砂漠の王宮に響く、夜ごとの語り。 「愛すれば死ぬ」という呪いを背負う孤独な王と、兄の死の影を纏った語り部――互いに満たされぬ心を抱えながらも、ふたりは夜ごと現実と寓話のあわいで心と身体を重ね合う。 果たして、過去と痛み、赦しと自己犠牲の連鎖を超えて、人は“ただ一人の自分”として誰かを愛することができるのか? 物語ることでしか近づけなかったふたりが、やがて“語り部”と“王”という役割を超え、本当の自分として対等に向き合う瞬間―― 幻想と現実、官能と再生が交錯するこの王宮で、彼らはどんな結末にたどり着くのか。 静かな絶望の先に見える、ほのかな夜明け。 心を揺さぶる再生のドラマが、いま幕を開けます。
View More月が高く昇った頃、東門の前に一台の馬車が滑り込んだ。布で覆われた幌が音もなく持ち上げられ、中から姿を現したのは、身を薄布で巻かれた一人の青年だった。沈黙のまま降り立つその足は、裸足。王宮の石畳に触れた瞬間、小さく身を震わせたが、それ以上の感情を見せることはなかった。
侍従たちは黙々と手続きを進めた。今夜の“献上品”は計三名。年若い男娼たちは、恐怖に顔を引きつらせ、必死に取りすがるような目で周囲を見回していた。だが、中央に立つ青年だけは違った。彼は、ただ月を見上げていた。その瞳に浮かぶのは諦めか、それとも静かな炎か。判別できずに侍従の一人が眉をひそめる。
「この者の名は?」
「記録にありません。匿名にて届けられました」
老侍従が名簿に目を落としながらつぶやいた。
「またか。身元も出所も曖昧な者を献上して、何になるというのだ」
「…何か、妙ですね」
隣の若い侍従が囁く。彼の視線の先には、月光に濡れたような青年の肌があった。薄布の下、細身の体つきは均整が取れており、肌は白磁のように滑らかだった。香の匂いが漂ってきた。どこか馴染みのない、だが忘れがたい香り。
「水盆を。香を焚け」
命じられ、二人の侍女が水盆を運び込む。銀の縁が静かに揺れ、水面に月が映る。青年は促されるまま腰を下ろし、自らの手で布を解いた。何の羞じらいもなかった。指先が水に触れると、小さな波紋が幾重にも広がる。盆の縁に沈められた布を手に取り、ゆっくりとその首筋を拭う。
「喋らないのか?」
老侍従が問うた。青年は一瞬、視線をそちらへ向けたが、やはり口は開かない。
「名を訊いても、沈黙とは…」
「死を恐れていないのかもしれません」
若い侍従がつぶやく。水音が、音の消えた空間に吸い込まれていく。
「王の前に出される前に、この者を清めの間に通せ」
命が下され、青年は立ち上がる。濡れた布が床に落ち、白布の裾が石畳を引きずった。
歩くたび、わずかに残る水滴が道を作る。香炉の煙が細く立ち昇り、天井の彫刻をくぐって消える。清めの間の奥、円形の小部屋に彼は導かれる。そこには、湯ではなく、清涼な香水が満たされた浴槽があった。
「湯ではないのか」
「王のご意向です。“余計なぬくもりは不要”とのこと」
青年は返事もせず、布を脱ぎ捨て、音もなく水の中へ身を沈めた。
香りが立つ。肌が水面の下で震える。だが、それは寒さからではなかった。彼の眼差しは、宙の一点を見つめていた。まるでそこに、己の未来があるかのように。
やがて浴槽を出た彼に、侍女が薄布をかける。肌の露出は最小限に抑えられているが、その姿はまるで処刑台へ向かう生贄のようだった。
「この者…どこか奇妙ですね。叫ばない、泣かない、逆らわない」
「だが、何かを訴えている。あの瞳が、気に食わん」
老侍従はそう吐き捨てた。青年の目には、確かに何かが宿っていた。それは願いではなく、怒りでもなく…あえて言うならば、待ち続けていた何かへの、到達に近い静けさだった。
「処刑は明日の朝だ。夜のうちは、王の寝所へ」
「例の“お戯れ”ですね」
「…ああ」
それが、この国の習わしだった。王は気まぐれに献上された若者を一夜だけ抱き、その翌朝、首を刎ねさせる。愛を憎み、快楽を罰として与える王。欲望と処刑が交差する寝所に、今宵もまた一人、献上される。
彼は静かに歩いた。足取りは軽やかだったが、どこか、終わりに向かう者のようでもあった。
