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コンビニ弁当

Author: 雫石しま
last update publish date: 2026-04-15 11:50:44

瑞希はコンビニの袋を提げ、マンションへと戻った。

鍵を回す瞬間、いつも胸に刺さる切なさが走る。

カチャリ、という小さな金属音が、今日も虚しく響いた。

そこには、陸斗の気配はなかった。

結婚当初は違った。エプロンを着け、笑顔で帰りを待ち、好きなハンバーグを作ってテーブルに並べたものだ。

「遅くてもいいから、温めて待ってるね」

LINEを送った夜もあった。

今は違う。

瑞希は一人、ソファに腰を下ろし、コンビニの惣菜弁当を開けた。

箸を持ち、静寂の中で咀嚼する音だけが、部屋に響く。

カリカリという音が、自分の耳にだけ大きく聞こえる。

味など、ほとんど感じない。

冷蔵庫を開けると、昨日作った陸斗の好きなハンバーグが、まだ綺麗にラップされたまま残っていた。

瑞希はそれを無言で取り出し、ゴミ箱に落とした。

プラスチックの蓋が閉まる音が、妙に大きく響いた。

その瞬間、自分の中の最後の灯火が、静かに消えた気がした。

温かみのない部屋。

ベッドはいつも冷たい。

陸斗は真希の特別個室に泊まり続け、ほとんど帰ってこない。

「急患が続いている」とだけ短いメッセージが来る日々。

本当はわかっている。

あれは急
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  • 新婚初夜あなたは妹のベッドにいた   コンビニ弁当

    瑞希はコンビニの袋を提げ、マンションへと戻った。鍵を回す瞬間、いつも胸に刺さる切なさが走る。カチャリ、という小さな金属音が、今日も虚しく響いた。そこには、陸斗の気配はなかった。結婚当初は違った。エプロンを着け、笑顔で帰りを待ち、好きなハンバーグを作ってテーブルに並べたものだ。「遅くてもいいから、温めて待ってるね」LINEを送った夜もあった。今は違う。瑞希は一人、ソファに腰を下ろし、コンビニの惣菜弁当を開けた。箸を持ち、静寂の中で咀嚼する音だけが、部屋に響く。カリカリという音が、自分の耳にだけ大きく聞こえる。味など、ほとんど感じない。冷蔵庫を開けると、昨日作った陸斗の好きなハンバーグが、まだ綺麗にラップされたまま残っていた。瑞希はそれを無言で取り出し、ゴミ箱に落とした。プラスチックの蓋が閉まる音が、妙に大きく響いた。その瞬間、自分の中の最後の灯火が、静かに消えた気がした。温かみのない部屋。ベッドはいつも冷たい。陸斗は真希の特別個室に泊まり続け、ほとんど帰ってこない。「急患が続いている」とだけ短いメッセージが来る日々。本当はわかっている。あれは急患などではなく、真希の治療枠を守るための時間なのだと。寂しさに耐えきれず、夜中に一人で泣いたこともあった。枕を濡らし、声を殺して嗚咽した夜も、何度かあった。でも、それも長くは続かなかった。涙が枯れるのと同じように、心の奥底で何かがゆっくりと死んでいった。代わりに生まれたのは、冷たい、透明な何かだった。義父の応接室で聞いた言葉が、頭の中で繰り返される。『君は条件をすべて満たしていた。』『配偶者枠』『研究費数億円』『真希の治療費など、端金だよ』瑞希はベッドに横になり、天井を見つめた。暗闇の中で、鹿威しの音が幻のように聞こえた気がした。こおん……。もう、泣かない。もう、待たない。ただ、静かに、鍵を外す準備をしよう。その朝も、気だるい体を引きずって目覚めた。鏡に映る自分の顔は、以前より少しだけ鋭くなっていた。腫れの痕はもう消えていたが、代わりに、目の中に冷たい光が宿り始めていた。陸斗は今日も、真希のベッドサイドにいるのだろう。瑞希は静かに、コンビニの袋を片付けながら、独り言のように呟いた。「新婚初夜、あなたは妹のベッドにいた。それでいい。私は、も

