All Chapters of 月だけが見ていた: Chapter 1 - Chapter 10

21 Chapters

第1話

工藤晴香(くどう はるか)と松浦誠(まつうら まこと)のことを知る人々は、晴香のことをあまりよく思っていなかった。なぜなら、誠が元カノの池田美優(いけだ みゆ)と別れたとたん、すぐさま彼と一緒になったから。でも、以前は誠のほうが晴香の前でひざまずいて、目に涙を浮かべながら「一生お前を守る」と誓ったなんて誰も知らないのだ。「泥棒猫」なんて言われ、時には汚い言葉で罵られもした。それでも彼女は、8年間ずっと歯を食いしばって耐えてきたし、後悔なんて少しもしていなかったのに。そんな気持ちが変わったのは、婚約パーティーの3日前のことだった。晴香はホテルのスイートルームのドアの前に立ち、中から聞こえてくる聞くに堪えない声に耳を澄ましていた。中では、誠が美優の上に馬乗りになり、その首を力いっぱい締めている。「美優。こっちが大変になったときはさっさと見限ってくれたくせに、今さらどの面さげて戻ってきたんだ?」美優は頬を上気させ、首元には赤い痕が滲むように広がっていた。涙をいっぱいに溜めたその瞳は、守ってやりたくなるほど痛々しい。「誠、私が悪かったわ……本当に後悔してるの。お願い、父を助けて。そのためなら、私、何でもするから」誠が彼女の唇の端を指でなぞる。その目の奥では、汚い欲望が渦巻いていた。「じゃあ、ここで俺と寝ろって言ったらお前は寝るのか?」美優は何も答えなかった。しかし、ただうつむいて、一枚、また一枚と服を脱いでいく。服が床に落ちる音と、誠の荒くなっていく息づかいが混じり合い、ドアの隙間から漏れ、容赦なく晴香の耳に入ってきた。そして、最後に聞こえてきたのは、ベッドが激しくきしむ音と男の醜く低い笑い声。「美優、覚えとけよ。先に俺を誘ったのは、お前だってことをな」中から聞こえる喘ぎ声はまるで毒針のように、晴香の全身にびっしりと突き刺さる。足も鉛でも詰められたみたいに重くなり、その場から動けなくなった。晴香は自分がどれくらいその場に立っていたか分からなかったが、なんとかこわばった体を動かし、おぼつかない足取りでホテルを出ると、すぐに探偵に電話をかけた。その日の夜、彼女の目の前に置かれていたのは、美優の父親・池田健吾(いけだ けんご)のカルテだった。病名は悪性リンパ腫。骨髄移植が必要らしい。なるほど、そういう
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第2話

2週間ほど前、晴香のスマホに見知らぬ番号からしきりに電話がかかってきていた。その電話に出てみると、相手は横山家の夫人だと名乗り、「あなたの運気が素晴らしいから、植物状態の息子とぜひ結婚してほしい」と言ってきたのだった。それに、見返りとして、恵に合う骨髄を必ず見つけるとも約束してくれた。その時は詐欺か何かだと思って、すぐ着信拒否設定にした。でも誠が唯一適合する骨髄を健吾にあげてしまった今、こんな馬鹿げた話しか、晴香と恵には残っていない。本来であれば、2週間後は自分と誠の婚約パーティー。でも今は、すべてをめちゃくちゃにしてやりたかった。晴香は夜中過ぎまで恵のそばに付き添い、容態が落ち着いたのを確認してから、ようやく家路についた。ドアを開けると、玄関にはハイヒールが乱雑に置かれていた。さらに部屋へ入っていくと、黒いレースのストッキングがカーペットの上に脱ぎ捨てられている。リビングのソファでは、服をはだけさせた美優が誠の膝にまたがり、彼の首に腕をきつく絡ませていた。「誠、お父さんを助けてくれてありがとう」甘い吐息を誠の喉仏に吹きかけながら、彼女は囁く。「今から、たっぷりお礼させて」「ねえ、まだ怒ってる?」美優は潤んだ瞳で彼を見つめ、指先でその鎖骨をなぞった。「もう二度と離れないから。だから、私を許して?」ホテルでドア越しに聞こえていたあの光景の続きが、まさか自宅で堂々と繰り広げられるなんて。晴香は、鈍器で殴られたような衝撃を胸に感じ、思わず手にしていたバッグを床に落としてしまった。誠は、熱いものにでも触れたかのように美優を咄嗟に突き放すと、慌ててシャツのボタンを留めながらソファから飛び上がった。「晴香!これは違うんだ!誤解なんだ!」彼は顔を真っ赤にしながら、しどろもどろに弁解している。「俺がこいつを心底憎んでることは、お前も知ってるだろ?だから、今さら何かあるはずがない!」晴香はその場から動けずにいた。指先から血の気が引いていくのを感じる。そういえば、8年前もこの男は同じようなことを言っていたっけ。当時、大学を卒業したばかりの誠は起業に失敗し、数千万円の借金を抱えていた。そんな貧乏暮らしに耐えられなくなった美優は、彼のなけなしの貯金をすべて持ち去って、忽然と姿を消したのだった。そして、冷たい
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第3話

