Share

スイートルーム

Author: 雫石しま
last update Petsa ng paglalathala: 2026-04-14 08:40:07

「さっきは怒鳴って悪かった……」

 

タキシードのボタンを外しながら、陸斗は重い足取りでベッドに近づいた。

ホテルのスイートルームは広すぎて、二人をますます小さく見せていた。

シャンデリアの柔らかな光が、瑞希の腫れた左頬を浮かび上がらせる。

陸斗はためらいながら手を伸ばし、指先でその熱を持った肌をそっと撫でた。

 

「痛っ……」

 

瑞希が小さく息を詰め、顔を背けた。

バスローブの襟をぎゅっと握りしめ、膝を抱えるように体を縮める。

 

「……ごめん。真希のことになると、頭に血が昇るんだ。

自分が自分でなくなる」

 

陸斗の声は低く、どこか疲れていた。

謝罪の言葉とは裏腹に、彼の瞳にはまだ苛立ちの残り火がくすぶっている。

瑞希はそれを見逃さなかった。

幼い頃から何度も見てきた——真希を守るために自分を「正義」に変えてしまう、陸斗の顔。

瑞希は腫れた頬を自分の冷たい指で押さえながら、静かに言った。

 

「真希のことになると……いつもそうだったよね。

 私より、真希が先。

 私の痛みより、真希の不安が先。

 私の気持ちより、真希の足が先」

 

言葉が、部屋の空気を切り裂いた。

陸斗は眉を寄せ、タキシードの上着をソファに放り投げた。

 

「またそれか……。瑞希、お前はいつもそうだ。

 真希が可哀想だって思う気持ちが、なんでそんなに悪いんだ?

 お前は強いんだから、少し我慢してくれよ」

「強い……」

 

瑞希は小さく、乾いた笑いを漏らした。

その笑いは、バスローブの白い生地に吸い込まれるように消えた。

 

「私、ずっと『強い』って言われてきた。

 三歳のときから。

 真希の車椅子を押しながら転んで膝を擦りむいても、

 『お姉ちゃんだから我慢して』って。

 陸斗が真希の肩を抱いて『俺が守ってやる』って言うのを、

 横で笑顔で聞いていなきゃいけなかった。

 ……それが『強い』ってこと?」

 

陸斗は言葉に詰まった。

彼は瑞希の隣に腰を下ろし、大きな手で彼女の肩を掴もうとした。

けれど瑞希は、するりとその手を避けた。

 

「さっきの結婚式で、私を叩いたとき……

 あなたの中で、私じゃなくて真希が泣いている姿が見えたんでしょ?

 私じゃなくて、真希の腫れた頬が見えたんでしょ?」

 

陸斗の瞳が揺れた。

 

「……違う」

「違う? じゃあどうして、私の頬を叩いた手が、

 真希の足を気遣う手と同じ温度だったの?」

 

部屋に重い沈黙が落ちた。

陸斗はゆっくりと息を吐き、瑞希のバスローブの袖を指で摘まんだ。

 

「俺は……真希を不幸にしたくないだけだ。

 あいつは生まれた時から足が動かない。

 それなのに、お前みたいに走ったり跳ねたりできない。

 俺が守ってやらないと……」

 

瑞希は目を細めた。

その瞳には、長い間押し殺してきた暗い炎が灯っていた。

 

「守ってやる、ね。

 それって『愛』なの?

 それとも……『自分が正しい』って気持ちを満たすための、

 都合のいい弱者なの?」

 

陸斗の顔がわずかに歪んだ。

瑞希は続けた。

声は静かだったが、震えていた。

 

「真希も、私も、壊れてる。

 私は『強さを強要されて』壊れた。

 真希は『弱さを武器にし続けて』壊れた。

 あなたはその両方を、見て見ぬふりをしてきた。

 私を抱きしめるときも、きっと心のどこかで

 『真希より丈夫でよかった』って思ってるんでしょ?」

 

陸斗は答えられなかった。

代わりに、彼は瑞希の腫れた頬に再び指を這わせ、

今度は少し強引に顔を自分の方へ向けさせた。

 

