Войти通された応接室は全面ガラス張りで、東京のビル群を眼下に一望できる最上階にあった。降り注ぐ午後の光が、部屋全体を白く輝かせている。その光の中に、相馬螢子の姿があった。 牛革のソファに姿勢正しく腰掛け、唇をきゅっと結んだ緊張の表情。栗色の巻毛が肩に落ち、琥珀色の瞳が静かにこちらを捉えている。「岡部瑞希さんです」 瑞希は爽子を抱いたまま、ゆっくりと足を踏み入れた。瞬間、螢子から漂う「真希」の気配に、足が止まる。死んだはずの妹の冷たい微笑み、嫉妬の視線、呪いの残滓——それが、螢子の全身から濃密に溢れ出していた。 螢子もまた、「姉の瑞希」との対面——いや、再会に、体をこわばらせた。見えない緊張感が、ガラスの部屋に重く落ちる。「はじめまして」 螢子が華奢な手を差し出した。瑞希は恐る恐る指先を伸ばし、「よろしくお願いします」と軽く触れた。 その瞬間——。 電流が走るように、「真希」の意識が、「瑞希」の感情が、互いに流れ込んだ。 瑞希の脳裏に、桜の樹の下から見上げる冷たい視線が蘇る。車椅子に縛られた苛立ち、陸斗を独占しようとする執念、死の間際の勝利の微笑み。体が熱くなり、息が苦しくなる。 螢子の瞳もわずかに揺らいだ。瑞希の記憶——強さを強いられ、妹の影に耐え続けた日々、陸斗への複雑な愛憎、爽子を抱くときの罪悪感と恐怖——が、洪水のように流れ込んでくる。右足が疼き、指先が震える。 二人は手を繋いだまま、互いの瞳をじっと見つめ合った。ガラスの壁の向こうに広がる東京の景色が、遠く霞んで見える。 爽子が瑞希の胸で小さく身じろぎした。その瞬間、螢子の視線が娘の顎の下のホクロに止まる。唇の端が、わずかに——妖しく——弧を描いた。「……爽子ちゃん、ですね」 螢子の声は低く、甘く響いた。瑞希の背筋に冷たい戦慄が走る。この女優は、ただ真希を演じているのではない。真希そのものが、ここにいる。 二人の手は、まだ離れなかった。ガラス張りの部屋に、目に見えない渦が静かに、しかし確実に生まれ始めていた。
相馬螢子のスマホに、一通のメールが届いたのは、夜も更けた午前零時を回った頃だった。送信者は「私のすべて」の映画監督だった。 本文を開くと、監督の熱い言葉が並んでいた。『オーディションでの君の演技に、心底打たれた。ぜひ相馬螢子でこの映画を撮りたい。あの鬼気迫る真希こそ、私が求めていたものだ。』 しかし、続く文章で温度が急に下がった。配給会社とプロデューサーが難色を示しているという。螢子の解釈が原作から「程遠すぎる」と。「……いいえ。あれが『真希』の本心よ」 スマホを握る螢子の手が、小刻みに震えた。画面の光が、暗い寝室に青白く浮かび上がる。彼女はゆっくりと立ち上がり、大きな鏡の前に移動した。 鏡の中の自分と、目が合う。 時折、自分の顔に、もう一人の自分が重なって見えることがある。今も、栗色の巻毛の奥に、漆黒のストレートヘアが透けて見える気がした。薄い唇が、血の色を帯びて歪む。「岡部……瑞希」 螢子はその名前を、まるで呪文のように低く呟いた。舌の上で転がすと、甘く苦い味がした。 メールの最後に、こう書かれていた。『原作者の岡部瑞希氏との対談をセッティングしたい。「真希」について、深く話し合っていただければ幸いです。』 螢子は鏡に手を伸ばし、冷たいガラスに指先を這わせた。自分の頰をなぞる。そこに、瑞希の顔が重なる瞬間があった。同じ血を引いた双子のような、しかし決定的に異なる運命を歩んだ女。どんな声で話し、どんな仕草で語りかけてくるのか。優しい微笑みの裏に、どれほどの憎悪を隠しているのか。「……お姉ちゃん」 唇が、勝ち誇ったように弧を描いた。右足が無意識に引き摺り、床を擦る音が静かな部屋に響く。 螢子はスマホを胸に押し当て、ゆっくりと目を閉じた。胸の奥で、真希が確かに息をしていた。死んだはずの女が、今、彼女の体を借りて、再び瑞希の前に立ち上がろうとしている。 対談の日が近づくにつれ、螢子の微笑みはますます深く、妖しくなっていった。
