禁欲的な名門御曹司と結婚して七年、神谷美月(かみたに みづき)はついに心が冷え切り、この家を離れることを決意した。 「システム、七日後に私を元の世界に戻して」 美月は顔を上げ、向かいのビルの広告スクリーンに映る映像を見つめ、胸が締め付けられるような思いに駆られた。 次の瞬間、彼女は迷いなくシステムを呼び出す。 【宿主様、ミッション終了を確認しました。帰還システム起動中】 しばらくすると、美月の頭上にカウントダウンが表示された。 【帰還システム起動成功。宿主様は七年前に攻略ミッションを完了しましたが、世界からの離脱が遅れたため、交通事故死としての離脱となります。残り時間:6日23時間59分……】
view moreスマホを閉じて立ち上がろうとした瞬間、急にめまいがしてソファに倒れた。その時、あの機械的な声が響く。「宿主様、翔太の生命値が残り1%です。彼のあなたに会いたいという願望が非常に強く、時空が歪む危険があります。時空が歪むと、現実世界に戻れなくなる可能性があります。あなた自身がこの世界から消滅する恐れもあります」その言葉に、花の胸が締めつけられた。気は進まなかった。それでも、彼女は療養院へと足を運んだ。翔太はベッドに横たわり、人工呼吸器でかろうじて命をつないでいた。花の姿を見るなり、死にかけていた目に一瞬だけ光が宿る。「美月……俺、また君の夢を見たんだ」彼は苦しげに手を伸ばした。けれど花は動かなかった。骨と皮ばかりになった翔太を見つめるその目は、冷静そのものだった。伸ばされた痩せた手は宙で止まり、やがて力を失って垂れ下がった。翔太は彼女をじっと見つめたまま、目を赤くしながら問う。「君は……美月なのか?」もう命の終わりが近いことを感じていた翔太は、心の奥にある問いの答えを求めていた。昔、夢の中で見たことは全部、本当だったのか?彼の美月は、本当に別の世界から来た人だったのか?あの火災の後、違う身分でこの世界に生き続けていたのか?胸の奥にある想いを言葉にできず、翔太は焦りながら花を見つめた。やがて彼女はうなずいて、淡々と答えた。「私たちの出会いは、最初から間違いだった」翔太はしばらく呆然とした。やがて、ふっと息をつき、枕に頭を預けて天井を見上げたまま、笑みを浮かべてつぶやいた。「俺、狂ってなかった。全然、狂ってなかったんだ……」昔、プロポーズした時に、美月が真剣な目で言っていた。もし彼が裏切れば、彼女は彼の世界から完全に消えると。当時はその意味がわからなかった。けれど今、ようやく理解できた。でも、もう何も変えられない。目尻から涙がこぼれ落ちる。翔太は最後の力を振り絞って、苦しそうに言葉を絞り出した。「ごめん、美月」隣の心電図モニターが鋭く警告音を鳴らし始めた。慌ただしくスタッフが駆け込んできて、翔太の周りで救命処置が始まる。花はその横で、じっと彼を見つめ続けた。彼の目はまだ、彼女のほうをまっすぐ見ていた。けれどもう動かない。そこにはもう、怒りも、喜びも、悲しみもなかった。
翔太は療養院に連れ戻されてから、ひどく体調を崩した。部屋の窓はすべて溶接されて塞がれ、外に出ることはもう許されなかった。毎日、看護師が食事を運んでくるだけで、他の誰とも会えない日々だった。翔太は急に騒がなくなり、言葉も発しなくなった。まるで別人のように、静かになってしまった。そんな彼のもとへ、一度だけ麻衣が車椅子に乗ってやってきた。「どうして来たんだ?」翔太は珍しく、口を開いた。かつては自分を誘惑し、激しく愛し合い、子どもを二人産んで、短い幸せを味わわせてくれた――でも最終的には、自分の人生を完全に壊していった女だった。