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第5話

Author: 小林
夜、美月は喉が渇いて水を飲みに行こうと部屋から出ると、真由の声が聞こえてきた。

「兄さん、お姉さんの絵を麻衣さんに渡してコンテストに出させて、国際デザイン賞まで取らせちゃって、お姉さんにバレたら怒られるんじゃない?」

彼女の絵?

美月はスマホで麻衣の名前を検索した。十七歳の時に翔太にプレゼントした『永遠』という作品が麻衣の作品になっているのを見て、頭が真っ白になった。

麻衣に愛情を奪われただけでも十分ひどいのに、まさか作品まで盗むなんて。

でも一番ショックだったのは、翔太がそれを許していたことだった。

低い声がはっきりと聞こえてきた。

「たかが絵一枚だ。アトリエに置いておいても埃をかぶるだけだろう。麻衣の長年の夢を叶えてやる方がいい」

妻の絵を使って、愛人の夢を叶える?

美月は初めて、この人を愛したのは間違いだったと思った。

もう何も感じなくなって、壁にもたれかかって寒気を感じていると、真由の笑い声が聞こえた。

「兄さん、麻衣さんからお祝いパーティーに来てって連絡があったよ。急がないと遅れちゃう」

二人が出て行った。

その後、美月は暗闇の中で車の影が完全に見えなくなるまで見ていた。

今度は一滴も涙が出なかった。

彼女は黙って、静かに翔太からもらったものを整理した。ラブレター、一緒に撮った写真、彼が彼女をモデルに手彫りした人形、全てを燃やした。

宝石やアクセサリーは、全て20円の福袋としてネットで売った。

翌日、福袋から206カラットのピンクダイヤのティアラが出てきた動画がネットでバズった。やらせだと疑う人もいたが、他の宝石を買ってた人たちが次々と本当のことだと証明した。

美月がリビングでのんびりコーヒーを飲んでいると、翔太が慌てて帰ってきた。彼女の前に駆け寄り、震え声で尋ねた。

「美月、俺が君にプレゼントした成人祝いのティアラを、20円で他人にあげちゃったのか?」

美月は彼を見上げた。彼の胸は微かに上下し、唇は青白く、瞳は彼女を深く見つめていた。

彼女は静かに言った。「あなたが私にくれたんだから、私のものじゃない?」

「でも……」

翔太の胸が痛くなり、目が赤くなって、泣きそうな声で言った。「あれは俺が初めて君にプレゼントしたティアラだったんだ。一生大切にするって言ってくれたじゃないか」

美月はただ静かに前を見つめ、表情に皮肉が浮かんだ。

彼は一生彼女だけを愛すると約束したのに、ダイヤより輝くはずだった彼女のデザイナー人生を麻衣に奪われ、彼は最初から知っていたのに、愛人のために何年もかばい続けた。

誓いが嘘だったなら、愛の証だったジュエリーに何の意味があるだろう?

ティアラがなくなっただけで、こんなに動揺して悲しんでいる。

それなら数日後、自分の死体を前にした時の彼はどんな顔をするのか、見えないのが残念だった。

美月は軽く笑い、落ち着いて言った。「あのティアラ、もう好きじゃないの。古いものがなくなったら新しいものを買えばいいじゃない。人は誰でも新しいものが好きだろう?それに、お母さんがいつも私は子供が産めないから徳がないって言って、善行を積みなさいっておっしゃるから、善いことをしてるのよ」

それを聞いて、翔太の胸が痛み、彼女の手をきつく握った。「君の言う通りだ。物なんてなくなってもいい。俺がもっとたくさん買ってあげる」

翔太は理由もなく不安になったが、何度も自分に言い聞かせた。美月は毎日アトリエで絵を描いているし、友達もいないし外出も好きじゃない。絶対にバレることはない、と。

美月は何も言わず、立ち去ろうとした時、スマホに麻衣からメッセージが届いた。

彼女が子供たちと翔太の実家でブランコに乗っている写真だった。

【今日は子供たちを連れてじいちゃんとばあちゃんに会いに来たよ。神谷家のみんな、私のことすごく気に入ってくれて、私がいるおかげで家族の幸せを感じられるって言ってた】

【あんたなんかが奥さん面してるとか、恥ずかしくないの?】

恥ずかしい?

