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第165話

Author: フカモリ
あのバルコニーでの拓真との会話を思い出し、「タイプじゃない」と言われたこと、「お前には価値がない」と言い放たれたことが脳裏をよぎり、真琴の手がふと止まった。

真琴の沈黙に気づき、信行が振り返る。

視線が合うと、真琴はハッと我に返って誤魔化した。

「……傷、深いですね」

そう言って、努めて優しく薬を塗り広げた。

処置を終え、パジャマを持ってバスルームへ向かう足取りは重かった。頭の中では、昔の記憶がぐるぐると渦巻いている。

過去に、そしてこの現実に別れを告げる時が来たからだろうか。

思い出は、やけに鮮明だった。

しばらくして、真琴がシャワーを浴びて戻ると、信行は窓際で電話をしていた。

真琴は髪を拭きながら、邪魔をしないように気配を消す。

電話の相手は由美だ。

「信行、明日は日曜日よ。映画に行きましょう。新作の評判がいいの」

信行は淡々と言った。

「用事がある。行けない」

由美は不満げに声を尖らせた。

「最近忙しすぎるわよ。しばらく一緒にご飯も食べてないじゃない」

信行は窓の外を見ていたが、ガラスに映り込んだ真琴の姿に目が釘付けになった。

彼女は近づいてこない。こちらを見ようともしない。その表情はあまりに淡々としていて、まるで自分たちの結婚の「部外者」のようだ。

「信行?聞いてるの?」

由美に呼ばれ、信行は我に返った。視線を戻し、感情のこもらない声で告げる。

「最近は都合が悪いんだ。また今度な」

由美の返事も待たずに通話を切った。

振り返ると、真琴も彼を見ていた。

視線がぶつかる。だが信行が口を開くより早く、真琴はふいっと視線を逸らし、何事もなかったかのようにドライヤーのスイッチを入れた。

あまりの無反応さに、信行は近づいてドライヤーを奪い取った。

音が止み、真琴が見上げると、信行は彼女を見下ろして問い詰めた。

「お前には感情ってものがないのか?」

今度は、真琴も黙ってはいなかった。

「……感情があったら、気にしてくれるんですか?」

即答され、信行は言葉を失った。

まさか彼女から、こんなに鋭い刃のような言葉が返ってくるとは思わなかった。

信行が答えられないのを見て、真琴は黙って背を向けた。衝動的に言い過ぎてしまったと後悔したからだ。

背を向けた彼女の手首を、信行が掴んで引き戻す。

顎を強引に上向かせようとし
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