しかし、恵が入院してから晴香はずっと眠りが浅かった。だからスマホが一度鳴っただけで、すぐに目を覚ましてしまっていた。バスルームのドアには、男の影がぼんやりと映り、中からは美優の甘ったるい声が聞こえてくる。「誠、なんだか停電しちゃったみたいなの。一人でこわいから、今すぐ会いに来てくれないかな?」誠の声には、いら立ちが滲んでいた。「もう電話してくるなって言ったよな?」しかし、美優は柔らかい声で続ける。「わかってる。晴香さんが怒るのが心配なんでしょ?でも、大学のときの停電、覚えてる?私、夜はあんまり目が効かないから、もう少しで階段から落ちて死ぬところだったよ。今夜、もしまた何かあったら……」彼女はそこで言葉を切り、声を震わせた。「私が死ぬだけならいいの。でも、病院のお父さんを面倒見るのは私しかいないから……」静かな夜、誠が「面倒なやつ」と小さく毒づき、「わかった、すぐ行くから待ってろ」と答える声は、晴香の耳にはっきりと聞こえてきた。誠がバスルームから出てくると、晴香はベッドに座っていた。時計の針は、午前2時を指している。誠の顔に一瞬だけ動揺が浮かぶ。しかし、慌ててシャツを羽織り、彼女から目をそらして言った。「晴香、ごめん。会社で急用ができたんだ。だから、先に寝てて。待ってなくていいから」晴香は彼を見ようともせず、ただ静かに尋ねる。「明日、あなたの実家で食事する約束だったよね。それはどうするの?」誠の両親は、ずっと晴香を良く思っていなかった。とくに誠の仕事が軌道に乗ってからは、息子には不釣り合いだとあからさまに見下すようになっていた。だから、彼の実家に行く度いつも嫌がらせを受けた。しかし、そのときは誠がいつも間に入って守ってくれた。でも、今回は……ネクタイを結ぶ誠の手は一瞬止まったが、彼の声には迷いがなかった。「行くさ。心配するな、すぐに戻るから」玄関のドアがカチャリと閉まると、庭で車のエンジン音がせわしなく鳴り響く。それからすぐに、スマホの画面が光った。新着メッセージが一件、表示されている。【ねえ、見た?私が呼べば、彼はいつでも飛んできてくれるの】【せっかくおやすみのところ邪魔しちゃって、ごめんね】晴香は顔をしかめ、スマホの画面をオフにした。送り主は、考えなくてもわかる。美優からの挑発
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第4話