目の前にいるその女を見つめながら、次々と記憶がよみがえった。でも、すぐにどうでもよくなった。もし、もう一度人生を選び直せるなら、麻衣とは一切関わりたくなかった。たぶん、麻衣だって同じ気持ちだ。彼女が笑うたびに、顔の長い傷跡が一緒に動いて……それが、まるで気味の悪い毛虫のようにうねって見えた。彼女は自分の顔を指差して、こう言った。「覚えてる?あの時、あなたが私の顔に何回刃物を当てたか。医者が言ってた、46針も縫ったのよ。あの時、本気で死にたかった」傷が深すぎて、何度修復手術を受けても、どうにもならなかった。麻衣は翔太の目をじっと見つめた。その目がうつろで、いろんなことを忘れてしまっているらしいと気づくと、彼女は鼻で笑った。かつて、彼女は翔太に近づいて、会社では注目を浴びていた。でも後に不倫がバレて、世間から叩かれ、翔太には無理やり中絶させられて……顔まで傷つけられた。ここに来るまでは、心の底から彼を憎んでいた。でも今の、こんな無様な姿の彼を目の当たりにして、憎しみよりも悲しみのほうが勝ってしまった。「私のお腹に、何回メスが入ったか知ってる?」翔太が答える前に、麻衣は車椅子から身を乗り出して上着をめくり、お腹に残る茶色い長い傷跡を見せた。目を真っ赤にしながら、言った。「全部で、三回。あなたのために二人の子どもを産んだ。全部、帝王切開だった。最後は、あなたが医者に私の子宮を取らせた。ねえ、私はあなたにとって、一体なんだったの?翔太、答えてよ。私はあなたにとって、何だったのよ!」麻衣は車椅子の手すりを強く握りしめ、涙に滲む目で翔太をにらみつけた。最後には、二人とも傷だらけ
凛太郎が毒蛇に噛まれて、すぐに意識がもうろうとしてきた。花は慌てて救急センターに電話したけど、そこにも血清はなかった。「凛太郎、死んじゃダメ!もし死んだら、来世でも絶対にあなたを探しに行かない、絶対に!」花は泣きながら何度も「寝ないで」って言い続けて、地面に落ちた指輪を拾い上げ、薬指にはめて見せた。「凛太郎、見て。プロポーズ、受けたから。この危機を乗り越えたら帰って結婚しよう。世界一周するって言ったじゃない。まだちょっとしか行けてないのに、ここで諦めたら、一生許さないんだから!」花は凛太郎に話しかけ続け、彼は苦しそうに手を上げて、彼女の頭を撫でた。「大丈夫だよ、花。俺は前にもジャングルで標本集めしてるときに、毒蛇に噛まれたことがある。泣くなよ。君が泣いてると、俺のほうが苦しくなる……」凛太郎の声がだんだん小さくなって、ついに完全に目を閉じた。信じられなくて、花は思わず彼の上に倒れ込み、必死に揺さぶっていると、誠がプライベートジェットで駆けつけてきた。凛太郎の様子を見た誠は、飛行機から落ちそうになりながら、機内のスタッフに怒鳴った。「急いで血清を!」専門の医療スタッフが血清を注射して、凛太郎は三日三晩昏睡状態のままだったが、ようやく目を覚ました。目覚めて最初にしたのは、花にもう一度承諾の言葉を言わせることだった。「あのとき君は承諾したんだ。やっぱり嫌だなんて言うなよ」二人が帰国して結婚式を挙げることを知っている人は、ほんのわずかだった。誠は知っていた。叔父さんの凛太郎の人生最大の決断を支えたから。あとは町の近所の人たちくらいだった。結婚式はプライベートな島で行われ、花は真っ白なウェディングドレスをまとい、プリザーブドフラワーで敷き詰められたバージンロードを歩いた。その先で、凛太郎が愛情と期待に満ちた目で彼女を見つめていた。友人たちのもと、ふたりは指輪を交換した。寄り添って笑うふたりの表情は、太陽よりも温かくて、幸せに満ちていた。結婚後、凛太郎は花をしっかり守り、誠と数人の親しい友人以外、誰にも彼女を会わせなかった。だから、花はまったく知らなかった。結婚式の翌日、翔太が彼女に会おうとして療養院を抜け出したことを。スタッフが気づいた時には、地面に血の跡しか残っていなかった。