香の煙が再び立ち昇る。月が彼の背を照らす中、石畳の廊下を進むその姿は、まるで、静寂を纏った影のようだった。
夜明け前の王宮は、息を潜めたような静けさに満ちていた。窓の外には、夜と朝の境がゆっくりと溶けあい、淡い朝靄が庭園を覆いはじめている。アミールとサリームは、寝台の上で互いの体温を確かめるように静かに寄り添っていた。言葉はなかった。必要もなかった。ふたりの間に流れる時間は、もう“語り”や物語に頼るものではなかった。ただ存在する、そのこと自体が幸福だった。サリームはアミールの髪をゆっくりと撫でる。その指先が額に、頬に、首筋に触れてゆくたび、アミールのまぶたが静かに揺れる。小さく息を吸い、吐き、肌が重なり合う。夜の余韻と新しい朝の気配が、ふたりの身体の間に薄く、柔らかな光を宿していた。「アミール」低く囁かれた名に、アミールはそっとサリームの手を握る。その手の温もりが、これまでの全てを慰めてくれる。ふたりは目を合わせ、微笑み合う。それだけで言葉より深い約束が交わされた気がした。サリームはアミールの唇にそっと口づける。触れるだけの、静かなキス。アミールは身を委ね、胸の奥に湧き上がる安堵と歓びに身を浸す。「君といると、私のなかにたくさんの光が生まれる」その声に、アミールは静かに頷いた。「私も同じです。もう、語りも物語も要りません。ただ、あなたの隣にいるだけで十分です」サリームの手が、アミールの肩から背へ、ゆっくりと滑っていく。優しく抱き寄せ、頬と頬を寄せ合う。ふたりの呼吸が、重なり合う音だけが部屋に満ちる。布がめくれ、肌と肌が触れ合う。サリームはアミールをそっと寝台に横たえ、腰に手をまわす。アミールの脚がサリームの脚に絡み、静かな官能が波のように身体を包んでいく。「もう、何も怖くない」「私も」囁き合いながら、ふたりは互いの身体の中に安らぎと確かさを探していく。サリームはゆっくりとアミールに入り、アミールは王を受け止める。どちらかが導くのではなく、ふたりでひとつの幸福を分かち合う。アミールはサリームの肩に腕をまわし、静かに快楽と安心を味わう。その吐息や小さな震えが、夜明けの光と混じり合い、部屋いっぱいに満ちていく。どちらから
夜の王宮は、深く澄んだ静寂に包まれていた。細い月が窓辺に光を落とし、王の私室には灯火がひとつだけ静かに揺れている。アミールは椅子に座り、膝の上に手を重ねてサリームを見つめていた。王冠は今夜、卓の上に外されている。その金属の曲線が、炎の影に沈んでいた。サリームはゆっくりとアミールの前に座り、少しだけ息を整えた。語り部のいない夜。今この瞬間だけは、王もただ一人の人間だった。「アミール」王の低い声が、夜の空気を震わせる。その響きは、これまで何度もアミールが語ってきた“物語”とはまるで違っていた。言葉を紡ぐのは、王自身の意志だった。「私は…いつも弱い自分を隠してきた。王であること、誰も傷つけないこと、すべての正しさを背負うこと。それが“生きる”ことだと信じてきた」静かな炎が王の横顔を照らす。そこには幼さと老いが入り混じり、これまで見たことのない陰影があった。「だが私は、失うことも、傷つくことも、恐ろしかった。ザイードの死も、アミール、おまえを愛することも…心のどこかでいつも、すべてを失うことへの恐怖ばかりを抱えていた」アミールは黙って王の声を受け止めていた。語り手としてではなく、ただ傍らにいる者として。「私は王として、命令し、守り、罰し、赦しを与えてきた。しかし本当は、誰よりも救われたかった。私自身が…自分の痛みを、誰かに伝えたかったのだと、今なら分かる」王冠の影が卓の上に長く伸びる。サリームはそれに目を落とし、指先でそっと撫でた。「私は初めて、物語を語りたいと思う。自分のために、そして君のために」サリームは顔を上げ、アミールをまっすぐに見つめる。「私の人生は、孤独と後悔と罪の繰り返しだった。だが…今こうして、君がここにいてくれることで、私は違う夜を生き直せる」言葉はときにたどたどしく、けれどまっすぐに響いた。「私は、君を愛している。これは呪いでもなく、罰でもなく、ただの私の人生の物語だ。君が私の隣にいる限り、私はこれから何度でも、自