晴香は誠を見つめた。悔しさが、じわじわとこみ上げてきて、胸の奥が締めつけられるように痛む。「私が邪魔……した?」誠はジャケットをソファに投げ捨て、イライラした様子で眉間を揉む。「晴香。今まで、お前の言うことはだいたい何でも聞いてきたつもりだ。でもな、それにも限界ってものがあるだろ?さっきのことは母さんから聞いたよ。たかが水晶のペンダントじゃないか。なのに、そんな風に逆らうなんて、あまりにも子どもじみてるぞ」使用人が手を離すと、晴香は目を赤く腫らし、よろめきながら床から立ち上がった。「誠、よく見て!あのペンダントは、恵を守ってくれるものなの!それに、自分のものを取り返して、何が悪いっていうの?」茜がそばで甲高い声でわめく。「誰のものとかうるさいわね!これはあなたが私にくれたものでしょ!もうすぐ松浦家の嫁になるんだから、あなたの物は全て松浦家の物になのよ!」「いい加減にしろ!」誠は数歩で茜のそばに駆け寄り、彼女の首からペンダントをひったくり、晴香が受け取ろうと手を伸ばした瞬間、彼はその水晶のペンダントを床に叩きつけた。「これでいいだろ?もう物はなくなったんだから、二人して騒ぐな」晴香は駆け寄って床に這いつくばりながら、破片を拾い集めた。割れた破片が手のひらに食い込み、いくつも切り傷ができて血がにじむ。彼女は勢いよく顔を上げ、涙を浮かべて誠を睨みつけた。「これは私の物なのに、どうしてこんな勝手なことをするの!」しかし、誠は晴香の怒りを気にも留める様子もない。「もっといいのを買ってやるから」晴香は破片をすべて布の袋に詰め込むと、言い放った。「いらない!」誠は彼女の腕を掴んだ。「新しいのを買ってやるって言ってるだろ。なんでそんなに意地を張るんだよ?もうすぐ婚約パーティーだってあるのに。少しは大人になれよ」険悪な雰囲気の中、美優が紙袋を手に部屋に入ってきた。彼女は誠の両親の様子を伺うと、おずおずと口を開く。「あの……お取り込み中でしたか?」美優は袋から、生々しいキスマークがついたネクタイを取り出した。「誠のネクタイ、昨日の夜うちに忘れて帰っちゃったみたいんで、返しに来たんですけど。他には何もないので、私はこれで失礼しますね?」「待て。ここにいろ」誠は手を伸ばして彼女の腰に手を回し、懐に引き寄せる。
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第5話

晴香はとっさに恵を少し離れたところにやった。「恵、少しここで待ってて。あの人、私のちょっとした知り合いなの」「食事に来ただけなので。どいてもらえるかしら?」しかし、美優は鼻で笑った。その目には、あからさまな嘲笑の色が浮かんでいる。「おかしいわね。確か、ここは誠が私のために貸し切りにしてくれたって言ってたんだけどな。それに、あなたたちがここの値段を払えるとでも?まさか、こんな客も受け入れるなんて。このレストラン、大丈夫かしら?」晴香は恵の前でもめたくなかった。しかし、美優はしつこく絡んできて、毒針のような視線を、恵へとまで向けた。「この子が、父と骨髄ドナーをとり合ったっていう病気持ちの子?もし彼女が、自分の姉が松浦家から追い出されたって知ったらどうなるかしら?ショックで倒れちゃうんじゃない?」晴香の顔からさっと血の気が引く。恵の体は、強いショックにはとても耐えられない。もしこんなことを知らされたら、今夜もつかどうかすらわからないのに。晴香は爪が食い込むほど拳を握りしめ、声をしぼりだす。「どうしたいの?」美優は得意げな笑みを隠そうともせず、首をかしげた。「私と誠、今夜ここで食事するんだけど、実は、給仕してくれる人がちょうど一人足りないらしくて。そういえば、あなたは人の世話が得意だったわよね?だから、どうかしら?まさか、できないなんて言わないでしょ?」晴香は唇をかみしめる。先にタクシーで恵を病院に送り、ちゃんと落ち着くのを見届けると、店に戻り美優に頭を下げた。「私がやるわ。だから、恵には絶対に何も言わないで」誠がレストランに入ると、ウェイトレスの制服を着た晴香が、おとなしく美優にワインを注いでいた。くすんだ色の制服に包まれた華奢な体が、なぜか誠のいらだちをかき立てる。彼は乱暴に晴香の手首をつかみ、眉をひそめて冷たく言った。「晴香、なんでここにいるだよ?」晴香はその手を振りほどき、冷めた声で答える。「あなたには関係ないから」誠は険しい顔になった。「いつまで拗ねてるつもりだ?俺はお前の婚約者だぞ。松浦家の嫁になるっていうのに、そんなみすぼらしい格好なんかして。俺に恥でもかかせる気か?」しかし、晴香はワインを注ぎ終えると、何も言わずにすっと脇へ下がった。彼女の無言の抵抗に、誠は怒りで体を震わせる。「そうか。
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第6話

