藤並は、自分が見られていることに気づいていた。
湯浅の視線が、どこかから突き刺さるように感じる。けれど、顔は変えなかった。笑顔も、仕草も、いつも通りを演じた。「大丈夫」
心の中でそう繰り返す。
「いつも通りにしていれば、何も問題ない」
しかし、胸の奥が冷えていく感覚が止まらなかった。
席に戻り、パソコンを立ち上げる。メールチェックの画面を開きながらも、視界の端に湯浅の存在が映る。
「何で、見てくるんだ」
冷たい汗が背中を伝う。スーツの内側が湿っているのに、顔は相変わらず営業用の微笑みを貼りつけていた。
湯浅は何も言わなかった。そこが一番怖い。
もし、何か一言でもかけられたら、まだ返せる。適当な冗談を返して、また仮面を上塗りすればいい。しかし、湯浅は黙っている。ただ、静かに見てくる。その視線が、藤並の内側をじわじわと追い詰めていた。
「このままなら、誰にも気づかれずに壊れていけたのに」
それが一番楽だと思っていた。誰にも何も知られず、表面だけを保ったまま、静かに消耗していくほうが、自分には合っている。
「でも……」
喉の奥がつまるような感覚があった。
「もし、誰かに気づいてもらえたら」
そんな考えが、ふと胸の奥に浮かぶ。
「もし、誰かが気づいて、助けてくれたら」
その矛盾が、自分でも理解できなかった。
「いやだ。気づかれたくない」
「でも、本当は誰かに見つけてほしい」
その二つの感情が、内側でせめぎ合っている。
藤並は席を立ち、トイレに向かった。鏡の前に立つ。
「落ち着け」
心の中で繰り返す。ネクタイを直すために手を伸ばす。
そのとき、指先がほんの少し止まった。
鏡越しに自分の目と目が合う。
「誰だろう、これ」
自分の顔なのに、他人のように見えた。
口角はきれいに上がっている。営業スマイルの形は崩れていない。だが、その目は冷たかった。奥に
藤並は、目の前のジョッキの水滴を指先でなぞっていた。冷えたガラスの表面をなぞると、指先に湿り気が残る。その感触だけが、今の自分の現実を確かめるための手段だった。駅前のチェーン系居酒屋。個室といっても、薄い仕切りと暖簾だけで区切られた小さな座敷。畳の上に低い座卓が置かれ、座布団に背を預けると、どこかで肩の力が抜けそうになる。それでも、藤並の身体はきちんと背筋を伸ばしていた。崩れた座り方をしてしまえば、何かが壊れそうな気がしていた。「たまには付き合えよ」そう言って、湯浅は気軽に誘ってきた。会社を出たとき、駅までの道すがら、肩を並べて歩くタイミングで。「はい」と答えるまでに、ほんの数秒の間があった。断りたかった。でも、断りたくなかった。「断れない」という感覚と、「行きたいかもしれない」という感情が、胸の奥でせめぎ合っていた。だから、言葉は自然と口をついて出た。「はい」その一言で、夜の飲みの席は決まった。座敷の隅。周囲の席からは、誰かの笑い声や、ジョッキを置く音がかすかに聞こえる。でも、自分たちの空間だけは静かだった。湯浅は煙草を取り出して火をつけた。小さな火花が跳ね、煙がふわりと漂う。藤並は、その煙を横目で見ながら、またジョッキをなぞった。ガラスに指の跡が薄く残る。その形を見て、すぐにまたなぞり直す。「気取った店より、こういうところの方が気が抜けるだろ」湯浅は、煙草をくわえたまま言った。「そうですね」藤並は、口元だけで微笑んだ。けれど、その笑みは喉の奥まで届かない。視線は、ずっとジョッキの底に落としていた。時々だけ、湯浅の手元を見た。けれど、目が合うのは避けた。「仕事、今日はお疲れさん」湯浅は軽くグラスを持ち上げた。乾杯の形だけだった。藤並も、同じようにグラスを持った。けれど、乾杯の音は鳴らさな