「……もう、喧嘩するな。

 今日は俺たちの結婚式だったはずだ。

 真希のことは……これからゆっくり考える」

 

瑞希は陸斗の瞳をまっすぐに見つめ返した。

そこに映る自分の顔は、腫れて歪んでいた。

そして、もう一つの顔——真希の顔が、重なって見えた。

彼女は小さく、けれどはっきりと呟いた。

 

「陸斗。

 もし私が足を悪くして、車椅子に乗っていたら……

 あなたは、私を選んでくれた?」

 

陸斗の指が、ぴくりと止まった。

その沈黙が、すべてを物語っていた。瑞希の胸の奥で、

幼い頃の桜の木の下で泣いた自分が、

今、静かに立ち上がった。

 

「やっぱり……ね」

 

彼女は陸斗の手を、そっと、しかし確実に振り払った。

バスローブの襟を直しながら、瑞希はベッドから立ち上がった。

腫れた頬が痛むのも構わず、窓辺へ歩いていく。
外は夜の街が輝いていた。

結婚式の夜なのに、二人きりのスイートルームは、まるで冷たい牢獄のようだった。

陸斗はまだベッドに座ったまま、自分の手のひらを見つめていた。

そこには、さっき瑞希の頬を叩いた感触と、

今、振り払われた感触が、交互に残っていた。

 

三角関係は、結婚という形を取った瞬間、さらに深く、ねじれ、暗い渦へと変わり始めていた。

瑞希の背中は、バスローブ越しにも小さく震えていた。

彼女はもう、泣いていなかった。

代わりに、心の奥で何かがゆっくりと、

冷たく、静かに、決意を固め始めていた。

Patuloy na basahin ang aklat na ito nang libre
I-scan ang code upang i-download ang App

Pinakabagong kabanata

  • 新婚初夜あなたは妹のベッドにいた   這い上がる恐怖

    瑞希がそっと手を離そうとすると、螢子の指は逆に強く絡みついた。まるで獲物を捕らえた女郎蜘蛛のように、しなやかで執拗な力だった。妖しげな微笑みが、螢子の唇に浮かぶ。 監督が「どうぞ、着席を」と促すと、ようやくその手は離れた。瑞希の手の甲には、うっすらと赤い指の跡が残っていた。血が一瞬、引いたような感覚。 牛革のソファに腰を下ろすと、冷たい感触が背中から足元へ這い上がってきた。ガラス張りの部屋の向こうに広がる東京のビル群が、まるで遠い異世界のように見える。「……真希」 思わず口から零れた名前に、螢子はゆっくりと首を傾げた。「なに? お姉ちゃん」 その呼びかけは甘く、親しげで、しかし底知れぬ冷たさを孕んでいた。瑞希の背筋が凍りつく。これは真希だ。相馬螢子という美しい入れ物を借りた、真希本人であると、直感が告げていた。声の響き、視線の深さ、指の力強さ——すべてが、死んだはずの妹のものだった。 瑞希は無意識に爽子を抱き寄せた。娘の小さな体温が、唯一の救いのように感じられる。確かに爽子は真希に瓜二つだった。漆黒の髪、薄茶の瞳、顎の下のホクロ。けれど螢子のような、おどろおどろしい、得体の知れない恐怖は感じなかった。爽子はただ、無垢に瑞希の胸に顔を埋めている。 螢子はソファに深く腰を下ろし、巻毛を指でくるくると巻き始めた。その仕草さえ、真希の癖そのものだった。「瑞希さん……いえ、お姉ちゃん。久しぶりね」 螢子の声は低く、甘く響く。監督とプロデューサーが気まずそうに視線を交わすが、二人の間にはすでに、誰も入り込めない濃密な空気が流れていた。 瑞希は震える唇を噛みしめた。死んだ妹は、映像の中で蘇り、今、目の前に座っている。しかも、完璧な美しさと、底知れぬ憎悪をまとって。 ガラスの壁の向こうで、夕陽がゆっくりと傾き始めていた。部屋の中の温度が、確実に下がっていくような気がした。