美優の首の傷は、ただの浅いかすり傷だった。しかし、心配した誠は、彼女を私立病院の最上階にある特別ルームに入院させ、自らつきっきりで看病していた。晴香は病院の中をずいぶん探し回って、やっとその病室を見つけることができた。ドアを開けたとたん、誠の笑顔が凍りつく。「なんでお前がここにいるんだ?また、美優を苦しめにきたのか?」美優は布団に顔をうずめるようにして、おびえた声を出す。「晴香さん、私と誠はただの同級生だから、本当に何にもないの。誤解しないで……それに、私が怪我したことは気にしないで……私は大丈夫だから。あと、お願いだから、このことで誠と気まずくならないで欲しいな」誠は布団の中に手を伸ばすと、美優の肩をそっと抱き寄せ、優しい声でささいた。「大丈夫、俺がそばにいるから。怖がらなくていい。彼女には何もさせない」晴香はぐっと目をつぶり、こみ上げてくる悔しさを飲み込む。「誤解よ。私は恵の薬をもらいに来ただけ。薬がもう無くなってしまったから」恵の病状を安定させるには、M社のあの特効薬が欠かせなかった。しかし、その薬はまだ市販されていなくて、誠の力で週に一箱だけ融通してもらっていたのだった。以前の誠なら、いつも恵のことを気にかけてくれていたので、言わなくても、時間通りに病院へ届けてくれたのに。でも今は、プライドをすべて捨てて、こうして彼にお願いするしかなかった。誠はボディーガードから薬の箱を受け取ると、それを指でつまんで晴香の目の前でひらひらさせ、冷たく笑った。「昨日はずいぶん強気だったから、もう俺の助けなんていらないのかと思ったよ。なのに、結局はこうして俺に頭を下げに来るんだな?晴香、忘れたとは言わせないぞ。まずは、俺と美優に謝らないといけないはずだ。な?そうだろ?」恵のことを思うと、晴香は逆らうことなんてできなかった。彼女は爪が食い込むほど強く拳を握りしめた。「ごめん。お願い、その薬をちょうだい」晴香がそう言ったとたん、誠のスマホが鳴った。電話を切ると、彼は晴香には目もくれず、美優に向かって優しく言った。「会社で急用ができちゃった。少しだけ戻らないといけないんだ。一人でも大丈夫か?」美優は誠のほっぺを優しくつねって、にっこり笑う。「もう、心配しすぎだよ。子供じゃないんだから。早く行ってきて」彼女は少
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第7話

美優は誠の前にさっと割り込むと、その腕をつかんだ。「誠、ちょっと疲れすぎじゃない?幻聴が聞こえてるみたい。それに、彼女はまだあなたに怒ってるんだから。あんなにプライドが高い子、こんな場所に来るわけないでしょ?」個室のなかで、晴香は狂ったようにドアを叩いた。「誠!私よ!こっちを見て!中にいるの!助けて!こんな人たちと一緒なんていや……」誠の耳に、助けを求める声がだんだんはっきりと届く。でも、美優の確信に満ちた目を見て、彼は眉をひそめ、結局そっぽを向いてしまった。「そうだな。あいつの性格じゃ、人を困らせることはあっても、自分が捕まるなんてありえないか」最後の一筋の光が、晴香の目の前で完全に消えた。誠の足音はどんどん遠ざかっていく。その背中からは、もう振り返らないという決意がにじみ出ていた。男たちが意地悪く笑いながら彼女をテーブルのそばまで引きずっていく。その時、晴香はとっさに酒瓶を掴んで床に叩きつけた。そして一番鋭い破片を拾い上げ、自分の首に突きつける。「これ以上はやめて!さもないと、ここで死んでやる!こんなところで死人が出たら、あなたたちだって困るでしょ?」破片が皮膚を切り、血の玉がにじみ出た。案の定男たちはひるんだ。ヒゲ面の男が悔しそうに、箱ごと酒をテーブルにどんと置いた。「相手ができないって言うなら、酒を飲むくらいはできるだろ?だったら、飲め!潰れるまで飲め!じゃなきゃこの部屋からは出さないからな!」晴香は夜明けまで頭を押さえつけられてお酒を飲まされた。そして血を吐いて倒れたところで、ようやくキャバクラの人たちが慌てて彼女を病院に運んでくれた。次に目を覚ましたのは、もう翌日のお昼だった。携帯を確認すると、画面にはたくさんの不在着信が表示されている。2件は恵の担当の医師から、そして残りは全部、誠からだった。晴香はためらわず、急いで医師に電話をかけ直した。「先生、妹に何かあったんですか?」電話に出たのは看護師で、深刻そうな声だった。「工藤さん、患者さんが明け方に感染症ショックを起こしました。今も集中治療室にいますので、すぐに来ていただけますか?」電話を切った途端、今度は誠からかかってきた。「晴香!恵ちゃんはなんてことしてくれたんだ!美優が親切にお見舞いに行ってやったら、あの子、果物ナイフで刺し
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第8話

