LOGIN靴を履き替えながら、広くはない部屋を見渡した。信行はまだ戻っていなかった。彼が接待の会食に出かける夜は、いつも帰りが遅い。声もなく寝室に入った真琴は、着替えを手に取ってバスルームへ向かい、シャワーを浴びた。湯を浴び終え、パソコンを立ち上げてデスクの前で仕事に取り掛かったものの、気持ちはいつものように落ち着かず、心の中では自分が妊娠しているかもしれないという思いが巡っていた。さっきの帰り道、妊娠検査薬を買って試してみようかとも思った。だが、もし本当に妊娠していたらどうすべきか、まだ覚悟も決まっておらず、検査薬を買う勇気すら湧かなかった。左肘をデスクにつき、手のひらで頬を支えながら、右手でマウスを握る。画面をじっと見つめてはいるものの、仕事にはまるで身が入らず、心ここにあらずだった。「……どうした?浮かない顔をして、何か思い詰めているのか?」不意に扉のほうから信行の声が届いた。ハッと我に返った真琴は、慌てて背筋を伸ばし、頬から手を離した。かすかに微笑み、彼に向けて声をかける。「おかえりなさい」信行は書斎へと足を踏み入れ、穏やかな声で言った。「何を考えてたんだ?俺が帰ってきたのにも気づかないで、何の反応もなかったじゃないか」椅子からゆっくりと立ち上がった真琴は、小さく笑みを浮かべた。「何でもないわ。ただ1人で座って、ぼんやりしてただけ」言い終えるや、信行はすでに目の前まで歩み寄り、手を伸ばしてその頬にそっと触れた。見下ろす眼差しの優しさに、真琴は静かに右手を持ち上げ、その手首をそっと握った。澄んだ瞳を見つめる信行は、頬に触れていた手を腰へと回し、そのまま腕の中へと抱き寄せた。真琴もまた、両手を伸ばして彼の背中を抱きしめる。部屋の中はしんと静まり返り、抱き合うかすかな衣擦れの音すら際立つほどだった。腕の中に抱きしめながら、信行は身をかがめて彼女の頬に唇を落とした。こうして真琴を腕に抱いている時間こそが、全世界を手に入れるよりも満たされる瞬間だった。頬に触れる優しい温もりに、真琴は彼の腰に両手を回し、甘える猫のように胸元へ顔をすり寄せた。その愛らしい仕草に、信行の胸の内はいっそう熱くほどけ、腕に少し力を込めてさらに強く抱きしめる。思わずこぼれた笑みとともに、背中に回した右手
真琴はじっと紗友里を見つめていた。彼女が事も無げに口にしたその言葉は、真琴にとっては人生を根底から揺るがしかねない重大事だった。現在、手元には重要なプロジェクトを2つも抱えている。子どもを持つことなど、少なくとも今の段階では視野の片隅にも入っていなかった。まばたきもせず凝視する真琴の重苦しい表情に、紗友里はようやく、さっきの言葉が彼女を本気で驚かせてしまったのだと気づいた。右手を目の前でひらひらと振り、紗友里は声をかける。「真琴?放心しちゃった?驚かせすぎたかしら」揺れる手のひらにハッと我に返り、真琴は苦笑いを浮かべた。「……ううん、違うの。ただ、今は子どものことなんて考えたこともなかったから」一拍置き、重い口調で付け加える。「今、大事なプロジェクトを2つ抱えていて、どちらも外せない案件なの」深刻に受け止める真琴を気遣い、紗友里は慌てて取りなした。「思いつきで口走っただけよ。私の勘なんて当てにならないんだから、緊張しないで」そうは言いつつも、思い当たる節があるように見え、紗友里は言葉を継ぐ。「でも、はっきりさせるのは簡単だし、病院で検査を受けてみたら?一緒についていくわよ」重荷を背負い込ませないよう、さらに明るく励ました。「もし本当に妊娠していたとしても、心配いらないわ。産む前後の少しの間だけ休めば、仕事なんていくらでも続けられるし。産まれたら産まれたで、体さえ回復させれば、あとの面倒はうちの母さんが全部丸抱えしてくれるわよ。真琴のお腹をちょっと通り抜けるようなものなんだから」その単純すぎる励ましに、真琴は泣き笑いのような表情を浮かべるしかなかった。けれど、考えれば考えるほど心臓の鼓動は激しくなっていく。そこで真琴はこれ以上その話題を続けるのをやめ、話を逸らすように言った。「……まだそうと決まったわけじゃないわ。このところ頭を使うことが多かったから、疲れてるだけかも」紗友里が何か言いかけるより早く、都合をつけて病院で検査を受けると言い添え、真琴はその話題を強引に打ち切った。だが、一度突きつけられた「妊娠」の言葉は、真琴の胸の奥で重く渦を巻き続けていた。ふとした拍子にその単語がよぎり、ここ最近の自分の変化を思い出しては、考えれば考えるほど確信が持てなくなっていく。それに先日
