INICIAR SESIÓN恋に弱い者同士というのも、案外、幸せなのかもしれない。萌花は二か月ほど休んだあと、すぐに研究の現場へ戻った。生体チップの開発に寝食を忘れるほど打ち込み、今度はその技術を人工心臓へ応用することを目指した。時雄に残された時間は、五年。それでも萌花は、必ず間に合わせられると信じている。萌花は研究に追われ、どうしても育児に十分な時間を割くことができない。そのぶん時雄は、佳奈が生後二か月になる頃には、毎日のように会社へ連れていくようになった。二条佳奈(にじょう かな)という名前は、時雄がつけたものだ。実のところ、家には産後ケアのスタッフが二人、ベビーシッターが三人、それに家政を取り仕切る執事までいる。すべて須恵が厳選し、孫娘の世話を任せている人たちだ。それでも時雄は、どうしても安心できず、子どもは自分のそばに置いておくのが一番安心だと、かたくなに言い張った。ところが、会社の人間たちは、時雄の言い分を真に受けてはいなかった。娘を会社に連れてくるのは、どう見ても自慢したいだけにしか見えないとみんなは思った。そのため、社内ではこんな光景がすっかり日常になっている。時雄は佳奈を抱いたまま会議に出る。佳奈のおむつが濡れれば、何食わぬ顔で会議を中断し、会議机の上に娘を寝かせて、慣れた手つきでおむつを替える。取引先との商談中でも同じだ。腕の中の佳奈が目を覚まして声を上げると、時雄はすぐに商談を止めた。「すみません、少し待ってください。娘のミルクを用意してきます」最初のうちは、社員たちも「いいお父さんですね」と微笑ましく見ていた。けれど、それが毎日のように続くと、さすがに呆れる者も増えた。いつの間にか、時雄は陰で「娘自慢社長」と呼ばれるようになった。しかも佳奈が生まれてからというもの、時雄はやたらと晩餐会やメディア向けの発表会に顔を出すようになり、取材にも積極的に応じるようになった。もちろん、そのたびに佳奈は小さな飾りのように必ず時雄の腕の中にいる。ある公的メディアのインタビュー記事では、時雄について最後にこんな一文が添えられた。「時雄さんは奥さんと娘さんを深く愛しており、その姿からは一見、家庭内での立場が弱いようにも見える。しかし実際のところ、それは少し違っている。家庭内での立場が弱いのではない。彼には最初
来希もまた、その一部始終を見ていた。長く待たされるうちに、彼の心はほとんど麻痺していた。萌花も時雄も、もう助からない。見つかったとしても、焼け焦げた遺体になっているだけだと思い込んでいた。それなのに、時雄は萌花を抱いて降りてきた。時雄の姿はひどく痛々しい。それでも、彼は萌花を抱いたまま、確かに生きて降りてきた。胸の奥で、嫌でも一つの考えが浮かぶ。もしさっき、自分が命を懸けて中へ飛び込んでいたら、結果は少しでも違うだろうか。しかしその答えは来希自身がいちばんよく分かっている。そんなはずはない。その瞬間、来希は自分の中にある身勝手さと臆病さをはっきりと思い知った。自分にはできない。時雄のように、命を投げ出してまで誰かを救うことなどできない。自分は結局、利己的で、臆病で、卑怯で、そのうえ悪意にまみれた小物でしかない。来希は抜け殻のように背を向け、そのまま警察署へ向かった。翌日、この火災は各メディアで大々的に報じられた。市内でも有数の高級産後ケア施設で起きた火災は、事故ではなく放火だったことが判明した。来希はそのまま警察署へ向かい、犯行を認めた。その後、共犯としてはなも逮捕された。二人には、厳しい処罰が待っている。萌花が病院で目を覚ましたとき、目の中にはまだ恐怖の色が濃く残っていた。夢を見た。夢の中では、炎が空まで燃え上がり、巨大な蛇のようにすべてを呑み込もうとしている。その炎の中に、時雄が立っていて、全身の皮膚は焼けただれ、血と肉がむき出しになり、最後には燃え尽きて、舞い散る灰になってしまった。「いや……!」萌花ははっと目を覚まし、ベッドの上で身を起こした。病室には医師や看護師がいるが、時雄の姿だけが見当たらない。彼女は慌てて、そばにいた看護師の手をつかんだ。「時雄は?時雄はどうなったんですか?」看護師は、言いにくそうに口を開いた。「小林さんは……お怪我がかなり重くて、今も集中治療室で治療を受けています」萌花はそこでようやく、時雄が火災現場から救出されたあとに、心臓発作を起こしたことを知らされた。処置は済んだものの、意識はまだ戻らず、今も集中治療室にいるという。萌花は無菌ガウンに着替え、時雄に会いに行った。時雄は全身を包帯で覆われ、見えるところにもいくつ