湯浅は、煙草の先を灰皿に押し付けて火を消した。けれど、藤並はまだ煙草を咥えていた。煙を吸うわけでもなく、吐くわけでもなく、ただ唇の端に挟んだまま、動けずにいた。喫煙所の中には、雨音が遠くから響いていた。窓越しの夜景は、雨粒で歪み、光がぼんやりと滲んでいる。その沈黙を、湯浅が小さな声で破った。「お前は、無理しなくていい」低くて、少しだけ掠れた声だった。視線は外に向けたまま。藤並の顔を見ようとはしなかった。その言葉が、藤並の胸に突き刺さった。「無理しなくていい」言われた瞬間、息が詰まった。「どうすればいいんだ」心の中で、そう呟いた。「助けてほしいのか、助けられたくないのか分からなくなる」その両方の気持ちが、胸の奥で渦を巻いている。「無理しなくていい」と言われると、かえってどうすればいいのか分からなくなる。自分が何を守ろうとしているのか、何から逃げているのか、その輪郭すら曖昧になっていく。藤並は、煙草を咥えたまま、ネクタイの結び目に手を伸ばした。指先で結び目を触る。けれど、直さなかった。「もう、どこまでが自分か分からない」その感覚が、じわじわと広がっていく。仮面を貼るために整えてきた顔。営業スマイル。言葉遣い。仕草。全部が自動的に動いてきた。けれど、今はもう、それすらもぐらついている。「優しくされると、壊れる」本気でそう思った。「だから、誰にも優しくされたくなかったのに」湯浅は、何も言わずに立っていた。藤並の震えた唇も、ネクタイに伸ばした手も、きっと全部見えている。でも、何も言わなかった。それが余計に苦しかった。「無理しなくていい」と言われて、どうしていいのか分からない。「俺は、何を守ろうとしているんだ」自分に問いかける。けれど、答えは出なかっ
喫煙所のドアが静かに閉まると、湿った夜の空気が二人を包んだ。雨はまだ降り続いている。ガラス越しに見える街の光が、雨粒で滲んでいた。藤並は黙って煙草を取り出した。胸ポケットの内側で、銀紙の感触を指先で確認しながら一本抜き取る。震えそうになる手を、意識してなだめるように動かす。ライターを取り出して火をつけた。小さな火花が跳ね、煙草の先が赤く灯る。煙を吸い込むと、肺の奥が熱を持つ。その熱だけが、自分の体がまだ動いている証拠だった。隣で湯浅も煙草に火をつける。二人は並んで、黙って煙草を吸った。「今日はもうこれでいい」湯浅は、心の中でそう思った。何かを聞く必要はない。無理に話す必要もない。今は、ただこの時間を一緒に過ごすだけでいい。藤並は、煙を吐き出した。唇が少しだけ震えた。けれど、吐き出された煙がその震えを隠してくれる。「この沈黙なら、壊れないかもしれない」心の奥で、藤並はそう思った。言葉を交わせば、きっとどこかで崩れる。でも、黙って煙草を吸っているだけなら、まだ耐えられる。けれど、その「まだ」がどこまで続くのか、自分でも分からなかった。「湯浅さんは、どうしてこんなふうに黙っていてくれるんだろう」優しさなのか、計算なのか、それとも単に何も考えていないのか。分からない。でも、その分からなさが、逆に楽だった。藤並は、もう一度煙を吸った。煙草の先が赤く灯り、その火がガラスに映る。外の雨と、室内の煙が重なって、視界がぼんやりと曇っていく。「この曖昧さの中にいるほうが、楽だ」はっきりとした言葉を交わすより、こうして煙の中に身を置いているほうが、自分には合っている気がした。「でも、どこかで怖い」その感情も消えなかった。「昨日も、こうして一緒に煙草を吸った」「今日も、また同じことをし
藤並は、カップを持ったまま給湯室を出た。湯浅が隣に立つ。けれど、何も言わない。その沈黙が、また藤並の胸を締めつけた。「昨日も、こんなふうに並んで歩いた」心の中で、そう思い出す。昨日の夜、喫煙所で一緒に煙草を吸った時間。あれは確かに、少しだけ楽だった。でも今日は、同じ距離なのに、なぜか心の奥がきしむ。「優しくされることが、こんなに怖いなんて」藤並は、コーヒーのカップを持つ手を見た。白い陶器の表面に、自分の指が映る。その指は、表面上は落ち着いているように見えるが、手のひらの内側には、じっとりと汗が滲んでいた。二人は並んで廊下を歩く。足音は二人分だけ。昼間の喧騒はもうなく、夜のオフィスは静まり返っている。エレベーターの前で立ち止まる。藤並の背筋がわずかに硬直した。でも、顔には出さなかった。「いつも通りの顔でいろ」自分に言い聞かせる。視線は真っ直ぐ前に向ける。エレベーターのランプが、下から順番に点いていくのを見つめる。