Share

第2話

Auteur: 結奈々
「ここに書かれていることは全部、法律に基づいたものよ」柚香は、必要以上のことは望まなかった。「子どものことに関しても、あなたの品行では、一緒には暮らせないわ」

「結婚して五年、君は一円も稼いでない」遥真は冷たく言い放った。「なんで俺の稼いだ金を半分渡さなきゃいけない?」

「あなたと陽翔の生活全部、私が面倒を見てたでしょ」

柚香が言うと、遥真は薄く笑いながら見下ろした。「それで?」

それで、って……?

柚香は、まるで今初めてこの人を知ったような気がした。

「もし、そのお金でお母さんの治療費を払おうなんて考えてるなら、今すぐやめといたほうがいい」遥真は離婚協議書をテーブルの上に投げた。

柚香は彼を見つめた。「どういう意味?」

「結婚後に増えた財産なんて、もう無い」遥真は淡々と続けた。「信じないなら、裁判でもして調べてもらえ」

柚香は一瞬、呆然とした。

けれど、数秒後には全てを悟った。

初めて彼の浮気を疑ったときから、今こうして彼が自ら認めるまでの間に、彼はすでに結婚後の財産をすべて別名義に移して、隠していたのだ。

――そういえば、彼のシャツの襟についた口紅がやけにくっきりしていた。普段は写真が漏れるのを何より嫌うくせに、どうして玲奈との写真が堂々とメディアに出回っていたのか。

そういうことか。

彼は、自分が気づくのを待っていた。そして、この機会を利用して堂々と「家では妻、外では別の女」という要求を押し通そうとしていたのだ。

遥真。

本当に最低ね。

「もういいわ」柚香は冷めた声で言った。彼のやり方は完璧で、証拠なんて一つも残さないだろう。

「サインして。私は子どもだけでいい」

遥真はペンを取って、署名した。

彼の字は、本人と同じように整っていて綺麗だった。

けれど今の柚香には、それがただただ気持ち悪かった。

翌朝。

二人は一緒に役所へ行き、離婚の申請を出した。その間、遥真は一度も引き止めなかった。罪悪感もなければ、後悔もない。いつも通りの冷静さだけ。

サインするとき、柚香は彼を見て、ふと思った。

――どうして愛してもいない相手に、あんなに長く優しくできたのだろう。

自分たちの関係って、一体なんだったの?

「離婚届はお預かりしました。書類の確認などがございますので、手続きが完了するまでに一か月ほどかかります。

手続きが完了しましたら、身分証明書など必要書類をご持参いただければ離婚届受理証明書を交付できます」

そう言って、受付票を二人に渡した。

役所を出たあと、柚香は遥真と一緒に家に帰らず、親友の桐谷真帆(きりたに まほ)のもとへ向かった。

こんな大ごと、誰かに話を聞いてもらわなければ気が済まないのだ。

真帆の家に着くと、ちょうど彼女が起きたところだった。柚香の様子がおかしいことに気づき、心配そうに尋ねた。「なにその顔。どうしたの、嫌なことでもあった?」

「離婚することになったの」柚香は静かに言った。けれど、胸の奥はズタズタに引き裂かれていた。

本気で好きだった人だ。

平気でいられるはずがない。

「……は?」

真帆は一瞬、耳を疑った。「ちょっと待って。あの遥真が?あんたのこと、あんなに大事にしてたのに?世界中が離婚しても、あの人だけはしないって思ってたわ」

「本当よ」柚香の表情は真剣だった。

その顔を見て、真帆もようやく冗談じゃないと悟り、慌てて事情を聞き出した。

柚香は、すべてを話した。

理由を聞いた真帆は、たちまち怒りで顔を真っ赤にした。「はあ?最低じゃん!そんな恥知らずな要求、よく口にできたわね!」

「あんたと玲奈の関係、彼は知ってたの?」

「知ってた」自分の人間関係なんて、とっくに彼に調べ尽くされていた。

「知っててそんなこと言う?頭おかしいんじゃないの!」真帆はますます怒り、ついに立ち上がって柚香の手をつかんだ。「行くわよ!殴りに行く!一発ぶん殴らないと気が済まない!」