夜の帳が静かに王宮を包み込む。宴の余韻も遠く、廊下の灯火がひとつずつ消えてゆくころ、アミールは自室に戻っていた。薄暗い部屋の奥、机の上には長いあいだ使い込んだ筆記具と、古びたインク壺が並んでいる。窓の外では、風が微かに壁を撫でていた。アミールは静かに椅子に腰を下ろす。しばし何もせず、指先でペンの軸を転がし、インク壺の蓋を開けては閉じる。その動作に、どこか名残惜しさが滲む。それは、兄の死以来ずっと自分と世界をつなぐ唯一の手段だった。語ること、記すこと、言葉にして誰かに捧げること。そのすべてが、彼自身の鎧であり、同時に檻だった。机の上には未完の物語が一枚だけ置かれている。まだ語られていない王の夜、書きかけの言葉が小さな光となって紙の上に残っていた。アミールはそれをじっと見つめ、ためらいがちに手を伸ばす。けれど、指先は紙の端に触れただけで、そっと離れた。深い沈黙が部屋を満たす。その静けさの中で、アミールは自分の呼吸だけを頼りに目を閉じる。「語らなくても、ここにいられるのだろうか」ふと、そんな問いが胸の内をかすめる。だがその問いは、不思議なほど恐ろしいものではなかった。むしろ、言葉も物語も必要としない“ただの自分”が、今この空間に確かに存在している気がした。沈黙がこんなにもあたたかく、柔らかいものなのだと、初めて知った夜だった。アミールはゆっくりとペンを箱にしまい、インク壺の蓋をしっかりと閉じる。仮面や古いノート、語り部である証の小さな品々も、一つ一つ手に取ってから、引き出しの奥にしまい込んだ。自分を語るために用いたすべての道具が、いまは静かに闇の中に沈んでいく。手放すことで、自分の中に小さな空洞が生まれる。それは喪失の痛みではなく、未知の自由の予感だった。窓を開けると、夜風がふわりと部屋に入り込む。インクの香りと夜の空気が交じり合い、胸の奥まで沁みてくる。遠く王宮の塔の上に、淡い星が瞬いていた。アミールはその光を見上げる。物語に頼らなくても、王と沈黙を分かち合い、同じ夜空を仰ぐことができる。それだけで、なぜか満たされていた。
宴の余韻が去り、王宮には深い静寂が戻っていた。広間には金色の燭台がいくつか残るのみで、人々のざわめきも、笑い声もすっかり消え失せている。石の床に残る香の残り香だけが、かすかに漂い続けていた。アミールは高窓から差し込む淡い光の下、ひとり広間に佇んでいた。壁に並ぶ絵皿や装飾の影が、静けさのなかでゆるやかに長く伸びている。宴のあいだ、彼は無意識のうちに“語り部”としての自分を探していたのだと気づいた。どこかで、誰かに語りかけることで自分の輪郭を保っていた。それが兄の名を背負って生きてきた証でもあり、王に寄り添うための役割でもあった。けれど今、アミールの胸に満ちているのは不思議な静けさだった。誰のためでもなく、誰かの代理でもない。ただ、ここに自分がいること。王宮という広大な空間の片隅で、たったひとりの自分として夜を迎えている。それだけで十分だった。静かな足音が、石の床をゆっくりと進む。宴のあとの廊下を、アミールは迷わず歩いた。王の気配は遠くにある。けれど、いつもなら後ろめたさと恐れに引き戻されていたはずのこの道も、今夜だけは特別だった。どこにも“語り”を求める声はない。ただ宮殿の光が、静かに彼の背を押してくれる。小さく吐息をつく。自分のためにここにいる。その決意が胸に宿るたび、足取りは少しずつ確かなものになっていく。「アミール」不意に、背後からサリームの声が響いた。振り返ると、王は広間の入口に静かに立っていた。宴の名残を纏いながら、どこか安堵したような顔でこちらを見ている。「どうした、こんなところで」アミールは微笑み、肩をすくめる。「静けさを感じていたかったのです。もう、誰かの物語を語らなくても、ここにいられる気がして」サリームはゆっくりと近づき、アミールの隣に並ぶ。ふたりの足音だけが、大きな空間に穏やかに響いた。「おまえがここにいるだけで、私は…安心する」王の声はいつになく素直で、心の奥底からの響きをもっていた。アミールはその言葉を静かに受け止める。役割や肩書きではなく、“今ここにいる自分”に
