Masukこれは事実だ。言い訳で打ち消せるものじゃない。「もうどうでもいい」柚香は再び心を固く閉ざした。「あなたが彼女を一生面倒見るつもりで、私にその存在を受け入れろって言うなら、他はどうでもいい」遥真の瞳の色が、ゆっくりと深くなる。――その通りだ。言い返せない。「陽翔、そろそろ起きる時間だよ」柚香は時間をちらりと確認し、再び彼と視線を合わせた。「どいて」「用が済んだらすぐ切り捨てる、その感じ……ほんと変わってないな」遥真は手を引き、もう彼女を引き止めることなく、ゆったりとソファへ歩いていった。柚香は何も言わなかった。目の前から気配とぬくもりが消えると、胸の奥がわずかに揺れる。部屋の様子を見に行こうとしたその時、中からドアの開く音がした。続いて、服をきちんと着た陽翔が小さな足でとことこと歩いてきて、あどけない声で呼ぶ。「ママ」「起きたの?」柚香は気持ちを整え、彼の頭を優しくなでた。「歯磨きして顔洗っておいで。パパが朝ごはん持ってきてくれてるよ」陽翔はソファでくつろいでいる遥真をちらりと見た。しかし、声はかけなかった。その様子を見て、遥真はふと、昔よく「陽翔は性格が自分に似てる」と言われたことを思い出す。――今見ると、この根に持つ感じはむしろ柚香にそっくりだ。陽翔が身支度を終えたのは、だいたい七時ごろ。三人で食卓を囲んで朝食をとったが、彼はずっと柚香にだけ話しかけ、遥真には一言も話さなかった。「ママ、遊園地に行きたくない」陽翔がふいに口を開く。「どうして?」柚香は優しく尋ねた。陽翔はうつむいたまま、うまく言葉にできない。楽しみにしていた一日が、誰かからの一本の電話で台無しになるのが嫌だった。パパがあの人を大事にしているのは分かっている。もし電話が来たら、きっとそっちへ行ってしまう。そうなれば、ママはきっとつらくなる。それなのに、自分のために無理して笑って、機嫌を取ろうとする。そんなのは嫌だ。「今日は君とだけ過ごす」遥真が、彼の気持ちを見抜いたように言う。陽翔はようやく彼をまっすぐ見た。丸い瞳の奥に、わずかな感情をにじませながら。「約束? それとも、ただ言ってるだけ?」遥真ははっきり答えた。「約束だ」陽翔は満足そうに頷き、素直に朝ごはんを食べ始めた。パパが来たとき、彼はもう起きていた。
柚香は手を伸ばして彼を押し返そうとしたが、遥真の手つきはあまりにも手慣れていて、ほんの少しの間に全身の力が抜けてしまった。大きな手が腰へと滑り、きめ細かくなめらかな感触に、彼は思わず続きを求めたくなる。けれど、その手触りから彼女がかなり痩せたこともはっきりと伝わってきた。「最近、ちゃんとご飯食べてるのか?」遥真は動きを止めて彼女を放し、底の見えないような深い視線を向けた。柚香は隙を見つけると、彼を突き飛ばした。「関係ないでしょ」怒りのせいか、それともさっきの余韻のせいか、頬がほんのり赤く染まっている。唇は湿ってつややかに色づき、光を受けて艶めいていた。わずかに開くたび、思わず触れたくなるような色気を帯びている。「何する気?」彼が近づいてくるのを見て、柚香は反射的に後ずさるが、二歩も行かないうちに背中が壁にぶつかった。遥真は片手を彼女の横の壁につき、長身を少しかがめる。薄い唇をわずかに開き、低く響く声で言った。「そんな、ひどい目にあったみたいな顔で見るなよ」柚香は睨みつける。――違うって言えるの?「さっき、全然楽しんでなかったって言える?」遥真はさらに近づき、清潔で心地いい香りがまた彼女を包み込む。柚香は心にもないことを言った。「ない!」自分は遥真とあまりにも親しく、彼は自分の体のどこが敏感かすべて知っていた。さっき感情が抑えきれず、心の防御が崩れかけた瞬間、彼の優しさと甘やかしに、一瞬だけ身を委ねてしまった。こんなの、よくないと分かっている。しかし感情が壊れているとき、最低限の理性さえ保てなかった。「へえ?」遥真の声には、どこか誘うような響きが混じる。もう片方の手が彼女の腰に落ちた。「じゃあ、確かめさせてくれる?」柚香は、ここまで図々しいとは思っていなかった。「図星か?」遥真が尋ねる。柚香は手を振り上げて彼を叩こうとする。けれど遥真は軽々とそれを掴み、ゆったりとした口調で言った。「それ、逆ギレってやつじゃない?」「最低!」柚香は吐き捨てる。「さっき、自分で言ってただろ。俺は厚かましいって、自尊心がないって」遥真はまったく気にした様子もない。柚香は言い返そうとして、言葉が喉で止まった。しばらくして、掴まれている腕を振りほどこうとしながら、低い声で言う。「放して」遥真は放