「近づけると思う?」柚香が冷静に言うと、真帆は口をつぐんだ。

――たしかに。相手が強すぎるのも問題だ。

「本当に、彼の名義に結婚後の財産がないの?」しばらく黙ったあと、真帆は真剣に考え込む。「もしかして、騙されてるんじゃない?」

「もう、どうでもいいの」柚香の声は静かだった。

「どうでもよくないでしょ!?」真帆はまったく納得していない顔だった。

「仮にあったとしても、彼の性格じゃ私に渡すわけない」柚香は淡々と続ける。「それに、訴訟だって簡単じゃない。証拠を集めても、たいていは補助的なもので、決定的な証拠にはならないの」

離婚訴訟なんて、言うほど簡単じゃない。まして相手が遥真のような男なら、なおさらだ。

抜け目のない男だ。玲奈に使った金の痕跡も、同棲の証拠も、自分が見つけられるはずがない。

自分にできることは、ただ、子どもを連れてそんな男のもとを離れることだけだった。

「だったら離婚なんてやめて、正妻の座に居座りなよ!」真帆は苛立ちを隠せない。「堂々と彼の金を使って、玲奈なんか一生『日の当たらない女』でいさせればいい!」

「それ、彼の思うツボでしょ」柚香は淡々と返した。

真帆は言葉を詰まらせた。

……たしかに、その通りだ。

気づいた瞬間、また怒りが込み上げてくる。

――あんな男を「理想の夫」だなんて、昔の自分を殴りたい。

「で、これからどうするつもり?」真帆はまだ怒りを収められずにいた。「まさか、あのクズとあの女を幸せに暮らさせるつもり?」

「まず引っ越すわ」柚香は昨夜泣きながら、すでに考えていた。「落ち着いたら、仕事を探す」

「なんであんたが引っ越すのよ。浮気したのは向こうでしょ?」真帆は納得がいかない。「陽翔と一緒にあの家にいなよ。追い出せるもんならやってみなさいよ」

「直接は追い出さないけど、別の方法で追い詰めてくるわ」昨夜の一件で、柚香は改めて遥真という人間を知った。

「最悪な男!」真帆の怒りは収まらなかった。「本気で『いい男』だと思ってたのに、見る目なかったわ!」

柚香は唇を噛み、目を伏せた。

――このことが起きる前、自分も、遥真を光だと思っていた。父親の闇から引き上げてくれた人だと信じていた。

けれど今わかった。彼は光なんかじゃない。もうひとつの深い闇だ。

一人は金を持って逃げ、母娘を捨てた父親。

もう一人は、結婚中に財産を隠し、別の女を認めろと言った夫。

大切な人たちなのに、実に奇妙なほど似ているものだ。

真帆がどうにかして親友を助けようと考えているとき、柚香のスマホが鳴った。

病院からの電話だった。柚香はすぐに出た。

「橘川さん、久瀬社長から、お母さんの来月以降の治療費の支払いを止めるよう指示がありまして……今後の治療方針についてご相談したく、お時間よろしいですか?」

「すぐ行きます」柚香は即答した。

電話を切ると、真帆に「ちょっと用ができた」とだけ告げ、足早に病院へ向かった。

遥真も医者と一緒に、病院の事務室で彼女を待っていた。
Continuez à lire ce livre gratuitement
Scanner le code pour télécharger l'application

