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拾った恩、捨てられた十年
拾った恩、捨てられた十年
Author: そら

第1話

Author: そら
電話を切った直後、スマホがまた震えた。

竹谷沙雪(たけや さゆき)からのメッセージだった。

【藍里さん、もう心は決まりましたか?】

藍里の指先は、画面の上をさまよっていた。やがて打ち込んだのは、短い言葉。

【決めました。雅也とは、別れます】

栗栖雅也(くりす まさや)。

その名前を心の中でそっとなぞるだけで、胸の奥がじんわりと熱を帯びて痛む。

初めて雅也を見たのは、高校の入学式だった。新入生代表として壇上に立ち、真新しい制服姿で、春の日差しを浴びながら、透き通るような涼やかな声で挨拶をしていた。

あの頃の彼は学年中の女子が憧れる存在で、成績優秀、容姿端麗、何もかもに恵まれた人だった。

一方の藍里は児童養護施設育ちの、成績もぱっとしない平凡な生徒の一人。彼に話しかける勇気すらなかった。

すべてが変わったのは、高校二年の時。

雅也が愛人の子だという出自が暴かれ、母親のあられもない写真が学校中に貼り出された。一夜にして、彼は誰もが憧れる存在から、蔑む対象へと転落した。

周囲から孤立し、嘲笑され、ついには川へ身を投げるまでに追い詰められていた。

彼を川から引き上げたのは、藍里だった。

あの夜、ずぶ濡れのまま、虚ろな目で彼は尋ねた。

「……どうして、助けたんだ?」

どうしてかなんて、自分でもわからなかった。ただ彼の手を強く握りしめた。その手を離してしまえば、彼がまたどこかへ消えてしまう気がして。

それから二人は、十平米ほどの安アパートで身を寄せ合って生きてきた。

大学受験の結果が出たとき、二人とも私立だったため、どちらか一人分の学費しか払えないことは、最初からわかっていた。藍里は迷わず進学を諦めた。

「どうして?」と彼は聞いた。

「私の成績じゃ、大した大学には行けないもの」と、藍里は笑ってみせた。

「あなたを行かせなきゃ。生活費なら心配しないで。今だってバイトを三つ掛け持ちしてるから、なんとかなる」

彼は長いこと黙り込み、やがてぽつりと言った。

「藍里……必ず、幸せにする」

そしてその言葉どおり、彼は本当にそれを叶えた。

飛び級を重ね、修士から博士へと一気に進み、二十四歳で西京大学史上最年少の教授となった。「天才学者」と呼ばれるようになった彼は、藍里を伴って川の見えるタワマンへと引っ越した。

