LOGIN真琴の快諾に、紗友里は何度も頭を下げて感謝した。「ありがとう、本当にありがとう!真琴、助かるよ」あまりの低姿勢に、真琴は思わず吹き出してしまう。「もう、水くさいお礼なんていいから。それじゃあ仕事に戻るね。定時で上がったら向かうから」「了解。じゃあ私も隣県へ向けて出発するね」短く約束を交わし、ふたりは通話を切った。遠出すると言っていた紗友里だが、口先だけではない。電話を置いた後、本当に友人2人と車を走らせて隣県へ繰り出していた。ここ最近、光雅のことで鬱々とした気分が続いていた。どこかで羽を伸ばして気分転換をしたかった。*東央システムズで定時まで仕事をこなした真琴は、百貨店へ立ち寄った。老舗料亭の和食弁当を買い求め、病院へ車を走らせる。病棟前の駐車場に車を滑り込ませ、丁寧に包まれた折詰を手に、病室のあるフロアへと上がった。昨夜のような気まずさはすっかり薄れている。昨朝のぎくしゃくしたやり取りも、すでに喉元を過ぎていた。折詰を提げてVIP病室の扉を静かに押し開けると、信行はベッドの上で仕事にかかりきりだった。伏し目がちに手元の書類を見つめ、シーツの上には資料が散らばっている。一心不乱な姿に、真琴は無意識に歩みを緩めた。振り返ってドアを閉める際も、音を立てないよう細心の注意を払う。だが、どれほど気配を消そうとしても、信行はそのかすかな動きを察知していた。顔を上げ、やって来たのが真琴だと確かめるなり、何食わぬ顔で声をかけてくる。「来たか」まるで最初から来ると知っていたかのような、平然とした挨拶だった。真琴は柔らかく応じる。「うん」穏やかに言葉を継いだ。「紗友里は隣県へ行ったよ。戻ってくるのは2、3日後になるって」信行が口を開く隙も与えず、持参した折詰をテーブルへ置く。落ち着いた調子で促した。「お弁当買ってきたの。薄味で食べやすいものにしてあるから、先に食べてから仕事に戻ったら?」信行が真琴の部屋で寝起きしていた間、身の回りの世話を甲斐甲斐しく焼いてくれていた。だからこそ、少しでも恩を返しておきたい思いがあった。真琴の言葉を聞くや否や、信行は書類を放り出した。ベッドから足を下ろしてスリッパを突っかけ、テーブルへ歩み寄ってくる。妹もたまには気の利いた真似をす
その様子を見て、紗友里はからかうように口元を綻ばせた。「もういいじゃない。真琴の家に転がり込んで、すっかり既成事実まで作ったくせに、何がそんなに不満なわけ?明日は私が席を外してあげるから、真琴に来てもらえばいいでしょ」妹の冷やかしに、信行は気のない目を向けて淡々と言い放つ。「大した怪我じゃないし、看病なんていらない。お前は帰れ」「はいはい、お邪魔虫は退散~どうせ私の世話なんていらなくて、真琴に看病してほしいだけでしょ」紗友里は信行の前へ、すっと右手を差し出した。「車のキーちょうだい。私の車、さっき真琴に乗って帰られちゃったから」「上着のポケットだ」信行が答えると、紗友里はコート掛けからキーを取り出し、そのまま病室を後にした。帰り道、ハンドルを握りながら、紗友里は何度考えても信じられない思いだった。あれだけこじれて遠回りを重ねたふたりが、またこんな関係に戻るとは夢にも思わなかった。思わず小さく吹き出し、しみじみと呟く。「人生って、本当にわからないものね……」過ぎ去る日々の中で、これからの未来に何が起きるかなんて、誰にも予想などつかない。*その頃、真琴は自室へと戻っていた。ここ数日はいつも信行と一緒に帰宅していた。部屋にはふたり分の気配があり、それなりに賑やかだった。いま、たった1人いないだけで、妙に落ち着かない心地を覚えてしまう。胸の奥に、ぽっかりと穴が開いたような寂しさが広がっていく。脱いだコートをポールハンガーに掛けながら、習慣とは恐ろしいものだと真琴は小さくため息をついた。シャワーから上がると、デスクに向かって作業に取りかかった。仕事に打ち込んでいる時だけが、心を一番穏やかに保てる。余計な雑念を払うことができた。翌日もいつも通りに出社した。生活は何1つ変わらない日常をなぞっていく。波立っていた心も、次第に凪を取り戻していった。時折、病衣をまとった信行の姿がふと脳裏をかすめる。それでも感情は落ち着きを保ち、大きな揺らぎはなかった。*午後4時を回った頃、手元の仕事がひと区切りついた。その時、机上のスマホが不意に着信を告げる。紗友里からだった。端末を手に取り、真琴は穏やかな声で応じる。「どうしたの」受話口から、すぐに紗友里の声が飛び込んできた。
