INICIAR SESIÓN
1ヶ月後。凪紗はビーチで日光浴を楽しんでいる。傍らで琉生がドリンクを作っているが、その表情は実に苦々しく、離れた場所に佇む真斗を睨みつけながら歯を噛みしめている。「厚かましいオヤジめ!人妻を奪おうとするなんて!」彼の文句を聞き流しながら、凪紗は目を閉じたまま寝返りを打ち、適当にあしらった。「琉生こそが私の夫よ。苗字だって林原に変わったんだから、あいつにはもう構わないで」その一言で琉生の機嫌は一気に直り、嬉々としてカットフルーツを取りに向かった。直後、凪紗のスマホに再び真斗からメッセージが届いた。【今夜、ホテルで晩餐会がある。先日オーダーメイドしたワンピースに合うジュエリーも用意した】凪紗は返信せず、そのまま立ち上がってホテルの中へ入った。泊まっているスイートルームに戻って間もなく、ウェイターがドアをノックし、いくつかのジュエリーを届けてきた。凪紗が断ろうとした瞬間、少し離れた場所に真斗が立っているのに気づいた。彼の悲しげな瞳には、苦い笑みが浮かんでいる。「新婚旅行のお祝いだと思って受け取っておくれ……おめでとう」言い終えて視線を落とすと、照明が彼の長いまつ毛の影を頬に落とした。凪紗は拒絶の言葉を飲み込んだ。再び目を向けると、真斗はすでに松葉杖をついて去っていた。あの日以来、凪紗は真斗の姿を一度も見ることがなかった。ただ、琉生と新しい旅行先へ赴くたびに、ホテルの宿泊費や諸経費があらかじめ免除されている。そのことに嫉妬に狂った琉生は、即座に真斗が支払った金額の10倍を、姪の夫という名目で送りつけた。対する真斗も負けじと、10本のダイヤモンドネックレスを落札し、凪紗の誕生日祝いとして贈り届けてきた。二人が火花を散らす中、凪紗は経営学修士号を取得するため、新婚の夫を残して一人で渡米した。出張先でそれを知った琉生は悲鳴を上げ、その日のうちに追いかけて渡米したのだ。その最中、宿敵である真斗からひどい嘲笑いが届いた。「お前も捨てられたか」琉生は鼻で笑ったものの、凪紗の通う大学に到着するとすぐに、彼女が若くてかっこいい男子学生たちに囲まれているのを目撃した。その光景に生きた心地がしない琉生は、その場で自身も入学手続きを済ませた。そうして彼はなりふり構わず凪紗にへばりつき、1年間の課程
厳かで神聖な雰囲気に包まれる式場の中。結婚行進曲が緩やかに響き始める。凪紗はヴェールを被り、ドレスの裾を持ち上げて、レッドカーペットの先で待つ琉生のもとへ歩みを進めた。神父が二人の間に立ち、誓いの言葉を述べた。「花森凪紗さん、あなたは林原琉生さんを夫とし、健やかなる時も、病める時も、喜びの時も、悲しみの時も……その命ある限り真心を尽くすことを誓いますか?」次の瞬間、焦りに満ちた男の低い声が静寂を切り裂いた。「誓わない!」列席者がどよめいた。凪紗も思わず声の主へと視線を向けたが、それが真斗だと気づいた瞬間、胸が大きく高鳴った。真斗は痛々しいほど痩せこけており、仕立ての良い黒いスーツが今では彼の体にだぶだぶと余っている。額には新しい傷跡が刻まれ、足を痛めているのか松葉杖に頼っている。彼は凪紗を深く見つめ、その瞳には溢れんばかりの愛と悔いが宿っている。「凪紗、謝らせてくれ。俺が間違ってた。凪紗が手放され、広い世界で同世代と触れ合えば、愛の意味が分かると思い込んでたんだ。だから起こる出来事のすべてを、凪紗のせいにして責めてしまった。今、真相を知り、自分がどれほど愚かだったかを思い知った。恩返しすべき相手だと思い込んでた女は偽者で、俺の特別扱いを盾にして凪紗を傷つけ続けてた。惨めなことに、凪紗を完全に失って初めて気づいたんだ。ずっと凪紗を必要としてたのは、俺のほうだったと。凪紗、一緒に三上家へ帰ろう」言葉が途切れ、式場は静まり返った。突如として繰り広げられた略奪愛の展開に、誰もが言葉を失った。琉生の両親すらも愕然としている。何より新郎である琉生は、目の前で花嫁を奪われそうになり、激怒している。顔を青筋立てて引きつらせ、凪紗の前に立ち塞がると、真斗に冷ややかに言い放った。「若さでも、見た目でも、財産でも僕に負けてて、その上、凪紗の気持ちを裏切り続けた君に、やり直す資格なんてあると思うのか?さっさとあの来見田のところへ戻ったらどうだ!」暴言を吐き捨てる琉生を、凪紗は慌てて制した。「あなた」凪紗は琉生の頬にそっと口づけを落とし、彼の思考を完全に凍りつかせた。耳元で優しく囁いた。「大丈夫、彼について行ったりしないわ。数分だけ時間をちょうだいね」そう言い置くと、ヴェールを上げ、傍らに
