LOGIN「じゃあ仕事に集中して。わざわざ私のために帰ってこなくていいよ」玲奈は目的を果たしたので、気を遣うように一言を添えた。「大したことじゃないし、少し休めば平気だから」「わかった」遥真は無理に突っ込んではこなかった。二人はあと少し世間話をしてから電話を切った。時也は遥真と柚香、そして玲奈の間の複雑な事情を知っていたが、彼がここまで非常識な行動に出るとは思っていなかった。「玲奈が嘘ついてるのは分かってるだろ?」「何が言いたい」遥真の奥が読めない目には、感情が浮かばない。「簡単に言うとだな」時也は少し身を寄せ、言葉を選んだ。「玲奈さんってさ、いわゆる『あざとい系』、いま流行りの『ぶりっ子』ってやつだぞ」遥真は落ち着いた調子で、頷く。「うん」時也「?」――うん、で終わり?「先に仕掛けたのは玲奈さんのほうだぞ?柚香さんがわざと絡んだわけじゃない。君、柚香さんとちゃんと話し合うつもりはないのか?」時也は、彼の心の奥に残った良心を引っ張り出すように言った。遥真は、モニターの前で手術室の方向を緊張しながら見つめている柚香に視線を戻し、いつもの淡々とした声で言った。「今日俺を初めて知ったのか?」「いや、でもさ、身内をかばうのにも状況ってもんがあるだろ」時也は言いたいことを飲み込みながら続けた。「今回の玲奈のやり方は、正直かなり問題あるぞ」「筋を通すのは法律の世界のことだ」遥真は薄く口を開いた。「俺は、自分の大事な人だけ守れればそれでいい」時也は言いかけた言葉を飲み込んだ。遥真が身内をかばうタイプなのは分かっている。前に柚香がひどい目にあったときも、経緯を聞く前から彼女の味方をし、「俺は彼女の盾になるために来た。君らと正論を語りに来たんじゃない」と言い放ったくらいだ。そのときは、遥真が頼もしい男だと思った。けれど今は。ただ柚香が離婚を切り出しただけで、玲奈がいつの間にか「自分側の人間」扱いになり、柚香に非があるかのように責める。筋としては一貫してるのかもしれないが、どうにも腑に落ちない。「正直に言えよ」時也には一つだけ心当たりがあった。「君、そういう『あざとい系』好きなのか?」遥真はちらりと視線を向けたが、答えなかった。彼は「あざとい子」が好きなわけじゃない。たとえ相手が、かつて恩のある玲奈であっても。た
遥真は、まるで相手がバカでも見ているような顔で時也を見つめていた。「その顔、何なんだよ」時也が不満そうに言う。遥真は答えなかった。もし柚香が玲奈の条件を受け入れるような人なら、あのとき彼が出した条件だって受け入れていたはずだ。「玲奈さんが帰り際に言った感じだと、これから柚香さんのこと狙ってくるんじゃないか」時也は話題を変えた。遥真が何考えてるのか本当に理解不能だ。「君、玲奈さんと話したほうがよくない?」遥真はそっと口を開く。「何を話すっていうんだ」「柚香さんにちょっかい出すなって、止めればいいじゃん」時也は理性的に言う。「柚香さんはもうすぐ君と離婚するし、君に未練もないだろ。玲奈さんが手を出したら、トラブルの種まきにしかならないだろ?」遥真の瞳が一瞬で暗く沈む。その場の空気がぐっと冷え込んだ。時也の心臓がばくばくする。いや、事実を言っただけだろ?なんで怒るんだよ。「彼女が何をしようと自由だ」遥真の声は冷ややかで、感情の色が読めない。「たとえ何かトラブル起こしても、彼女の代わりに俺が片付ける」「……は?」時也の脳が追いつかない。「今の『彼女』って、玲奈さんのこと?それとも柚香さんのこと?」「どっちだと思う」遥真は落ち着いた声で返す。「いや、君……ちょっと頭おかしくなってない?」時也はこめかみを押さえる。こんな狂気じみた理屈、誰が予想する。「玲奈さんのせいで柚香さんと離婚したのはまだしも、今度は玲奈さんが柚香さんに喧嘩売ろうとしてんのに、君はまだ彼女の肩を持つのか?」「俺は自分の側の人間の肩しか持たない」少し言い換えるように遥真は言った。時也はなんとか正気に戻そうとする。「忘れてないよな?玲奈さんが柚香さんに絡む原因って、君がずっと柚香さんの生活に首突っ込んでるからなんだぞ」「それで?」遥真は微動だにしない。時也は頭の中いっぱいに「???」を浮かべた。いや、何でまだ「それで?」なんだよ。普通の人間なら、こんなことできるか?「それは彼女自身が選んだことだ」遥真の視線はモニターに映る人物に向けられ、その黒い瞳はこれまでで一番深く沈んでいた。「向き合いたくないなら、戻ってくればいい。逃げ道はいくらでも残してある」時也の口元が引きつる。その「逃げ道」、地獄の一本道と何が違うんだよ。普通の神経