三ヶ月が過ぎて、花は引っ越した。理由はちょっと恥ずかしい話なんだけど。とある雨の夜、ふたりとも酔っ払っていて、勢いでそういう流れになっちゃった。ここ数日、花は店に引きこもりっぱなし。腰の痛みをこらえながら友達にメッセージを送りまくって、花をタダにするから注文して!と必死に頼み込んでた。家に帰って、あんなことをしたあと、やる気満々の凛太郎と顔を合わせるのを避けていた。そんな状態が何日か続いたある日、凛太郎が血走った目で店に乗り込んできた。近所の人たちが見てる中で、「飽きたのか?」って聞いてきた。なんでずっと逃げてるんだって。花は顔を真っ赤にして、慌てて彼を家まで引きずって帰った。その夜、ベッドが壊れちゃって、ふたりで床に布団を敷いて一晩過ごすことになった。次の日の朝イチで、家具屋にベッドを買いに走った。いろいろ見て回ったけど、在庫のダブルベッドはどれもしっくりこなく、そんな中、凛太郎が「とりあえずうちに来いよ」って言った。オーダーのベッドが届いたら、また町に戻ればいいって。花は最初、絶対ダメ!って主張してたけど、その日のうちに、ふたりでベッド買いに行ったって噂が町中に広まっちゃって、どこ行っても冷やかされる始末になった。あんなふうにジロジロ見られるのに耐えられなくて、結局花は引っ越すことにうなずいた。引っ越しトラックが停まったのは、ものすごく豪華な屋敷の前だった。花は不思議そうな目で凛太郎を見た。「これのどこがちょっとしたマンションなの?」目の前の建物は、博物館みたいにでかくて、神谷家の屋敷の十倍はありそうだった。門の前にはメイドとボディガードが二列に並んで、声を揃えて言った。「奥さん、お帰りなさいませ!」凛太郎は彼女の手を取って、いつものクールな顔でこう言った。「花、俺が君と一生一緒にいられるなんて、約束できない。明日と事故、どっちが先に来るかわからないから。でも、約束する。俺の心臓が動いてる限り、全力で君を愛する」普段は甘いことなんて絶対言わない彼が、付き合ってから初めて、ちゃんと愛を告げてきた。花の胸がじんと熱くなって、目を潤ませながら頷いた。翌日、凛太郎は自分の全財産を花に譲った。分厚い資産リストを見て目が回ったけど、彼はすべてに花の名前を入れてくれていた。しばらくして、凛太郎は教
花はきょとんと凛太郎を見つめ、なんだか今日の彼は少し変だなと思った。「ここにはたくさん友達がいるのに、なんで突然に引っ越すの?」凛太郎はしばらく黙っていたが、翔太のことは今は言わないと決め、無理に笑みを浮かべた。「そうだな、君が嫌なら、しばらくこの町にいよう」彼が、花を守ってやる。店にはまだ花束の包装作業が残っていて、凛太郎も手伝い始めた。二人で穏やかに会話を交わして笑い、和やかな雰囲気に包まれていた。その時、花屋の外を人影がすっと横切った。凛太郎は、野球帽をかぶり黒い服を着た男を目にして、視線が一瞬にして鋭くなる。夜更け、木々の影がゆらゆら揺れるなか、翔太は明かりの灯った窓をじっと見つめていた。帰る様子は、まるでなかった。数時間前、凛太郎と花が手を繋いでマンションに入っていくのを見てしまった。もうすぐ十一時なのに、あの男はまだ出てこない。嫉妬と不安のあまりに目が赤く染まり、翔太は地面から小石を拾い上げた。花は本当に、美月じゃないのか?