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第2話

Penulis: 雲居の樵
樹の額からつーっと一筋の赤い血が流れ落ちた。

無理に笑みを浮かべた樹が、その女の目じりに浮かんだ涙をそっと指でぬぐってあげている。

その樹の眼差しに宿る深い愛情を、若葉は今まで何度も見てきた。

しかし、今の樹の瞳に映っているのは、もう自分ではない。

若葉の心臓がぎゅっと掴まれたように痛む。胸を押さえて何か言おうとしたけど、声が出ない。

その時、樹の腕の中にいた女が急に立ち上がったかと思うと、そばにあったボトルを掴み、樹にケガをさせた相手に思いっきり投げつけた。

そして、まるで何かに取り憑かれたみたいに、叫びながら相手に拳を振り上げている。

その様子を見て、樹は痛みを堪えながらよろよろと立ち上がり、彼女を強く抱きしめ、優しく宥めた。

女が落ち着つくと、樹は軽々と彼女を抱きかかえ、足早にバーから出て行った。

最初から最後まで、樹は若葉のことなんてまるで目に入っていないようだった。

樹の後ろ姿を見送る若葉の胸の奥がちくりと痛む。

若葉が秘書の石川日和(いしかわ ひより)に電話し、先ほどの女のことを調べさせようとしたその時、バーの客の一人が樹のことを話しているのが聞こえてきた。

「河野家の若旦那、小島さんに本当に優しいよな。彼女のために、わざと女遊びが激しいふりをして、家が決めた結婚から逃れようとしてるんだから」

「じゃあ、これは知ってるか?昔、若旦那の母親が亡くなった時、若旦那がバーで飲んでてチンピラに絡まれたのを助けたのが、小島さんなんだよ」

そう言った後、その人は少し黙ってから、声をひそめる。

「それに聞いた話だとさ、小島さんは女としては欠陥品らしくて、若旦那の夜の相手ができないらしいんだ。だから、若旦那は自分で処理するだけで、ほかの女には一切手を出してないんだとよ。

最近結婚した相手だって、父親に無理やり決められた人らしいぜ。

しかも、若旦那は小島さんに、絶対に嫁と離婚してみせる、死んでも自分と嫁に何かあるはずがないって言い切ったぽいよ」

若葉にまるで雷に打たれたような衝撃が響く。強く噛みしめた唇から、口の中に血の味が広がった。

そういうことだったのか。

樹が自分をひどく扱うのは、彼の母親のことだけじゃなく、あの女のためでもあったんだ。

派手な女遊びも、心ない態度も、全部自分に見せるための演技だったなんて。

張り裂けそうなほどの痛みが、若葉の胸を襲う。

壁に手をつきながらやっとのことでバーを出ると、若葉は車を飛ばして河野家の屋敷へ向かった。

樹との婚約が決まった後、河野家からの招待は何度もあったが、若葉はいつも断ってきた。

だから、若葉がハイヒールでリビングに足を踏み入れた今、河野家の人たちはみんな固まってしまった。

しかし、若葉はそんな視線など気にも止めず、テーブルについた。そして口を開こうとしたその時、黒い部屋着姿の小島泉(こじま いずみ)が樹の部屋から出てくるのが見えた。

泉は気だるそうにあくびをしながら、ゆっくりと若葉の前に歩いてきて、顎をしゃくる。

「そこ、私の席なんだけど。どいてくれない?」

あまりに当然といった泉の口ぶりに、若葉は鼻で笑った。

「どうして私がどかなきゃいけないの?」

若葉が言い終わるや否や、樹の継母である河野優香(こうの ゆうか)がやって来た。彼女は泉の腕を優しく抱き、若葉をいかにも不愉快そうな目つきで見つめる。

「若葉さん、あなたは良いとこのお嬢さんでしょ?席を譲るくらい、どうってことないわよね?

とても物分かりのいい、おしとやかな方だって聞いていたのに。病人を立たせたまま、席を譲っていただけないなんて。評判ってあてにならないわね」

なんて馬鹿げた言い分だ、と若葉は思った。しかし、河野家の親戚たちはそれに調子を合わせている。

若葉は奥歯をぐっと噛みしめると、勢いよく立ち上がった。

みんなが得意げに見つめる中、テーブルクロスを掴むと、力いっぱい引き抜いた。

ガッシャーン……

お皿やグラスが床に落ちて割れ、料理がそこら中に飛び散った。河野家の人たちは驚き、あちこちで悲鳴が上がる。

しかし、若葉はめちゃくちゃになった床にただ一人立ち尽くし、二階をまっすぐ見上げていた。その視線の先には、書斎から出てきた樹の父親・河野彰人(こうの あきと)がいた。

「おじさん、やっと出てきてくれたんですね!」

その場にいた全員が、固唾を飲んで若葉を見つめている。

彰人は苦々しい顔で階下を見渡し、小さくため息をついた。そして、目で若葉に書斎へ来るよう合図を送る。

書斎に入り、ドアを閉めようとしたその瞬間、若葉は泉と視線が合った。

泉のその目には、勝ち誇ったような、はたまた挑発するような色が浮かんでいた。
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