いくら何でも寝て築いたわけじゃないだろう。遥真がそこまで浅ましいことをする男ではない。「直接、本人に聞けば?」玲奈は気持ちを整えて、平然としたふりで言った。「彼と約束したの。余計なことは言わないって」「言う気がないなら、あなたの言う『協力』なんて続ける意味ないでしょ」柚香ははっきりとした声音で追い払うように言った。「大人しく愛人やってな」「柚香!」玲奈は、自分がここまで誠意を見せても拒まれるとは思わなかった。柚香は顎を少し上げ、壁の「静かに」という注意書きを指で示す。玲奈は、両脇に下ろした手をきゅっと握りしめ、声を落として言い寄った。「あなただって分かっているはず。遥真があなたにしていることは、おもちゃ扱いよ。彼が飽きるまで、あなたは永遠に彼から逃げられない」「言いたいことは終わり?」柚香は全部承知のうえだ。「あなたが安定して暮らせるように、私に方法があるの」玲奈はまだ諦めていなかった。「あなたは彼の支配から逃げられて、私は彼の心を全部手に入れる。お互い得しかしないでしょ」「少しは恥を知ったら?」柚香はもう、平手打ちしたい衝動をこらえるのに必死だった。玲奈は正義感ぶった顔で言い返す。「私はあなたのためを思って言ってるのよ!」「帰って」柚香はもう彼女と話す気も失せた。「よく考えなさい」玲奈は立ち上がり、バッグを握る手に力を込める。「今日断ったとしても、あなたを追い出す方法なんていくらでもあるのよ。いつまでその頭、現実から逃げるつもり?」柚香は隣のバッグを掴むと、そのまま勢いよく投げつけた。ドンッ!「きゃっ!」玲奈は額を押さえて悲鳴を上げる。柚香の視線は刃物のように鋭かった。「な、なにするのよ!」玲奈の目つきが怒りと苛立ちに変わる。「次はその横の椅子が飛ぶわよ」柚香の声は氷のように冷たかった。「覚えてなさい!」玲奈の顔は憎しみで歪んでいた。「絶対後悔するから!」柚香は彼女にこれ以上目もくれず、彼女がヒールで怒りながら去った後、複雑な気持ちで床に落ちたバッグを拾い上げた。時々、柚香は玲奈のことがある意味うらやましく思える。浮気相手が本妻に「去れ」と言うことを恩恵と考えるような、この極めて厚かましく恥知らずな考え方は、遥真とまさに完璧な組み合わせだ。遥真と同類だと思えば、そりゃ家の中に
柚香は言葉失った。「……」玲奈は横目で、深刻な表情を浮かべた柚香の横顔を見つめた。ぼんやりと、初めて出会った頃のことがよぎり、つい言葉が口を突いて出た。「もしあの時のことがなかったら、私たち、一生の友達になれてたのかな」「ならないよ」柚香はきっぱりと言った。玲奈の性格は、そもそも「穏やかに」なんて収まらない。あの出来事がなかったとしても、ふたりが一生の友達になる道なんてなかった。「ならないなら……じゃあ遥真の話をしよう」玲奈はその答えをわかっていたし、驚きもしなかった。「あなたも、遥真に纏わりつかれたくないんでしょ。あなたの生活に口出しされたくないはず」柚香は横目で玲奈を見る。彼女が何を考えているのか、まるで読めなかった。「私も同じなの」玲奈は目をそらさずに向き合った。「この件に関しては、私たちの目的は一致してる」「何が言いたいの」柚香の瞳の奥に、わずかに感情が揺れた。「協力しない?」玲奈ははっきりと目的を口にした。「私のこれまでの貯金、全部あなたに渡す。その代わり、おばさんの病状が落ち着いたら、あなたはおばさんを連れて京原市を出て行って。あなたが引き受けてくれるなら、遥真のことは全部、私がどうにかする」柚香は眉を寄せた。玲奈はこれまでで一番真剣な顔をしていた。「絶対に、あなたやあなたの友達には手を出させないって保証する」「その話、この前もあったよね」柚香はまだ灯ったままの手術室のランプを見つめたまま、興味のなさそうに言った。「前は、遥真のお金を使ってあなたを追い出そうとした。あれは確かに、少しは侮辱的だったと思う」玲奈も同じ方向を見ながら言う。「でも今回は、私の貯金で、あなたと誠意を持って話しているの」柚香は唇を結んだ。本当は、遥真とは一切関わりたくない。けれど世の中には、望んだところで避けられないこともある。「愛人が金を払って本妻を追い出すことを、誠意と呼ぶの?」柚香は皮肉っぽく返した。「最近、遥真があなたにしたこと……私もある程度知ってる」玲奈は皮肉にも動じなかった。「彼があなたを諦めない限り、今みたいにあなたの生活をかき乱し続ける。そして私も、彼の心の全てを手に入れることは永遠にできない」「ひとつ、聞きたいことがある」柚香が言った。玲奈は真面目に向き合う気で、いつになく柔らか