  • 新婚初夜あなたは妹のベッドにいた   義父との対面②

    義父の眉がピクリと動いた。「結婚早々、何の冗談だね」その声は穏やかだったが、底に冷たい棘が隠れていた。私はアールグレイの湯気をじっと見つめながら、ゆっくりと首を振った。「私も離婚する気はありませんでした」一瞬の沈黙。義父の指が、再びテーブルの縁を軽く叩き始めた。規則正しい、まるで計算機のようなリズムで。「……なら!」彼が声を荒げかけたその瞬間、瑞希は静かに、しかしはっきりと言葉を被せた。「婚姻の条件として、製薬会社と取り交わした契約書のコピーをいただけますか?」義父の指が止まった。部屋の空気が、一気に重くなった。エミール・ガレのランプの光が、黒光りする本革の椅子に冷たく反射している。「何のために」声が低く、明らかに警戒を帯びていた。瑞希は膝の上で指を組み直し、ゆっくりと息を吐いた。胸の奥で、鹿威しの音が遠くから響いてくるような気がした。こおん……。「この契約の『鍵』である私には、知る権利があります」義父の目が細くなった。それまで瑞希を「理想的な嫁」として見ていた視線が、初めて「敵」を見るような冷たさに変わるのがわかった。「瑞希さん……君は少し、勘違いをしているようだ」彼はゆっくりと背もたれから体を起こし、指を組んで瑞希を正面から見据えた。「確かに、君は条件を満たしていた。健康で、強く、双子の姉という立場も完璧だった。だがね、この契約は病院と製薬会社のビジネスだ。家族の私情を挟むものではない。君が『鍵』だなどと、勝手に思い上がる必要はない」瑞希は微笑んだ。腫れの残る頰が、わずかに痛んだが、それでも笑みを崩さなかった。「思い上がりではありません。新婚初夜に夫が妹のベッドにいたときから、私はただの『配偶者枠』を満たすための道具だと気づきました。結婚式で平手打ちをされたときも、家族みんなが真希の治療費を守るために私を犠牲にしているのだと、はっきり理解しました」アールグレイの香りが、急に甘く、胸苦しく感じられた。「だからこそ、契約書のコピーが必要です。私がこの結婚を続けるかどうかを決めるための、重要な資料ですから」義父の唇が、薄く引き結ばれた。部屋に、再び重い沈黙が落ちる。遠くの庭から、鹿威しの音が一つ、澄んだ響きを運んできた。こおん……。義父はようやく、静かに言った。「……契約書を見せる必要はない

  • 新婚初夜あなたは妹のベッドにいた   義父との対面①

    鹿威しの澄んだ音が、静寂を優しく、しかし執拗に刻んでいた。こおん……と、竹が石を打つその響きは、まるで時を嘲るように規則正しく庭に満ちる。ここは陸斗の父——大学病院理事長が住まう邸宅だ。 樹齢百年の赤松が大きく枝葉を広げ、地面に濃い影を落としている。広い庭にはドウダンツツジの鮮やかな垣根が整然と続き、瓢箪池の水面では美しい睡蓮が白とピンクの花弁を広げ、流線型を描く錦鯉がゆったりと尾を揺らめかせていた。ここは何度来ても息を呑むほど美しい。だが、その美しさはいつも私を小さくする。まるでこの庭園そのものが「完璧な家族の象徴」であるかのように。健康で強く、子を産み、家を守れる妻。そして、研究予算を確保するための「配偶者」という役割を、静かに、冷たく要求する場所。鹿威しの音が、再び響いた。こおん……。水が溜まり、竹が傾き、緊張が解ける瞬間。私はいつも思う。この音は、ただの風情ではない。私の結婚もまた、鹿威しのように——少しずつ水が溜まり、いつか一気に傾いて、すべてを叩きつける音を立てるのではないかと。義父の邸宅の玄関に足を踏み入れると、いつものように冷たい視線が私を迎えた。「瑞希さん。今日はどうしたのかね」理事長の声は穏やかだったが、その奥に隠された計算は、赤松の影より濃い。彼にとって私は、息子の妻であると同時に、真希の治療を継続させるための「鍵」であり、研究費数億円を呼び込むための「家族特別枠」の条件そのものだ。私は微笑みを浮かべ、腫れの残る頰を意識しながら言った。「少し、お話がしたくて参りました。……特別枠のことについて」鹿威しの音が、また一つ、庭の奥から響いてきた。こおん……。まるで、私の決意を、静かに、しかし確実に刻みつけるように。瑞希は奥の応接室に通された。エミール・ガレのランプが柔らかな光を落とし、黒光りする本革の椅子が重厚な威圧感を放っている。義父はすでにその椅子に深く身を預け、足を組んで私を見つめていた。大学病院理事長らしい、隙のない姿勢だ。「座りなさい」促されるまま、私は向かいの椅子に腰を下ろした。革の冷たさが、スーツのスカート越しに伝わってくる。「失礼します」給仕が静かに紅茶を運んできた。アールグレイの香りが、部屋に甘く立ち上る。緊張で張りつめた私の神経に、その香りさえも絡みつくようだっ

