湯浅は、まだ明けきらぬ薄暗い部屋の中で、静かに煙草を指先で弄んでいた。
火はつけていない。灰皿も、テーブルの端に置いたままだった。ただ、親指と人差し指で煙草を回し続ける。その動きだけが、夜の余韻の中に漂っている。隣のベッドでは、藤並が眠っていた。
細く静かな呼吸が、薄い毛布をわずかに揺らしている。その横顔を湯浅はじっと見つめていた。黒髪が額にかかり、睫毛が頬に影を落とす。その姿は、美しいというより、どこか儚いものだった。「社長のときは、何も感じなかったのに」
昨夜、藤並が漏らしたその言葉が、湯浅の耳から離れなかった。
快楽に沈みながら、絞り出すように呟いた言葉。心の底に溜まっていた泥水のようなものが、不意に零れ落ちた。その瞬間、湯浅は確信した。やっぱり、相手は社長だったんだ。
料亭を守るために、身体を差し出した。それが、あいつの生き方だったんだ。事実を知らなければ、まだ引き返せた。
けれど、あいつの唇から直接「社長」という単語が出た以上、もう逃げられない。湯浅は煙草をくるりと回しながら、眉間に皺を寄せた。
唇がわずかに歪む。それは、自分自身への自嘲だった。何を期待していたんだ。
ただ抱くだけで終われるはずがない。この男を抱いた瞬間から、もう「ただの上司」ではいられないことは分かっていた。けれど、それでも欲しかった。身体だけじゃない。心ごと欲しいと、欲張ってしまった。「……」
湯浅は小さく息を吐いた。
煙草に火をつけようとしたが、指が止まる。今、この部屋の空気を濁したくなかった。藤並の呼吸を乱したくなかった。それほどまでに、この瞬間は繊細で壊れやすかった。目の前の藤並は、まだ眠っている。
けれど、その寝顔には安堵と不安が入り混じっていた。眉の端がかすかに寄っていて、口元はほんのわずかに震えている。湯浅はリビングのソファに腰を沈めたまま、暗い天井を見つめていた。夜明けにはまだ時間がある。部屋の中は静かで、時計の秒針だけが規則正しく音を刻んでいた。スマホは手元に置いてある。画面は黒いままだが、着信を待つために電源だけは入れていた。藤並は隣の部屋で眠っている。いや、眠れているかどうかは分からない。きっと浅い呼吸のまま、目を閉じているだけだろう。それを思い浮かべながら、湯浅は右手の指先でソファの肘掛けを無意識になぞった。指先が、柔らかな布の繊維を何度も往復する。その感触だけが、現実につながる確かなものだった。スマホが震えた。音は鳴らない設定にしてあったが、バイブレーションの重い震えが手のひらに伝わる。湯浅は一度だけ息を飲み、画面を見た。「黒瀬」表示された名前を見て、短く目を閉じる。想定通りだ。だが、それでも心臓がわずかに跳ねた。通話ボタンを押すと、すぐに相手の声が聞こえた。黒瀬の声は低かった。けれど、その奥にわずかな震えがある。それが、受話器越しにも伝わってきた。「…湯浅」黒瀬の呼ぶ声に、湯浅は短く応じた。「はい」間があった。数秒の沈黙。その沈黙の中で、湯浅は肘掛けをなぞる指先を止めなかった。「決めたよ」黒瀬の声が続いた。途切れそうな呼吸を押し殺しているようだった。「協力する」湯浅は視線を窓の外に向けた。街の灯りがぼんやりと滲んでいる。深夜のガラス窓には、自分の顔がぼやけて映っていた。「……本当に、よろしいんですね」湯浅の声は低かった。抑えた音量で、言葉を返す。黒瀬が、ここで気持ちを変えることもあり得る。最後まで油断はしなかった。「社長と一緒に沈む気はない」黒瀬はそう言
