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第3話

Author: 緋色の追憶
アシスタントが残してくれたお金で精算を済ませ、晴美は一人でタクシーに乗って家へ戻った。

体はまだ本調子からほど遠く、腰と背中の痛みが動くたびにじわりと襲ってくる。それでも彼女は、ゆっくりと、しかし確かな足取りで前へ進む。

鍵を鍵穴に差し込み、回す。

扉が開いた瞬間、見知らぬ香りがほのかな煙草の匂いと混ざって鼻を突く。

それは彼女がいつも使っているアロマのどれとも違い、涼太の匂いでもなかった。

晴美は玄関先で凍りついた。

リビングでは、テレビ台の上に置いてあった、彼女と両親が揃って写る唯一の家族写真が消えていた。

代わりに置かれていたのは、彼女の見覚えのない、モダンなクリスタル製の灰皿。中には吸い殻がいくつか捨てられていた。お気に入りのアイボリーのカーペットには、くっきりと汚れが擦りつけられた跡が残っている。

空気の中には、かすかに別の女の香水の匂いが漂っている。

「帰ったのか?」低く落ち着いた声がソファの方から響く。

晴美は顔を上げ、その方向を見る。

涼太はソファに腰を下ろしており、どこか疲れた表情で、目の下には薄い隈が浮かんでいる。

その隣の一人掛けのソファには、玲子がシルクのナイトガウンを身にまとい、気だるげに身を預けながら、手にしたコーヒーカップを傾け、晴美を見つめて微笑とも嘲りともつかぬ表情を浮かべている。

血が一気に頭上へ昇り、次の瞬間にはみるみる凍りついた。

「どうして彼女がここに……?」乾いた、かすれた声がこぼれた。晴美は、それを自覚した。

涼太は立ち上がり、足早に彼女のもとへ歩み寄って、支えようと手を伸ばす。「晴美、話を聞いてくれ。体の具合はどうだ?どうして一人で退院したんだ?アシスタントに――」

晴美はその手を避け、視線を玲子に釘づけにしたまま、低く繰り返した。「彼女が……どうして、ここにいるの?」

涼太の手は宙を切り、顔に一瞬、気まずさと抑えきれない苛立ちがよぎった。

涼太は指先を擦り合わせ、声を潜めて言った。

「晴美……ここで話すのはよしてくれ。玲子は……かなりやばいトラブルに巻き込まれてる。尾行されてたのも偶然じゃない。海外での仇が、ここまで尾行してきたんだ。

彼女はこの街に頼れる人間もいない。助けられるのは俺だけだ。ホテルに泊まらせるのも危険でさ……だから、一時的にうちに置いてる。安全が確保できて、ちゃんとした住処が見つかり次第、彼女は出て行く。約束する」

一時的に?どのぐらい?

晴美は、かつて自分と涼太の思い出で満ちていたこの空間を見渡した。

玄関の絵が、歪んでいる。

テーブルに、二人分の食器。

ソファに、見知らぬ上着が脱ぎ捨てられていた。

そして、寝室のドア。わずかに開いた隙間から、ほのかな馴染まない気配。

「私の写真は?」と、彼女はかすかに問いかけた。

「え?」涼太は一瞬戸惑う。

「テレビ台の上にあった、私と両親の写真」

涼太は眉をひそめ、一瞬、考え込むような間を置いてから、玲子の方へ目を向けた。

玲子は小さく「あっ」と声を漏らし、コーヒーカップを置いて、申し訳なさそうに言う。「ごめんなさい、晴美さん。昨日うっかり額縁を落として、割ってしまったの。写真が少し古びてきたように見えたから、涼太にしまってもらったの。ごめんなさいね」

晴美は、母が亡くなる前に自分の手を握りしめ、その写真を指さして言った言葉を思い出した。「晴美、家が恋しくなったら、これを見なさい」

それは彼女にとって、家という形あるものを伝える、たった一つの思い出だった。

「しまった?どこにしまったの?」彼女は涼太に問い詰めた。

涼太の眉間の皺が一段と深まり、声に焦りが滲んだ。「晴美、たかが写真一枚だろう。壊れたなら、また撮ればいいじゃないか。今はそんな話をしている場合じゃない。玲子の安全のほうがもっと大事だ!」

たかが一枚の写真。

また撮ればいい。

安全のほうがもっと大事。

彼女の目の前に、コメントが狂ったように流れる。吐き気を催すような「理解」と「慰め」を装っている。

【ヒロイン、器ちっさいとこ見せないでよ!今こそ本妻の貫禄見せて!】

【じゃあ、写真一枚が人命より大事ってか?元カノに責任持つからこそ、ヒーローは誠実なんだよ。そんな彼ならヒロインにも絶対優しいって!】

【もっとおおらかになれよ、もう終わった話でしょ。人助けが最優先だって!】

見てよ。私の家は侵入され、私だけの空間は乗っ取られ、大切な記念品はめちゃくちゃにされ、女主人としてのプライドはズタズタに踏みにじられた。

それなのに、みんな、夫でさえも、こう言うんだ。「もっとおおらかになれよ」、「事情をわかってやれよ」って。あんたの気持ちや、あの「大したことないもの」は、他の女の安全や男の責任と比べたら、どうでもいいことなんだってさ。

まるで、加害者は「責任感がある」と称えられ、被害者は「品位を保て」と求められるかのようだ。

晴美は突然、天地がひっくり返るようなめまいに襲われた。虚弱のせいではない。骨の髄まで染み込むような、理不尽で冷たい感覚のせいだった。

彼女は扉の枠に手をかけ、ようやくの思いで身体を支えた。

涼太は彼女の顔色が真っ青なのに気づき、思わず手を伸ばした。「晴美、まずは部屋に戻って休もう。顔色が悪いよ」

「部屋に?」晴美はゆっくりと顔を上げ、虚ろな瞳で彼を見つめた。「私の部屋は、いまでも私のものなの?」

涼太は言葉を詰まらせ、顔にわずかな気まずさを浮かべた。「……とりあえずゲストルームで休んでくれ。主寝室は数日間、玲子に譲って。彼女、神経が張りつめていて、静かな環境が必要なんだ」

「彼女に譲るの?」晴美はその言葉をそっと繰り返し、次の瞬間、低く笑い声を漏らした。その笑いには、言葉にできないほどの哀しみが滲んでいた。

彼女は涼太を見つめる――あの時、「家を与える」と言い、彼女を一生大切にすると約束してくれた男を。瞳に静かな炎が灯火のように揺らめきながら、一語一語、かみしめるように言葉を切り出す。

「涼太、ここは誰の家なの?」

涼太は、彼女の笑みに胸奥をざわつかせた。どうしようもなく懐かしく、そして疼くような感覚が、再び押し寄せてくる。

玲子がソファに深く座り、コーヒーを味わう。その目線が緊張した二人の間を流れ、軽く掠めていく。そして、唇の端がほんのりと緩んだ。
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