時を同じくして、Y市市立病院のヘリポートにも最新鋭のドクターヘリが静かに着陸していた。ハッチが開くと、白衣の一団が次々と降り立ち、急ぎ足で入院の中へと向かっていく。誠はそのものものしい様子を見て、思わず眉をひそめた。隣にいた秘書・中島渉(なかじま わたる)に尋ねる。「最近、この病院にどこかのお偉いさんでも入院したのか?」しかし、渉は首をかしげた。「特別病棟の患者さんなら、だいたい把握しておりますが、転院されるというような話は聞いておりません」それでも、誠の胸の言いようのない不安は拭えない。だが、彼の手には、目を覚ましたばかりの美優のために用意した味噌汁がまだ提げられていた。だから、彼は軽く手を挙げると、「まあいい。俺には関係ないことだから」と言った。そして、誠は手にした保温ポットに目を落とし、続ける。「そうだ、使用人は晴香にもう食事を届けたのか?屋上で反省させてはいるが、食事抜きとは言っていないからな」渉は笑顔で答えた。「社長、ご安心ください。工藤さんは未来の社長夫人です。使用人たちも、蔑ろにはしていませんので」誠はうなずく。「屋上は風が強い。風邪をひかせないようにな。今夜、あいつが反省したなら、明日の朝には部屋に戻してやれ」病室では、美優がベッドでぐったりとしていた。その顔は紙のように真っ白で、とても弱々しく見える。誠の姿を見るなり、美優はぽろぽろと涙をこぼした。「誠、恵ちゃんが思い病気を患っているって聞いたから、様子を見に行っただけだったのに。まさか、あの子がナイフで私を殺そうとするなんて……」彼女はしゃくりあげながら、上目遣いで誠を見上げる。「ねえ、まだ10歳そこそこの子が、自分からあんな酷いことをするかしら?もしかして、晴香さんにそそのかされた、とか?」美優には計算があった。この間、自分が首にかすり傷を負っただけで、誠は晴香にあそこまで激怒したのだ。だから、「殺されかけた」今回は、今度こそ、あの女を追い出してくれるはず。ところが、美優の予想とは違い、誠は眉をひそめただけだった。そして、その口調は落ち着いていた。「今はゆっくり休め。余計な詮索はするな。晴香は子供を利用するような女じゃないから。罰として、もう屋上で反省させている。もう二度と、こんなことはさせないよ」美優は爪が食い込むほどシーツを握り
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第9話