黒瀬は部屋の鍵を閉めると、そのまま靴を脱がずに壁にもたれかかった。高層階のマンション。夜の街はガラス越しに滲んでいる。静かすぎる空間に、自分の呼吸の音だけが響いている気がした。ジャケットのポケットで、スマホが震えた。画面を見るまでもなく、相手は分かっている。「社長」ーーいや、美沙子からだ。LINEの通知が二度、続けて鳴った。そのまま着信が入り、スマホの通知ランプが暗い部屋で淡く点滅を繰り返す。黒瀬は何も触らなかった。スマホをソファに放り投げ、そのままリビングのグラスに手を伸ばす。だが、氷はすでに溶けきっていた。カランと、ガラスの底で氷の残骸が音を立てた。「……」黒瀬はその音を聞きながら、ソファに沈み込んだ。ネクタイを緩め、首元のボタンを外す。だが、体温は下がらなかった。内側から、何かがじわりと焦げるように熱い。あの女に拾われたのは、もう何年前だろうか。経営の手腕を買われて、会社を立て直すために呼ばれた。最初はただの仕事だった。だが、気がつけば、あの女の欲望に巻き込まれた。「黒瀬、欲しいものは全部手に入れなさい。自分で動けば、手に入るから」あのときの美沙子の声が、耳の奥に蘇る。優しい声だった。けれど、同時に冷たい刃を突きつけられたような感覚が、今でも残っている。忠誠心。それが、自分の盾だと思っていた。社長に従い、裏帳簿を管理し、会社の金を動かす。料亭の名義変更も、自分が手を貸した。それが「正義」だと、自分に言い聞かせてきた。だが、それは本当に正義だったのか。今になって、それが分からなくなっている。「……俺は、どっちに沈むんだ」黒瀬は呟いた。社長と一緒に沈むのが、筋かもしれない。だが、自分の人生を投げ捨てるほどの忠誠心が、今の自分に残っているかと問われれ
湯浅は玄関の扉を静かに閉めた。深夜のマンションには、ただ空調の音だけが微かに流れている。スーツの上着を脱ぎ、ネクタイを外すと、首筋がわずかに冷えた。湿った夜気が、まだ体にまとわりついている。リビングには藤並が眠っていた。ソファに身体を丸め、ブランケットをかけたまま、浅い呼吸を繰り返している。時折、眉間にわずかな皺を寄せ、夢の中でも何かと戦っているようだった。湯浅はその横顔を見つめた。柔らかく光るリビングの間接照明が、藤並の頬をなぞる。唇はわずかに開き、無防備な寝息が漏れていた。「……」湯浅は何も言わず、ポケットから煙草を取り出した。換気扇の下に立ち、一本だけ火をつける。吸い込んだ煙が、肺の奥でゆっくりと広がる。けれど、煙草の味はほとんど感じなかった。黒瀬が動けば、全てが終わる。それは間違いない。裏帳簿も、料亭の名義変更も、融資書類も、全部揃っている。あとは黒瀬が証言すれば、美沙子は完全に詰む。「……守れる、はずだ」湯浅は自分に言い聞かせるように呟いた。けれど、その声は胸の奥に沈んでいくばかりだった。藤並を守るためだ。それだけは、何度も自分に誓ってきた。だが、そのために何を犠牲にしているのか。自分の心が、どこまで冷えているのか、分からなくなっていた。煙草の先が赤く光る。灰がぽとりと落ちた。ソファの藤並が、小さく身じろぎする。その肩が微かに震えているのを、湯浅は見逃さなかった。夢の中で、まだ何かに怯えている。それが美沙子の記憶か、過去の傷か、それとも自分のせいか。「……」湯浅は煙を吐き出した。そのまま窓の外を見やると、ビルの灯りが滲んでいた。深夜の都会は、相変わらず無表情で、ただそこにあった。「これで蓮を守
黒瀬は、深夜の静まり返った自宅マンションに帰り着いた。ネクタイを緩める手が、少しだけ震えている。そのことに自分で気づきながらも、どうすることもできなかった。靴を脱ぎ、玄関に置かれた鏡に目をやる。映るのは、疲れ切った男の顔。額には薄く汗が滲み、目の奥には赤い疲労の滲みがあった。ジャケットをソファに投げ、洗面所へ向かう。蛇口を捻ると、水が静かに流れた。掌ですくい、顔を洗う。冷たい水が皮膚を伝い、首筋に落ちる。だが、その冷たさすら、今は感覚が鈍い。顔を上げると、鏡の中に自分がいた。その目が、他人のように見えた。長い間、何も感じないふりをしてきた。経理の数字だけを見て、会社の金の流れだけを操って、心を閉じていた。だが、今日は違う。鏡の向こうから、美沙子の声が蘇る。「黒瀬、欲しいものは全部手に入れなさい。自分で動けば、手に入るから」耳の奥で、あの声が響いた。美沙子の声は甘かった。けれど、同時に冷たかった。「……その結果がこれか」黒瀬は低く呟いた。誰もいない部屋に、その声だけが落ちる。手が震えている。分かっているのに止められない。