2人はしばらく視線を交わしていたが、真琴に見つめられ続ける決まり悪さに、紗友里はとうとう口を開いた。「そんな目で見ないでよ。どう話せばいいか頭の整理がついたら、ちゃんと言うから」あれこれ考えて、光雅との一件を真琴に打ち明けてしまいたい気持ちはある。だが、2人の間にこの先がないと分かっている以上、わざわざ口にする気力も湧かなかった。紗友里に言葉を濁された真琴は、それ以上の追及をやめて頷いた。「わかった。考えがまとまってからでいいわ」そう前置きしつつ、釘を刺すように付け加える。「ただ、これだけは言っておくわね。のめり込みすぎて、自分が傷つくようなことだけは避けて」相手の素性を聞かずとも、十中八九は男女のいざこざだろうと察しはついていた。その言葉に、紗友里はあっけらかんと笑い飛ばした。「心配しないで。私を誰だと思ってるの?自分がそこまで深入りするわけないじゃない。どうせ実を結ぶような話でもないし、話すのも面倒なだけよ」強がりを口にしながらも、頭の片隅では無意識に光雅のことを思い出していた。端正な顔立ちやすっと通った鼻筋、そしてベッドの上で見せる熱い肌の温もり。互いに、相手の身体に溺れているだけなのだ。自分の話題を打ち切り、料理をひたすら口へ運び続ける真琴を眺めながら、紗友里は何気ない口調で切り出した。「ここ2回会って気づいたんだけど、肌ツヤが良くなっただけじゃなくて、やけによく食べるようになったわよね」からかわれた真琴は、何食わぬ顔で返す。「よく食べてよく寝てるんだもの。顔色が良くなるのは当然じゃない」その言葉を聞いた瞬間、紗友里の瞳から戯れの色が消え、真剣な光が宿った。休まず口へ料理を運び続ける真琴を凝視し、改まった声で尋ねる。「お兄ちゃんと関係を持ったのって、いつからだっけ?」紗友里の問いに、真琴は口を動かしながら少し考えた。「……2か月ちょっとかしら」信行と肌を重ねたときから数えるなら、渚に薬を盛られたあの夜からになる。そう計算すれば、信行と一緒にいるようになって2か月あまり。少なく見積もってもそれくらいは経っていた。平然とした返答に、紗友里の眼差しはいっそう真剣さを増した。まっすぐ真琴の目を見据え、極めて重々しいトーンで言い放った。「2か月ちょっと……真
「ええ」紗友里は事も無げに頷いた。「それじゃ、上に行って仕事に戻るわね」そう言うと、わずかに屈めていた体を起こし、くるりと背を向けて振り返りもせずに歩き去った。さっき光雅に適当に話を合わせたのは、生真面目に角を立てるのが億劫だったからにすぎない。どうせこの先、2人に多くの関わりなどない。男がベッドの上で口にする言葉や、情欲の抜けきらないうちに交わす約束など、すべて聞き流してしまえばいい。運転席で両手を気だるげにハンドルへ預けた光雅は、遠ざかる紗友里の後ろ姿を見送っていた。あれほど未練も見せず、一度たりとも振り返らない足取りに、胸の奥が重く鬱屈とする。彼女のことなど、いまさらあれこれ推し量る気にもなれなかった。これまで彼女の行動を一度として読み切れた試しがないのだから。興衆実業のエントランス前にしばらく佇み、その姿が完全に視界から消え去ってもしばらく経ってから、光雅はようやく車を発進させた。*同じ頃、執務室に戻った紗友里は、デスクの前の椅子を引いて腰を下ろすと、深く長い息を吐き出した。光雅と向かい合っている間こそ平然を装っていたが、やはり彼のいない空間のほうが、ずっと気楽で息もしやすい。結局のところ、自分にとって光雅は他の男とはどこか違っていた。何と言っても、初めて本気で心を動かされた相手なのだ。デスクに向かいながら、彼とのあれこれを思い出しては頬の傷に触れ、紗友里の心は千々に乱れた。そうして手につかないまま終業間際の午後5時を迎え、紗友里はスマートフォンを手に取ると真琴に電話をかけ、会う約束を取り付けた。ちょうど仕事を片付けたところだった真琴は、パソコンの電源を落としてデスクの上の資料を片付けると、紗友里を迎えに車を出した。興衆実業のビル前に到着し、ロビーから歩いて出てくる紗友里の姿を遠目に見留めると、真琴は運転席のドアを開けて外で待った。車から降りた真琴の姿を認めるや、紗友里は両手を広げて駆け寄り、その体にしがみついた。「真琴!会いたかった、もう死ぬほど寂しかったんだから!」両手でしっかりと抱きとめた真琴は、思わず吹き出して言った。「たった半月会わなかっただけじゃない。何年ぶりかって勢いね」真琴から身を離した紗友里は口を尖らせる。「1日会えないだけで、3年も会っ