「社長はこの二日間出張で、水曜の午後に戻る予定です」面接官は柚香の躊躇う様子を見て、付け加えて説明した。「もしご都合がよろしければ、水曜の午後三時に最終面接をお願いしたいんですけど」「大丈夫です」柚香は答えた。母の手術は今日の午後だ。万が一何かあっても、火曜日までには対応できる。手術後にどれだけ費用がかかるかもまだわからない。とにかく仕事だけは逃せない。――どうか今回こそ、遥真に邪魔されませんように。面接が終わると、柚香は急いで病院へ向かった。手術は午後とはいえ、やはり心配で落ち着かない。病院に着いたのは十一時を少し過ぎた頃。彼女の姿を見つけると、高橋先生がいつもとあまり変わらない調子で声を掛けてきた。「手術のことは聞いてますね?」「はい」柚香は向かいに座り、柔らかな目元に隠しきれない不安と心配を滲ませた。「成功の確率はどれくらいですか?」「五割です」高橋先生はありのままを伝えた。柚香の胸がきゅっと縮む。この数年、母はずっと意識のないままベッドで眠り続けている。呼びかけても返事はない。それでも、ときどき反射のように身体がわずかに動くことがあった。それを見るたびに、まだ生きてるんだって思えた。でも、もし失敗したら。もしずっと呼吸器に頼って生きることになったら。考えるだけで息が詰まりそうだった。「お母さんの治療には、こちらもできる限りのことをしますよ」高橋先生は落ち着いた声でそう励ました。ここ数年、柚香がどれほど耐えてきたか、彼もよく知っている。「神様が見てますから……きっと、良い方向へ向かいます」「手術中に必要なものがあれば、遠慮なく使ってください。払えるかどうかは気にしないで……後から、どうにかして稼ぎます」柚香は唇を引き上げて笑った。神様なんて、ただの慰めだと彼女もわかっていた。高橋先生は何か言いかけて、最後は「わかりました」とひと言だけ口にした。手術の日取りを柚香に伝える前に、高橋先生はこの件を遥真に知らせていた。遥真は話を聞くと即座に、病院の口座へ二億万円を振り込ませ、「全力で治療してほしい」と指示した。ただし条件は、柚香には知らせず、すべての費用を自分で稼がなければならないと思わせることだった。高橋先生には遥真の意図まではわからない。しかし、お金をもらって仕事をするのは常であり、医者とし
計画が失敗したっていうのに、この男はどうしてこんなに落ち着いていられるんだ、と思ったら、ちゃんと次の手を用意していたわけか。京原市の誰もが、怜人は矢野家と折り合いが悪いことを知っている。親子が一緒にいれば、口論するか張り合うかで、結局は父親がカッとなって彼を家から追い出してしまったのだ。怜人もあっさり家を出て、独立して自分の道を歩み始めた。「ここ数日、怜人を観察しろ。毎日何をしてるのか全部知りたい」遥真は運転席の恭介にそう指示した。「わかりました」さらに五分ほどそのまま待ち、遥真はようやく車を出すよう命じた。柚香はそんなことなどまったく知らない。ただ、少なくとも今日に限っては自分も怜人も遥真に監視されている、その感覚だけははっきりとあった。家に戻ると、彼女はノートパソコンや液晶ペンタブレットなどの道具をリビングのバルコニーに面した机に移動させ、ネットで一枚のイラストの依頼を受けた。こういう人物の全身立絵は、柚香にとっては簡単だ。普段から大手ゲーム会社の公募に出していて、何百万人もいる参加者の中から勝ち抜き、賞金を獲得してきたからだ。ただ、あの頃は稼ぐつもりなんてなく、ただ描くのが楽しかっただけ。でも今は違う。今はこれで稼がなきゃいけない。一般的な全身立ち絵は、依頼内容によって数万円から数十万円までさまざま。今回の依頼は六万。条件も厳しくないし、一日あれば描ける。ただ、こういう依頼が毎日来るわけじゃない。その日の午後、柚香はずっと絵を描いていた。気づけば四時間も経っていた。アラームが鳴って陽翔を迎えに行く時間になり、痛くなった首を揉みながら家を出た。その日の夜。陽翔を寝かしつけたあと、柚香はパソコンの前へ。ペンを握って続きを描こうとしたところ、怜人から電話がかかってきた。「まだ起きてる?」「うん、起きてるよ」「君に合いそうな会社をいくつかまとめた。さっきLINEに送ったから、見て」柚香はパソコンで開いた。「全部調べたけど、遥真や時也、それにその周りと利害関係はない。安心して応募していい」怜人は間髪入れず続けた。「もちろん、俺とも関係ない」真帆と話した後、彼は柚香の置かれている状況をより深く理解するようになった。彼女が心配しているのなら、こういう形で助けようと思ったのだ。「わかった」柚香は答