「その日は都合がつかないな……」 智久はネクタイを緩めながら、疲れた顔で瑞希に向き直った。帰宅したばかりの彼のシャツには、出版社の残業の匂いが染みついている。「……そうよね、編集長がお休みなんて……無理よね」 瑞希は爽子を膝の上であやしながら、深いため息をついた。爽子が小さな手で瑞希の髪を引っ張るが、その感触さえ今は重く感じる。「お義母さんにお願いしたら?」「……陽翔だけで精一杯みたい。あの子、元気だから……」 プロデューサーが相馬螢子との対談を指定してきた日、智久も休みを取れず、実家に頼ることもできず、瑞希は途方に暮れた。リビングのテーブルに置かれたスマホの画面が、冷たく光っている。会わなければならない。真希を演じたあの女優に。「なら、一緒に事務所に連れて行ったら? 爽子も陽翔も」 思いもよらない提案に、瑞希の背筋が凍った。「……それは……」 まだ幼い爽子を、そんな場所に連れて行くこと自体が気が引けた。それ以上に——この真希に瓜二つの娘を、相馬螢子に会わせる気には到底なれなかった。何かが起こる。そんな得体の知れない恐ろしさが、瑞希の胸に黒くまとわりついた。爽子の顎の下のホクロ、薄茶の瞳、大人びた微笑み。もし螢子がそれを見て、何かを感じ取ったら。あるいは、爽子が螢子に反応したら——。 想像しただけで、胃の奥が冷たく締めつけられる。 ピコン! その時、スマホが短い通知音を立てた。プロデューサーからの返信メールだった。『ご都合が悪ければお子さんも同伴でも大丈夫です。柔軟に対応いたしますので、ご安心ください。』 瑞希は画面を見つめたまま、唇を強く噛んだ。指先が震え、爽子が「まーま?」と不思議そうに顔を覗き込んでくる。その無垢な瞳が、今日もどこか真希の冷たい微笑みを映しているように見えた。「……行かないわけには、いかないのね」 瑞希は小さく呟き、爽子を抱き寄せた。娘の温もりが、愛おしいはずなのに、今はただ得体の知れない予感を呼び起こすだけだった。死んだ妹は、映像の中で蘇り、今度は現実の自分に近づこうとしている。 智久が心配そうに瑞希の肩に手を置いたが、彼女はただ無言でスマホの画面を凝視し続けた。対談の日が、刻一刻と迫っていた。
瑞希の元に、プロデューサーから連絡が入ったのは、螢子のオーディションが終わって数日後の静かな午後だった。スマホに届いたメールの件名はシンプルに「最終オーディション映像 ご確認ください」。 瑞希は爽子をベビーサークルに座らせ、深呼吸をして動画を開いた。 最初に流れたのは阪崎絢音の演技だった。長いストレートの黒髪、毒々しい赤い口紅、車椅子に腰掛けた儚げでいて狡猾な佇まい——それはまさに瑞希が脳内で描いていた「真希」そのものだった。「……これは、真希だわ」 瑞希は思わず息を呑んだ。完璧だった。弱さを武器にしながら、姉を静かに見つめる視線。台本通りの優しさの中に、わずかに滲む影。まさに自分が書いた通りの、真希だった。 しかし、次の動画に移った瞬間、瑞希の背筋が凍りついた。 画面に現れたのは、栗色の巻毛を優雅に揺らす相馬螢子。一見して「真希」とは程遠い、華やかなイメージの女優だった。なぜ最終候補に残ったのか、最初は不思議に思った。 5秒、4秒、3秒……1秒。 間を置き、螢子は車椅子からゆっくりと立ち上がった。右足を引きずりながら。「瑞希! 私を見下ろして満足!? 脚が動かない分、みんなから愛されているのよ! 悔しいでしょう! 陸斗の視線も、両親の愛も、全部私のもの! あなたは何も持っていけない!」 その叫びは、瑞希が書いた台本とは全く異なるものだった。消えゆく命が最後に燃え盛るような激しさ。