Latest chapter

  • 手遅れの愛、妻と子を失った社長   第10話

    「……」遥真は何も言わなかった。どう考えても、彼女がわざとやったに決まっている。「どうして遥真がくれた物を、そんなふうに扱えるの?」玲奈が慌てて拾い上げ、まるで宝物のように大事そうに撫でる。「だって、これは……」彼女の言葉が終わらないうちに、柚香はもうスーツケースを持って車に乗り込んでいた。家には戻らず、真帆の家へ向かった。まだ住む場所が決まっていない今、彼女のところに置かせてもらうのが一番安全だ。半日ぶりに顔を見た真帆は、やつれた柚香の様子にすぐ気づいて、胸を痛めた。「またあのクズ男に何かされたの?」「うん」柚香はうなずく。「最低。ほんっとにどうしようもないやつ!」真帆は怒りを隠さず吐き出す。「今日の昼、荷物を取りに戻ったときに、玲奈の前でスーツケースを開けろって言われたの。私が何か盗んだんじゃないかって」柚香は淡々と話す。心の中は空っぽのようだった。「午後に電話したとき、向こうで玲奈が『お風呂あがった』って言ってるのが聞こえた」「は?頭おかしいんじゃないの!」真帆はテーブルを叩きそうな勢いで立ち上がる。そんなふうに自分の代わりに怒ってくれる友人を見て、柚香は唇をきゅっと結び、しばらくの沈黙のあと、ぽつりと呟く。「真帆」「なに?」「……抱きしめてくれる?」落ち着いた声の奥には、心の奥底をえぐるような痛みがあった。真帆は何も言わず、ぎゅっと柚香を抱きしめた。その腕はあたたかくて、安心できる場所だった。柚香はもう少しだけ頑張ろうと思っていたのに、この二日の出来事が頭をよぎった瞬間、鼻の奥がつんと痛くなった。泣きたくなかったが、涙は勝手にこぼれ落ちていく。肩が小さく震えた。胸の奥が痛くてたまらなかった。「泣きたいときは泣いていいんだよ。無理しないで」真帆は背中を優しくさすりながら、包み込むように言った。「泣いたら、きっと新しいスタートができる。そのときは、私がずっとそばにいるから。いっぱい甘やかしてあげる!」その言葉を聞いた瞬間、柚香は堰を切ったように声を上げて泣いた。真帆はそのまま抱きしめ続け、十数分ほどして、ようやく泣き声が静まった。真帆はティッシュで柚香の涙を拭き、少し乱れた髪を指で整えながら言った。「柚香には、私がいる。忘れないでね」「……うん」柚香の声は

  • 手遅れの愛、妻と子を失った社長   第9話

    その言葉が出た瞬間。柚香は一瞬、動きを止めた。そして、彼の本性をはっきりと理解した気がした。離婚届を出したあの日から、もう自分たちはただの他人なのだと、ようやく腑に落ちた。胸の奥にあった重苦しさや痛みが、ふっと消えていく。彼女は気持ちを整え、声のトーンを落として距離を取った。「私は別に、たいした人間じゃない。ただ、もしちゃんと自分で持ち物を返してくれていたら、こんなことにはならなかったと思う」「たかがスーツケースひとつでしょ。遥真が欲しがるわけないじゃない」玲奈が遥真の肩を持つように言った。「彼は取らないよ」柚香は淡々と言った。その目にはもう、以前のような怒りも悲しみもない。まるで感情を置き去りにしたようだった。「でも、私のスーツケースがここで汚れるのは嫌なの」遥真の目がわずかに陰る。柚香の声は淡々としていた。「荷物を返して。すぐに出ていくから」彼女はもう、手放してしまっていた。遥真の突然の冷たさも、他の女を庇うその姿も。「陽翔が、このスーツケースを見てた」遥真が思い出したように言う。「久瀬家の御曹司なら、同じものをもう一個買うのなんて簡単でしょ」柚香は自分でも不思議だった。どうしてこんなに早く心が冷めてしまったのか。「あなたも、何度も私と顔を合わせるなんで嫌でしょ」遥真は彼女の顔を見つめた。拗ねているのかと思ったが、どう見ても落ち着きを払っている。「上の部屋にあるスーツケースを橘川さんに」彼は後ろに控えていたボディーガードにそう命じた。「かしこまりました」とボディーガードが答え、奥へ消えていく。しばらくして、淡いオレンジ色のスーツケースが運ばれてくる。遥真と玲奈は、柚香がそれを受け取ってすぐ出て行くものと思っていた。だが彼女は、二人の目の前で突然スーツケースを開けた。玲奈が戸惑った声を上げる。「柚香、何してるの?」「何か抜けてないか確認してるだけ」柚香は平然と、しかし一番刺さる言葉を放つ。遥真は奥歯を軽く噛む。彼女がこんなに早く、やり返す術を覚えるとは思っていなかった。「遥真の人間性を疑ってるの?」玲奈がまた余計なことを言う。「中にあるのは証明書とか書類くらいでしょ。仮に何か貴重なものがあっても、彼が盗むわけないじゃない」「彼はしないだろうね。でも、あなたは?」柚香はもう誰にで