遥真は眉ひとつ動かさなかった。感情を抑えきれずにいる彼女を見て、ほんの一瞬だけ、自分の選択が間違っていたのではないかと思った。約束のために柚香との関係を壊してしまうなんて。しかし、もし自分までその約束を守らなかったら、あのとき両親が言ったことが正しかったということになる。どれくらい時間が経ったのだろう。柚香の荒れた感情は、ようやく落ち着いた。遥真は抱き続けたまま、いつもの穏やかで優しい声で言った。「右の方はまだ噛んでないよ。噛まないと対称にならないだろ?」柚香の瞳が急に赤く染まり、鼻の奥がツンとした。――遥真は嫌なやつだ。二人の想いを裏切った。でも同時に、遥真はとても優しい人でもある。自分の気持ちも考え、求めることも理解してくれる。そして、ふたりの「遥真」は切り離せない。どちらも、目の前で自分を抱きしめているこの人なのだ。遥真は彼女をそっと離し、指の腹で頬の涙を拭った。その動きはとても優しく、まるで珍しい宝石を扱うかのようだ。以前と変わらず優しく、忍耐強い彼を目の前にして、柚香の胸はさらに苦しくなる。しかし分かっている。もう二人の関係は戻らない。あの日、彼が玲奈と一緒になった時点で、可能性は消えたのだ。「遥真……」柚香が呼ぶ。遥真の声は心地よく、温かい。「ん?」「私を困らせないでくれない?」柚香は本当に疲れていた。日頃の感情表現は、ただ生活をやり過ごすためのものに過ぎない。「私、いつか耐えられなくなりそうで怖いの」涙を拭う手が止まった。「この数日、困らせてないだろ」「これからは?」しばらく沈黙したあと、遥真は口を開く。「俺の行動の基準、知ってるだろ」その言葉で柚香は答えを悟り、心はさらに沈んだ。自分が一日でも彼の元に戻らなければ、遥真は気分次第で全てを決めることができる。「分かった」「柚香……」遥真は彼女の感情の変化に気づく。柚香は何も言わず、一歩下がった。その一歩が遥真の胸にチクリと刺さる。美しい眉がわずかにひそめられる。「ごめん」濡らしてしまった服を見ながら、再び心の壁を作る。「服を汚しちゃった」遥真は苦笑する。――使い捨てみたいに謝るなんて、何様だと思ってるんだ。あれ、この悪い癖、もしかして自分が甘やかしたのか……温かさは消え、視線は彼女をロックする。「誰にそんな謝
「知ってるだろ?」遥真は何でもないことのように言った。椅子の肘掛けに片手を置き、黒い瞳でまっすぐ柚香を見つめる。視線は一歩も引かない。二人とも譲ろうとしない。けれど、先に折れたのはやっぱり柚香だった。「もうそんなこと考えるの、やめて」柚香は彼の開き直った態度と、何も気にしていないような様子が嫌でたまらなかった。――なんで感情を揺さぶられるのは自分だけなの?「今、玲奈と関係がないとしても、私はあなたとは付き合わない」あの時言われた言葉、一生忘れない。本当に最低。「彼女が何も言わなければ、一生守る」遥真は静かに言った。柚香は本気で何か投げつけてやりたくなった。自分だってバカじゃない。この言葉がわざと自分に聞かせているものだと、わからないはずがない。「疲れてる?」遥真が聞いた。あの出来事以来、二人はあまり心の話をしなくなっていた。それでもこの間の彼女の生活は、遥真には全部わかっている。「昼は仕事して、昼休みには病院に行って、夜帰ってきたらまた徹夜でイラストの副業。毎日ずっとコマみたいに動きっぱなしだ」久瀬家の奥さんどころか、久瀬家の家政婦だってここまで働かない。柚香はその場で固まった。疲れてる。疲れてないわけがない。毎日、副業のイラストを描いて夜中の二時三時まで起きて、朝は六時過ぎに起きて朝ごはんを作る。仕事から帰ればまた夕飯の支度。