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観察者の目

Author: 中岡 始
last update Huling Na-update: 2025-08-03 09:53:06

湯浅は、自分の席に戻る途中で立ち止まった。デスクに手をかける前に、ふと視線を横に流した。その先には、藤並がいた。

営業フロアの端、コピー機の前で、同僚たちと談笑している。明るい笑い声が微かに耳に届いた。周囲の社員たちは楽しげに肩を揺らし、表情を緩めている。だが、湯浅の目は藤並にしか向いていなかった。

藤並も笑っていた。

口角はきれいに上がっている。目尻にも柔らかい皺が作られている。一見すれば、完璧な営業スマイルだ。だが、湯浅はそこに違和感を覚えた。

「あれは、笑っていない目だ」

心の中で、はっきりとそう思った。

藤並の目は、表面上は笑っている形をしている。けれど、その奥には冷たいものが沈んでいるように見えた。湯浅はそれを見逃さなかった。

「完璧な営業スマイル」

それは営業職なら誰でも身につける武器だ。取引先に好印象を与えるため、社内の人間関係を円滑に保つため、誰もがある程度は仮面をかぶる。湯浅自身もそうだった。

だが、藤並の仮面は違った。

「貼りつけてる」

その表情は、もはや演技というより「習慣」になっている。自然な笑顔ではなく、壊れないように何度も上塗りされた仮面だ。

「……あいつは、きっともう自分でも分かってない」

心の奥で湯浅はそう呟いた。

目の奥に、疲労と無感覚が同居している。表情筋だけが動き、心は動いていない。

湯浅は、これまでの経験を思い返していた。

自分は営業畑で十年以上やってきた。新人時代から、上司や同僚の表情を見てきた。営業職は笑顔を使う仕事だ。けれど、笑い続けると、必ずどこかで歪みが生まれる。

「藤並みたいなタイプは、自壊することが多い」

それが、湯浅の知る事実だった。

完璧に見える人間ほど、崩れるときは一気だ。突然、体調を崩す者。ある日、会社に来なくなる者。理由も言わずに辞める者。そういうケースを、湯浅は何度も見てきた。

「こいつも、もしかしたらそうなるかもしれない」

けれど、まだそこまでは分からない。

湯浅

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