「この距離は、近すぎる」そう思った。隣に湯浅がいるだけで、呼吸が浅くなる。「でも、逃げるわけにはいかない」逃げたら、もっと壊れる気がした。だから、隣に立ち続けるしかなかった。湯浅は、黙ったまま隣にいた。藤並の肩が少し緊張していることに、きっと気づいている。だけど、それを口にしない。「この人は、全部分かっていて、言わないんだ」それが、ありがたくて、また怖かった。エレベーターの扉が開く。二人で中に入る。藤並は、壁際に立ち、カップを胸元に抱えた。自分の呼吸の音が、エレベーターの中で少しだけ響いている気がした。「律さん……いや、湯浅さん」心の中で、また呼び方を訂正する。「律さん」と呼びたい自分と、「湯浅さん」と呼び続けたい自
「無理に話さなくていい」湯浅の声は、壁に反響するほどの大きさではなかった。ただ静かに、給湯室の空気に落とされた。藤並は、コーヒーのカップを握りしめたまま、目線を落とした。湯浅の顔を見ようとしなかった。その言葉が、胸の奥に突き刺さった。「何も言わなくていいって、言われると」心の中で、藤並は言葉を反芻する。「逆に泣きそうになる」けれど、泣くわけにはいかなかった。「泣いたら、全部壊れる」それが分かっている。だから、唇を噛んだ。ほんの少しだけ。見えないくらいに。コーヒーのカップを持つ指先に、わずかに力が入る。白い陶器が、かすかに震えている。「優しさって、こんなにも重いんだな」心の中で、そんなことを思う。「無理に話さなくていい」その一言が、どれだけ自分を追い詰めるか。湯浅は知らない。いや、もしかしたら、知っていて言っているのかもしれない。「優しくされたら、もう逃げられなくなる」藤並は、目を閉じた。まぶたの裏に、濁った夜の景色が浮かぶ。「壊れたくない。でも、守るものももう無い」そんな感情が、心の奥でせめぎ合っている。湯浅は、それ以上何も言わなかった。壁にもたれたまま、ポケットから煙草を取り出すこともせず、ただそこに立っている。藤並は、自分の呼吸が浅くなっていることに気づいた。けれど、直せなかった。「律さん」心の中で呼んだ名前を、またすぐに「湯浅さん」と言い直す。まだ、この距離で呼び方を変えるわけにはいかない。「それくらいの線は、守らなきゃいけない」けれど、その線が今、少しだけ揺らいでいる。藤並はコーヒーのカップを口に運んだ。けれど、もう温度は感じなかった。「優しさが、こんなにも負担になるなんて」心の中で何度も繰り返す。「もう、
夜の給湯室には、静かな雨音だけが響いていた。蛍光灯の光は昼間よりも落とされて、白いタイルの床に薄く反射している。カップを持つ藤並の手が、コーヒーメーカーの前で止まった。ガラス窓を叩く雨の粒が、不規則なリズムで音を立てている。その音を聞きながら、藤並は自分の指先を見た。微かに震えている。「……」深呼吸しようとしたが、胸の奥に詰まった何かが邪魔をして、それはうまくできなかった。けれど、顔には出さない。唇だけはいつもの形にして、表情筋を操作する。コーヒーメーカーのボタンを押すと、機械音が小さく鳴った。熱い液体がカップに落ちていく。手首がわずかに揺れたが、藤並は気づかないふりをした。「昨日と同じ空気だ」心の中で、そう思った。昨夜の喫煙所。あの沈黙。煙の中に混じる距離感。「でも、今日はそれが怖い」あのときは少し楽になれた。けれど、今日は違う。あの空気をまた味わってしまったら、きっともっと深く沈む。「律さん……いや、湯浅さん」心の中で呼び方を訂正する。まだこの人のことを「律さん」と呼ぶわけにはいかない。その境界線は、自分で引き続けている。背後で、給湯室の扉が静かに開いた。振り向かなくても分かった。湯浅の足音だ。昼間よりも柔らかい、夜特有の足音。藤並は、わざとコーヒーを注ぐ動作に集中した。視線を落とし、液体がカップに落ちる様子だけを見る。「……」湯浅は、何も言わなかった。その沈黙が、藤並の胸の奥を軋ませた。「話しかけてこない」それが、ありがたくて、怖かった。「あえて雑談もしない。ただ、そこにいる」藤並の心は揺れた。昨日と同じだ。けれど、今日はそれが余計に響いた。