LOGINそう思った途端、柚香の気持ちはこれまでにないくらい軽くなった。プレッシャーが大きいのも、疲れているのもわかっている。それでも、目の前には希望がある。「病院の方は、私がしっかり見ておきますよ」高橋先生は、感情をぐっと押し込み、医者としてできる限りの安心を与えるように言った。「君は自分のやるべきことに集中してください」「ありがとうございます」柚香は丁寧に頭を下げた。もう他に話すこともなさそうで、彼女は席を立ち病室へ向かった。ドアノブに手をかけた瞬間、高橋先生が顔を上げ、呼び止めた。「橘川さん」振り返る。「はい?」整った眉と澄んだ目元は、まっすぐで、以前のような従順でおとなしい雰囲気はもうない。短い間に芯の強さが宿り、まるで別人のようだった。高橋先生がじっと見てくるのに気づき、柚香はドアノブから手を離した。「どうかしました?」「いや、なんでもないです」高橋先生は、むしろ今の彼女の変化を良いことのように思いながら続けた。「ただ……忙しくて来られないときは、ひとこと教えてくださいね。私の方から君のお母さんの様子を見に行くから」「……はい。本当にありがとうございます」柚香の声はまっすぐで、感謝がはっきり伝わった。微笑みを返すと、彼女はそのまま病室を出ていった。足取りは速く、迷いがなく、その歩き方には静かな決意がにじんでいた。病室に戻ると、柚香はベッドの傍に座り、母の手を取って自分の頬にあてた。ベッドに横たわる母を見つめるその瞳には、優しさと揺るぎない愛情だけがあった。彼女は母・安江にたくさん話しかけた。この間の出来事を話し、未来の計画を語り、会いたかったことを伝えた。そのひとつひとつを、パソコンを見ている遥真は、驚くほどはっきりと耳にしていた。話を聞けば聞くほど、彼の周りに冷気のような空気が漂い始め、横に置いていた手がじわりと力をこめて握り締められた。柚香の描く「未来」には、陽翔がいて、安江がいる。ただひとり、彼だけがいない。時也は彼の変化に気づき、ノートパソコンを閉じながら言った。「お義母さんの手術、成功したんだしさ。下に行って様子見てきたら?」「弘志は?」遥真の目は深く、底が見えない。「……グラス洗ってる。バーで」時也は何でそんなことを聞くのかわからず、首を傾げる。「数日したら、柚香の住所を『うっか
遥真の、冷え切った視線がそちらへ向いた。時也は即座に口をつぐむ。「……今の、忘れてくれ!」遥真は昔から、彼ら全員より頭の回転が速かった。ただ、あることに関しては異常なほど思い込みが強い。誰が何を言っても聞く耳を持たないほどに。それから三十分ほど経った頃。手術室の扉が開いた。モニターに映る柚香は、真っ先に立ち上がって駆け寄る。目には隠しようのない焦りと心配が浮かんでいた。「高橋先生、お母さんは……」「手術はとても順調でしたよ」高橋先生はマスクを外し、安心させるように穏やかに微笑んだ。「これから毎日、声をかけてあげてください。話しかけたりしていれば、長くても二ヶ月以内には目を覚まします」「ほんとですか?!」柚香の瞳が一瞬で明るくなる。高橋先生はうなずき、はっきり返した。「ええ、本当です」「ありがとうございます!」柚香はこみ上げる思いのままに、先生と手術に関わったスタッフ全員に深々と頭を下げた。「本当に……本当にありがとうございます」柚香の母は病室へ運ばれていく。緊張がようやくほどけ、頭の上にぶら下がっていた刃がすっと消えたようだった。看護師たちは母をベッドに移し、各種の注意点を説明する。ひと通り終えると、高橋先生が言った。「では、少しお話があります。こちらは彼女たちに任せて大丈夫ですから、私のオフィスでお話ししましょう」柚香は看護師に礼を言い、高橋先生の後をついていった。高橋先生は椅子に腰を下ろし、手元のカルテを開く。さっきより表情がわずかに暗い。その変化に気づいた柚香は、不安が一気に押し寄せて落ち着かなくなる。「……お母さんの病状に、まだ何か問題があるんですか?」高橋先生は一度立ち上がり、コップに水を注いで柚香の前に置いた。その気遣いが逆に不安を煽る。「病状に問題はありません。あとは目を覚ますのを待つだけです」そう言う先生の目の奥は、どこか言いにくそうに揺れていた。柚香は身を乗り出す。「じゃあ話って何ですか?」「手術前にもお話ししましたが……手術費は一千万です。しかし術後の費用については、まだ予測がつきません」高橋先生は彼女のまなざしを受け止めながら、ゆっくりと言葉を選んだ。少しでも重さが和らぐように、声の調子まで気を配っていた。「覚えていますね」柚香は頷いた。「はい、覚えています」高橋先生は