  • 新婚初夜あなたは妹のベッドにいた   対談という名の再会

    通された応接室は全面ガラス張りで、東京のビル群を眼下に一望できる最上階にあった。降り注ぐ午後の光が、部屋全体を白く輝かせている。その光の中に、相馬螢子の姿があった。 牛革のソファに姿勢正しく腰掛け、唇をきゅっと結んだ緊張の表情。栗色の巻毛が肩に落ち、琥珀色の瞳が静かにこちらを捉えている。「岡部瑞希さんです」 瑞希は爽子を抱いたまま、ゆっくりと足を踏み入れた。瞬間、螢子から漂う「真希」の気配に、足が止まる。死んだはずの妹の冷たい微笑み、嫉妬の視線、呪いの残滓——それが、螢子の全身から濃密に溢れ出していた。 螢子もまた、「姉の瑞希」との対面——いや、再会に、体をこわばらせた。見えない緊張感が、ガラスの部屋に重く落ちる。「はじめまして」 螢子が華奢な手を差し出した。瑞希は恐る恐る指先を伸ばし、「よろしくお願いします」と軽く触れた。 その瞬間——。 電流が走るように、「真希」の意識が、「瑞希」の感情が、互いに流れ込んだ。 瑞希の脳裏に、桜の樹の下から見上げる冷たい視線が蘇る。車椅子に縛られた苛立ち、陸斗を独占しようとする執念、死の間際の勝利の微笑み。体が熱くなり、息が苦しくなる。 螢子の瞳もわずかに揺らいだ。瑞希の記憶——強さを強いられ、妹の影に耐え続けた日々、陸斗への複雑な愛憎、爽子を抱くときの罪悪感と恐怖——が、洪水のように流れ込んでくる。右足が疼き、指先が震える。 二人は手を繋いだまま、互いの瞳をじっと見つめ合った。ガラスの壁の向こうに広がる東京の景色が、遠く霞んで見える。 爽子が瑞希の胸で小さく身じろぎした。その瞬間、螢子の視線が娘の顎の下のホクロに止まる。唇の端が、わずかに——妖しく——弧を描いた。「……爽子ちゃん、ですね」 螢子の声は低く、甘く響いた。瑞希の背筋に冷たい戦慄が走る。この女優は、ただ真希を演じているのではない。真希そのものが、ここにいる。 二人の手は、まだ離れなかった。ガラス張りの部屋に、目に見えない渦が静かに、しかし確実に生まれ始めていた。

  • 新婚初夜あなたは妹のベッドにいた   対談へのカウントダウン②

    相馬螢子のスマホに、一通のメールが届いたのは、夜も更けた午前零時を回った頃だった。送信者は「私のすべて」の映画監督だった。 本文を開くと、監督の熱い言葉が並んでいた。『オーディションでの君の演技に、心底打たれた。ぜひ相馬螢子でこの映画を撮りたい。あの鬼気迫る真希こそ、私が求めていたものだ。』 しかし、続く文章で温度が急に下がった。配給会社とプロデューサーが難色を示しているという。螢子の解釈が原作から「程遠すぎる」と。「……いいえ。あれが『真希』の本心よ」 スマホを握る螢子の手が、小刻みに震えた。画面の光が、暗い寝室に青白く浮かび上がる。彼女はゆっくりと立ち上がり、大きな鏡の前に移動した。 鏡の中の自分と、目が合う。 時折、自分の顔に、もう一人の自分が重なって見えることがある。今も、栗色の巻毛の奥に、漆黒のストレートヘアが透けて見える気がした。薄い唇が、血の色を帯びて歪む。「岡部……瑞希」 螢子はその名前を、まるで呪文のように低く呟いた。舌の上で転がすと、甘く苦い味がした。 メールの最後に、こう書かれていた。『原作者の岡部瑞希氏との対談をセッティングしたい。「真希」について、深く話し合っていただければ幸いです。』 螢子は鏡に手を伸ばし、冷たいガラスに指先を這わせた。自分の頰をなぞる。そこに、瑞希の顔が重なる瞬間があった。同じ血を引いた双子のような、しかし決定的に異なる運命を歩んだ女。どんな声で話し、どんな仕草で語りかけてくるのか。優しい微笑みの裏に、どれほどの憎悪を隠しているのか。「……お姉ちゃん」 唇が、勝ち誇ったように弧を描いた。右足が無意識に引き摺り、床を擦る音が静かな部屋に響く。 螢子はスマホを胸に押し当て、ゆっくりと目を閉じた。胸の奥で、真希が確かに息をしていた。死んだはずの女が、今、彼女の体を借りて、再び瑞希の前に立ち上がろうとしている。 対談の日が近づくにつれ、螢子の微笑みはますます深く、妖しくなっていった。

