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月だけが見ていた
月だけが見ていた
Author: シンプルノート

第1話

Author: シンプルノート
工藤晴香(くどう はるか)と松浦誠(まつうら まこと)のことを知る人々は、晴香のことをあまりよく思っていなかった。

なぜなら、誠が元カノの池田美優(いけだ みゆ)と別れたとたん、すぐさま彼と一緒になったから。

でも、以前は誠のほうが晴香の前でひざまずいて、目に涙を浮かべながら「一生お前を守る」と誓ったなんて誰も知らないのだ。

「泥棒猫」なんて言われ、時には汚い言葉で罵られもした。それでも彼女は、8年間ずっと歯を食いしばって耐えてきたし、後悔なんて少しもしていなかったのに。

そんな気持ちが変わったのは、婚約パーティーの3日前のことだった。晴香はホテルのスイートルームのドアの前に立ち、中から聞こえてくる聞くに堪えない声に耳を澄ましていた。

中では、誠が美優の上に馬乗りになり、その首を力いっぱい締めている。

「美優。こっちが大変になったときはさっさと見限ってくれたくせに、今さらどの面さげて戻ってきたんだ?」

美優は頬を上気させ、首元には赤い痕が滲むように広がっていた。涙をいっぱいに溜めたその瞳は、守ってやりたくなるほど痛々しい。

「誠、私が悪かったわ……本当に後悔してるの。

お願い、父を助けて。そのためなら、私、何でもするから」

誠が彼女の唇の端を指でなぞる。その目の奥では、汚い欲望が渦巻いていた。

「じゃあ、ここで俺と寝ろって言ったらお前は寝るのか?」

美優は何も答えなかった。しかし、ただうつむいて、一枚、また一枚と服を脱いでいく。

服が床に落ちる音と、誠の荒くなっていく息づかいが混じり合い、ドアの隙間から漏れ、容赦なく晴香の耳に入ってきた。

そして、最後に聞こえてきたのは、ベッドが激しくきしむ音と男の醜く低い笑い声。「美優、覚えとけよ。先に俺を誘ったのは、お前だってことをな」

中から聞こえる喘ぎ声はまるで毒針のように、晴香の全身にびっしりと突き刺さる。

足も鉛でも詰められたみたいに重くなり、その場から動けなくなった。

晴香は自分がどれくらいその場に立っていたか分からなかったが、なんとかこわばった体を動かし、おぼつかない足取りでホテルを出ると、すぐに探偵に電話をかけた。

その日の夜、彼女の目の前に置かれていたのは、美優の父親・池田健吾(いけだ けんご)のカルテだった。

病名は悪性リンパ腫。骨髄移植が必要らしい。

なるほど、そういうことだったのか。どうして美優があんな屈辱を受けいれたのか、晴香はこの時初めて理解した。

カルテに書かれた【完治率80%】の文字をぼんやりと見つめていると、ガチャリ、と鍵が開く音がした。

誠が帰ってきた。彼の体からは、自分のではない女物の香水の匂いがしている。晴香の顔を見る誠の目には、申し訳なさそうな色が浮かんでいた。

「晴香、すまない。骨髄の件なんだけど、ちょっと問題が起きて……

だから、恵ちゃんの骨髄移植、少し待ってもらわないといけなくなったんだ。ドナーの気が急に変わっちゃってさ」

工藤恵(くどう めぐみ)は、晴香の妹であり唯一の家族で、もう1年も白血病と闘っている。つらい治療で体がボロボロになっていた中、やっと見えた希望の光だったのに。誠の言葉によって、その小さな光は無情にもかき消された。

つまり、彼は晴香の妹の命と引き換えに、美優との一晩を得たのだった。

晴香はスマホを握りしめる。誠を見上げる彼女の目は、まるで氷の刃のように鋭い。

「嘘つき。

それって、池田さんのためなんでしょ?」

誠は黙り込む。それは認めたも同然だった。

「今回は彼女に譲るから」と、彼はこともなげに言う。「恵ちゃんのドナーは、俺がまた探すよ」

その瞬間、晴香の中でたまりに溜まっていたものが爆発した。

彼女は、恵に出されたばかりの危篤通知書と健吾のカルテを、誠の顔に叩きつける。

「彼女のお父さんはリンパ腫なの!放射線治療だけでも8割以上は治る病気なんだよ!」

問い詰める晴香の声は震えている。「なんで、恵のたった唯一の希望を、あの人たちに奪われなきゃいけないの?」

誠は彼女の肩を押さえた。

「少しは落ち着けって。美優には父親しか家族がいなんだよ。だから、ほんの少しのリスクだって負わせるわけにはいかなかった。

それに言っただろ?恵ちゃんのことは俺がなんとかするって。死なせたりなんかしないから」

晴香は目の前の男を見つめる。体中の熱がすうっと引き、内側から凍りついていくような感覚がした。

彼女はふっと笑う。「誠、知ってる?恵も、私にとってたった一人の家族なんだよ?」

しかし、誠は晴香を抱き寄せて優しく囁いた。「でも、お前には俺がいるだろ?