これでやっと今までの苦労も報われると思っていたのに、あの日、偶然彼のスマホの画面を見てしまった。

沙雪は西京大学学長の娘。美しくて、優秀で、誰もが振り返るような女性。

そんな彼女から、雅也のもとには数えきれないメッセージが届いていた。

【今日も実験、失敗しちゃいました。落ち込みます】

【コーヒー買ってきたので、研究室に置いておきますね】

【どうして返信くれないんですか?私のこと、嫌いですか?】

雅也の返信はいつもそっけなかった。けれど沙雪がしびれを切らして問い詰めると、彼はようやくこう返した。

【嫌いなわけじゃない。ただ、女性とどう接すればいいのか、わからないだけだ】

その翌日、雅也は珍しく藍里に尋ねた。

「女性が喜ぶプレゼントって、何がいいと思う?」

その瞬間、藍里の胸を冷たい針で刺されたような痛みが走った。

これまで、雅也に想いを伝えようとしたことは何度もあった。ただ彼はいつも勉強や実験に追われていて、その気持ちは胸の奥にしまい込んでしまっていた。

そして今、ようやく藍里は理解した。雅也が自分に抱いているのは感謝であって、恋愛感情ではないのだと。

それからほどなくして、沙雪のほうから藍里に連絡してきた。

その日、彼女が持ってきたファイルの中には、かつて雅也の母親を死に追いやった、あの写真のコピーが詰まっていた。

「雅也の異母兄が、また同じ手を使って彼を潰そうとしているんです。今回はなんとか食い止めましたけど。

私と雅也は想い合っています。でも彼は恩返しのために、あなたのそばを離れられずにいるんです。

でも、藍里さんには彼を守れません。もしこのまま彼のそばに留まるなら、この写真は世に出回ります。彼がこれまで積み上げてきたものが、また全部、水の泡になる。

でも、もしあなたが手を離してくれるなら」

沙雪は静かに言った。

「私が彼を守ります。彼がまっすぐに、光あふれる道を歩けるように」

その夜、藍里はベランダで一晩中、月を眺めていた。

夜が明ける頃、ようやく答えが出た。

沙雪の言うことは事実だ。自分には雅也を守れない。

それに、雅也は自分を愛してなどいない。

だから、彼のもとを去ることが一番いい選択なのだ。

手放すのも、悪くない。

これからはもう、夜更けに小さな明かりの下で、彼の帰りを待ちわびなくていい。

天才学者となった彼が、他の女性との接し方を自分に相談してくるたびに、苦い思いを胸に飲み込まなくていい。

そして、決して自分を振り向いてくれない人を、来る日も来る日も待ち続けなくていい。

不意に胃の奥に鋭い痛みが走り、現実に引き戻された。

藍里は床にうずくまった。冷や汗が背中を濡らす。薬箱はテーブルの上にあるのに、手を伸ばす力すら残っていない。

鍵の回る音がして、雅也が部屋に入ってくるなり、床に倒れている藍里を見て顔色を変えた。

彼は駆け寄り、そっと抱き上げてベッドに横たえる。

「薬は……」

彼の声にはわずかな焦りが滲んでいた。引き出しの中を探し回りながら尋ねる。

「この前買った胃薬、どこに置いた?」

藍里が引き出しを指差すと、彼はすぐに水を用意し、薬を取ってきた。まるで何度も繰り返してきたかのように、迷いのない手つきで。

温かい水が唇を濡らし、藍里は少しずつ飲みながら小声で言った。

「ありがとう……迷惑かけてごめんね」

「迷惑じゃない」

雅也は眉をひそめた。

「胃が弱いって自分でわかってるのに、どうしてすぐに薬を飲まないんだ」

あの頃、彼を学校に通わせるためにバイトを三つ掛け持ちして、一日一食で済ませることも多かった。そのせいで、胃を壊してしまったのだ。

胃が痛むたびに、彼はいつも心配そうに藍里を抱き寄せ、そっとお腹をさすってくれた。眠りにつくまで。

けれど今回、彼が腕を伸ばそうとしたとき、藍里はそっとその手を押しのけた。

雅也は一瞬固まり、眉をわずかに寄せた。

「雅也、私……」

言いかけたそのとき、彼のスマホが鳴った。

沙雪からだった。

「もしもし?」

彼は電話に出た。視線はまだ藍里に向けたまま。

「流れ星?……今から?……わかった」

電話を切ると、彼は立ち上がってコートを手に取った。

「ちょっと出かけてくる。ゆっくり休んで」

背を向けて去っていくその背の高い、すらりとした後ろ姿は、かつて自分が拾い上げたあの少年の姿と重なった。

藍里は口を開きかけた。「田舎に帰ろうと思ってるの」――その一言を、結局伝えることはできなかった。

ドアの閉まる音はとても静かだったのに、まるでハンマーで心臓を殴られたようだった。

藍里は一人、暗闇の中に座り続け、やがて時計が午前零時を告げた。

冷蔵庫には、買ったばかりの誕生日ケーキが入っている。

雅也は一度も、藍里の誕生日を覚えていたことがない。それでも毎年この日、藍里はこっそり願いごとをする。

今年、彼女が願ったのはただ一つ。

私がいなくなった後、雅也が幸せになれますように。

揺れるろうそくの灯りの中、藍里の目に、あの雨の日の少年の姿がふたたび浮かぶ。濡れた睫毛の下で、驚くほど澄んだ瞳をしていた、あの少年の姿が。

あれは、これまでの人生で見た、一番美しい流れ星だった。

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