嫉妬と勝利の喜びと、底知れぬ憎悪が渦巻いている。髪の毛をくるくると指で巻く癖、引きずる右足、勝ち誇ったような唇の歪み——すべてが、ゾッとするほどに本物の真希を連想させた。 瑞希は思わずスマホをソファに投げつけた。画面が回転しながら床に落ちる。「……違う……こんな真希じゃない……」 声が震えた。胸の奥で冷たい汗が噴き出す。爽子がベビーサークルの中で「まーま?」と首を傾げたが、瑞希は娘の声すら耳に入らなかった。 プロデューサーのメールの最後には、こう締めくくられていた。『相馬螢子さんとの面談を希望します。ご都合はいかがでしょうか。』 瑞希はソファに崩れ落ち、両手で顔を覆った。指の隙間から零れる吐息が熱い。死んだはずの真希が、画面の中で確かに息をしていた。そして今、彼女は瑞希に会いたがっている。 この女優は、ただ真希を演じて
螢子が最後のセリフを吐き終え、車椅子に呆然と座り込んだ瞬間、観客席からパラパラと、しかし確かに拍手が上がった。阪崎絢音が演じ終わったときの、礼儀正しい控えめな拍手とは明らかに違っていた。審査員たちの頰は興奮に紅潮し、目がぎらぎらと輝いている。プロデューサーは苦虫を潰したような顔で腕を組んでいたが、監督は立ち上がり、惜しみない大きな拍手を送っていた。「……「真希」……あなたが見えるわ」 螢子は眩しいスポットライトに照らされながら、全身で確信した。髪の毛の一本一本、指先、つま先、引き摺る右足の感覚まで——すべてが「真希」そのものだった。彼女はゆっくりと息を吐き、唇を湿らせた。 私は「真希」だわ。そう、私は「真希」。呪いの言葉を吐きながら死んだ「真希」。姉を恨みながら、陸斗を独り占めしようと最期まで足掻いた、あの「真希」。 螢子の中に長く眠っていたもう一人の人格が、静かに、しかし確かに覚醒した。胸の奥で黒い喜びが渦を巻く。彼女は車椅子から立ち上がり、右足を引きずりながらゆっくりと前に進み出た。審査員席に向かって深々と頭を下げ、その口元は妖しく、勝ち誇ったように弧を描いた。「……ありがとうございました」 数日後、佐々木公彦のスマホに一通のメールが届いた。「私のすべて」のプロデューサーからだった。 公彦はソファで台本読みをしていた螢子に声をかけた。「おい、螢子」 螢子は気だるげに顔を上げ、巻毛を指でくるくると巻きながら答えた。「なに?」 公彦は息を呑み、画面をスクロールした。「……原作者の岡部瑞希がお前に会いたいそうだ。『真希役を演じた女優と、直接話をしたい』と」 螢子はゆっくりと微笑んだ。琥珀色の瞳の奥に、冷たい光が宿る。台本を胸に抱きしめ、窓の外の港の景色を眺めた。遠くに卯辰山の桜並木が見える気がした。 瑞希……。ようやく、会えるのね。 螢子の唇が、静かに動いた。声には出さず、心の中でだけ。「……お姉ちゃん」
オーディションで螢子に課されたのは、卯辰山の桜の樹に登る瑞希を見上げるシーンだった。 台本には、車椅子に座った真希が優しく空を見上げ、「危ないわよ、降りてきて」と穏やかな声で姉を気遣う姿が書かれていた。膝にブランケットを掛け、儚い微笑みを浮かべながら、快活に木を登る瑞希を見守る——それが原作者の描いた「真希」だった。 しかし螢子は、そのページを真っ赤なマジックで塗りつぶしていた。「……こんな風に笑えない。本当の『真希』なら、憎いと思っていたはずよ」 彼女の声は低く、震えていた。瑞希への羨望、憧れ、そして底知れぬ憎しみと衝動的な怒りが、胸の奥から煮えたぎるように湧き上がる。舞台に置かれた車椅子に腰を下ろした瞬間、それは確信に変わった。「……私は、瑞希を憎んでいる」 表情が禍々しく歪む。唇を血が滲むほど強く噛み締め、指先が白くなるまで車椅子の腕置きを握りしめた。次の瞬間、螢子はゆらりと立ち上がった。右足がわずかに引き摺るが、構わず一歩を踏み出す。「瑞希! 