その人は萌花を背負うと、そのまま部屋を飛び出した。萌花はその背中に身を預けながら、彼の体温と匂いを感じていた。その感覚は、あの年、雪の中で感じたものとまったく同じだ。間違いない。今、自分を背負っている人と、あのとき自分を助けてくれた人は同じだ。来希なのか。違う。来希ではない。萌花は必死に目を開けた。まぶしいほどの火の光の中で、その人の横顔が見えた。時雄だ。萌花は息を呑んだ。ようやく、すべてがつながった。あの年、雪の中で彼女を背負い、十キロもの道を歩いてくれた少年は来希ではなく、時雄だったのだ。これほどはっきり確信したことは、今まで一度もなかった。萌花はずっと、あの雪の日に自分を救ってくれたのは来希だと信じてきた。命を救われた記憶と、絶望の中で差し出された温もりが、その思い込みを十年ものあいだ支えていた。けれど今、はっきり分かった。自分が十年間、命の恩人だと信じ続けてきた相手は、最初から間違っていた。そのせいで、時雄と十年もすれ違ってしまった。その瞬間、萌花は運命とはなんて残酷なのだろうと思った。時雄は萌花を背負って非常階段を下りていった。濃い煙が立ち込め、目の前はほとんど何も見えない。二人とも目を開けていられない。酸素は薄く、空気には有毒な煙と灰が混じっている。萌花は、時雄の足取りが何度も乱れるのを背中越しに感じた。彼ももう限界に近い。自分を支える腕は震えているが、それでも時雄は決して力を緩めなかった。やがて、階下へ向かう通路は激しく燃え上がる炎に塞がれた。炎は噴き出す溶岩のように足元まで迫っている。萌花は朦朧とする意識の中で、そこがまだ十階だと分かった。時雄もすでに限界だった。有毒な煙を吸い込んだせいで足元はおぼつかず、意識も今にも途切れそうになっている。ここまで下りてこられたのは、ほとんど気力だけだ。それでも、まだ道のりは半分残っている。萌花もまた、かろうじて気力だけで意識をつないだ。「時雄、一人で逃げて」時雄一人なら、まだ助かる可能性があるかもしれない。けれど、自分を背負っていては足手まといになるだけだ。ただ、今の萌花は体がまったく言うことを聞かず、立ち上がることすらできなかった。時雄はかすれた声で言った。「馬鹿なことを言うな。君
一方、来希は監視室で監視の目をそらし、はなが誰にも見咎められずに動けるよう手を回している。二人の計画では、準備が整ったところで、はなが離れた場所から仕掛けに火を入れることになっている。それから、火の手が大きくなりすぎる前に、来希が中へ飛び込で萌花を助け出す。そういう筋書きだった。しかし、はなは来希が思っているよりもはるかに残酷だ。来希が動く頃には、炎はすでに制御できないほどの勢いで燃え広がっていた。はなが建物を出る前から、上階はすでに炎に包まれている。しかも火の回りは異様に早く、あっという間に燃え広がった。産後ケア施設の中は大混乱に陥っていて、中からは大勢の人が逃げており、あちこちで悲鳴と怒号が飛び交っている。その頃には濃い煙がもうもうと立ち込め、飛び込めば命の危険があるのは明らかだ。まして、エレベーターはすでに動かない。萌花の部屋は最上階にあって、そこまで階段を上がる前に煙に呑まれてしまうだろう。はなは遠くに燃え上がる炎と煙を眺めながら、声を上げて笑っている。「はな、話が違うだろ……!君、本当に狂ってる!」はなは嘲るように笑った。「来希、萌花のことを愛しているんでしょう?だったら助けに行けば?命を懸けて助ける勇気があるならね」来希は拳を固く握りしめた。中へ飛び込めば、自分もただでは済まない。それは分かっていた。そのとき、見覚えのある車が、ものすごい勢いで産後ケア施設の敷地へ入ってきた。時雄の車だ。時雄は、消防よりも先に駆けつけた。今日、時雄は赤ちゃんを連れて実家に帰ると、はなが晴人を本邸に預けていったことを知った。使用人によると、そのときのはなは明らかに様子がおかしかったという。夜になっても、時雄の胸騒ぎは消えなかった。結局、不安を振り切れず、彼は急いで産後ケア施設へ戻ってきた。すると遠くから、産後ケア施設のあたりに火の手が上がっているのが見えた。最上階を包み込むように燃え盛る炎を見た瞬間、時雄はためらわず火の中へ飛び込んでいった。その姿を見た来希は、誰かに喉を締め上げられたような感覚に襲われた。死ぬかもしれないと分かっていても飛び込めるのか。来希はその場に立ち尽くした。自分だって、本当は飛び込みたい。一度でいいから、勇ましい男として、萌花にまっすぐ見てもらいたい。