向けられた光雅の眼差しに、紗友里は思わず虚を突かれた。互いに視線を交わし、しばらく彼を見つめていたが、やがて大らかに微笑むと「ご飯にしましょう」と声をかけ、光雅に箸を差し出した。光雅はその箸を受け取り、落ち着いた所作で椅子を引いて腰を下ろした。紗友里もまた、それ以上彼に視線を向けることはしなかった。室内はしんと静まり返り、食器が触れ合うかすかな音だけがやけに際立っている。ベッドの上での親密さを除けば、2人の間に共通の話題などほとんど存在しない。揃って過ごす時間は、いつもこうして静まり返っていた。黙々と朝食を口に運ぶ光雅の前には、彼の好みに合わせた薄味の料理が並んでいる。昨夜の偶然がなければ、本来、2人がこうして同じ朝を迎えるはずなどなかった。*しばらくして。食事が終わり、器を片付ける紗友里に、光雅も手を貸して手伝った。部屋を出るついでにゴミ袋をフロアのダストステーションへ出し、2人で階下の車まで降りていくと、光雅は何気ない仕草で助手席のドアを開けた。人に気を利かせて尽くすような感覚など、これまで持ち合わせてこなかった男だ。それが紗友里を前にすると、無意識に体が動いてしまう。「ありがとう」身をかがめて乗り込んだ紗友里のドアを閉め、光雅は大股でフロントを回り込んで運転席に乗り込むと、エンジンをかけて車を走らせた。興衆実業へ向かう道中、光雅は両手でハンドルを握りながら、何度か彼女に声をかけようとしたが、そのたびに言葉を飲み込んだ。彼が沈黙を守っているため、紗友里も以前会ったときのような賑やかさを潜め、うつむいてスマートフォンの画面を眺めたまま口を開かない。話したいことなど特になかったし、どうせこの車を降りれば、また以前のように他人に戻って連絡も途絶える。ただ、昨夜の出来事を経て、紗友里の心はここ最近よりもずっと凪いでいた。光雅と再び肌を重ねたことすら、大して気にも留めていなかった。ほどなくして、車は興衆実業のビル前に止まった。紗友里がシートベルトを外し、ドアを開けて降りようとしたそのとき、光雅が不意に顔を向けて呼び止めた。「紗友里」以前のような「片桐さん」でも、役職名でもない。背後からかけられた声に振り返り、紗友里は伏し目がちに彼を見つめた。「……何か用?」ここ
光雅がやって来るのを認めた瞬間、紗友里は反射的に背筋を伸ばし、頬から手を離した。何事もなかったかのように平然と声をかける。「起きたの」彼が現れる直前まで、昨夜の自分はお人好しすぎた、あの2人の女をあっさり見逃してやるべきではなかったと、腹の底で怒りを募らせていた。だが、いざ光雅を前にすると、尖っていた角が自然と引っ込んでしまう。心惹かれる相手に対しては、どうしても態度が柔らかくなってしまうものだった。直近の2回はいずれも不愉快な衝突に終わったとはいえ、彼への関心が薄れたわけではない。人間の感情というものは単一ではなく、実に多面的なものなのだから。このタワーマンションに光雅がいる事実に対しても、動じるつもりはなかった。自分で決めたことの結果は、自分で背負えばいい。感傷に浸って後悔する趣味などなかった。朝早くから鏡の前を行き来していた理由など、光雅には問うまでもなく察しがついていた。紗友里の前に歩み寄ると、光雅は右手を持ち上げ、骨ばった白い手の甲で彼女の傷口にそっと触れ、なだめるように言った。「医者の言いつけ通りに薬を塗っておけば、痕には残らないさ」紗友里が口を開くより早く、光雅は言葉を重ねる。「もとの顔立ちがいいんだ。仮に痕が残ったところで、大した影響はないよ」見上げた紗友里は、思わず息を呑んだ。これほど気の利いた優しい言葉を口にする男だとは思いもしなかった。あまりの意外さに胸が揺れる。しばらく光雅を見つめ返していたが、やがて我に返ると、何食わぬ顔で言った。「先に顔を洗って。何か食べるものがあるか見てくるから」普段は冷淡な男が唐突に見せた優しさに、どうしても気恥ずかしさが先立った。だからこそ、口実を作ってその場から逃げ出した。逃げるように立ち去る背中を見送り、光雅の口元にわずかな笑みがこぼれた。昨夜の時間は、彼にとっても極めて満足のいくものだった。紗友里に特別な技術があるわけではないが、類まれな品の良さがあり、いつまでも忘れがたい余韻を残す。だからこそ、今朝顔を合わせたときも、自然と格別に優しい態度になれた。一度関係を持ったあとも、こうして2度目を求めてしまう理由もまさにそこにあった。*しばらくして。身支度を整えてリビングへ出ると、紗友里がちょうどテーブルに







