と答えた。理沙の目に、納得したような色が浮かぶ。「それで、どう思った?」「あなたの言う通りだと思う」理沙「ん?」柚香は理沙に目を向けた。声を落とし、二人にしか聞こえないように言った。「さっき両親に話してたこと。あれ、あなたの言う通りだと思う」「私があなたを利用してるって、気にしないの?」理沙は、柚香があの話を聞いていたと知ってから、少し複雑な気持ちになっていた。利用するつもりだと事前に話していたとはいえ、実際に聞かれたとなると、嫌な思いをさせていないか気になってしまう。誰だって、利用されるのは好きじゃない。まして、自分のことをそんなふうに話されるのは、いい気分がするものではない。「電話でも言ったでしょ?」柚香は逆に問い返した。理沙は一瞬きょとんとしたあと、ふっと笑った。そして、無意識にもう一度柚香を見た。見た目はどこか可憐で、守ってあげたくなるような雰囲気がある。けれど、その佇まいにも瞳にも、芯の強さが滲んでいた。誠実で、裏表のない人だ。「何笑ってるの?」柚香は、さっきまでとは違う目で見られていることに気づいた。まるで恋に落ちた相手を見るような視線だった。「初めて会ったときの、あなたのぽかんとした顔を思い出したの」理沙はわざとからかうように言った。「……」柚香
「池田家の人間なら、誰だって家のために利益を生み出さなきゃならない」直樹は険しい顔のまま、その考えを少しも変えなかった。「たとえ君のお兄さんだって、将来結婚するときは釣り合いの取れた相手を選ばなきゃならない」理沙の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。直樹が彼女を見る。「何がおかしい?」「お父さんがひいきしてるなって思って」理沙はわざと、かなり率直な言い方をした。「お兄ちゃんは釣り合いの取れた相手と結婚すればいいのに、私はあなたたちの決めた相手と結婚しなきゃいけない。まるで私じゃ、釣り合いの取れる相手を見つけられないみたいじゃない?」直樹は何も言わなかった。けれど、理沙には分かっていた。蒼海市の若手で名の知れた男性といえば、蓮司とその兄、それから湊人と藤堂家の三男くらいしかいない。藤堂家の三男は警察官として働いていて、曲がったことを嫌う真っ直ぐな性格だ。商売人である父にとっては、そういう相手は好ましくない。だから自然と候補から外され、残ったのが湊人だった。「理沙」佳代がなんとか説得しようとする。「お父さんが利益を大事にしてることくらい分かってる」理沙は相変わらず気のない口調で、父との話を続けた。「でも、もしどうしても私と湊人を結婚させたいっていうなら、その先にあるもっと大きな利益は、お父さんには関係なくなるよ」直樹は探るような目で理沙を見た。佳代は意味が分からず、理沙を見つめている。何かに思い当たったように、佳代は探るように尋ねた。「……柚香のこと?」理沙は頷いたが、それ以上は何も言わなかった。「柚香が来てるのか?」直樹の目に、驚きが浮かんだ。「来てるだけじゃなくて、理沙にプレゼントまで持ってきてくれたのよ」佳代は先ほどの出来事を説明した。「いつの間に、そんなに柚香と仲良くなったの?私たちは何も知らなかったわ」「朔也が友達を作るのはいいのに、私が友達を作るのはダメなの?」理沙は逆に問い返した。直樹も佳代も、思わず言葉を失った。まさか、そんなことを言われるとは思っていなかったのだ。「柚香の立場くらい、お父さんたちも分かってるでしょ。これから神崎グループの大株主になる人なんだから」理沙はもう、遠回しな言い方をやめてはっきり話した。「黒崎家だって、たとえ株を全部譲ることはなくても、昭彦社長があれだけ柚香
