LOGIN億円規模の大型契約を取り、私、庄司桐子(しょうじ きりこ)は喜びに胸を弾ませながら、夫とハネムーンへ行って祝う準備をしていた。 すると書斎の外で、夫が秘書に指示している声が聞こえてきた。 「明日の便だけど、桐子の航空券を詩織の名義に変更しておいてくれ」 ドアを開けようとしていた私の手は、その瞬間ぴたりと止まり、宙に固まった。 秘書は少し戸惑ったように言った。 「ですが、これは松原社長と庄司副社長のハネムーンでは......副社長はこの旅行を3か月も楽しみにしていましたし、その時間を作るために何日も徹夜を続けて、2日前には入院までされたんですよ......?」 しかし夫はほとんど迷うことなく、当然だと言わんばかりの口調で答えた。 「詩織は前の彼氏と別れたばかりで、かなり落ち込んでる。思い詰めないか心配なんだ。だが、桐子はもう俺の正式な妻だ。ハネムーンを一度くらい譲って、友達の気分転換に付き合ってやるくらい何が悪い。帰ってきたら結婚式を挙げ直すって約束する。それを埋め合わせにすればいい」 翌日、空港で夫は私の手を押さえながら説明した。 「たぶんシステムの不具合で予約が間違ったんだろう。ちょうど大型案件も終わったばかりだし、家でゆっくり休んでて。ついでに式場も探しておいてくれ。帰ったら結婚式を挙げよう?」 私は終始黙ったまま、三原詩織(みはら しおり)が彼のスーツケースを引きながら保安検査場へ入っていく姿を見つめていた。 7年間の結婚生活の果てに私を待っていたのは、夫が別の女に寄り添う姿だった。 結婚式も、正式な妻という立場も、欲しい人がいるなら好きにすればいい。 もう私は付き合いきれない。
View More3か月後。将人は会社も失い、私も失い、詩織にも完全に見捨てられた。手元には多少の蓄えが残っており、半年ほどは生活できる程度だった。だが、彼自身はすっかり壊れてしまっていた。毎日酒に溺れ、現実から逃げ続ける。無精ひげは伸び放題で、体重は10キロ以上も落ち、頬はこけ、目は落ちくぼみ、鏡を見ることすらできなくなっていた。......ある週末。将人は何かに導かれるようにアパートを出た。2時間バスに揺られ、あの名門ゴルフクラブへ向かう。そこは私たちが出会い、恋に落ちた場所だった。かつて彼が日傘の下で、グリーンの脇に座り、私を待ち続けてくれた場所でもある。その日は公式大会が開催されていたらしく、観客席は満員だった。コースには割れんばかりの拍手が響き渡っている。将人はスタンドの一番隅まで歩いて行き、ティーイングエリアへ目を向けた。その一瞬で、彼は動きを止めた。ティーグラウンドには、一人の女性が立っていた。プロ仕様のゴルフウェアに身を包み、クラブを握るその凛とした姿。サンバイザーの下で一点を見据えるその横顔は――私だった。彼は一目で分かった。コースで集中し、颯爽と立つ私の姿を見つめながら、将人は奥歯を強く噛み締める。目頭は熱く痛み、喉仏が何度も震えた。結婚してからも、私は時々クラブへ来て趣味程度にラウンドしていた。けれど、あの日以来、一度も公式トーナメントへ出場することはなかった。なぜなら私は彼を抱きしめ、こう約束したからだ。「私にはもう将人がいるから。だからこれからは大会ばかりに人生を懸けたりしないよ。ちゃんと働いて、将人と一緒に歳を重ねていきたいな」私はその約束を、7年間守り続けた。そして今。私は再びプロ仕様のウェアを身にまとい、再び競技の舞台へ戻ってきた。将人は力なく手すりにもたれ、拳を固く握り締める。私がプロの世界へ戻ったということは、本来の輝きを取り戻したというだけではない。それは同時に、彼への想いも、あの結婚生活への未練も、すべてきれいさっぱり消え去ったということだった。――カンッ。澄み切ったインパクト音が響く。白いボールは稲妻のように飛び立ち、バンカーと池を軽々と越えていく。将人は、そのボールが空を切って飛び、何度も正確にグリーンへ乗
将人はスマホを握り締めたまま、街灯の下に立ち尽くしていた。全身が冷え切り、魂を失ったように街をさまよい続ける。やがて歩く力も尽き、道端のベンチへ腰を下ろした。頭の中では、まるで映画のように婚姻届を提出した日の記憶が何度も蘇る。白いワンピースを着た桐子が鏡の前に立っていた。将人は部屋へ入り、彼女の後ろに立って、しばらく見つめ続けた。彼女が笑って言った。「いつまで見るの?」彼は首を振った。「一生見ていたって足りないくらいだよ」一生――なんて皮肉な言葉だろう。その一生が終わる前に、自らその縁を断ち切ってしまったのだから。押し寄せる後悔が、濁流のように彼を呑み込んだ。将人はベンチで黙々と煙草を吸い続けた。一箱吸い終えると、力なく背もたれにもたれかかり、そのまま目を閉じて眠りに落ちた。翌朝。将人は清掃員が箒で掃く音に起こされた。「ちょっと、あなた。こんなところで寝ていたら凍え死ぬよ」彼ははっと目を覚ました。全身が痛み、体は鉛のように重い。皺だらけになった服と乱れた髪を見下ろし、ふと昨日、匠海が口にした「庄司家」という言葉を思い出した。最後の希望をつかむような思いで、彼はあちこち聞き回り、ようやく庄司家本邸の住所を突き止めた。山の手に建つ広大な私邸だった。タクシーで門の前まで行ったものの、警備員に行く手を阻まれる。