Share

第21話

Author: 苺まき
遥かに見つめ合うふたり。

まるで一世紀を隔てたかのような静寂の中、最初に視線を逸らしたのは星良だった。

彼女は無言で相手に軽く頷くと、そのまま踵を返して立ち去った。

男は安堵の息を漏らす。噂は本当だったようだ。

星良は、本当にもう誠に未練などない。

扉の外を茫然と見つめる誠。

彼の無様な姿、踏みにじられた尊厳、それらすべてが彼女の目に晒されていた。

やがてトイレから出てきた星良は、外で待っている誠の姿を目にする。

彼は煙草の灰を落とし、星良の姿を見た途端、慌てて煙草をもみ消した。

彼女が煙草の匂いを嫌うことを、まだ覚えていた。

無精ひげが顔を覆い、痩せこけたその姿。

星良を見つめながら、胸の奥がチクリと痛んだ。

こんなにも彼女を想っていたのだと、ようやく自覚した。

ずっと星良に会わないようにしていた。

彼女が自分を見たくないことくらい、わかっていたから。

けれど、我慢というものがこれほど苦しいものだとは思わなかった。

誠は後悔した。

自分はいったい、どれほどのものを失ってきたのか。

まつ毛がかすかに震える。口を開こうとしても、言葉が出てこない。

彼女の目に映る今の自分を見るのが、怖かった。

星良の表情は淡々としていた。

「何か用?」

その一言に、胸が押し流されるような衝撃。

「……元気にしてた?」

彼の掠れた声が、少々耳障りに聞こえた。

星良は目を伏せた。

元気か否か、もう誠とは何の関係もなかった。

彼女は答えず、むしろ問い返す。

「雨宮さんから連絡はあった?」

その名を聞いた瞬間、誠の眉がひそめられ、すぐに否定した。

「もう、ずっと会ってないんだ」

星良は彼の反応が嘘ではないと感じ、それ以上は何も聞かなかった。

その場を離れようとした瞬間、誠は思わず彼女の腕を掴もうと手を伸ばした。

「星良……俺のこと、許してくれたのか?」

その手を見下ろす。

彼の手は、形も肌も美しかった。

星良がかつて何度も夢に見た手。頬を優しく撫で、肩を抱きしめ、必要な時には真っ先に彼女を守ってくれるはずだった。

この世界の誠は、彼女と結婚することもなかった。父を死に追いやることも、妊娠三ヶ月の彼女を山中に走らせることも、暗い地下室に閉じ込めることもなかった。

けれど――

誠は星良のプライベートな写真をばらまき、紗耶
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • 星はもう、月の光を求めない   第23話

    紗耶は怒りで歯を食いしばり、さらに誠に数度刃を突き立てた。彼の悲鳴が空間に響き渡る。星良は拳を握りしめ、必死に冷静さを保とうとする。やがて、紗耶は疲れたのか、その場にへたり込んだ。「両親を殺したって責めるけど、私に何ができたの?あの時、私、どれだけ若かったと思ってるの?大勢の男に囲まれて、私には選択肢なんてなかったのよ……」星良は、そんな彼女の言葉を聞きながら、確信を深めていく。彼女は病んでいる。しかも重度に。おそらく一度も治療を受けたことがなく、今は正常ではない状態になってしまった。会話も支離滅裂で、思考もまともじゃない。誠は、失血が激しく、このままでは命を落としかねない。紗耶もそれに気づいたのか、彼への攻撃をやめ、ゆっくりと星良の前に歩み寄る。「どうしてあんたばかりが恵まれてるの?私には何もなかったのに……」その目には強い嫉妬と憎悪が渦巻いていた。突然、彼女の表情が一変し、凶悪な目で星良を睨む。「あんたなんて死んじゃえ!!」叫ぶと同時に、彼女はナイフを振りかざし、星良に襲いかかった。しかしその瞬間、星良は懐からスタンガンを取り出し、すかさず紗耶に向かって放った。ナイフを握っていた手から、一気に力が抜けた。紗耶はそのまま気を失った。誠はすぐに救急搬送され、丸一日かけて命の危機を脱した。紗耶は警察に拘束された。後にわかったのは、彼女の潜伏先が廃棄されたゴミ処理場だったということ。紗耶はそこに野良犬と共に身を寄せ、残飯を漁って生き延びていた。蒼介は星良の体に怪我がないことを確認すると、彼女を強く抱きしめた。星良は微笑みながら彼を安心させる。「雨宮は悪人だけど、頭がさえていないよ」蒼介は小さくため息をついた。「しばらく東都を離れよう」多すぎた出来事、すでに片付いた因縁。心の中に巣食っていた憎しみも、今はもう手放していい頃だった。東都を発つ前日。両手に包帯を巻いた誠が、ひとりで星良を訪ねてきた。星良は最初、会うつもりなどなかった。けれど誠は、彼女の背中に向かって独り言のように話し出した。「紗耶が発作を起こしたとき……俺の知らない世界の話をしたんだ」星良の足が、ふと止まった。「その世界で、俺は……お前にひどいことをして、お前と……俺