陽翔が寝たあとも、またイラストを描き続ける。その上、数えきれないほどの細かい家事。こんなに疲れた生活、今まで一度もなかった。その疲れきった様子も、張りつめた神経も、遥真には全部見えていた。自分が大事に育ててきた人間が、こんな生活をしているのを見るのはやっぱりつらかった。「答えて。疲れてる?」「疲れてるよ」柚香は正直に言った。「でも、生きてたら疲れることくらいあるでしょ」「君には選べる道がある」遥真はまた言った。ここまで甘やかして、ここまで譲歩したのは、今まで誰にもない。陽翔でさえも。柚香は彼を見た。その瞬間、表情がすっと消えたみたいに、ただ静かな顔になる。「また久瀬家の奥さんに戻れって?」断られるとわかっていながら、それでも彼は答えた。「そうだ」「遥真、自尊心ってないの?」柚香はこれが彼の譲歩だとわかっていた。しかし、玲奈との関係を
その後自分が質問すると、遥真は結局、自分の望む答えをちゃんと返した。あの頃は、時間がたてば自分はきっと彼の中で特別な存在になるのだと思っていた。けれど今になってようやく分かった。どれだけ時間がたとうと、その間どれほど彼が優しくしてくれても、どれほど甘やかしてくれても、彼の心に自分の居場所は最初からなかったのだ。それでも……遥真みたいな人は、好きにならずにいられるほうが難しい。自分の願いが柚香との関係を壊してしまうかもしれないと分かっていてもそれでも彼は約束を守るために行動したのだ。……翌朝。柚香が起きて朝ごはんを作ろうとすると、もう遥真が来ていた。今日は珍しくスーツではなく、少しカジュアルな濃い色の服を着ている。左手には、湯気の立つ朝食の袋。「陽翔、まだ起きてない?」遥真は朝食をテーブルに置きながら、何気なく聞いた。「うん」柚香が答える。遥真はそのまま奥へ歩いていく。柚香は慌てて呼び止めた。「ちょっと、何するの?」「起こしに行く」「……」柚香は直感的に、遥真はお祝いしに来たんじゃなくて、試練を与えに来たんじゃないかと感じた。「こんな早い時間、まだ遊園地も開いてないし。せっかくの休みなんだから、もう少し寝かせてあげて」「分かった」遥真は奥に進まず、その場に立ち止まった。もともと背が高いせいで、部屋に立っているだけなのに、この部屋がやけに狭く感じる。一瞬、柚香は彼を外へ追い出してしまおうかと思った。「先に隣の部屋に行ってて」思った通りに口に出す。「陽翔が起きたら呼ぶから」遥真の視線が彼女に向いた。真っ黒な瞳が、どこか探るように柚香を見ている。その視線に、柚香は居心地が悪くなった。眉をひそめ、少し警戒した声で言う。「何見てるの?」「怖いのか?」疑問形なのに、表情は確信しているようだ。柚香は答える気になれない。下手に話せば、ろくなことにはならない。次の瞬間、手首に温かさを感じる。遥真の大きな手が彼女の腕をつかみ、柚香が何か言う前に、そのまま引き寄せる。「こっち」柚香の体は彼の胸にぶつかった。懐かしい匂いに包まれ、清潔で心地いい香りが鼻をくすぐる。一瞬、意識がぼんやりして、まるで昔に戻ったような気がした。「離して」柚香は手で彼を押す。「もっと大きな声出してもいいぞ」腕の
「機嫌悪いのか?」遥真は、玲奈の気持ちの変化に気づいた。玲奈は何も言わなかった。前に遥真は言っていた。柚香に向けたものじゃないなら、自分がどんな計算をしていようと尊重する、と。それなら、自分が嫉妬することも、受け入れてくれるのだろうか。遥真はさりげなく彼女の手から自分の手をそっと抜き、耳元の髪を整えた。「どうして黙ってるの?」「不機嫌だって言ったら、あなたが嫌な気持ちになるかもしれないと思って」玲奈は勇気を出して口を開いた。声には少しだけ、寂しさがにじんでいた。「陽翔のために、柚香と一緒に過ごすのは分かってる。でも……」「でも、独占欲が出て、俺に行ってほしくない」遥真は彼女の心を見抜いた。「そうだろ?」玲奈は唇をかみしめた。「……うん」遥真はそのまま、じっと彼女を見つめた。「あなた、前に言ったよね。私が一番大事だって」一度言葉が出ると、次の言葉も続いた。