  • 新婚初夜あなたは妹のベッドにいた   対談へのカウントダウン

    「その日は都合がつかないな……」 智久はネクタイを緩めながら、疲れた顔で瑞希に向き直った。帰宅したばかりの彼のシャツには、出版社の残業の匂いが染みついている。「……そうよね、編集長がお休みなんて……無理よね」 瑞希は爽子を膝の上であやしながら、深いため息をついた。爽子が小さな手で瑞希の髪を引っ張るが、その感触さえ今は重く感じる。「お義母さんにお願いしたら?」「……陽翔だけで精一杯みたい。あの子、元気だから……」 プロデューサーが相馬螢子との対談を指定してきた日、智久も休みを取れず、実家に頼ることもできず、瑞希は途方に暮れた。リビングのテーブルに置かれたスマホの画面が、冷たく光っている。会わなければならない。真希を演じたあの女優に。「なら、一緒に事務所に連れて行ったら? 爽子も陽翔も」 思いもよらない提案に、瑞希の背筋が凍った。「……それは……」 まだ幼い爽子を、そんな場所に連れて行くこと自体が気が引けた。それ以上に——この真希に瓜二つの娘を、相馬螢子に会わせる気には到底なれなかった。何かが起こる。そんな得体の知れない恐ろしさが、瑞希の胸に黒くまとわりついた。爽子の顎の下のホクロ、薄茶の瞳、大人びた微笑み。もし螢子がそれを見て、何かを感じ取ったら。あるいは、爽子が螢子に反応したら——。 想像しただけで、胃の奥が冷たく締めつけられる。 ピコン! その時、スマホが短い通知音を立てた。プロデューサーからの返信メールだった。『ご都合が悪ければお子さんも同伴でも大丈夫です。柔軟に対応いたしますので、ご安心ください。』 瑞希は画面を見つめたまま、唇を強く噛んだ。指先が震え、爽子が「まーま?」と不思議そうに顔を覗き込んでくる。その無垢な瞳が、今日もどこか真希の冷たい微笑みを映しているように見えた。「……行かないわけには、いかないのね」 瑞希は小さく呟き、爽子を抱き寄せた。娘の温もりが、愛おしいはずなのに、今はただ得体の知れない予感を呼び起こすだけだった。死んだ妹は、映像の中で蘇り、今度は現実の自分に近づこうとしている。 智久が心配そうに瑞希の肩に手を置いたが、彼女はただ無言でスマホの画面を凝視し続けた。対談の日が、刻一刻と迫っていた。