  • 星はもう、月の光を求めない   第22話

    荷物を届けた人物は、どれだけ巧妙に偽装していても、やはりどこかにほころびがあった。星良には、それが紗耶だとすぐに分かった。紗耶は彼女がまだ誠に未練があると思い込んでいた。そして、誠の命を盾にして、星良を指定の場所へ誘き出そうとしていたのだ。蒼介はそれを聞いて、すぐに動いた。星良がきっと行くと分かっていた。それは誠のためではなく、紗耶のためだと分かっていたから。新婚初夜、星良は心の中の秘密をすべて蒼介に打ち明けた。彼が信じてくれるかどうかは分からなかった。なぜなら、生まれ変わりという話は、普通なら誰でも信じがたいものだ。ただ、星良が誠に腹を立てて気が狂ったと思われるだけだ。だが蒼介は違った。彼は本気で聞き、本気で前世の彼女を想い、心から寄り添おうとしてくれた。蒼介は星良をギュッと抱きしめた。「今世では、私が守る。誰にも星良を傷つけさせない」すべての準備は整っていた。星良が一人で現場へ向かった時、誠は地面に倒れ込んでいた。その顔は血の気が失せ、失血が激しいのがすぐに分かった。もう少し近づくと、彼の片脚が何か重たいもので打ち砕かれているのが見えた。「どう?これで少しは気が済んだ?」横から紗耶の声が聞こえた。星良が顔を上げると、そこには髪を短く切り、男のような服装をした紗耶がいた。足に合わない革靴をその場で脱ぎ捨てる。星良は何も言わなかった。その声に反応して、誠の瞼がわずかに動いた。力を振り絞って目を開けると、そこには星良の姿。口を動かし、「逃げろ」と無言で訴えていた。だが、星良は逃げなかった。その視線をゆっくりと紗耶へと向ける。「何が目的?」紗耶は誠を見下ろして嘲笑った。「私を探してくれたおかげで、どこにも行けず、こんな姿になったのよ!」怒りを露わにしながら睨みつけてきた。「まだ誠さんが好きなんでしょ?じゃあ、20億円で彼を渡すわ」その言葉に、星良は思わず失笑した。まさか誠を人質にすれば、自分を動かせるとでも思ったのか。「この人が20億の価値があるとでも?」星良がそう言うと、紗耶は何も答えず、片足を引きずりながら誠の側に近づいた。ゆっくりとしゃがみ込み、ポケットからナイフを取り出すと、迷いなく彼のもう一方の小指を切り落とした。誠の額に青筋が浮き出