  • 手遅れの愛、妻と子を失った社長   第8話

    その言葉は、柚香の耳に突き刺さった。まるで彼に自ら刃を突き立てられたようだった。彼と玲奈のニュースを見たときも、胸が痛んだものの、まだどこかで「もしかしたら何かの誤解かもしれない」と思っていた。けれど、今こうして二人の会話を自分の耳で聞いてしまうと、胸の奥が切り裂かれるように苦しくて、息をするのもつらくなった。胸のあたりがぎゅっと締めつけられる。「何の用だ」低く響く遥真の声。その口調には、これまでのような親しさも温度もなく、まるでどうでもいい他人にでも話すような冷たさがあった。柚香はそれでも確かめたくて聞いた。「……あなたたち、何をしてるの?」「電話してきたのは、それを聞くためか?」遥真は答える代わりにそう言い返した。柚香は完全に失望した。深呼吸して気持ちを整え、もう無駄な言葉を交わすのをやめた。「私のスーツケース、返して」返ってきたのは、無情にも電話が切れる音だった。柚香はもう一度かけ直した。自分の身分証明書などが中に入っている。彼のもとに置いたままにすれば、後々面倒なことになる。けれど今度は、遥真は電話に出なかった。玲奈は彼のスマホに「ゆずか」と登録された着信を見て、そっと尋ねた。「出ないの?」「順番ってものがある。今は君とテレビを見る時間だ」遥真はスマホをそのまま鳴らせておき、取ろうとも切ろうともしなかった。玲奈は彼の腕に腕を絡めた。シャワーを浴びたばかりで、キャミソール一枚の姿が艶っぽく映る。「テレビなんか見たくない……あなたとほかのこと、したいな」さらに身体を寄せる。少しでも彼が視線を落とせば、胸元の谷間が目に入る距離だった。「おとなしくして」遥真は彼女の動きを制した。その表情は変わらず冷静で、欲も情も見えない。「今の君は、まず身体をちゃんと治すことだけ考えないと」「私のこと、好きじゃないから拒むの?」玲奈の声には涙が混じっていた。「違う」遥真は短く答えた。「じゃあ、なんで……なんで柚香にはキスできるのに、私には触れもしないの?」「あれは、陽翔の前で芝居をしただけだ」遥真は彼女の腕を外し、さらりと話題をそらした。「君が心配するようなことはない。俺にとって一番大事なのは君だ」玲奈は感激したように彼を抱きしめた。けれどその胸の奥には、消えない不安が渦巻いていた。――いつ