美優は誤魔化すように笑った。「先生、私……恵の叔母なんです。実は、あの子の父親が彼女に危害を加えるんじゃないかって、妹が心配して。それで、先に連れて帰ったんです。なので、もし後で誰かが尋ねてきたら、まだ退院してないって言ってもらえませんか?」医者は彼女を冷ややかに見つめる。「それはできかねます」「先生、どうかお願いします!」美優は、その場にどさりとひざまずいた。そして、医師の白衣のすそを両手でぎゅっと握りしめる。「​先生……隠せるだけ、隠していただけませんか?これまでずっとあの子を診てきてくださったじゃないですか。どうか……命を救うと思って、力を貸してください」医師は仕方なさそうにため息をついた。「わかりました。でも、いつまでも隠し通せることじゃありませんので、あなたたちで早くなんとかしてくださいね」美優は医師にお礼を言うと、足を引きずりながら病室へと戻った。そしてすぐに付き添いのヘルパーに、自分の手術の傷口が開いて気を失ったと、誠へ電話するよう頼んだ。晴香を探すことで頭がいっぱいだった誠だったが、美優が倒れたと聞いて、迷わず病院へとんぼ返りした。病室のベッドには、真っ青な顔でぐったりとしている美優がいた。巻かれたガーゼには、血が点々と滲んでいる。誠の姿を見ると、彼女は弱々しく微笑んでみせた。「誠、私は大丈夫……ヘルパーさんが大げさで、勝手に電話しちゃっただけだから。忙しいんでしょ?私のことはいいから、早く戻って」誠は眉間を押さえ、申し訳なさそうにする。「実は、ちょっと問題が起きてて……晴香がいなくなったんだよ」「えっ?」美優はわざとらしく驚いて、がばっと体を起こした。「どうしてそんなことに?もしかして、まだ私のこと恨んでて、わざと隠れちゃったのかしら?きっと、意地を張っているだけだから、あなたが折れて謝りに来てくれるのを待ってるのよ」しかし、誠は首を横に振った。「それはたぶん違う。誰かが彼女を連れ出した形跡があるんだ」美優は焦ったように続ける。「でも、それって、彼女のやらせなんじゃない?」その時、誠がふっと黙り込んだ。そして、彼女をじっと見つめる。その目からは、いつもの優しさが消えていた。美優は、はっと自分が言い過ぎたことに気づいた。慌てて彼の手を握り、猫撫で声で話しかける。「誠、怒らない
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第10話

そこにいたのは、美優だった。彼女は3日前、晴香がいなくなったと知ると、すぐにウェディングドレスを特注していた。そして今日、この式に間に合わせるため、慌ただしく退院してきたのだった。美優が登場すると、会場はシャッター音と拍手に包まれた。誰もが、美優のことをこの窮地を救うために舞い降りた天使だと思った。美優はドレスの裾を手に、一歩、また一歩と誠へ近づいていく。そして、ごく自然な仕草で司会者のマイクを受け取った。「誠。私たちが出会ってから、もう12年になるね」美優は目に涙をいっぱいためて、声を詰まらせる。「あの頃は、私が子どもだった。離れたほうが、あなたは楽になれるって思い込んで……勝手にいなくなった。でもね、この八年間、あなたを忘れた瞬間なんて一度もなかった。昔、あなたから私に告白してくれた。だから今日は、私から言わせてもらうね……私のこと、お嫁さんにしてくれる?」その瞬間、会場は割れんばかりの拍手に包まれた。あちこちから口笛が鳴り、皆が歓声をあげて囃し立てる。「結婚しちゃえ!結婚しちゃえ!」マスコミのカメラも、式場のカメラマンも、そのレンズを一斉に誠の顔に向けた。誰もが固唾をのんで、この「復縁」というロマンチックな結末を見届けようとしていた。しかし誠は口を開くと、たった一言だけ、きっぱりと言い放った。「いやだ」この短い言葉は、まるで冷水を浴びせかけるように会場の熱気を一気に冷ました。会場が再びざわつき始める。「すごくいい子そうなのに、松浦社長はどうして受け入れないんだろう?」「まだ逃げた花嫁のことが忘れられないのか?」ひそひそ話が潮のように押し寄せてきたが、誠は聞こえないふりをした。そして、もう一度はっきりと言葉を繰り返す。「言ったはずだ。お前と結婚するつもりはない。俺が人生で結婚する相手は、晴香だけなんだ」その瞬間、美優はその場でわっと泣き出した。親戚や友人たちが、慌てて誠を取り囲んで説得を始める。「誠、こうなったからには、もうあの裏切り者の女のことは忘れなよ。美優は昔からの知り合いなんだし、彼女と結婚するのが一番だろ?」「そうだよ、それにご両親だってもういい歳なんだ。いつまでもあの女を待っていられるわけないじゃないか」誠はそばにあった椅子を荒々しく蹴り倒し、怒鳴り声を上げた。「結婚しないと
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