  • 新婚初夜あなたは妹のベッドにいた   離婚へのカウントダウン

    芍薬の花を手渡した瑞希は昨夜の衝撃的な事実を思い出していた。新婦一人取り残されたスイートルーム。陸斗のスマホが、慌てて置いていったテーブルの上で、まだ画面が点灯している。通知が一つ、表示されたままだった。『父より:特別枠の更新確認。真希のデータ、明日理事長室へ提出。配偶者家族限定の条件は変わらず。研究予算の継続には婚姻状態が必須だ。くれぐれも瑞希さんを大切に。』……配偶者家族限定?私は思わずその文字を凝視した。大学病院の最上階——一泊六万円もする特別個室。あそこはただの「医師の特権」じゃない。陸斗の父が理事長を務める臨床研究プログラムで、「医師本人の配偶者およびその直系家族」にしか適用されない全額無料治療枠。希少疾患である真希の先天性運動機能障害に対する新薬投与、リハビリ、実験的血管治療まですべて病院負担。その条件の裏側は、製薬会社からの巨額研究費を確保するための「家族ぐるみの協力体制」らしい。倫理審査を通すための方便だと、陸斗が以前ぼんやりと漏らしたことがあった。つまり、私と陸斗が結婚している限り、真希は無料で最先端治療を受け続けられる。離婚すれば——即座に枠から外され、月百五十万円を超える治療費が私たちの、いいえ、真希の実家にのしかかる。胸の奥が冷たくなった。新婚初夜に夫が駆けつけたのは、愛する妻のためではなく、「配偶者」という地位が保証する治療枠を守るためだったのか。私はゆっくりとベッドに視線を移し、うたた寝をする陸斗を見下ろした。「陸斗……あなたは、私と結婚したんじゃない。真希の治療を継続させるために、私と結婚したのね」そこで彼は目を覚まし、瑞希の存在に気づき顔色を変えた。「陸斗。お父様からのメッセージ、見たわ。『配偶者家族限定』って、どういうこと?」陸斗の肩がわずかに震えた。彼はゆっくりと振り返り、ため息をついた。「……説明するつもりだった。でも、タイミングが悪くて」「今、説明して。全部」陸斗はモニターのデータを指でなぞりながら、淡々と語り始めた。「うちの病院の『希少運動機能障害臨床研究プログラム』だ。父が理事長として製薬会社から年間数億円の研究費を引き出している。条件は厳しい——医師本人の配偶者とその家族にしか、全額無料の治療を提供できない。真希の場合、幼い頃からの誓いもあって、俺が主治医を続けている。婚

