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急患

Author: 雫石しま
last update publish date: 2026-04-14 09:01:34

その時だった。テーブルの上で陸斗のスマホが短く震えた。

深夜のスイートルームに、電子音が不吉に響く。

瑞希は窓辺から振り返り、わずかに眉を寄せた。

陸斗は素早い動きでスマホを掴み、画面をスライドさせた。

次の瞬間、彼の顔色がサッと変わった。

瞳が見開かれ、唇が固く結ばれる。

 

「……どうしたの? 病院から?」

 

瑞希の声は低く、腫れた頬の痛みで少し掠れていた。

陸斗はスマホを耳に当てたまま、片手でタキシードのシャツを乱暴に羽織った。

 

「急患だ。病院に行く」

 

声はすでに医師のそれだった。

感情を押し殺し、冷静さを装ったプロフェッショナルな響き。

新郎の顔は一瞬で消え、大学病院で三本の指に入る若き外科医の顔に切り替わっていた。

瑞希はバスローブの袖を握りしめたまま、ゆっくりと近づいた。

 

「待って……今、こんな時間に?結婚式の夜なのに……」

 

陸斗はスラックスを素早く履きながら、眼鏡のフレームを指で押し上げた。

レンズの奥の瞳は、すでに遠くのオペ室を見ているようだった。

 

「真希の担当医からだ。

 容態が急変したらしい。

 足の血流が……詳しくは行ってから」

 

その名前を聞いた瞬間、瑞希の体が凍りついた。

真希。また、真希。

結婚式の夜、夫であるはずの男が、初めての夜を放り出して駆けつけるのは、いつものように双子の妹。

瑞希は唇を噛んだ。

腫れた頬がズキズキと痛む。

 

「……真希の足が悪くなったからって、あなたはいつも飛んでいくのね。

 今日が私たちの結婚式だってこと、忘れたの?」

 

陸斗はネクタイを適当に緩めたまま、瑞希を振り返った。

その視線には、苛立ちと、どこか哀れむような色が混じっていた。

 

「瑞希、お前は本当に……

 真希が苦しんでるかもしれないんだぞ?

 俺は医者だ。幼い頃からあいつに誓ったんだ。

 『俺が医者になって、真希の足を治してやる』って。

 有言実行した。今、俺にしかできないことがある」

 

瑞希は静かに、しかしはっきりと息を吐いた。

 

「誓い……ね。 私にも、今日、神様の前で誓ったわよね。夫婦になるって」

 

陸斗の動きが一瞬止まった。

けれどすぐに、眼鏡をかけ直し、コートを手に取った。

 

「今はそんな話をしてる場合じゃない。

 後でちゃんと話す。

 お前はここで待っててくれ」

 

瑞希はバスローブの前を固く閉じ、陸斗の背中に言葉を投げかけた。

 

「待ってて、って……私は花嫁なのよ?それとも、私は『強いから大丈夫』な存在?

 真希が苦しんでる間、私はここで一人で結婚初夜を過ごせばいいの?」

 

陸斗はドアノブに手をかけたまま、振り返らなかった。

「……ごめん」短い謝罪だけを残し、彼は部屋を飛び出していった。

ドアが重く閉まる音が、スイートルームに響き渡った。
瑞希はしばらくその場に立ち尽くしていた。

腫れた頬を押さえ、唇を震わせる。
やがて、彼女はゆっくりとベッドに腰を下ろした。

バスローブのポケットから、結婚式で使った白いハンカチを取り出す。

そこには、陸斗のイニシャルが刺繍されていた。
瑞希はハンカチを両手で握りしめ、ゆっくりと顔に押し当てた。

 

「……また、真希。

 いつも、真希。

 私の痛みは、いつになったら『急患』扱いされるの?」

 

部屋の外では、陸斗の足音が遠ざかっていく。

彼の心はすでに病院へ、車椅子の妹のもとへ飛んでいた。
瑞希はハンカチを握ったまま、静かに目を閉じた。

心の奥で、幼い頃の自分が再び泣き始めていた。
でも、今度は泣き声に混じって、

別の感情が、静かに、冷たく、芽生え始めていた。

 

怒り。

そして、静かな決意。

 

「もう……我慢しない」

 

瑞希は立ち上がり、窓の外の夜景を見つめた。

結婚式の夜空は、星一つ見えないほど曇っていた。
陸斗がいなくなったスイートルームで、

双子の姉は、初めて「自分」を取り戻すための、

小さな一歩を踏み出そうとしていた。

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