海斗が慌てて駆け寄り、柚香からスマホを奪おうとした。柚香はその場から動かなかった。次の瞬間。飛びかかってきた海斗は、陰から柚香を護衛していた慎吾に蹴り飛ばされた。ドン!「ずいぶん無防備ですね」康平も姿を現した。片手をポケットに入れた姿は、妙に様になっている。「慎吾の反応が間に合わなくて、何かあったらどうするんですか?」「慎吾はプロだから」柚香は理沙が電話に出るのを待ちながら、二人と落ち着いて話していた。「一歩でも引くほうが、慎吾を信用してないってことになるでしょ」慎吾は相変わらず、感情の読み取れない無表情な顔をしている。「その通りです!」康平は思わず吹き出した。「よくも俺を蹴りやがったな。俺が誰か分かってるのか!」海斗は胸を押さえながら立ち上がり、震える指で慎吾を指した。「このことをお父さんに言ったら、ただじゃ済まないからな!」「どうぞご自由に」柚香は淡々と返した。海斗は怒りで顔を真っ赤にした。その横では、静香が不安そうな顔をしている。海斗の袖を引っ張り、小声で尋ねた。「どうしよう」「何がだよ」海斗はまだ頭に血が上っていた。「私たちがやったこと、柚香に見られたじゃない」静香は心臓が激しく鳴っていた。このあと待っていることを考えると、怖くて仕方がない。「柚香が理沙に全部話したら、絶対に許してもらえないよ」海斗は拳を強く握りしめた。柚香さえいなければ。こんなところを見られることもなかったのに。「理沙さんが電話に出ない」柚香はスマホをしまい、慎吾と康平に声をかけた。「二人ともここで見てて。私、下に行ってくる」海斗と静香がわざわざ理沙の予備のドレスを切り刻みに来たということは、下でも何か仕掛けを用意しているはずだ。何しろ今日は理沙の誕生日だ。念のため、早めに知らせておいたほうがいい。その頃、理沙は両親と一緒にいた。スマホをうっかりマナーモードにしていたため、電話がかかってきたことにも気づいていなかった。「おじいちゃんとおばあちゃんは静かなところが好きなのに、どうしてこっちに呼んだの?」理沙は穏やかな口調で尋ねた。「湊人くんに会いたいって言ってたのよ」佳代は上品なドレス姿で、落ち着いた雰囲気を漂わせていた。理沙は目をわずかに上げた。まだ、自分と湊人を結婚させるつもりなの?
理沙は一瞬、言葉を失った。目には驚きの色が浮かび、胸の奥にも大きな波が立つ。込み上げてきた感情をそっと押し込め、口元にわずかな笑みを浮かべた。「そこまで言ってくれるなら、遠慮なくもらうね」「うん」柚香は頷いた。「八桁もするプレゼントを、あっさり贈っちゃうなんて。柚香さん、太っ腹ね」理沙はからかうような口調で続けた。「でも、あなたの誕生日には、私じゃこんな高価なもの返せないよ」「最初から期待してないから」柚香は理沙の口調を真似して返した。理沙は笑った。朔也からは、むやみに友達を作るな、痛い目を見たことを忘れるなと何度も言われている。それでも、こんなに素直で可愛い人と、どうして友達にならずにいられるだろう。「パーティーは何時から?」理沙のメイクも髪もすっかり仕上がっているのを見て、柚香は何気なく尋ねた。「八時ちょうど」理沙は時間を確認した。まだ七時前だと分かると、柚香に気を遣って先に声をかけた。「忙しいなら、今すぐ送っていくけど?」「理沙さん、私の席は用意してくれてるのかなって聞きたかったの」せっかく来たのだから、柚香は急いで帰るつもりもなかった。「昨日歩き回りすぎて、今日はもう立ってられないの」理沙は笑った。「もし用意してないって言ったら?」柚香は平然と言った。「じゃあ、理沙さんの膝に座る」「いいよ」柚香はそれ以上何も言わなかった。しばらくして、部屋のドアが開いた。池田家の使用人が入ってきて、仕事の報告でもするような調子で告げた。「お嬢様、お母様がお呼びです。下にいらっしゃるおじい様とおばあ様に、ご挨拶してほしいとのことです」理沙は「分かった」と答えた。柚香が人付き合いをあまり好まないことを知っているので、下へ行く前に、隣の部屋で休めるよう手配した。柚香も断らなかった。休憩室は静かだった。柚香は一人掛けのソファに座り、スマホをいじりながら青葉医療の進捗を確認した。今のペースなら、あと三か月もあれば第二プロジェクトは完成する。そのとき、検収を無事に通過し、神崎家から課されている試験にも合格できれば、母に起きたあの事件を徹底的に調べることができる。黒幕には、必ず代償を払わせる。ちょうどそのときだった。外から、こそこそと話す声が聞こえてきた。「準備は全部できた?」