A市立病院、集中治療室。真斗はゆっくりと目を開けた。傍らのボディーガードが途端に感極まった声を上げた。「社長!ようやくお目覚めになられましたか!」……N市における今の最大の関心事と言えば、名門・林原家の祝言である。新郎は林原家の御曹司で、7歳の時に誘拐されながらも奇跡的に生還した。以来16年間、一切浮いた話はなかった。半月近くもの間、N市のマスコミは新婦の情報を必死になって追いかけていた。だが、女性であるということ以外、あらゆる情報が遮断されたかのように闇に包まれていた。政財界の誰もが、林原家の嫁に対して強い好奇心を抱いていた。そして、迎えた式当日。極上の高級ホテルの外には高級車がずらりと並び、各紙・各局の報道陣がひしめき合っていた。広い芝生には、「一途な愛」という花言葉を持つ紫色のスミレが一面に植えられていた。「噂によると……林原家の坊ちゃんは、奥さんのことを7歳の頃から想い続けてたらしいわよ!」N市日報の記者が、隣のカメラマンに小声で囁いた。カメラマンは20歳そこそこの好青年で、首をかしげながら半信半疑の様子だ。「本当か?」記者は胸を張った。「もちろん!昔、A市とN市を揺るがした広域誘拐事件があったでしょ?被害に遭ったのは林原家の坊ちゃんの他に、花森家のお嬢様や金持ちの子供たちだったの。身代金は6000億円で、犯人グループは数年もかけて準備したらしいわ。金持ちたちと警察は情報を秘匿することで合意してたのに、配慮のない一部のマスコミが詳細をスクープしちゃって……怒った犯人グループが見せしめに何人か殺そうとしたのよ。結局、警察がその隠れ場所に突入して主犯格を射殺したから、多くの子供たちが助かった。でも、花森家のお嬢様と林原家の坊ちゃんだけは、少し離れた洞窟で見つかったらしいわ。6、7歳の子どもがどうやって逃げ延びたのかしらね?」そこまで聞いて、カメラマンはまるで信じられないとでも言うように、手を振りながら笑った。「ゴシップ誌の創作でしょ?ハリウッド映画じゃあるまいし」記者は呆れた様子で言った。「何言ってるの?私の叔父が当時の捜査員だったんだから!大金を投じて報道規制を敷いたから、誰も知らなかったのよ。命からがら逃げ出した二人の子供も大怪我を負っててね、女の子の
プレゼンテーションは大成功を収めた。凪紗は部下を連れて打ち上げに向かった。食事を終え、店の外でタクシーを拾おうとした瞬間、滑り込んできたのは琉生の車だ。「花森部長、送っていこうか?」琉生は悪戯っぽく口元を歪めた。街灯の下で、アーモンド形の目がキラキラと輝いている。部下に見つかる前に、凪紗は急いで助手席のドアを開けて乗り込んだ。車がスムーズに走り出すと、凪紗は目を閉じて寝たふりをした。「で、本命の夫である僕の存在は、いつお披露目してくれるのかな?」不意に運転席から不満たらたらの愚痴が聞こえてきた。琉生はもはややきもちを抑えきれないかのように、不平を並べ立てた。「営業一課の課長は今日、凪紗にコーヒーを差し入れてたし、マーケティング部長なんて凪紗にずっとニヤニヤしながら、土日にテニスに誘ってたんだろ!」むくれてみせる彼の姿が面白くて、凪紗はわざと意地悪な言い方をしてみた。「でも、どうしようかしら?私たち、まだ籍も入れてないし、披露宴も挙げてないもの」その途端、琉生の目元が一気に真っ赤になった。屋敷に戻るまで、彼は一言も口を利かず、唇を噛み締めたまま二階へ駆け上がり、ドアを叩きつけるように閉めた。一階に取り残された凪紗と琉生の両親は、顔を見合わせた。気まずい沈黙ののち、幸次郎は重いため息をついた。「琉生もすっかり大きくなって、手に負えないな……」母親の林原景子(はやしばら けいこ)は凪紗の手を引きながら、琉生が幼い頃にやらかした失敗談を話し始めた。凪紗はついに堪えきれなくなり、言い淀みながら尋ねた。「景子さん……私と琉生は、昔どこかでお会いしたことがあったのでしょうか?」そうでなければ、初対面の相手にこれほど執着し、嫉妬を見せる理由が分からない。凪紗にはどうしても理解できない。琉生は良い人間であり、彼の存在が真斗への想いを和らげてくれたのは確かだ。だが、名ばかりの政略結婚から始まるつもりの彼女にとって、突然の真心の愛はただ戸惑うばかりだ。「そのことはね、琉生から直接聞いてあげてちょうだい」景子は温かい笑みを浮かべ、愛おしそうな視線を凪紗に向けて手を握りしめ、優しく言った。「ただね、私たちは凪紗を自慢の嫁だと思ってるわ。A市のマスコミが好き勝手に書いてたが、三上一恵さんとは