朝焼けが王宮の窓辺を淡い紅に染めていた。長い夜の余韻を残したまま、王の部屋には静けさが広がっている。アミールは椅子に腰かけ、窓から射し込む光に手を伸ばしていた。その掌の先に、サリームがそっと近づく。手紙を胸に抱いた王は、ゆっくりとアミールの前に腰を下ろした。「アミール」サリームは静かに語りかける。その声には、これまでのどの夜とも違う透明な響きがあった。「私は、ずっと恐れていた。愛すれば、必ず失われる。そう信じることで、自分自身を罰してきた。でも…」サリームは手のひらをそっと広げ、自分の手首を見つめる。そこにはまだ、淡く痣が残っていた。しかし、その痛みもどこか遠いものになっている。「ザイードが遺した言葉を、今夜ようやく受け入れられた気がする。私は私自身を、どこかで赦したかったのかもしれない」アミールは黙って耳を傾けていた。王の声が朝の空気に溶けていく。「呪いは、本当は私の内にあった。誰にも与えられてなどいなかった。私は“愛すれば死ぬ”と物語にして、自分を閉じ込めてきた」サリームはゆっくりとアミールの手を取る。ふたりの指が重なり、手の温もりが過去の冷たい影をゆっくりと溶かしていく。「私は、これからは違う物語を生きたい。“愛することで生き直す”物語を。君と一緒に、新しく歩き始めたい」アミールの胸が静かに震える。その震えは、喜びにも似ていた。「あなたがそう言ってくれて嬉しい」小さな声だったが、確かな決意が込められていた。窓の外では、朝焼けが宮殿の塔を赤く染めている。ふたりの影が床に並び、これまでのどんな夜よりも長く、温かな形を描いていた。「私の人生が物語であるなら、私は今日からその語り手になる」サリームはそう言って、アミールの目をまっすぐに見つめる。「君と共に語り、共に生きる物語を選び直したい」アミールは、そっと王の手を引き寄せ、軽く額を触れ合わせる。「私も、あなたと歩む新しい物語を生きていきたい」ふたりの間に、
夜が更け、王宮の空気がひときわ静まりかえる。アミールの語りが終わり、ふたりの間には穏やかな沈黙が流れていた。蝋燭の灯が小さく揺れ、サリームの頬に影を落としている。その横顔はどこか安らぎを帯びていたが、瞳の奥にまだ癒えぬ痛みの色が残っていた。サリームはふと、机の奥にしまい込んでいた小さな箱の存在を思い出す。長いあいだ開けることのなかった箱。その中には、かつてザイードから託された手紙が一通だけ、封も切られぬままに眠っていた。立ち上がると、サリームは無言で箱を手に取り、机の前に座り直した。アミールはそっと王の動きを見守っていた。その瞳には、静かな祈りのようなものが浮かんでいる。封蝋を剥がし、そっと手紙を取り出す。紙は時の重みに少し黄ばんでいる。インクの染みが、ザイードの震える手の跡を思わせた。ゆっくりと広げる。ザイードの筆跡が、王の名を優しく呼びかけている。「サリームへ」その一行だけで、胸の奥が熱くなる。サリームは指先を震わせながら、静かに文を追った。「私は、君を裏切ったことはない。君の前で何も語れなかったのは、恐れと、愛のせいだった。君がもしも私を赦してくれる日が来たなら、それだけで私は満たされるだろう。君が誰かを、再び心から愛し、生きる日が来ることを願っている。呪いなどどこにもない。ただ、君自身が君を許してほしい。私もまた、君を愛している。誰よりも深く」インクの染みが、いくつもの涙の跡のように広がっている。サリームは目の奥に熱いものがこみあげるのを抑えきれず、声もなく涙を流す。長いあいだ、手紙の存在ごと心の奥底に封じ込めていた感情。ザイードの言葉は、静かにサリームの胸の檻を開いていく。「赦してくれ…私は、君を守りたかっただけだった」つぶやくように、ザイードの手紙は続いている。「どうか、愛することを怖れないでほしい。私は君の生を望んでいる。君は君のために生きてほしい。…それが、私の最後の祈りです」涙がぽたりと手紙に落ち、インクの文字をかすかに滲ませる。サリームは手で顔を覆い、しばし声を殺して泣いた。アミールはそっとその背
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