  • 手遅れの愛、妻と子を失った社長   第7話

    部屋の中を一通り見渡した彼の視線が、最後に柚香の手にあるスーツケースで止まった。柔らかい声に真剣さを帯びて尋ねる。「ママ、それ、なんでスーツケース持ってるの?」柚香は口を開きかけたが、すぐにはうまい言い訳が浮かばなかった。「それはパパの荷物だよ」遥真が口を開き、息子の前にしゃがみ込む。視線の高さを合わせながら言った。「パパ、数日出張なんだ。その間、ママの言うことをちゃんと聞くんだぞ、わかった?」陽翔は素直に頷く。「わかった」「いい子だな」遥真は彼の頭を優しく撫でた。「このおばさんは?」陽翔の視線が玲奈に向かう。「パパの秘書だよ」遥真はまるで呼吸するように嘘をついた。「これから一緒に出張に行くんだ」柚香はスーツケースの取っ手を握る手に力が入ったが、表情は崩さなかった。遥真は立ち上がり、自然な仕草で彼女の手からスーツケースを受け取る。いつもと同じように、彼女の唇に軽くキスを落とし、穏やかな声で言った。「行ってくる。寂しくなったら電話して」柚香は胸の奥にこみ上げる不快感を押し殺し、ぎこちなく返す。「うん」「いい子だ」遥真は彼女の耳もとに手を伸ばし、落ちた髪をそっと耳にかける。その指先が耳の形をなぞるように滑り、最後に耳たぶをやわらかく指で弄んだ。「帰ってくるまで、待ってて」「もう行きなよ。飛行機、間に合わなくなるよ」柚香は促した。今の彼女にとって、彼と一秒でも近くにいること自体が耐えがたいほど嫌だ。とにかく、早く出ていってほしい。彼女の拒絶を感じ取った遥真は、わざと挑発するように身を屈め、唇に軽くキスを落とした。触れるだけの一瞬で、拒む間すら与えない。柚香が怒りをにじませて顔を上げた時には、もう彼はスーツケースを持って玲奈と一緒に部屋を出ていった。「ママ」二人が去った後、陽翔がぽつりと声を出した。柚香は気持ちを抑え、いつもの笑顔で向き合う。「どうしたの?」陽翔は一度口を開きかけ、言い直した。「お昼の時間だよ。ご飯、食べに行こう」「うん」柚香は頷いた。――食事の間中、彼女の頭の中にはさっきのことが渦巻いていた。あんなに平然とした顔で、息子に嘘をつけるなんて。私が浮気のことを陽翔に話すかもしれないとは思わないのだろうか。それに、あのキス。他に女がいるくせに、どうしてまだ自分に触れるの。

  • 手遅れの愛、妻と子を失った社長   第6話

    「出て行くんじゃなかったのか?なんでまだここにいる?」遥真は、避けもせずまっすぐに彼女の視線を受け止めた。「言われなくても出て行くわ」柚香はスーツケースを手に取り、冷たく言い放つ。「こんなゴミばかりの場所、もう一秒だっていたくない」そう言うと、彼女は一瞬のためらいもなく歩き出した。そのあまりのあっさりぶりに、遥真の目がわずかに陰を帯びる。「待て」柚香の足が止まる。彼女が何か言う前に、遥真は視線をスーツケースに落とし、玄関に立つボディーガードへと命じた。「橘川さんの荷物をチェックして。中に彼女のものじゃない物が入っていないか確認しろ」「どういう意味?」柚香は反射的にスーツケースを抱きかかえた。「さっき君がジュエリーを盗もうとした件があるからな。中に他のものが入っていないとは言い切れないだろう」遥真は、相手を追い詰める方法をよくわかっていた。「確認したほうが、お互いのためだ」「あなたの中で、私はそんな人間なの?」柚香の瞳に、怒りと失望が入り混じる。ほんの一瞬――遥真の心がわずかに揺らいだ。けれど、彼女があれほど冷たく出ていこうとした姿を思い出し、感情を押し殺して言い放つ。「そうだ」胸の奥が、鋭く痛んだ。愛されなくても、冷たくされても、柚香は耐えてきた。けれど、玲奈の前で侮辱されることだけは、どうしても許せなかった。それは彼女の存在そのものを否定する行為であり、誇りを踏みにじることだった。「プライバシーを侵すような検査なんて、絶対に受けない」柚香はスーツケースのハンドルを、今までにない力で握りしめた。「どうしても調べたいなら、警察を呼んで。それが嫌なら、いっそ私の手を切り落として」そう言って、彼女は負けじと彼を見返す。遥真は彼女の前に立ち、強気なその瞳を見つめながら、彼女の指を一本ずつ、静かにスーツケースから剥がしていった。柚香は必死に抵抗したが、その力は簡単に振りほどかれた。彼は無表情のままスーツケースをボディーガーに渡した。まるで仕事の手続きをこなすように。「念入りに調べろ。隅々まで」「かしこまりました」ボディーガードは即座に応じた。「遥真!」柚香は涙目でスーツケースを奪い返した。今まで、こんな屈辱を受けたことは一度もなかった。遥真の顔には、もう以前のような優し