「じゃあ仕事に集中して。わざわざ私のために帰ってこなくていいよ」玲奈は目的を果たしたので、気を遣うように一言を添えた。「大したことじゃないし、少し休めば平気だから」「わかった」遥真は無理に突っ込んではこなかった。二人はあと少し世間話をしてから電話を切った。時也は遥真と柚香、そして玲奈の間の複雑な事情を知っていたが、彼がここまで非常識な行動に出るとは思っていなかった。「玲奈が嘘ついてるのは分かってるだろ?」「何が言いたい」遥真の奥が読めない目には、感情が浮かばない。「簡単に言うとだな」時也は少し身を寄せ、言葉を選んだ。「玲奈さんってさ、いわゆる『あざとい系』、いま流行りの『ぶりっ子』ってやつだぞ」遥真は落ち着いた調子で、頷く。「うん」時也「?」――うん、で終わり?「先に仕掛けたのは玲奈さんのほうだぞ?柚香さんがわざと絡んだわけじゃない。君、柚香さんとちゃんと話し合うつもりはないのか?」時也は、彼の心の奥に残った良心を引っ張り出すように言った。遥真は、モニターの前で手術室の方向を緊張しながら見つめている柚香に視線を戻し、いつもの淡々とした声で言った。「今日俺を初めて知ったのか?」「いや、でもさ、身内をかばうのにも状況ってもんがあるだろ」時也は言いたいことを飲み込みながら続けた。「今回の玲奈のやり方は、正直かなり問題あるぞ」「筋を通すのは法律の世界のことだ」遥真は薄く口を開いた。「俺は、自分の大事な人だけ守れればそれでいい」時也は言いかけた言葉を飲み込んだ。遥真が身内をかばうタイプなのは分かっている。前に柚香がひどい目にあったときも、経緯を聞く前から彼女の味方をし、「俺は彼女の盾になるために来た。君らと正論を語りに来たんじゃない」と言い放ったくらいだ。そのときは、遥真が頼もしい男だと思った。けれど今は。ただ柚香が離婚を切り出しただけで、玲奈がいつの間にか「自分側の人間」扱いになり、柚香に非があるかのように責める。筋としては一貫してるのかもしれないが、どうにも腑に落ちない。「正直に言えよ」時也には一つだけ心当たりがあった。「君、そういう『あざとい系』好きなのか?」遥真はちらりと視線を向けたが、答えなかった。彼は「あざとい子」が好きなわけじゃない。たとえ相手が、かつて恩のある玲奈であっても。た
遥真は、まるで相手がバカでも見ているような顔で時也を見つめていた。「その顔、何なんだよ」時也が不満そうに言う。遥真は答えなかった。もし柚香が玲奈の条件を受け入れるような人なら、あのとき彼が出した条件だって受け入れていたはずだ。「玲奈さんが帰り際に言った感じだと、これから柚香さんのこと狙ってくるんじゃないか」時也は話題を変えた。遥真が何考えてるのか本当に理解不能だ。「君、玲奈さんと話したほうがよくない?」遥真はそっと口を開く。「何を話すっていうんだ」「柚香さんにちょっかい出すなって、止めればいいじゃん」時也は理性的に言う。「柚香さんはもうすぐ君と離婚するし、君に未練もないだろ。玲奈さんが手を出したら、トラブルの種まきにしかならないだろ?」遥真の瞳が一瞬で暗く沈む。その場の空気がぐっと冷え込んだ。時也の心臓がばくばくする。いや、事実を言っただけだろ?なんで怒るんだよ。「彼女が何をしようと自由だ」遥真の声は冷ややかで、感情の色が読めない。「たとえ何かトラブル起こしても、彼女の代わりに俺が片付ける」「……は?」時也の脳が追いつかない。「今の『彼女』って、玲奈さんのこと?それとも柚香さんのこと?」「どっちだと思う」遥真は落ち着いた声で返す。「いや、君……ちょっと頭おかしくなってない?」時也はこめかみを押さえる。こんな狂気じみた理屈、誰が予想する。「玲奈さんのせいで柚香さんと離婚したのはまだしも、今度は玲奈さんが柚香さんに喧嘩売ろうとしてんのに、君はまだ彼女の肩を持つのか?」「俺は自分の側の人間の肩しか持たない」少し言い換えるように遥真は言った。時也はなんとか正気に戻そうとする。「忘れてないよな?玲奈さんが柚香さんに絡む原因って、君がずっと柚香さんの生活に首突っ込んでるからなんだぞ」「それで?」遥真は微動だにしない。時也は頭の中いっぱいに「???」を浮かべた。いや、何でまだ「それで?」なんだよ。普通の人間なら、こんなことできるか?「それは彼女自身が選んだことだ」遥真の視線はモニターに映る人物に向けられ、その黒い瞳はこれまでで一番深く沈んでいた。「向き合いたくないなら、戻ってくればいい。逃げ道はいくらでも残してある」時也の口元が引きつる。その「逃げ道」、地獄の一本道と何が違うんだよ。普通の神経
