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第7話

Author: 緋色の追憶
冷たい。

それは晴美が意識を取り戻して最初に感じたことだ。

冷たい空気。冷たい手。そして、下腹部に広がる、何もかもをえぐり取られたような、虚無の冷たさ。

彼女は見知らぬ病室のベッドに横たわっていた。周囲は簡素な白い壁に囲まれ、窓の外は灰色にけぶる空。夜明けなのか夕暮れなのかも判別できない。

記憶が砕けたガラス片のように脳裏へ突き刺さる――倉庫、縄、玲子の笑み、涼太の選択、そして落ちていくような痛みと、広がる温かい液体……

彼女の手が震えながら下腹部へと伸びる。

平らで、静かで、何も感じ取れない。

「君の子どもは助からなかった」冷ややかな男の声が傍らで響いた。

晴美ははっと顔を向け、病室の扉口に立つ男の姿を見る。三十歳前後、質素な濃色のジャケットを身にまとい、彫りの深い顔立ちに、鷹のように鋭い目をしている。

彼はそこに立ち、医療従事者に見られるような柔らかな気配りはなく、ただ冷ややかで静謐な落ち着きを漂わせている。

「大量出血に加え、子宮の損傷が甚だしい。生き延びたのは奇跡と言っていい」

彼は部屋に入ると、椅子を引き寄せて腰を下ろし、無駄のない動作で話を続ける。「ここは隣町の私立病院だ。安全な場所だよ。俺は黒田毅(くろだ たけし)、刑事だ。白石玲子と、その背後にいる国際犯罪組織を追っている」

晴美は口を開こうとしたが、喉が渇ききって声が出てこない。

毅は水を差し出し、彼女がゆっくり飲み終わるのを見届けてから、低い声で言葉を続ける。「俺たちは今証人を探してるんだ。生きてて、意識がはっきりして、彼女を告発できるような証人だ。君が、俺たちにとって唯一の手がかりなんだ」

晴美の指先が、シーツをぎゅっと握りしめる。

憎しみが、硫酸のように彼女の内臓を焼いた。

「白石玲子って、いったい何者なの?」

かつては涼太の病状や気持ちを気遣って、一度も尋ねなかった。コメント欄でも、ただ「涼太の影」としか語られていなかった。

毅は表情を引き締め、簡潔に説明する。

「彼女の父親は、海外のマフィアのボスで、国際手配中の犯罪者だ。本人もまた、重要な手配犯として名を連ねている」

「どうして……私なの?」晴美の声はかすれている。

「藤原涼太は、以前彼女に雇われた傭兵だ。彼女の指示で多くの非合法工作に関わり、同時に、彼女にとって最も『特別な作品』だった」

毅の声には、まるで解剖を行うような冷静さが滲んでいる。

「我々のプロファイリングでは、白石玲子は重度の支配性パーソナリティ障害を持っている。彼女は周囲の人間を全て所有物と見做していた。藤原涼太は彼女が初期に最も成功させた『作品』の一つであり、彼の逃亡は彼女にとって重大な『財産損失』だった。そして君は、藤原涼太が選んだ新生の象徴として、当然、彼女が排除すべき『異物』と映った」

彼は一拍置き、声を潜めて続ける。

「更に重要なのは、今回は彼女が自ら姿を現したことだ。それもこの国内で。これまでこれほど彼女に近づいたのは、初めてなんだ」

晴美はそっと目を閉じ、涙が音もなく頬を伝る。

彼女の結婚も、愛も、そしてかつて救いだと信じていたものも、すべては最初から他人が密かに仕組んだ計画の一部にすぎなかったのだ。

彼女は涼太の妻であるだけでなく、玲子が「逃げ出したペット」を罰するために用いた道具でもあった。

「私に何ができるの?」彼女が再び目を開けたとき、瞼の裏にはまだ涙の輝きが残っている。しかし、その瞳の奥からは、氷を思わせるような冷たい決意がにじみ出ている。

「生き延びることだ」毅は簡潔に言い切った。「しっかり治療を受け、体力を回復させろ。君には、拉致事件の全てを思い出してもらう。犯人の外見、会話の内容、倉庫の内部、そして玲子が口にした言葉の数々まで――それら全てが、重要な証拠なんだ」

「涼太は?」思わず彼女は問いかけた。

毅の表情は微動だにしなかった。「彼には君の死の知らせが届く。それもまたテストの一部だ。彼の反応を見たい。彼が我々の突破口となれるかどうかを確かめるために」

晴美の胸に鋭い痛みが走る。

彼女の脳裏に、倉庫で涼太が口にした「玲子を放して」という言葉がよみがえる。あのとき、彼が別の女へと駆け寄っていった背中が、焼きつくように浮かんだ。

「彼はそんなことはしないわ」彼女はかすかに声を落として言った。「彼は彼女を選んだの」

「人は変わるものだ」毅は扉へと歩み寄り、振り返って彼女を見た。「特に、真実の皮が剥がれ始めたらな。ゆっくり休め、楚山さん。復讐の第一歩は、己を強くすることだ」

扉が静かに閉まった。

晴美はベッドに体を沈め、再び手を下腹部に当てる。

そこには何もない。けれど、彼女には感じられる――あの空き地の中で、何かが再び育ち始めていることを。

それは、子供ではない。

憎しみだ。

生きようとする意志だ。

この世に生まれてこなかった小さな命のために、正義を取り戻そうとする決意だ。

窓の外では、鉛色の空から細かな雨が降り始めている。

彼女の目の前でコメントがかすかに瞬き、まるで電波の悪い信号のように揺らめいる。

【生きろ……】

【証拠……証拠が必要だ……】

【子どもは無駄死にしない……】

彼女はそっと目を閉じ、それ以上コメントを見ようとはしなかった。

これから、彼女は自分の声だけに耳を傾ける。
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