  • 星はもう、月の光を求めない   第21話

    遥かに見つめ合うふたり。まるで一世紀を隔てたかのような静寂の中、最初に視線を逸らしたのは星良だった。彼女は無言で相手に軽く頷くと、そのまま踵を返して立ち去った。男は安堵の息を漏らす。噂は本当だったようだ。星良は、本当にもう誠に未練などない。扉の外を茫然と見つめる誠。彼の無様な姿、踏みにじられた尊厳、それらすべてが彼女の目に晒されていた。やがてトイレから出てきた星良は、外で待っている誠の姿を目にする。彼は煙草の灰を落とし、星良の姿を見た途端、慌てて煙草をもみ消した。彼女が煙草の匂いを嫌うことを、まだ覚えていた。無精ひげが顔を覆い、痩せこけたその姿。星良を見つめながら、胸の奥がチクリと痛んだ。こんなにも彼女を想っていたのだと、ようやく自覚した。ずっと星良に会わないようにしていた。彼女が自分を見たくないことくらい、わかっていたから。けれど、我慢というものがこれほど苦しいものだとは思わなかった。誠は後悔した。自分はいったい、どれほどのものを失ってきたのか。まつ毛がかすかに震える。口を開こうとしても、言葉が出てこない。彼女の目に映る今の自分を見るのが、怖かった。星良の表情は淡々としていた。「何か用?」その一言に、胸が押し流されるような衝撃。「……元気にしてた?」彼の掠れた声が、少々耳障りに聞こえた。星良は目を伏せた。元気か否か、もう誠とは何の関係もなかった。彼女は答えず、むしろ問い返す。「雨宮さんから連絡はあった?」その名を聞いた瞬間、誠の眉がひそめられ、すぐに否定した。「もう、ずっと会ってないんだ」星良は彼の反応が嘘ではないと感じ、それ以上は何も聞かなかった。その場を離れようとした瞬間、誠は思わず彼女の腕を掴もうと手を伸ばした。「星良……俺のこと、許してくれたのか?」その手を見下ろす。彼の手は、形も肌も美しかった。星良がかつて何度も夢に見た手。頬を優しく撫で、肩を抱きしめ、必要な時には真っ先に彼女を守ってくれるはずだった。この世界の誠は、彼女と結婚することもなかった。父を死に追いやることも、妊娠三ヶ月の彼女を山中に走らせることも、暗い地下室に閉じ込めることもなかった。けれど――誠は星良のプライベートな写真をばらまき、紗耶

  • 星はもう、月の光を求めない   第20話

    星良は友達との食事会に参加していた。その場で話題に上がったのは、かつての「婿養子候補」たちのことだった。「アイツら、いまごろ腸が煮えくり返るほど後悔してるわよ。あなたのお父様が全員クビにした後、あちこちに履歴書出しても、あの日のことが耳に入ってるから、誰も採用してくれないってさ」「本当よね。昔は皆、妙にプライド高くて偉そうにしてたけど、九条家を失ったら、誰があんな連中に構うのよ?」星良はグラスの中のワインを揺らしながら、黙ってその話を聞いていた。あのグループチャットにいた人たちの多くは、誠を持ち上げるために九条家を踏み台にしていた。彼らが九条家に楯突いた今、当然のように誰にも相手にされない。それは彼らにとって、何よりの報いだった。とはいえ、九条家が莫大な資金を投じて育てた人材だ。職場を変えるくらいのことは、そう難しくないはず。誠や紗耶にされた仕打ちに比べれば、彼らへの怒りはもう通り過ぎた。とことんまで追い詰めようとは思っていない。「前から言ってたでしょ、男を選ぶなら、自分を愛してくれて、大事にしてくれる人じゃなきゃって。あの黒澤、どこが良かったのか分からないわ。あんなふうに偉そうにして、信じられない。あなたは東都でも有名なお嬢様なのよ?あの雨宮を選んで、星良を選ばないなんて、どこまで節穴なのかしら」「ほんとそれ。あの雨宮はね、一見おとなしそうな小動物っぽい顔してるけど、裏ではなに考えてるか分からないタイプよ。ところで星良、あの女の行方、まだ分からないの?」星良は目を伏せ、小さく首を振った。あの日、蒼介が人を遣って彼女を追わせたが、紗耶はまんまと逃げおおせた。星良の部下も、蒼介の部下も捜索を続けているが、彼女はまるでこの世から消えたかのようだった。調査によれば、まだ東都にはいるらしいが、人通りが多くて監視カメラの多い場所には一切近づいていない。星良はそっと拳を握りしめた。空気が重くなったのを感じたのか、周囲の友人たちは話題を切り替えた。テーブルに追加の料理を頼み、新たに数本のワインを開けて、星良の近々の結婚を祝った。酒を一口飲んだところで、彼女のスマホに蒼介からメッセージが届いた。【空腹のままお酒を飲んじゃダメだよ。終わったら電話して。迎えに行くから】その一文に、星良の心はふっと温