信行の不機嫌な面構えは、どう見ても自分への当てつけだった。とはいえ、紗友里にはまったく意味がわからない。あからさまに納得のいかない様子の妹へ、信行はジト目を向け、心底うんざりしたように吐き捨てた。「空気を読む知能が、爪の先ほどもないらしいな」「……」今度は紗友里が言葉に詰まる番だった。白けた顔で兄を睨み返し、抗議の声を上げる。「ちょっと、言いたいことがあるならはっきり言ってよ。ネチネチ嫌味ばかり言わないで。自分の機嫌が悪いからって八つ当たりしないでよね」食ってかかる紗友里を冷ややかに見据え、信行は単刀直入に切り出した。「俺はここ最近、真琴の部屋で寝起きしてる。だからお前が残って看病する必要なんかない」他愛もないことのように投下された爆弾発言に、紗友里は雷に打たれたような衝撃を受けた。目を丸く見開き、信じられないものを見る顔で兄を凝視する。「……は?なんて言ったの?もう1回言ってみてよ」あり得ない。真琴の部屋に居候しているなど、そんな馬鹿な話があるはずもない。真琴が一番毛嫌いしている相手こそ信行だ。家に転がり込むのを許すはずがなかった。そもそも、兄に帰る家がないわけでもない。呆然とする妹を前に、信行はどこ吹く風と涼しげに口を開く。「そう驚くな。わざわざ真琴に裏を取る必要もない。これが事実だ」泰然自若とした態度、有無を言わさぬ確信、そして先ほど病室でふたりが漂わせていた妙にぎこちない空気。それらを思い返し、紗友里は納得せざるを得なかった。信行の言葉は、紛れもない真実だ。だけど、いくら何でもおかしい。真琴は信行をあれほど疎ましがっていたはずなのに、どうして自宅に泊めるのを許したのか。しかも、これほどの一大事を自分には何1つ話してくれていなかった。だが、最近の一連の出来事、とりわけ渚の醜聞が暴露された一件を丁寧に辿り直すうち、紗友里の頭の中で点と点が繋がった。大方の事情が飲み込めてくる。おそらく真琴は罠に嵌められ、そこに信行が助けに入ったのだろう。信行の顔を見つめ、紗友里はおずおずと問いかけた。「……じゃあ真琴と、その……そういうことになっちゃったの?起きちゃいけないことが全部起きたわけ?私、叔母さんになっちゃうの?」複雑に歪んだ紗友里の表情と、立て続けの
「最初から大したことないんだ。お前は帰れ」信行が放ったのは、あくまで紗友里1人に向けた言葉であり、真琴と一緒に帰れという意味では決してなかった。だが紗友里は即座に言い返す。「病院のベッドで寝込んでて、お父さんもお母さんも留守で、誰も看病する人がいないのに、どうして私が帰らなきゃいけないのよ。残って面倒を見るに決まってるでしょ」「……」滅多に見せない妹の兄思いな主張に、信行は完全に言葉を失った。せっかく怪我をしたのだから、真琴の前で弱みを見せて情に訴えかける絶好の機会だった。それなのに呑気に首を突っ込み、邪魔立てしてくるとは何事か。迷惑以外の何物でもない。とはいえ、真琴が居合わせている手前、そんな本音を口にできるはずもなかった。渚が真琴に薬を盛った件は、信行の手ですでに報復を済ませてある。祖父も事情を把握し、父の健介も信行が甘い汁を吸ったと察してはいたが、誰も蒸し返そうとはしなかった。何にせよ、真琴にとって気分のいい話ではないからだ。兄妹の押し問答を見守っていた真琴は、すっと椅子から立ち上がった。「紗友里がついててあげられるなら、私は先に帰るね」ふたりきりでも気まずい空気が漂うのに、3人揃えばなおさら身の置き所がない。先に引き揚げた方がいいという判断だった。真琴の申し出に、紗友里はあっけらかんと応じる。「うん、わかった。じゃあ真琴は先に帰って。何かあったらまた連絡するから」「……」あっさり真琴を送り出そうとする紗友里に、信行の表情が目に見えて険しく陰った。だが真琴はその変化に気を留めず、紗友里に至っては屈託のない様子で、信行のことなどまともに見ようともしない。紗友里が真琴を見送るべくエレベーターホールへ連れ立って歩き出す中、病室に取り残された彼の顔は、見るに堪えないほど苦々しく歪んでいた。*エレベーターホールで到着を待つ間、真琴は心配しなくて大丈夫だと紗友里を優しく宥めた。紗友里は肩をすくめ、何でもないように笑ってみせる。「ここに来る途中はちょっと焦ったけど、信行のピンピンした顔を見たら心配も吹き飛んじゃった。だから真琴も私のことなんて気にしないで」数日間の静寂と内省を経て、紗友里の心はすっかり落ち着きを取り戻していた。光雅と過ごしたあの一夜の過ちも、もはや大し