「でも今は、あの人たちのために何度も私を後回しにする。私だって……つらいよ」「玲奈」遥真の声が、少しだけ低くなる。その真面目な口調に、玲奈の胸に嫌な予感がよぎった。次の瞬間。「どうして俺があんなことを言ったのか、君が一番分かってるはずだ」玲奈の体が固まり、呼吸が一瞬止まった。「体調もまだ完全じゃないし、本当はこんな話はしたくなかった」遥真は彼女の肩に落ちた髪を整えながら、静かな声で続けた。「でも、君はもう深く入り込みすぎてる」「違う……」玲奈は急に慌てた。「止めないとどうなるか、君も分かってるだろ」遥真の手つきは優しかったが、言葉は胸に刺さった。「柚香以外に、他の誰かに好かれる気はない」たった一言。それだけで、玲奈の心は粉々に砕けた。何か言い返そうとしたけれど、さっきの出来事の前では、どんな言葉も空しく感じた。彼があの質問をしてきたのは、自分の気持ちを分かってくれて、特別扱いしてくれるからだと思っていた。しかし今になって分かった。あれはただ、自分に本音を言わせるための誘いだっただけだ。そして自分は、本当にそれに引っかかった。「君には感謝してる。本当に、ちゃんと面倒も見たいと思ってる」遥真の手の甲に、ぽつりと水滴が落ちた。それが玲奈の涙だと、彼は分かっていた。「約束したことは、ちゃんと守る」「もういいよ」玲奈は口元に苦笑いを
遥真は、まるで相手がバカでも見ているような顔で時也を見つめていた。「その顔、何なんだよ」時也が不満そうに言う。遥真は答えなかった。もし柚香が玲奈の条件を受け入れるような人なら、あのとき彼が出した条件だって受け入れていたはずだ。「玲奈さんが帰り際に言った感じだと、これから柚香さんのこと狙ってくるんじゃないか」時也は話題を変えた。遥真が何考えてるのか本当に理解不能だ。「君、玲奈さんと話したほうがよくない?」遥真はそっと口を開く。「何を話すっていうんだ」「柚香さんにちょっかい出すなって、止めればいいじゃん」時也は理性的に言う。「柚香さんはもうすぐ君と離婚するし、君に未練もない
柚香は言葉失った。「……」玲奈は横目で、深刻な表情を浮かべた柚香の横顔を見つめた。ぼんやりと、初めて出会った頃のことがよぎり、つい言葉が口を突いて出た。「もしあの時のことがなかったら、私たち、一生の友達になれてたのかな」「ならないよ」柚香はきっぱりと言った。玲奈の性格は、そもそも「穏やかに」なんて収まらない。あの出来事がなかったとしても、ふたりが一生の友達になる道なんてなかった。「ならないなら……じゃあ遥真の話をしよう」玲奈はその答えをわかっていたし、驚きもしなかった。「あなたも、遥真に纏わりつかれたくないんでしょ。あなたの生活に口出しされたくないはず」柚香は横目で
いくら何でも寝て築いたわけじゃないだろう。遥真がそこまで浅ましいことをする男ではない。「直接、本人に聞けば?」玲奈は気持ちを整えて、平然としたふりで言った。「彼と約束したの。余計なことは言わないって」「言う気がないなら、あなたの言う『協力』なんて続ける意味ないでしょ」柚香ははっきりとした声音で追い払うように言った。「大人しく愛人やってな」「柚香!」玲奈は、自分がここまで誠意を見せても拒まれるとは思わなかった。柚香は顎を少し上げ、壁の「静かに」という注意書きを指で示す。玲奈は、両脇に下ろした手をきゅっと握りしめ、声を落として言い寄った。「あなただって分かっているはず。遥
「社長はこの二日間出張で、水曜の午後に戻る予定です」面接官は柚香の躊躇う様子を見て、付け加えて説明した。「もしご都合がよろしければ、水曜の午後三時に最終面接をお願いしたいんですけど」「大丈夫です」柚香は答えた。母の手術は今日の午後だ。万が一何かあっても、火曜日までには対応できる。手術後にどれだけ費用がかかるかもまだわからない。とにかく仕事だけは逃せない。――どうか今回こそ、遥真に邪魔されませんように。面接が終わると、柚香は急いで病院へ向かった。手術は午後とはいえ、やはり心配で落ち着かない。病院に着いたのは十一時を少し過ぎた頃。彼女の姿を見つけると、高橋先生がいつもとあま