Share

義父との対面②

Author: 雫石しま
last update publish date: 2026-04-15 10:55:53

義父の眉がピクリと動いた。

「結婚早々、何の冗談だね」

その声は穏やかだったが、底に冷たい棘が隠れていた。

私はアールグレイの湯気をじっと見つめながら、ゆっくりと首を振った。

「私も離婚する気はありませんでした」

一瞬の沈黙。

義父の指が、再びテーブルの縁を軽く叩き始めた。

規則正しい、まるで計算機のようなリズムで。

「……なら!」

彼が声を荒げかけたその瞬間、瑞希は静かに、しかしはっきりと言葉を被せた。

「婚姻の条件として、製薬会社と取り交わした契約書のコピーをいただけますか?」

義父の指が止まった。

部屋の空気が、一気に重くなった。

エミール・ガレのランプの光が、黒光りする本革の椅子に冷たく反射している。

「何のために」

声が低く、明らかに警戒を帯びていた。

瑞希は膝の上で指を組み直し、ゆっくりと息を吐いた。

胸の奥で、鹿威しの音が遠くから響いてくるような気がした。

こおん……。

「この契約の『鍵』である私には、知る権利があります」

義父の目が細くなった。

それまで瑞希を「理想的な嫁」として見ていた視線が、初めて「敵」を見るような冷たさに変わるのがわかった。

「瑞希さん……君は少
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • 新婚初夜あなたは妹のベッドにいた   絶望と抱擁

    真希のベッドサイドで、陸斗は膝をつくように座っていた。彼の長い指が、真希の細く冷たい足首を、まるで壊れやすいガラスのように優しく包み込んでいる。その指先が、わずかに震えていた。「真希……今日のデータ、思ったより悪化してる」「そう......」陸斗の声は低く、掠れていた。彼はカルテを握りしめ、目を伏せた。白衣の肩が、まるで重い荷物を背負ったように落ちている。「余命宣告を更新した。……3年以内だ。最長で5年。治療を続けても、この進行を完全に止めるのは……俺にはもう、限界かもしれない」真希が弱々しく微笑むと、陸斗の目尻に、うっすらと涙が浮かんだ。医師として何百人もの患者を見てきた彼が、幼馴染の妹の前でだけ、声を詰まらせる。「ごめん……俺がもっと早く、もっと良い治療を見つけてれば……お前を、こんな体にさせてしまった」陸斗は真希の手を両手で包み、額をその手に押しつけた。肩が小さく震え、声にならない嗚咽が漏れた。「ずっと一緒にいるって、誓ったのに……俺は、守れてない」その姿は、ただの医師のものではなかった。幼い頃から真希を守ると誓った少年が、大人になってもなお、罪悪感に潰されていく姿だった。瑞稀は病室のドアの隙間から、そっと中を覗いていた。陸斗は真希のベッドに額を埋め、両手で頭を抱えていた。白衣の背中が、激しく上下している。「真希……俺は、何のために医者になったんだ……」声は嗄れ、涙がシーツに落ちて小さな染みを作っていた。「余命3年って宣告した瞬間、お前が笑った顔が忘れられない。『陸斗くんなら、きっと大丈夫』って……俺を信じてるのに、俺は何もできない」「陸斗くんがそばにいてくれるならそれでいいの」陸斗は拳を握り、ベッドの柵を叩いた。一度、二度。静かな、しかし抑えきれない慟哭だった。「瑞希には……悪いと思ってる。でも、お前がいなくなったら、俺は……」彼はそこで言葉を飲み込み、ただ真希の冷たい手を頰に押し当て、涙を堪えきれずに肩を震わせ続けた。医師としての冷静さはどこにもなく、ただ一人の男が、幼馴染の命の炎が消えゆくのを前に、崩れ落ちている姿だった。「陸斗くん……泣かないで」真希の声は、弱々しく甘く、しかしどこか勝ち誇った響きを帯びていた。「私、まだここにいるよ。あなたがいる限り、私は頑張れる。余命なんて…