はなの言葉を聞いた瞬間、来希の心臓が激しく跳ねた。スマホを握る指に力がこもり、今にも握り潰してしまいそうだ。あの雪の日のことが、否応なく頭に蘇った。実際には、雪の中から萌花を助け出したのは来希ではなかった。彼はたまたま保健室の前を通りかかり、目を覚ましたばかりの萌花と鉢合わせただけだった。けれど、目を覚ました萌花は、来希こそが自分を救ってくれた人だと思い込んでいた。来希はあえて否定しなかった。そのまま、命の恩人という立場を自分のものにしたのだ。そうだ。萌花は、そういう人間だ。ほんの小さな恩でも、何倍にもして返そうとする。まして命を救われたとなれば、彼女はずっと来希を特別な目で見てきた。二人の縁はそこから始まった。ならば、もう一度同じ状況を作ればいい。もう一度、自分が萌花の命を救う立場になれたなら、萌花はまた、自分を特別な存在として見てくれるのではないか。はなはなおも、来希を誘い込むように続けた。「たしかに、あなたはHIVに感染した。でも、それで今すぐ人生が終わるわけじゃないでしょう?薬を飲んで抑えていれば、普通に生活できる。誰にも知られずに済む。医療だって進んでいるのよ。何年か先には、治せる病気になっているかもしれない」」来希の心臓はどくどくと大きく跳ねた。胸の内側を太鼓で打ち鳴らされているようだ。来希にも分かっている。はなが本気で自分のことを案じているはずがない。今の言葉も、絶望している自分を動かすために差し出された餌にすぎない。それでも、人は絶望の底にいるとき、蛍ほどの光でさえすがるべき希望に見えてしまう。「萌花の子どもに何をするつもりだ。はな、そこまで卑劣なことはするな」だが、はなは冷たく言った。「あの子がいる限り、あなたと萌花に未来はないわ。来希、今さらいい人ぶるのはやめなさい。これはあなたに残された、たった一つのチャンスなのよ。それに、あなたが望んでいるのは、萌花をもう一度自分のものにすることでしょう?私の目的は、萌花を苦しめること。そして小林家の人間全員を苦しめること。それだけよ」来希は長い間、何も言わなかった。夜が訪れ、萌花は、濃い煙にむせて目を覚ました。意識が戻ったとき、周囲はすでに火の海である。激しく咳き込み、頭が割れるように痛む。萌花はすぐにドアへ向かって走っ
最後に、はなは晴人を小林家へ連れていった。何も説明せず、晴人を使用人に預けると、振り返りもせずに屋敷を出ていった。その日、小林家には、主人筋の者が誰もいなかった。その使用人も、突然連れてこられた晴人をどう扱えばいいのか分からず、ただ戸惑うばかりだった。はなはすでに小林家から追い出されたとはいえ、長年この家のお嬢様として振る舞ってきた人間だから、普段から使用人たちも、彼女にはどこか怯えていた。結局、使用人は晴人をいったん預かり、理香子が戻るのを待つしかなかった。はなは自分のマンションに帰った。このマンションは、今の彼女にとって唯一の財産だ。来希たちはとっくに追い出されて、今は賃貸の部屋で暮らしている。はなはマンションの登記書類を持ち出し、その足で不動産会社へ向かった。もう値段などどうでもいい、すぐに現金になれば、それでいい。本来なら三千万円近くの値がつく物件を、彼女はわずか一千万円で手放した。売却代金が振り込まれると、はなはすぐに銀行へ向かい、全額を現金で引き出した。それから、はなは来希に電話をかけた。意外にも、来希は電話に出た。電話がつながった途端、来希の怒鳴り声が容赦なく飛んできた。来希は、自分がHIV陽性だと告げられた現実をどうしても受け止めきれずにいる。はなを恨み、こんな女に人生を預けた自分を憎み、最後には、この世の何もかもが憎くなった。すべてを壊してしまいたいと思った。そう思うほど追い詰められているが、その奥に沈んでいたのは、消しようのない後悔だ。会社が傾き、萌花まで失ったあの日から、来希はずっと後悔に苛まれている。夜になっても眠れず、考えるのは、もし時間を巻き戻せたらということばかりだ。来希の人生は、初めから何一つ恵まれていなかった。貧しい田舎に生まれ、幼い頃に父を亡くし、それでも必死に努力して、自分の力だけでここまで這い上がってきた。だからこそ、ようやく手に入れたものがすべて崩れ去っていく現実を、どうしても受け止められない。思えば、萌花と過ごした年月こそが、彼の人生でいちばん尊く、いちばん穏やかな時間だった。あの頃へ戻りたい。もう一度だけでも、あの光の中に身を置きたい。けれど、何もかも手遅れだ。そのとき、受話口からはなの声が聞こえた。「来希、私たち