  • 手遅れの愛、妻と子を失った社長   第5話

    柚香の心は粉々に砕け散っていた。唇をきゅっと結び、やっとのことで声を絞り出す。「……そこまでしなきゃ気がすまないの?」「君に教えてやりたいだけだ。俺と別れたら、君の人生はめちゃくちゃになるってことをな」遥真は彼女の前に立ち、見下ろすように言った。「もちろん、どうしても何かを売って生活の足しにしたいなら、玲奈に相談してみればいい」玲奈は思わず自分を指さした。「私?」「君はこの家の女主人だ。ここのものをどうするかは、君が決めていい」遥真の言葉は玲奈に向けられていたが、その視線は柚香に落とされた。まるで、逆らえば、こうして別の誰かに取って代わられるのだと告げるように。柚香の両手が、ぎゅっと握り締められる。屈辱が、波のように胸の奥からこみ上げた。「記念に持っていくくらいなら構わないけどね」玲奈は火に油を注ぐように言った。「でも売るために持っていくのは、あなたの彼への想いを安っぽく見せる気がして。私なら、どんなにお金に困ってもそんなことできないわ」遥真が柚香に視線を向けた。「聞いたか?」その言葉の代わりに返ってきたのは、ものを投げつける音だった。ガシャン。柚香は手にしていたジュエリーを床に叩きつけ、そのまま踵を返した。一度も振り返らずに、部屋を出ていく。「柚香があんなに怒るなんて……わたしの言い方が悪かったのかも」玲奈は唇を噛み、申し訳なさそうに眉を下げた。「私、謝ってこようか?」「必要ない」遥真は冷たく遮った。「でも……」玲奈はまだ何か言いたげだった。「気に入らないものがあったら言え。片づけさせる」そう言って彼女の頭を撫で、優しく微笑む。「これからは、この部屋のものは全部君のだ」「ありがとう、遥真……」玲奈はその胸に腕を回した。その光景は……柚香の視界の端に映った。二人がそういう関係だと頭ではわかっていても、彼があんなふうに、玲奈を甘やかすように優しく扱っているのを目の当たりにすると、胸のあたりがどうしても痛むのだ。昔、彼は言ってくれた。自分が一番愛されていて、誰よりも特別なんだ、と。その言葉は、もうどこにも残っていなかった。「いつまで荷造りしてる?まさか、出ていく気がないのか?」遥真が目の前に立ち、冷ややかに見下ろした。柚香はスーツケースをパタンと閉じ、顔を上げる。「ただ確認してただけ

Plus de chapitres
Découvrez et lisez de bons romans gratuitement
Accédez gratuitement à un grand nombre de bons romans sur GoodNovel. Téléchargez les livres que vous aimez et lisez où et quand vous voulez.
Lisez des livres gratuitement sur l'APP
Scanner le code pour lire sur l'application
DMCA.com Protection Status