  • 新婚初夜あなたは妹のベッドにいた   月150万円の結婚

    病院を後にした私は、タクシーに乗り、実家へと向かった。窓の外を流れる街並みが、ぼんやりと過ぎていく。白い芍薬の残り香が、まだ指先にまとわりついている気がした。腫れた頬は化粧で隠したものの、鏡で見るたび、昨夜の平手打ちの感触が蘇る。実家——暖かく優しい思い出のかけらなど、最初からなかった家。玄関の鍵を回す音が、妙に大きく響いた。中に入ると、いつものように母の声が飛んできた。「あら、瑞希? どうしたの、こんな朝早くに。……陸斗くんは?」母はキッチンから顔を出し、いつもの柔らかい笑みを浮かべていた。父はリビングのソファに座ったまま、新聞を広げていた。二人とも、結婚披露パーティーで私が頬を打たれた瞬間、何も言わず、ただ息を呑んで傍観していた顔が、まだ目に焼きついている。私は玄関に立ったまま、静かに、しかしはっきりと言った。「離婚するわ」一瞬、家の空気が凍りついた。母が慌ててエプロンを外しながら駆け寄ってきた。「え……何を言ってるの? 結婚したばかりじゃないの!」父も新聞を乱暴に畳み、立ち上がった。声が低く、明らかに動揺している。「待て、瑞希。お前、真希の治療費のことを考えてるのか?陸斗くんの病院の『家族特別枠』がなくなったら、どうするつもりだ?月百五十万円以上かかるんだぞ! 今までタダ同然で受けられてきた治療が、全部実費になるんだ!」母の顔が一瞬で青ざめ、声が震えた。「そうよ! 真希の新薬とリハビリ、全部あの枠のおかげなのよ!離婚なんかしたら、真希はすぐに枠から外されるって、理事長さんからも言われてるじゃない!あの子が寝たきりになったら……あなた、どう責任を取るの?」私はゆっくりと息を吸い、声を低くした。「真希のことも考えて?今までずっと、そう言われてきたわ。『お姉ちゃんだから』『あなたは健康なんだから』『真希の世話をしてあげなさい』 三歳の頃から、真希の車椅子を押して公園に行かされた。私が膝を擦りむいて泣いても、『真希ちゃんより痛くないでしょ?』って。陸斗が真希の肩を抱くのを、横で笑顔で我慢しなきゃいけなかった。結婚だって、陸斗の両親が『瑞希なら家を守れる』って言ったから、陸斗は仕方なく私に指輪を渡しただけでしょう?」母が必死に言葉を重ねてきた。「そんな……言い方……。真希の治療費が払えなくなったら

  • 新婚初夜あなたは妹のベッドにいた   付き添い②

    その時だった。真希の指先が、白くなるほど強く私のスカートを掴んだ。一瞬の力。バランスを崩した私は、壊れた操り人形のように屋上の人工芝の上に倒れ込んだ。膝と手のひらが擦れて、じんわりと痛みが広がる。周囲の入院患者や付き添いの視線が、一斉に集まった。クスクス、という小さな笑い声が、屋上庭園の空気に溶けていく。「……真希! 何をするの!」ふり仰ぐと、そこにあったのは——姉を見下ろす、歪んだ笑みだった。真希の唇は優しく弧を描いているのに、目は冷たく、静かに勝利を味わっているように輝いていた。「お姉ちゃん、元気だから大丈夫でしょう? 羨ましいわ」その言葉は甘く、しかし鋭い棘のように胸に刺さった。私は声を荒げた。「ふざけないで!」差し出された真希の手を、勢いよく振り払った。その瞬間——私の手首は、痛みを感じるほど力強く掴まれた。「何をしているんだ! 真希は病人なんだぞ!」陸斗だった。彼は真希の車椅子の横に立って、私を睨みつけていた。白衣の袖が風に揺れ、いつもの穏やかな医師の顔はどこにもない。そこにあるのは、明確な非難と、真希を守るための冷たい苛立ちだけだった。私は地面に片手をついたまま、ゆっくりと顔を上げた。膝の痛みより、手首を掴まれる痛みより、胸の奥が焼けるように熱かった。「……陸斗。あなたは今、私が倒されたのを見なかったの?」「真希がそんなことをするはずがない。お前が何か粗相をしたんだろう。真希は足が不自由で、感情のコントロールが難しいんだ。少し優しくしてやれ」陸斗の声は低く、しかし周囲に聞こえるように響いた。クスクスという笑い声が、また少し大きくなった気がした。入院患者の一人が「可哀想に……」と小さく呟くのが聞こえた。可哀想——それは、私ではなく、真希に向けられた言葉だった。真希は車椅子に座ったまま、弱々しく陸斗の袖を引いた。「陸斗くん、ごめんね……。お姉ちゃんに迷惑かけちゃった。でも、お姉ちゃんが元気で羨ましくて、つい……」その声は震え、涙ぐんでいるようにさえ聞こえた。陸斗はすぐに真希の肩を抱き、優しく背中をさすった。その手は、先ほど私を掴んだのと同じ手だった。私はゆっくりと立ち上がり、スカートの埃を払った。膝から血がにじんでいるのが見えたが、痛みはほとんど感じなかった。代わりに、心の奥底