紗友里が美雲と通話するため部屋を出て、主治医も看護師たちを連れて病室を後にした。室内に残されたのは、真琴と信行、そして祐斗の3人だけになった。ベッドの傍らに立っていた祐斗は、信行の隠しようもない熱っぽい視線と、真琴の決まり悪そうな様子を敏感に察した。信行へ向き直り、静かに口を開く。「社長、私はこれで仕事に戻ります」声をかけられ、信行はようやく真琴から視線を引き剥がした。祐斗を見やり、気のない口調で返す。「ああ、戻ってくれ」信行の了承を得ると、祐斗は一礼して歩き出した。ベッドの足元を通り、真琴とすれ違う瞬間に足を止め、丁寧に頭を下げる。「真琴様、それでは失礼いたします」「うん、お疲れさま」真琴が小さく会釈して応じると、祐斗はドアを開けて病室を出て行った。去り際、気を利かせて静かに扉を閉めていく。こうして病室には、真琴と信行のふたりだけが残された。室内は急にしんと静まり返り、扉の向こうから漏れ聞こえる紗友里の声や、廊下のざわめきがやけにはっきりと届いた。信行の視線が、再び吸い寄せられるように真琴へと戻る。ベッドの足元に立ったまま、真琴もその眼差しを受け止めた。白く澄んだ照明が室内を隅々まで照らし出している。薄暗さも息苦しさもないはずなのに、ふたりの纏う空気はどこかちぐはぐだった。今朝別れたばかりで、ここ最近はずっと同じ部屋で寝起きし、昨夜だって濃密に肌を重ね合っていたというのに。いま、ふたりの間には拭い去れない奇妙な距離感が横たわっていた。注がれ続ける熱っぽさに耐えかねたように、真琴はドアの方をちらりと振り返ってから、穏やかな声で切り出した。「ちょうど紗友里とご飯を食べていたところで、お義母様から電話があって」言い訳めいた説明を口にしたのは、特別に心配して駆けつけたと誤解されたくなかったからだ。余計な期待など、抱かせたくはなかった。真琴の言葉に、信行は柔らかく応じた。「だろうと思った」肌の上では誰よりも近いはずなのに、いま向かい合うふたりの間には、まるで長い年月を隔てて再会したかのようなぎこちなさが漂っていた。言葉に詰まった真琴の様子を察し、信行は取り成すようにベッドサイドの空いた椅子へ視線を向けた。「座ってくれ」張り詰めていた気まずい沈黙が破られ、真琴は
真琴がいくら慰めても、紗友里の強張った表情はほぐれなかった。眉間を寄せ、不安を滲ませた声で訴えかける。「真琴には話していなかったけど……実はずっと打ち明けられなかったことがあるの。真琴が出て行ってから、お兄ちゃん、まるで魂が抜けたみたいになって。夜もろくに眠れなくなっちゃったんだよ。お医者さんには精神的なものだって言われてさ。私、バチが当たったんだって皮肉ってやったんだけど。でもここ数年、本当についてないことばかりで。プライベートで車を頻繁に擦ったりぶつけたり、体調も崩してばかりでさ。胃をやられたり腰や背中を痛めたり……真琴がいなくなったショック、相当こたえてたんだと思う」ハンドルを握りしめ、真琴は紗友里の言葉を静かに受け止めていた。事細かに語られずとも、何が起きていたかは手にとるようにわかる。かつて自分自身が身をもって通り抜けた苦しみだったからだ。東都へ戻り、真っ白になった信行の髪を目にした時も察しはついていた。ただ、誰も触れようとしなかったし、自分から蒸し返す気もなかった。前方の道路を見据える真琴の脳裏に、今朝の信行の表情が鮮明によみがえる。だが、彼が望む未来を、今の自分は差し出せない。さもなければ、今度は自分自身が壊れてしまう。黙り込んで車を走らせる真琴の横顔を見て、紗友里は慌てて取りなすように言葉を重ねた。「あ、変な誤解しないでね!よりを戻してほしいとか押しつける気はないの。急にお母さんから聞かされて、動転しちゃっただけで」必死に弁解する紗友里へ、真琴はふっと柔らかく微笑みかけた。「わかってるよ。気にしてないから」その笑顔に、紗友里はようやく胸のつかえが下りたように息を吐き出した。*病院に到着し、ふたりは急ぎ足で階段を駆け上がる。病室の前は医師や関係者でごった返していた。その中に祐斗の姿もある。先ほど紗友里へ病室の場所を知らせてくれたのは彼だった。人垣を掻き分けて足を踏み入れると、病衣を身にまとった信行が目に入った。額に白い包帯が巻かれているが、様子を見る限り容態はそれほど悪くなさそうだ。紗友里はひとまず安堵の息を漏らし、すぐにベッドサイドへ駆け寄った。「お兄ちゃん、大丈夫なの?」妹の声に、信行は顔を上げて視線を向けた。「なんでお前がここに」だが直