  • 新婚初夜あなたは妹のベッドにいた   プロデューサーからのメール

    瑞希の元に、プロデューサーから連絡が入ったのは、螢子のオーディションが終わって数日後の静かな午後だった。スマホに届いたメールの件名はシンプルに「最終オーディション映像 ご確認ください」。 瑞希は爽子をベビーサークルに座らせ、深呼吸をして動画を開いた。 最初に流れたのは阪崎絢音の演技だった。長いストレートの黒髪、毒々しい赤い口紅、車椅子に腰掛けた儚げでいて狡猾な佇まい——それはまさに瑞希が脳内で描いていた「真希」そのものだった。「……これは、真希だわ」 瑞希は思わず息を呑んだ。完璧だった。弱さを武器にしながら、姉を静かに見つめる視線。台本通りの優しさの中に、わずかに滲む影。まさに自分が書いた通りの、真希だった。 しかし、次の動画に移った瞬間、瑞希の背筋が凍りついた。 画面に現れたのは、栗色の巻毛を優雅に揺らす相馬螢子。一見して「真希」とは程遠い、華やかなイメージの女優だった。なぜ最終候補に残ったのか、最初は不思議に思った。 5秒、4秒、3秒……1秒。 間を置き、螢子は車椅子からゆっくりと立ち上がった。右足を引きずりながら。「瑞希! 私を見下ろして満足!? 脚が動かない分、みんなから愛されているのよ! 悔しいでしょう! 陸斗の視線も、両親の愛も、全部私のもの! あなたは何も持っていけない!」 その叫びは、瑞希が書いた台本とは全く異なるものだった。消えゆく命が最後に燃え盛るような激しさ。嫉妬と勝利の喜びと、底知れぬ憎悪が渦巻いている。髪の毛をくるくると指で巻く癖、引きずる右足、勝ち誇ったような唇の歪み——すべてが、ゾッとするほどに本物の真希を連想させた。 瑞希は思わずスマホをソファに投げつけた。画面が回転しながら床に落ちる。「……違う……こんな真希じゃない……」 声が震えた。胸の奥で冷たい汗が噴き出す。爽子がベビーサークルの中で「まーま?」と首を傾げたが、瑞希は娘の声すら耳に入らなかった。 プロデューサーのメールの最後には、こう締めくくられていた。『相馬螢子さんとの面談を希望します。ご都合はいかがでしょうか。』 瑞希はソファに崩れ落ち、両手で顔を覆った。指の隙間から零れる吐息が熱い。死んだはずの真希が、画面の中で確かに息をしていた。そして今、彼女は瑞希に会いたがっている。 この女優は、ただ真希を演じて

  • 新婚初夜あなたは妹のベッドにいた   真希の覚醒

    螢子が最後のセリフを吐き終え、車椅子に呆然と座り込んだ瞬間、観客席からパラパラと、しかし確かに拍手が上がった。阪崎絢音が演じ終わったときの、礼儀正しい控えめな拍手とは明らかに違っていた。審査員たちの頰は興奮に紅潮し、目がぎらぎらと輝いている。プロデューサーは苦虫を潰したような顔で腕を組んでいたが、監督は立ち上がり、惜しみない大きな拍手を送っていた。「……「真希」……あなたが見えるわ」 螢子は眩しいスポットライトに照らされながら、全身で確信した。髪の毛の一本一本、指先、つま先、引き摺る右足の感覚まで——すべてが「真希」そのものだった。彼女はゆっくりと息を吐き、唇を湿らせた。 私は「真希」だわ。そう、私は「真希」。呪いの言葉を吐きながら死んだ「真希」。姉を恨みながら、陸斗を独り占めしようと最期まで足掻いた、あの「真希」。 螢子の中に長く眠っていたもう一人の人格が、静かに、しかし確かに覚醒した。胸の奥で黒い喜びが渦を巻く。彼女は車椅子から立ち上がり、右足を引きずりながらゆっくりと前に進み出た。審査員席に向かって深々と頭を下げ、その口元は妖しく、勝ち誇ったように弧を描いた。「……ありがとうございました」 数日後、佐々木公彦のスマホに一通のメールが届いた。「私のすべて」のプロデューサーからだった。 公彦はソファで台本読みをしていた螢子に声をかけた。「おい、螢子」 螢子は気だるげに顔を上げ、巻毛を指でくるくると巻きながら答えた。「なに?」 公彦は息を呑み、画面をスクロールした。「……原作者の岡部瑞希がお前に会いたいそうだ。『真希役を演じた女優と、直接話をしたい』と」 螢子はゆっくりと微笑んだ。琥珀色の瞳の奥に、冷たい光が宿る。台本を胸に抱きしめ、窓の外の港の景色を眺めた。遠くに卯辰山の桜並木が見える気がした。 瑞希……。ようやく、会えるのね。 螢子の唇が、静かに動いた。声には出さず、心の中でだけ。「……お姉ちゃん」