門前で2時間も頼み込み、声が枯れ果てた頃になって、ようやく警備員が中へ取り次いでくれた。重厚な装飾が施された鉄門が、ゆっくりと開いていく。......私は灰色のニットを着たラフな格好で、片手をポケットに入れたまま、静かな表情で歩いてきた。私の姿を見た瞬間、将人の目は真っ赤に充血した。彼はよろめきながら駆け寄り、門越しに鉄柵を必死に掴んだ。「桐子!頼む......!俺が悪かった。本当に反省してる!」声はかすれ切り、鉄柵を握る指は血の気を失って白くなっていた。「だから、お願いだ!許してくれ!あの契約も受け入れるから......会社なんていらないから......金だっていらない!俺は、桐子さえ戻ってきてくれればそれでいいんだ!7年間の夫婦だったんだ。たった一度、俺が道を踏み外しただけで、全部終わりなのか?」私は門の内側に立ち、鉄柵越しに
父は鼻で笑い、冷たく言い放った。「娘は、もう二度とお前の顔なんて見たくないそうだ」その一言は、まるで鋭い刃のように将人の胸へ突き刺さった。彼は勢いよく椅子を蹴って立ち上がる。頭の中には、ただ一つの思いしかなかった。――桐子に会わなければ。彼はなりふり構わず外へ飛び出そうとしたが、詩織が溺れる者が藁をもつかむように彼へしがみついた。「将人さん!行かないで!将人さんまでいなくなったら、私はどうしたら......!!」将人は目を真っ赤にして怒鳴った。「どけ!俺に触るな!」そう叫ぶと、彼女を乱暴に振り払い、そのまま突き飛ばした。詩織は床へ倒れ込む。父は後ろから冷ややかに声をかけた。「松原さん、どこへ行くんです?会社の引き継ぎも、財産放棄の書類も、まだあなたの署名が必要ですよ」だが将人は振り返ることもなく、オフィスを飛び出し、そのままエレベーターへ駆け込んだ。――地下駐車場。将人は魂が抜けたような足取りで、自分の車へ向かっていた。詩織はなお諦めきれず追いかけてきて、車のドアに必死にしがみついた。「将人さん!桐子さんはもうあなたを捨てたんです!今のあなたには、もう私しかいませんよ!」その言葉に、将人は彼女の手を乱暴に振り払った。「何様のつもりだ!」彼は崩れ落ちるような声で怒鳴った。「お前ごときが桐子と比べものになると思っているのか!?お前がくだらない手くだで俺を惑わせたりしなければ、桐子が俺と離婚することなんてなかった!全部お前のせいだ......俺は何もかも失ったんだ!もう俺の前から消えろ!!」詩織は地面に座り込んだまま、将人が完全に態度を変えたのを見て、本性をむき出しにした。歯を食いしばり、彼を指差して怒鳴り返す。「今さら被害者ぶってんじゃないわよ!本当にあの女を愛してるなら、少し誘惑したくらいで簡単に私と寝たりする?あの女は手も出せないほどの名家の娘だって知ってたくせに、どうして私のために彼女を敵に回した?!この欲張りで愚かなクズ!これで何もかも失ったんだから、私も早くあんたと縁を切らないと巻き添えになるわ!」そう言い捨てると、詩織は疫病神でも避けるかのように、その場から逃げ去っていった。広い地下駐車場には、将人だけが取り残された。彼は車にもたれ、そのま
詩織は温かいコーヒーを一杯運んできて、愛想よく彼のデスクに置いた。「将人さん、コーヒーでも飲んでください。桐子さんは意地になっているだけです。気持ちが落ち着けば、きっと戻ってきますよ」将人はカップを受け取り、一口飲んだ。そして詩織を見つめるうちに、ふと複雑な気持ちになった。詩織は美人で、愛嬌があり、人の懐に入るのも上手い。彼女と一緒にいると、自分が二十代前半に戻ったような気分になる。誰かに慕われ、追いかけられ、大事にされ、気を遣われる。そんな感覚を、桐子はもう長いこと与えてくれなかった。こんな気持ちを抱くのは間違っている。――頭ではそう分かっていた。それでも、まるで取り憑かれたように抜け出せなかった。彼がカップを置こうとした、その時だった。社長室のドアが突然、外から勢いよく開け放たれた。バンッ!!大きな音に、二人は同時に顔を上げた。入ってきたのは父、庄司匠海(しょうじ たくみ)だった。その後ろには4人の弁護士と、無表情のボディガードが数人続いている。将人は呆然とした。7年前、一度だけ父と顔を合わせたことがあった。目の前の威厳に満ちた中年男性に見覚えはあったものの、すぐには思い出せない。「誰だ!誰の許可で入ってきた?警備は何をしている!」父は彼を一瞥すると、そのままデスクの前まで歩み寄り、資産の所有権を証明する書類と業務の引き継ぎ目録を机の上へ放り投げた。「失礼しました。自己紹介が遅れましたね。私は桐子の父、庄司匠海です。この会社は、もともと娘がちょっとしたお遊びで立ち上げたようなものです。今日は、うちの会社を回収しに来ました」――庄司家。その名前を聞いた瞬間、将人は雷に打たれたように全身を硬直させた。桐子の実家は裕福だとは知っていた。だが彼女は一度もそれをひけらかしたことがない。まさか、あの指折りの名門・庄司家の令嬢だったとは。頭の中が激しく鳴り響き、何も考えられなくなった。彼が呆然としている間に、父は隣の詩織へ視線を向けた。「君が三原詩織さんだな?」その声には威厳と嫌悪が隠そうともせず滲んでいた。「君は本日付で解雇だ。それから、契約違反寸前まで追い込まれたあの案件の経緯については、私から鈴木社長へすべて説明してある。勝手に重要書類の見