洗面台の横に置いたグラスを持ち上げようとしたが、指先が震えて掴めなかった。グラスがカタリと音を立てた。「何やってんだ、俺は」黒瀬は自分にそう言い聞かせるように呟いた。だが、答えは出なかった。美沙子と組んで、ここまで来た。会社の経営を裏で操り、数字をいじり、資金を動かした。料亭藤並の名義も、裏帳簿の管理も、自分が手を下してきた。そのたびに、美沙子は言った。「大丈夫よ、黒瀬。私が全部守るから」その言葉を信じた。いや、信じたふりをして、自分にも言い訳してきた。美沙子についていけば、自分は沈まない。そう思い込もうとしてき
夜の静けさが、鷲尾の事務所を包んでいた。時計の針はすでに深夜一時を過ぎている。外は雨上がりの湿気で、ガラス窓が少し曇っていた。ビル街のネオンが滲み、街の灯りは遠くでぼんやりと揺れている。湯浅はデスクの上に広げられた資料に目を落とした。料亭藤並の名義変更書類、裏帳簿のコピー、そして秘密裏に進められた融資契約書。どれもが、美沙子の「支配」の証拠だった。紙の上に並んだ文字や数字は、ただの記号ではなく、誰かの人生を握るものだ。「これで決まりか」湯浅は低く呟いた。その声は、感情を押し殺していた。決まり切った問いだったが、確認せずにはいられなかった。鷲尾は椅子に深く背を預け、指で書類の端をトントンと叩いた。ネクタイは外され、シャツの第一ボタンも緩められている。だが、目だけは緩まなかった。「いや、決めるのは黒瀬だろ」鷲尾は淡々と答えた。勝敗は紙の上で決まるものではない。最後の一駒を動かすのは、まだ黒瀬の意志だった。湯浅は眉間にわずかなしわを寄せた。グラスを手に取ると、氷がカランと鳴る。指先が微かに湿っている。けれど、その感触を意識しないふりをした。「…俺が詰めるよ。あいつ、もう半分落ちてる」湯浅はグラスをテーブルに戻し、資料を指先でなぞった。数字の羅列。帳簿の細かな明細。そのすべてが、藤並の自由を奪うために使われたものだ。それを逆手に取って、今度は美沙子を追い詰める。その構図に、わずかな胸の痛みを感じた。だが、それも押し殺した。「お前さ」鷲尾がぽつりと言った。「ほんと冷たいな。昔はもうちょい人間味あっただろ」湯浅は視線を上げた。鷲尾の顔を見たが、すぐに目を逸らした。ため息のような笑いが、喉の奥から漏れた。「俺は、蓮を守りたいだけだ」その言葉は本心だった。
バーのカウンターに、低くジャズが流れていた。夜はすでに深く、他の客もまばらだった。黒瀬は琥珀色のウイスキーをグラスに揺らしながら、無言で氷を見つめている。その横に、湯浅が静かに座った。一言も声をかけず、ただ隣の席に腰を下ろす。バーテンダーが湯浅に目を向けたが、湯浅は軽く首を振った。飲むつもりはなかった。黒瀬が視線を向ける。目の奥に疲労と苛立ちが滲んでいた。それでも、声は崩れない。「わざわざ、こんなところまで呼び出してくれて」湯浅は微かに笑みを浮かべた。だが、目は笑っていなかった。「黒瀬さん、正直申し上げます。このままだと、ご自身も危ないですよ」氷がカランと鳴る。黒瀬はグラスを揺らしたまま、視線を外さない。「……私に、社長を裏切れと?」「裏切れとは申しません」湯浅の声は静かだった。抑揚をつけず、淡々と。けれど、その言葉は黒瀬の胸の奥に食い込む。「生き残る道を考えていただきたいだけです」「そんな生き方、あんたはしてきたのか?」黒瀬の唇がわずかに歪む。嘲りと苦笑が混ざった声だった。「…私は、守りたい人がいるだけです」湯浅の返答は、それ以上でもそれ以下でもなかった。その言葉に嘘はなかった。だが、黒瀬にとってはそれが一番の脅威だった。「守りたい人のためなら、他人を切り捨てるか」黒瀬は目を伏せ、グラスを口に運んだ。酒が喉を通る音が微かに聞こえた。「…ご判断は、黒瀬さんにお任せします」湯浅は視線を逸らさなかった。グラスを持つ黒瀬の手が、ほんの僅かに震えているのを見逃さない。「裏帳簿は、まだお持ちですよね」黒瀬はグラスをテーブルに置いた。氷がコツンとガラスに当たる。「…&hel