私を見下ろして満足!? でも私は、脚が動かない分、みんなから愛されている! 悔しいでしょう! 陸斗の視線も、両親の優しさも、全部私のものよ! あなたがどれだけ強くても、結局は何も持っていけない!」声が舞台全体に響き渡る。鬼気迫る怨嗟と、勝ち誇ったような喜びが混じり合った叫びは、阪崎絢音が演じた台本に忠実な「優しい真希」とは全く違うものだった。そこにあったのは、生々しい嫉妬と、長い年月で熟成された憎悪。そして、歪んだ愛情だった。 審査員席からどよめきが起こった。意見は真っ二つに割れた。「これは……真希の本質を掴んでいる」「だが、原作者の意図を完全に無視している」「しかし、この迫力は……」 スポットライトの下で、螢子は荒い息を吐きながら、ゆっくりと車椅子に戻った。額に汗が光り、琥珀色の瞳が暗く燃えている。舞台袖から見守る佐々木公彦は、言葉を失っていた。 この演技は、ただのオーディションではなかった。相馬螢子は、真希という存在を自らの体に呼び覚まし、完全に飲み込もうとしていた。
その夜も、私は特別個室のドアをほんの数センチだけ開け、息を殺して中を覗いていた。前回とは違う日だった。陸斗は私たちのマンションにほとんど帰って来ない。来ても、着替えを持ってタクシーに乗り込む。真希の容態が少し悪化したと言って、陸斗がまた泊まり込んでいた夜。私はもう、ただ見ているだけではいられなかった。スマホを片手に、静かに録画ボタンを押した。画面に映る二人の姿を、しっかり記録する。音声も、息遣いも、すべて。陸斗は真希のベッドの横に座り、彼女の細い手を両手で包み込んでいた。白衣の袖が乱れ、疲れきった顔に深い影が落ちている。「真希……今日の検査結果、思ったより悪かった。呼
「おめでとうございます。三ヶ月です」マタニティクリニックの診察台で、私は凍りついた。医師の明るい声が、遠くから聞こえるように響く。呼吸が止まり、耳鳴りが激しくなって、思考回路が現実に追い付かなかった。……三ヶ月?元々、生理周期が定まらず、遅れがちな体だった。「また遅れているのか」程度にしか考えていなかった。まさか、こんなタイミングで——。私は診察台の上で体を起こし、ゆっくりと息を吐いた。白い紙のガウンが、かすかに震える。陸斗に抱かれたのは、二度だけだった。一度目は、結婚が正式に決まった夜。彼の部屋で、ぎこちないキスから始まり、義務のような抱擁だった。「これで家族が喜ぶ
真希のベッドサイドで、陸斗は膝をつくように座っていた。彼の長い指が、真希の細く冷たい足首を、まるで壊れやすいガラスのように優しく包み込んでいる。その指先が、わずかに震えていた。「真希……今日のデータ、思ったより悪化してる」「そう......」陸斗の声は低く、掠れていた。彼はカルテを握りしめ、目を伏せた。白衣の肩が、まるで重い荷物を背負ったように落ちている。「余命宣告を更新した。……3年以内だ。最長で5年。治療を続けても、この進行を完全に止めるのは……俺にはもう、限界かもしれない」真希が弱々しく微笑むと、陸斗の目尻に、うっすらと涙が浮かんだ。医師として何百人もの患者を見て
病院を後にした私は、タクシーに乗り、実家へと向かった。窓の外を流れる街並みが、ぼんやりと過ぎていく。白い芍薬の残り香が、まだ指先にまとわりついている気がした。腫れた頬は化粧で隠したものの、鏡で見るたび、昨夜の平手打ちの感触が蘇る。実家——暖かく優しい思い出のかけらなど、最初からなかった家。玄関の鍵を回す音が、妙に大きく響いた。中に入ると、いつものように母の声が飛んできた。「あら、瑞希? どうしたの、こんな朝早くに。……陸斗くんは?」母はキッチンから顔を出し、いつもの柔らかい笑みを浮かべていた。父はリビングのソファに座ったまま、新聞を広げていた。二人とも、結婚披露パーティー