美月は心の中で笑った。人の夫を誘惑し、人の作品を盗んで成り上がった女が、正妻に恥について語るなんて。

隣で翔太が彼女の顔色が悪いのを見て、近づいて優しく尋ねた。「美月、どうした?」

美月はじっと彼を見つめ、しばらくして微笑んだ。「久しく実家に帰ってないから、急に帰りたくなった」

それを聞いた途端、翔太の目に一瞬動揺が走ったが、長年商売をしてきた彼はすぐに冷静になった。「実家なんて行ってどうする。母さんに会ったらまた小言を言われるだけだ。家にいる方が静かでいいだろう」

美月は彼の一瞬の動揺を見逃さず、言い続けた。「一生顔を出さないわけにもいかないだろう。今日は天気もいいし、実家を見てから、近くの寺でお守りをもらってこようかと思って」

そう言って、翔太の返事を待たずに車の鍵を取って外に向かった。

実家に着くと、雰囲気が変だった。家族全員が美月が来たのを嫌がっているのが分かった。

美月の視線がふっと隅のベビーカーや、片付け忘れた家族写真を捉えた。その写真では、麻衣が子供を抱いて翔太に寄り添い、翔太の両親も真ん中で笑顔を浮かべ、幸せそうだった。

翔太の母は元々機嫌よく孫と遊んでいたが、美月が現れると気分が悪くなり、いい顔をしなかった。

「私に会いに来る暇があるなら、寺でお経でも写しなさい。あなたの罪が重いから子供ができないのよ!」

以前は言い方がまだ遠回しだったが、今日はきつかった。

翔太が険しい顔で口を開いた。「母さん、少し黙ってくれないか。美月は体が弱いだけだ。どうして罪がどうとかいう話になるんだ。そんなことを言い続けるなら、もう二度と来ないよ」

昔、彼が美月のために家族と決別した件で、翔太の母はまだ嫌な思いをしていた。彼女は突然二階に隠れている麻衣のことを思い出し、にやりと笑った。

「翔太、仏間で私が写した経典を取ってきて」

翔太は行く前に、美月がいじめられるのを心配して、一緒に二階に上がり、寝室で待っているよう言った。

彼が仏間に入って、そこに隠れていた麻衣を見た時、顔色が沈んだ。

「どうしてまだいるんだ?」

麻衣は彼の胸に飛び込み、甘えた声で言った。「今日は赤ちゃんの誕生日なの。一緒にお祝いしたくて。それに、赤ちゃんへのプレゼントだけじゃなくて、あなたにもあるのよ」

そう言って、コートのボタンを外し、中の兎のコスプレ衣装を見せた。

翔太は息を詰まらせ、喉が締まった。寝室の方をちらりと見て、美月が隣にいることを思い出し、麻衣を突き放そうとした時、彼女が膝をついた。

一枚のドアを隔てて、美月はまだ明かりがついていたスマホを握りしめた。一分前に送られたメッセージがあった。

【仏間においで。いいものを見せてやる】

生々しいキスの音が薄いドア越しに聞こえ、無数の刃となって彼女の心臓を貫いた。

抑えた男性のかすれた声が命令した。

「いい子だ、飲み込め」

「んん……」

「早く!」

この気持ち悪い音を聞いて、美月は何も感じなかった。

ただ、自分はどうしてこんな男を愛してしまったのだろうと思った。

見た目は鮮やかで美しいのに、一口かじれば、舌に広がるのは毒の味――彼は、まさにそんな男だった。

彼女は昔、彼が天の階段の前で跪き、仏様に祈っていた姿を思い出した。

雪が激しく降る中、その影は氷雪の世界と一体化しそうになりながらも、なお敬虔に両手を合わせ、最愛の女性が目を覚ますよう何度も祈っていた。

あの時、翔太の心にも目にも彼女しかなかった。

「世の中に完璧なものはないけれど、君が俺の人生唯一の人だということは確かだ」

誓いなんて、こんなにも脆くて儚いものなのか。時が経てば、甘い香りの裏に潜んだ腐敗が露わになる。

翔太が愛を信じさせ、勇気を出して賭けさせたのに。

彼女が一番幸せだった時に、一番痛くて致命的な一撃を与えたのも彼だった。

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