「叔父さん!」凪紗は跳ね起きるように目を見開いた。天井の白い蛍光灯と目の前のパソコン画面を見て、ようやく我に返った。N市に来てから、もうすぐ2週間が経とうとしていた。真斗のことは綺麗さっぱり忘れると決めたはずなのに、今日の昼休みにまた彼の夢を見てしまった。血まみれになって意識を失う夢を。目を閉じ、深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。凪紗はようやく激しい鼓動を落ち着かせた。「うなされてたか?」ドアのあたりから、男の軽やかな声が響いてきた。顔を上げると、林原琉生(はやしばら るい)が片手をポケットに突っ込み、華やかなアーモンド形の目に、悪戯っぽい笑みを浮かべて立っている。「頑張り屋の花森部長も、疲れ果てて居眠りをする日があるんだ?」凪紗は彼の視線に頬を赤らめ、言い返した。「居眠りじゃなくて、堂々と昼休みを取ってるの。それより林原部長、勤務時間中に理由もなく私のオフィスへ入ってこないでほしい。ライバル同士なんだから、変な噂が立ったら困るわ」「変な噂?」琉生は首をかしげ、唇を吊り上げた。周囲を見回し、誰もいないことを確認すると、凪紗がメールに目を落とした隙を突いて大股で歩み寄り、彼女の唇にサッとキスを落とした。怒られる前に、彼は脱兎のごとく逃げ出した。「じゃあな、ライバルちゃん!」捨て台詞を残して去っていく姿に、凪紗は呆れながらも思わず笑ってしまった。林原家に嫁ぐ前は、名門の三上家と同様に厳格な家風だと勝手に思い込んでいた。婚約者も、退屈な堅物か、チャラい道楽息子なのだろうと。だが琉生は、想像とはまったく違っていた。凪紗と同い年で、彫りの深い華やかな容姿を持ち、異国の血を引く美しい祖母から受け継いだ浅緑色の瞳は、日差しを浴びて宝石のように輝いていた。凪紗が林原家の屋敷に到着したのは、午後4時を過ぎた頃だった。疲労と空腹の極みにありながら、目上の方々への挨拶をこなさなければならなかった。彼女の苦しそうな様子に気づいたのは、琉生だけだった。彼の瞳に映える深い緑色のシャツを着こなし、黒いズボンから伸びる脚はまっすぐで長かった。ウェーブのかかった明るい髪に縁取られた顔立ちは実に整っていた。彼は高価そうなバタフライナイフを手元で弄び、純粋そうな笑みを浮かべながら、周りを絶句
どこまでも連なる山々は、まるで哀しい少女の首を絞める縄のようだ。真斗はヘリコプターから降り立ち、いくつもの山々に囲まれた村を見渡した。真相を知らなければ、本物の千晶はこの一生をここで終えていたかもしれないと思うと、恐怖すら覚えた。ローターが激しい風を巻き起こし、真斗の黒い上着の裾をはためかせる。その細い手首には、宝石のブレスレットが巻き付けられている。注意深く見ると、宝石には極めて薄い割れ目が刻まれているのが分かる。真斗は手首を上げ、宝石にそっと口づけを落とした。愛おしげに囁いた。「いい子だ、凪紗。もう少し待っててくれ。俺は絶対に諦めないから」背後では、ボディーガードが顔を腫らすほど殴られていた大賀をヘリから引きずり下ろしている。「いててっ……」大賀はすっかり胆を冷やし、うずくまるように首をすくめて案内した。道沿いの家々から村人たちが顔を出し、大賀に気づいて口々にからかった。「深沢かい!A市で来見田家の娘と一緒に儲けてるって聞いてたが、なんで犯人みたいに縛られて帰ってきたんだ?」「美羽ちゃんはどうした?金持ちを捕まえたって噂は本当か?」弱い者いじめが得意な大賀は、その場ですぐに言い返した。「うるせえ、失せろ!」だが他の人、特に真斗に対しては怯えきっている。「三上社長、あと500メートルほどで千晶が勤めてる店です」彼が言い終えた瞬間、男の怒号が響き渡った。「このアマ、また逃げようとしやがったな!ぶっ殺してやる!」続いて、容赦のない殴打の音と、打ちひしがれた女の凄惨な悲鳴が重なった。真斗は深く眉をひそめた。一瞥すると、背後のボディーガードが即座に駆け出し、男を蹴り飛ばした。その下から、傷だらけの女が現れた。女の姿を目にした大賀が声を上げた。「千晶!」真斗の瞳孔が小さく収縮した。傷跡に覆われた顔、ガリガリに痩せ細り、色すら分からぬほど汚れた服を纏う哀れな女が、恩師が20年近く思い続けた娘だとは信じがたかった。怒りと悔しさが入り混じり、彼の理性を吹き飛ばしそうになる。だが真斗は静かにボディーガードから上着を受け取ると、怯えて震える女の肩にかけ、真っ先に耳の裏を確かめた。そこには、赤い痣があった。万全を期すため、彼はA市の方言で問いかけた。「お父様が作ってくれた童謡