周囲の誰もが「美月はもう死んだ」と言う中、自分だけが生きていると信じていた。この手で彼女を埋めたというのに、それでも信じたくなかった。もし花に会っていなければ、美月とこんなにも似ている点を見つけることもなく、時が経てば少しずつ忘れられていたかもしれない。でも、そんな都合のいい偶然が、いくつも重なるだろうか?数日前の児童養護施設で、花が子どもたちに絵を教えていた。その描き方や色づかいが、美月とまったく同じだった。さらに、スイスの口座名義人が競り落としたダイヤのヘアピンが、花の髪につけられていた。そんな小さな一致を毎日見つけていくうちに、翔太の中の確信は、もう揺るがないものになっていた。花は、絶対に美月だ。その喜びで胸が張り裂けそうになり、世界中に叫びたかった。「美月は、まだ生きてるんだ!」許されるなら、やり直せるなら、なんだって払えるつもりだった。石を投げようとした翔太の目の前に、大きな影が立ちはだかった。街灯に照らされた誠が、腕時計を外しながら、翔太の顔面に拳を叩き込んだ。「いつまで正気を失ってるつもりだ?!数日間ずっとストーカー行為を続けて、マスコミに撮られそうになっただろ。まだ俺に尻拭いをさせたいのか?美月はとっくに死んだ。花がどんなに
数ヶ月後、凛太郎は新特許の発表会で誠と顔を合わせた。誠からその後の話を聞いた。麻衣は翔太の気を引こうとして、美月そっくりに整形したという。でも翔太にバレってしまい、まだ似てないからだと思い込んで、何度も手術を繰り返したらしい。今ではもう、元の顔がどうだったのか誰にもわからなかった。しかも麻衣が何度も養育費をもらいに来るので、翔太の母親はふたりの子どもが翔太にあまり似ていないのを気にして、こっそり親子鑑定をした。結果、どちらの子も翔太とは血が繋がっていなかった。あの子たちは麻衣が人工授精で産んだ子で、父親はドナーだった。その事実を知った翔太の母親は怒り狂い、麻衣を家に出入り禁止にして、1円でも渡さないと言い放った。追い詰められた麻衣は逆上し、ナイフを持ち出して翔太の母親をメッタ刺しにした。十数回も刺したという。翔太の母親は今もICUにいる。家がこんなことになって、真由の婚約者――政治家一家の御曹司は恥ずかしいと思って、その夜のうちに婚約を破棄した。真由はショックで言葉を失い、今ではスマホ入力でしか意思疎通ができない。翔太は街をさまよい、麻衣を探し回った。そして、ボロボロの安宿でようやく見つけたときに麻衣は怯えて四階の窓から飛び降りた。足を複雑骨折し、もう一生車椅子生活になるという。この一連の騒動は大ニュースになり、誠は莫大な金を払ってマスコミの口を封じた。疲れ切った表情でこめかみを揉みながら、誠はため息をつく。「もうすぐ翔太を療養院に送る。たぶん、死ぬまでそこにいることになるだろうな」時間が経てば、人々の記憶から彼の存在も自然と消えていく。誠のやり方は、じわじわと効いてくるタイプだ。確実で、残酷で、それでいて気づかれにくい。彼は凛太郎という叔父だけに関係良く、何でも話してくれる。だが凛太郎は、その話を花には一切しなかった。週末、ふたりはいつものように児童養護施設に文房具や絵本を届けに行く。庭にいた子どもたちが駆け寄ってきて、にこにことふたりを見つめた。「花お姉ちゃん、このお兄ちゃんは彼氏なの?」ドキッとした花は、頬を染めてうつむいたまま黙っていた。夕日がふたりを金色に染め、笑い声は風に乗って、どこまでも遠くへと響いていった。その様子は、物陰からじっと見つめる翔太の心を深く傷つけさせた。
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