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第25話

Author: やまごま
――二年後。

愛乃は早足で歩きながら、片手にスマホを当て、もう一方の手で秘書が差し出した入札案の最終稿を素早くめくっていた。

「そろそろ島に戻ってみないか?」

電話越しの慶の声は、柔らかな笑みを含んでいた。

愛乃の唇が自然とほころぶ。

「あと数日ね。最近は地に足がつかないくらい忙しいの」

デスクの上には、母から届いた絵葉書が置かれている。

「君のお母さんとうちの母さんが一緒に世界一周に行って、会社を私たちに丸投げしてから、一晩もぐっすり眠れてないわ」

「江崎社長、それは愚痴かな?」慶の声には茶化しと優しさが混ざる。

「先月、『年間最も影響力のある若手経営者』に選ばれた人が言う台詞じゃないね」

「それはあなたが悪くないからよ」

愛乃は書類を閉じ、ふっと目を上げた。二人の視線が空中で交わり、同時に通話が切れる。

――そして、入札会場。

二人が向かい合い、愛乃は真剣な表情で口を開いた。

「今回の入札、もうあなたには負けない」

慶も笑みを浮かべる。

「俺も手加減はしないよ」

同じエレベーターに乗り込む二つの会社の人たち。張り詰めた空気の奥に、不思議な調和が漂う。

三時間後――

司会者が江崎グループの勝利を告げた瞬間、愛乃の視線は無意識に慶を探していた。

彼は落胆の色を見せず、真っ先に立ち上がって拍手を送り、その瞳は誰よりも誇らしげに輝いていた。

終了後、慶は会所の最上階バーを貸し切った。

両社のメンバーはすぐに打ち解け、笑い声が響く。

――しかし、その和やかさを破るように、隣の個室からガラスの割れる音と女の泣き声が聞こえてきた。

「宍戸社長、お願いです、もう一度だけ考え直してください!相川グループは今は苦しいだけで、諒なら必ず立ち直れますから!」

扉が半開きになった個室の中で、楓が化粧を崩し、中年の男の腕を必死で掴んでいた。

隣の子供椅子には、二歳ほどの男の子が落ち着かず身をよじっている。

テーブルには空になった酒瓶が五、六本並んでいた。

「麻生さん、失礼ですが――」宍戸社長は冷たく手を振り払った。

「どんな大物が来ても、もう助けにはなりません」

愛乃はそれ以上見ず、立ち去ろうとしたが、出口で楓と鉢合わせる。

涙に濡れた瞳がこちらを向く。

「あなたは運がいいだけよ。実家が後ろ盾になって、男たちが君に群がって……
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