いくら何でも寝て築いたわけじゃないだろう。遥真がそこまで浅ましいことをする男ではない。「直接、本人に聞けば?」玲奈は気持ちを整えて、平然としたふりで言った。「彼と約束したの。余計なことは言わないって」「言う気がないなら、あなたの言う『協力』なんて続ける意味ないでしょ」柚香ははっきりとした声音で追い払うように言った。「大人しく愛人やってな」「柚香!」玲奈は、自分がここまで誠意を見せても拒まれるとは思わなかった。柚香は顎を少し上げ、壁の「静かに」という注意書きを指で示す。玲奈は、両脇に下ろした手をきゅっと握りしめ、声を落として言い寄った。「あなただって分かっているはず。遥真があなたにしていることは、おもちゃ扱いよ。彼が飽きるまで、あなたは永遠に彼から逃げられない」「言いたいことは終わり?」柚香は全部承知のうえだ。「あなたが安定して暮らせるように、私に方法があるの」玲奈はまだ諦めていなかった。「あなたは彼の支配から逃げられて、私は彼の心を全部手に入れる。お互い得しかしないでしょ」「少しは恥を知ったら?」柚香はもう、平手打ちしたい衝動をこらえるのに必死だった。玲奈は正義感ぶった顔で言い返す。「私はあなたのためを思って言ってるのよ!」「帰って」柚香はもう彼女と話す気も失せた。「よく考えなさい」玲奈は立ち上がり、バッグを握る手に力を込める。「今日断ったとしても、あなたを追い出す方法なんていくらでもあるのよ。いつまでその頭、現実から逃げるつもり?」柚香は隣のバッグを掴むと、そのまま勢いよく投げつけた。ドンッ!「きゃっ!」玲奈は額を押さえて悲鳴を上げる。柚香の視線は刃物のように鋭かった。「な、なにするのよ!」玲奈の目つきが怒りと苛立ちに変わる。「次はその横の椅子が飛ぶわよ」柚香の声は氷のように冷たかった。「覚えてなさい!」玲奈の顔は憎しみで歪んでいた。「絶対後悔するから!」柚香は彼女にこれ以上目もくれず、彼女がヒールで怒りながら去った後、複雑な気持ちで床に落ちたバッグを拾い上げた。時々、柚香は玲奈のことがある意味うらやましく思える。浮気相手が本妻に「去れ」と言うことを恩恵と考えるような、この極めて厚かましく恥知らずな考え方は、遥真とまさに完璧な組み合わせだ。遥真と同類だと思えば、そりゃ家の中に
柚香は言葉失った。「……」玲奈は横目で、深刻な表情を浮かべた柚香の横顔を見つめた。ぼんやりと、初めて出会った頃のことがよぎり、つい言葉が口を突いて出た。「もしあの時のことがなかったら、私たち、一生の友達になれてたのかな」「ならないよ」柚香はきっぱりと言った。玲奈の性格は、そもそも「穏やかに」なんて収まらない。あの出来事がなかったとしても、ふたりが一生の友達になる道なんてなかった。「ならないなら……じゃあ遥真の話をしよう」玲奈はその答えをわかっていたし、驚きもしなかった。「あなたも、遥真に纏わりつかれたくないんでしょ。あなたの生活に口出しされたくないはず」柚香は横目で玲奈を見る。彼女が何を考えているのか、まるで読めなかった。「私も同じなの」玲奈は目をそらさずに向き合った。「この件に関しては、私たちの目的は一致してる」「何が言いたいの」柚香の瞳の奥に、わずかに感情が揺れた。「協力しない?」玲奈ははっきりと目的を口にした。「私のこれまでの貯金、全部あなたに渡す。その代わり、おばさんの病状が落ち着いたら、あなたはおばさんを連れて京原市を出て行って。あなたが引き受けてくれるなら、遥真のことは全部、私がどうにかする」柚香は眉を寄せた。玲奈はこれまでで一番真剣な顔をしていた。「絶対に、あなたやあなたの友達には手を出させないって保証する」「その話、この前もあったよね」柚香はまだ灯ったままの手術室のランプを見つめたまま、興味のなさそうに言った。「前は、遥真のお金を使ってあなたを追い出そうとした。あれは確かに、少しは侮辱的だったと思う」玲奈も同じ方向を見ながら言う。「でも今回は、私の貯金で、あなたと誠意を持って話しているの」柚香は唇を結んだ。本当は、遥真とは一切関わりたくない。けれど世の中には、望んだところで避けられないこともある。「愛人が金を払って本妻を追い出すことを、誠意と呼ぶの?」柚香は皮肉っぽく返した。「最近、遥真があなたにしたこと……私もある程度知ってる」玲奈は皮肉にも動じなかった。「彼があなたを諦めない限り、今みたいにあなたの生活をかき乱し続ける。そして私も、彼の心の全てを手に入れることは永遠にできない」「ひとつ、聞きたいことがある」柚香が言った。玲奈は真面目に向き合う気で、いつになく柔らか