  • 新婚初夜あなたは妹のベッドにいた   芍薬の花

    瑞希は朝の光がまだ柔らかい時間に、街角の小さなフラワーショップへ足を運んだ。白い芍薬の八重咲きを一束、丁寧にラッピングしてもらった。花びらは重なり合い、ふんわりと膨らんで、まるで恥じらうように首を傾げている。店主が「今日は特別に良い香りですよ」と笑ったが、瑞希は無言で代金を払い、ショップの紙袋を抱えた。花言葉は「はにかみ」。もう一つは「恥じらい」。……恥じらい?瑞希の口元が、冷たく歪んだ。真希にぴったりではないか。大人しいふりをした山猫。柔らかい毛並みと、大きな瞳で旅人を誘い、頭から丸呑みにしてしまう、静かな捕食者。旅人は陸斗。もうとっくに、山猫の牙に絡め取られ、逃げられない虜になっている。薬指の結婚指輪が、重く虚しく光った。昨夜、陸斗がはめたはずの指輪は、今も瑞希の手に嵌まったまま、まるで他人のもののように冷たい。瑞希は大学病院のエントランスを横切り、自動ドアをくぐった。消毒薬の匂いが鼻腔を刺す。白い壁の廊下を進むたび、足音がやけに大きく響いた。真希の病室は、最上階の特別個室。一泊六万円もする部屋だ。陸斗の医師としての地位と、両親のコネで用意された特別待遇。足に負担がかからないよう、特注の羽毛布団がベッドに敷かれ、車椅子の移動ルートにはカーペットまで敷き詰められている。瑞希は病室のドアの前で立ち止まり、白い芍薬の束を胸に抱き直した。腫れた頬はまだ熱を持ち、化粧で隠しきれていない。バスローブから着替えたシンプルなワンピースが、昨夜の結婚式の残り香をまとわりつかせていた。彼女は深く息を吸い、ノックもせずにドアをゆっくり開けた。病室の中は静かだった。真希はベッドに体を預け、羽毛布団を膝までかけ、窓の外をぼんやりと見つめていた。陸斗はまだそこにいた。椅子を引き寄せ、真希の細い手を握ったまま、うつらうつらと仮眠を取っている。眼鏡がずれ、結婚式の疲れがそのまま残った顔。真希が先に気づき、ゆっくりと視線を瑞希に向けた。「お姉ちゃん……?」声はいつも通り、弱々しく、甘い。けれど瞳の奥には、昨夜と同じ——静かな勝利の光が、ほのかに瞬いていた。瑞希は無言で病室に入り、ドアを背中で閉めた。白い芍薬の束を、ベッドサイドのテーブルにそっと置いた。八重咲きの花びらが、病室の無機質な光の中で、柔らかく揺れた。「真希。

  • 新婚初夜あなたは妹のベッドにいた   特別個室

    大学病院の最上階、特別個室。深夜を過ぎても、モニターの小さな電子音だけが規則正しく響いていた。白い壁に囲まれた部屋は、消毒液と微かな花の甘い匂いが混じり、冷たい空気が肌に張りつく。真希は調整可能なベッドに体を預け、膝から下をブランケットで丁寧に覆っていた。足は相変わらず動かない。今日は特に、左足の血流が悪化し、時折鋭い痺れが走る。それでも彼女の表情は穏やかで、薄い唇の端には、誰にも見せない小さな微笑みが浮かんでいた。病室のドアが静かに開き、陸斗が入ってきた。タキシードのシャツを乱暴に羽織ったまま、眼鏡をかけた医師の顔。息が少し荒く、結婚式の余韻など微塵も感じさせない。「真希、大丈夫か? 連絡を受けてすぐに来た」陸斗はベッドサイドに膝をつき、真希の細い手を両手で包み込んだ。その手の温かさが、真希の胸にじんわりと広がる。真希は弱々しく微笑み、首を小さく振った。「……ごめんね、陸斗くん。 結婚式の夜なのに……呼んでしまって。 お姉ちゃん、怒ってる?」声はいつも通り、か細く、頼りない。けれど瞳の奥には、冷たい満足感が静かに灯っていた。陸斗は首を振り、真希の額にそっと手を当てた。「瑞希のことはいい。 お前が一番大事だ。 血流が悪化してるって聞いたから、心配で……」彼はすぐにカルテを確認し、点滴の量をチェックし始めた。プロフェッショナルな手つきで、真希の足を優しく持ち上げ、脈を測る。その仕草の一つ一つが、真希にとっては「愛」の証だった。真希は陸斗の横顔を、じっと見つめていた。——今頃、お姉ちゃんはあの広いスイートルームで、一人きりで膝を抱えているのだろう。 腫れた頬を押さえながら、私の名前を呪っているのだろう。その想像が、真希の心を甘く疼かせた。幼い頃から、ずっとこうだった。瑞希が走り回り、笑い、存在を主張するたび、自分は車椅子から「見上げて」いればよかった。陸斗の視線は、自然と下に——自分に向けられた。「お姉ちゃんは強いから大丈夫」その言葉が、真希を「守られるべき存在」にした。そして瑞希を「我慢できる存在」にした。真希はブランケットの端を指で摘まみながら、内心で静かに笑った。結婚が決まったあの日——陸斗の両親が瑞希を選んだとき、自分は絶望など感じなかった。むしろ、胸の奥で小さな勝利の歓声が上がった

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