晴香、これはずっと前に美優と約束したことなんだ。だから、俺を責めないでくれ、な?

このことが全て終わったら、彼女とは今後一切会わないって約束するから」

自分を宝物みたいに大事にしてくれるはずだって、昔はこの男を疑うことなんてなかった。それに、恵のことも守ってくれるって、信じていたのに。

でも、元カノが戻ってきた途端、そんな約束は全部ただの冗談になってしまったらしい。

美優の父親にわずかな危険も冒させないために、彼は自分の妹が死んでいくのを、ただ黙って見ていられるというのだから。

晴香は誠を突き飛ばした。「もしその骨髄を、私が絶対に手放さないって言ったらどうする?」

そう言って、彼女はバッグをつかむと外に飛び出し、タクシーを拾って病院へと急ぐ。

健吾が手術室に入る前に止められれば、恵はまだ助かるはずだ。

息を切らしながら手術室の前にたどり着くと、健吾の手術開始まであと30分だと知らされた。晴香はへなへなと壁にもたれかかり、なんとか息を整える。

「この骨髄は、もともと私の妹のために用意されたものなんです」

彼女は通りかかった医師の腕をつかみ、途切れ途切れの声で訴えた。「だからお願いします……他の人には使わないでください……」

医師は感情のない目で晴香を見下ろす。「申し訳ありません、工藤さん。松浦社長から、池田さんを優先するようにと指示を受けていますので」

膝から力が抜け、晴香はどさりと床に崩れ落ちた。

膝立ちのまま執刀医ににじり寄り、その足にすがりつく。「先生、お願いします……この骨髄がないと、妹が死んじゃうんです……」

しかし、医師たちは何も言わなかった。ただ、一斉に彼女の後ろに視線を向けただけだった。

いつのまにか誠が来ていた。彼は晴香を無理やり床から立ち上がら、その場から離そうとした。

しかし、晴香の目に手術室へと運ばれていく健吾の姿が映ると、彼女は半狂乱で手術室のドアの淵にしがみつき、絶対に手を離そうとしなかった。

「いやあぁぁ――」

悲痛な叫び声が廊下に響きわたる。誠は慌てて晴香の口を手でふさいだ。

「晴香、手術の邪魔をするな」彼の声には何の感情もこもっていない。「お前が欲しいものは、なんでもやるから。

でもこれは、俺が美優に約束したことなんだ。だから、お前のものじゃない」

手術中のランプがついた。その瞬間、晴香の全身から力が抜け、体がくたりと床に崩れ落ちる。

固く閉ざされたドアを見つめながら、彼女は笑い始めた。それも、涙を流しながら笑っている。「もう離して。大丈夫、もう騒がないから」

そう言われた誠は手を離すと、彼女を床から立ち上がらせた。

彼の目に一瞬だけ、哀れむような色が浮かぶ。そして、ぐずる子供をなだめるみたいに、晴香の頭をぽんぽんと軽く叩いた。

「いい子だから、先に家に帰りな。こっちが終わったら、俺もすぐに帰るからさ」

しかし、晴香は家には帰らなかった。

彼女はそのまま集中治療室に向かった。ガラス越しに、痩せ細った姿の妹を見つめる。

ベッドに横たわっている恵は、雪のような真っ白い顔色をしていた。体にはたくさんのチューブがつながれ、胸のかすかな上下運動も、ほとんど見えないくらいだった。

静まり返った廊下で、晴香はこみ上げる涙をぐっとこらえ、スマホにある番号を打ち込む。

「横山さん」電話相手の名を呼ぶ晴香の声は、感情を失ったように平坦だった。「息子さんとの結婚のお話、お受けさせていただきます。

なので、約束した骨髄の件、必ず1週間以内に見つけていただけますか?」

電話の向こうから、笑みを含んだ声が返ってきた。「ええ、いいわ。1週間後迎えの者を行かせるから」
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