  • 星はもう、月の光を求めない   第19話

    もし拒めば、星良は迷わず電話をかけ、ボディーガードに命じて彼を車の後ろに強引に縛りつけただろう。その時になれば、誠が嫌がったとしても、もう手遅れだ。彼女は、そう簡単には許すつもりなどなかった。けれど、まさか誠が受け入れた。意外ではあったが、星良の反応は早かった。何も言わずに運転席に乗り込むと、バックミラーに映る彼の俯いた顔をちらりと見る。その目がゆっくりとこちらに向いた瞬間、彼女はもう目線を外していた。アクセルを踏み込んだその瞬間、予想もしていなかった誠の身体は地面に投げ出され、膝を強く打ちつけ、顔には擦り傷ができた。その様子を見た星良は、唇を歪めて薄く笑った。急ブレーキをかけ、窓を開けて外に顔を出すと、よろよろと立ち上がろうとする誠の姿が目に入る。その唇が何か言いかけた瞬間、星良はもう顔を引っ込めた。再び車を発進させた。かつて誠にされた仕打ちを、彼女はそのまま返す。くねくねと続く山道を、星良の車は何度も何度も誠を引きずって走る。彼女は一切声を発せず、彼は一言も文句を言わなかった。やがて太陽が西の空に沈み、月が山の影から顔を出す。誠の手首はロープで擦り切れ、赤い血が繊維を染め、顔色は青白くなっていた。ようやく車が止まり、星良はその場から動かなかった。誠は限界を迎え、地面に倒れ込んだ。膝が震え、全身の関節がバラバラになったような感覚に襲われる。星良は静かに近づき、無言のままロープを彼の体に放り投げた。数時間も経てば、日頃から体を鍛えている誠でさえ持たなかった。ましてや、年老いた父と妊娠三ヶ月の彼女が、耐えられるはずもない。ペットボトルの水を一本、彼に投げてよこす。誠に復讐したいと思っていたが、こんな簡単に死なせるつもりはなかった。この世界で生き延びるために、自分がどれだけの苦しみを受けたのか、他人は知らない。誠も知らない。それを知っているのは、彼女自身だけだった。そんなクズ男のために、人殺しの罪を背負うなんて、馬鹿げてる。星良は静かにその場を後にしようと足を踏み出した。その背中に、かすれた声が追いかける。「……星良、俺を……許すつもりはないんだよな?」彼女の足が止まった。だが、それ以上振り向くこともなかった。ただ、まっすぐ前だけを見つめていた。し

  • 星はもう、月の光を求めない   第18話

    誠の暗く沈んでいた瞳が、ふいに一筋の光を宿した。その光を、星良は瞬き一つせずに見つめ続けていた。「うん、いいよ!」その言葉が、彼には信じられなかった。星良が、自分と一緒に山に登るなんて。まさかあの告白を、彼女が全部ちゃんと聞いてくれていたのか?山登りの時間を約束した後、誠はすぐに荷物をまとめ、嬉々として家へと帰った。本気で人を愛するとは、こんなにも相手の一言一言に心を揺さぶられるものなのか。彼は今になって初めて思い知った。けれど、その背中を見送る星良の瞳には、ただ、冷ややかな影だけが揺れていた。「星良、何をするつもりだ?」いつの間にか背後に立っていた雅信が、低く問いかけた。父の姿を見た途端、星良の警戒はふっと解けた。誠は星良を愛していると言った。だが、本当に彼女のことを理解していたわけではなかった。もし理解していたなら、気づいていたはずだ。彼が現れてからずっと、星良はまるで全身に鋭い棘をまとったハリネズミのように、誰にも近づかせまいとしていたことを。彼女は誠のこと、全然許していない。そして、本気で一緒に登山するつもりもなかった。星良は雅信の腕を取って、その肩にそっと額を預けた。「お父さん、信じて」――もう二度と、誰にも私たちを傷つけさせない。……よかった。今度は家を、父を、そして自分自身を救い出せた。翌朝、誠は九条屋敷の門の前に現れた。いつものように車で門をくぐろうとしたが、認証が外されていたことに気づき、バツの悪い顔で車を止めた。仕方なく外で待っていると、星良が自分の車で姿を現した。彼女は誠の車に乗るつもりはなかった。何かを聞こうとする前に、星良はただ一言「ついてきて」とだけ言った。辿り着いたのは、見覚えのある山道。停車したとき、誠は何気なく周囲を見回し、思わず二度見してしまった。「ここって……!」ようやく思い出した。かつて星良が流れ星を一緒に見に行こうと誘った場所。あの夜、彼女は誠の隙を突いて、自分のファーストキスをそっと預けた。彼女にとっては大切な思い出が詰まった場所だった。けれど、誠の手で粉々に壊されてしまった。「誠、私のこと好き?」突然の問いに、誠は一瞬目を見開いたが、すぐに力強く答えた。「愛してる、星良」星良

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status