  • 新婚初夜あなたは妹のベッドにいた   付き添い①

    陸斗も真希の病室に入り浸る訳にもいかず、私も交代で特別個室に付き添うことになった。表向きは「家族の協力体制」。実際は、研究プログラムの「配偶者家族」としての体裁を保つためだということは、もう誰も口にしなかった。その日も、私は真希の病室にいた。「ねぇ、瑞希。外の景色が見たいわ」真希の声は、いつものように弱々しく甘えた響きを帯びていた。確かに窓の外の空は青く、日差しは柔らかく温かい。私は無言で車椅子を準備し、真希の華奢な体を支えて移した。細い肩、ほとんど肉のついていない腕。——今にも折れそうなこの体に、陸斗が何度も触れていると思うと、背筋に冷たい悪寒が走った。(この二人は……どこまでの関係なんだろう)そんな下世話な想像が、頭の中で勝手に膨らむ。陸斗の手が、真希の細い足首を優しく撫でる様子。深夜の特別個室で、二人きりで交わされる言葉。ベッドの上で、瓜二つの私の顔をした妹に、陸斗がどんな表情を向けているのか。私は自分の思考に、強い嫌気がさした。こんなことを考える自分が、汚らわしくてたまらない。健康な姉として、真希を支えてきたはずなのに、今はただ、嫉妬と猜疑心で胸が腐っていく。真希は車椅子に座ったまま、窓の外を眺めながら小さく微笑んだ。「気持ちいい……。お姉ちゃん、ありがとう。陸斗くんも、いつも優しくしてくれるけど……やっぱりお姉ちゃんの支えが一番安心するわ」その言葉は優しく聞こえたが、どこかで私を試しているようにも感じられた。私は真希の後ろに立ち、車椅子のハンドルを握りしめた。指の関節が白くなるほど強く。「陸斗は……最近、忙しそうね」「うん。でも、私のことが一番大事だって言ってくれるの。新婚なのに、ごめんね。お姉ちゃんが我慢してくれているおかげで、私はこうして日差しを浴びられるんだから」真希の声は穏やかだった。しかし、その穏やかさの裏側に、静かな優位感がちらりと覗いている気がしてならなかった。華奢な体、弱々しい笑顔——それが真希の武器であり、私の枷だ。私は車椅子をゆっくりと押しながら、窓辺に移動させた。外の景色は確かに美しかったが、私の目にはただ、空虚な青にしか映らなかった。鹿威しの音が、遠くの記憶の中で響いた。こおん……。私は心の中で、静かに呟いた。(もう、十分我慢したわ)「もっと外が見たい、屋上に連