  • 新婚初夜あなたは妹のベッドにいた   赤い訂正

    螢子は午後の柔らかな日差しが差し込むサンルームで、「私のすべて」の台本をめくっていた。白い観葉植物の葉が、空調の風に静かに揺れる。ページを追うごとに、「真希」という人格が、彼女の中で息を吹き返していく。輪郭が鮮明になり、血の通った体温さえ感じられるようだった。「……これは違うわ。これも! 真希はそんなことを考えない!」 螢子はブツブツと独り言を繰り返しながら、赤ペンでセリフを太く消し、新しい言葉を書き連ねた。紙が擦り切れるほどの勢いだった。女優がアドリブでセリフを変えることはあっても、オーディション前にここまで大胆に台本を書き直すなど、異例中の異例だった。 佐々木公彦がコーヒ

  • 新婚初夜あなたは妹のベッドにいた   クリスタルのトロフィー

    「ここが……私の家……」 相馬螢子は高級静養施設から退所し、自宅マンションの玄関ドアを静かに開けた。足音が大理石の床に響き、広々としたリビングに柔らかな午後の光が差し込んでいる。ハウスキーパーが不在中も丁寧にメンテナンスしてくれていたのだろう。埃一つ落ちず、鏡のように磨かれた家具が、まるで彼女を待っていたかのように整然と並んでいた。 チェストの上には、クリスタルガラスの盾やトロフィーがずらりと並び、窓から差し込む光にきらめいている。螢子はゆっくりと近づき、その中の一つを手にした。冷たいガラスの感触が指先に伝わる。《第45回日本映画アカデミー賞 主演女優賞 相馬螢子》 一瞬、

  • 新婚初夜あなたは妹のベッドにいた   瑞希の限界

    瑞希はもう、完全に限界を迎えていた。 爽子の笑顔が、真希のそれに重なる。離乳食を食べる仕草、夜中にふと目覚めたときの吐息、時折見せる大人びた眼差し——すべてが、死んだ妹の影を宿しているように感じられた。陽翔を抱きしめるときは自然に愛情が溢れるのに、爽子を抱こうとすると腕が硬直し、胸が締めつけられる。愛せない。自分の産んだ子を、愛せない自分がいた。 ある夜、智久が帰宅した後、瑞希はリビングのソファで震える声でようやく打ち明けた。「……智久さん。爽子が、真希にしか見えないの」 智久はコーヒーカップを置いたまま、言葉を失った。妻の顔をじっと見つめ、長い沈黙の後、ゆっくりと息を吐い

  • 新婚初夜あなたは妹のベッドにいた   日本人形の面影

    瑞希の指はキーボードの上で止まったままだった。あの頃、真希は本当はどう思い、自分を見つめていたのだろう。車椅子から見上げる視線に、どんな感情が宿っていたのか。嫉妬か、羨望か、それとも静かな殺意か。想像は羽ばたくことを知らず、ただ暗い井戸の底を這い回るだけだった。瑞希は初めて「書く」という行為の、冷たく高い壁に阻まれていた。 ……書けない。文字が浮かんでこない。 彼女は机に突っ伏し、深いため息をついた。温かな雫が頰を伝い、キーボードの隙間に静かに落ちて、黒い斑点を広げていく。肩が小刻みに震え、喉の奥から嗚咽が漏れた。書けば書くほど、真希が生きて動き出し、自分を嘲笑っている気

Higit pang Kabanata
Galugarin at basahin ang magagandang nobela
Libreng basahin ang magagandang nobela sa GoodNovel app. I-download ang mga librong gusto mo at basahin kahit saan at anumang oras.
Libreng basahin ang mga aklat sa app
I-scan ang code para mabasa sa App
DMCA.com Protection Status