  • 新婚初夜あなたは妹のベッドにいた   勘の良い友人

    午後のカフェは、窓から柔らかな日差しが差し込んでいた。瑞希は窓際の席に座り、アイスコーヒーをゆっくりと回しながら待っていた。寿退社してから初めての「昔の仲間とのお茶」だ。「瑞希ー! 遅れてごめん!」佐倉美咲が、軽やかな足取りで現れた。ショートボブに明るいベージュのトレンチコート、いつものようにエネルギッシュな笑顔。新聞社の社会部で今も第一線を走っている彼女は、結婚披露パーティーに来られなかったことを本気で申し訳なさそうに頭を下げた。「本当に、おめでとう! 陸斗先生みたいなイケメン医師と結婚なんて、羨ましい限りだよ。プレゼント、遅くなったけど受け取ってね」小さな紙袋を渡され、私は微笑んだ。「ありがとう。わざわざありがとう」美咲は席に着くなり、メニューも見ずにカフェラテを注文した。そして、私の顔をじっと見つめてきた。「……瑞希、どうしたの?」最初の一言で、私は少し背筋を伸ばした。勘の良いところは相変わらずだ。「え? 何が?」「なんか……目が死んでる」美咲はストローを指でくるくる回しながら、軽い調子で続けた。「新婚なのに、こんなに早く『主婦の顔』になるなんておかしいよ。陸斗先生、忙しいのはわかるけど、帰ってきてくれないんでしょ?」私はアイスコーヒーのグラスを握る手に力を込めた。美咲は笑いながらも、目は一切笑っていない。記者としての勘が、すでに私の異変を捉えていた。「まあ……病院の先生って、そういうものじゃない?」「うーん、そういうもの、で片付けられる雰囲気じゃないよね」美咲は少し声を落とし、身を乗り出してきた。「披露パーティーの話、ちょっと聞いてるよ。陸斗先生が瑞希を……その、平手打ちしたって。本当?」私は一瞬、言葉を失った。美咲は慌てて手を振ったが、目は鋭いままだ。「ごめん、変な聞き方。でも、瑞希が急に寿退社して、連絡も減ったから心配してたの。双子の妹さんが入院してるって聞いたけど……何か、複雑な事情があるんじゃないかって」私は静かに息を吐いた。この瞬間、義父の応接室で聞いた「家族特別枠」の言葉が、頭の中でフラッシュバックした。新婚初夜の冷たいベッド、ハンバーグをゴミ箱に落とした瞬間、鹿威しの音。私はカップを置いて、ゆっくりと美咲の目を見た。「……美咲、勘が良すぎるのは相変わらずね」美咲はにっこり笑

  • 新婚初夜あなたは妹のベッドにいた   コンビニ弁当

    瑞希はコンビニの袋を提げ、マンションへと戻った。鍵を回す瞬間、いつも胸に刺さる切なさが走る。カチャリ、という小さな金属音が、今日も虚しく響いた。そこには、陸斗の気配はなかった。結婚当初は違った。エプロンを着け、笑顔で帰りを待ち、好きなハンバーグを作ってテーブルに並べたものだ。「遅くてもいいから、温めて待ってるね」LINEを送った夜もあった。今は違う。瑞希は一人、ソファに腰を下ろし、コンビニの惣菜弁当を開けた。箸を持ち、静寂の中で咀嚼する音だけが、部屋に響く。カリカリという音が、自分の耳にだけ大きく聞こえる。味など、ほとんど感じない。冷蔵庫を開けると、昨日作った陸斗の好きなハンバーグが、まだ綺麗にラップされたまま残っていた。瑞希はそれを無言で取り出し、ゴミ箱に落とした。プラスチックの蓋が閉まる音が、妙に大きく響いた。その瞬間、自分の中の最後の灯火が、静かに消えた気がした。温かみのない部屋。ベッドはいつも冷たい。陸斗は真希の特別個室に泊まり続け、ほとんど帰ってこない。「急患が続いている」とだけ短いメッセージが来る日々。本当はわかっている。あれは急患などではなく、真希の治療枠を守るための時間なのだと。寂しさに耐えきれず、夜中に一人で泣いたこともあった。枕を濡らし、声を殺して嗚咽した夜も、何度かあった。でも、それも長くは続かなかった。涙が枯れるのと同じように、心の奥底で何かがゆっくりと死んでいった。代わりに生まれたのは、冷たい、透明な何かだった。義父の応接室で聞いた言葉が、頭の中で繰り返される。『君は条件をすべて満たしていた。』『配偶者枠』『研究費数億円』『真希の治療費など、端金だよ』瑞希はベッドに横になり、天井を見つめた。暗闇の中で、鹿威しの音が幻のように聞こえた気がした。こおん……。もう、泣かない。もう、待たない。ただ、静かに、鍵を外す準備をしよう。その朝も、気だるい体を引きずって目覚めた。鏡に映る自分の顔は、以前より少しだけ鋭くなっていた。腫れの痕はもう消えていたが、代わりに、目の中に冷たい光が宿り始めていた。陸斗は今日も、真希のベッドサイドにいるのだろう。瑞希は静かに、コンビニの袋を片付けながら、独り言のように呟いた。「新婚初夜、あなたは妹のベッドにいた。それでいい。私は、も

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status