佐藤奈緒(さとう なお)が胸いっぱいの期待を込めて受けたプロポーズは、実は恋人が「白川真理(しらかわ まり)」を嫉妬させるための茶番に過ぎなかった。 「はい、喜んで」と答えたその瞬間、真理が泣きながら駆け寄ってきて、「私、後悔してるの。他の人と結婚なんて絶対に嫌」と叫ぶ。 そして二人は幸せそうに抱き合い、ただ一人奈緒だけが、笑い者になってしまった。
View More奈緒が去った後、陸の両親は、陸がまた駄々をこねたり、彼女の不在に気落ちしてリハビリを拒んだりするのではと心配していた。だが意外にも、彼は一切そんな素振りを見せず、毎日驚くほど熱心にリハビリに取り組み、奈緒を探しに行きたいなどと言うこともなかった。その変化に、両親は心から安堵し、ようやくこの息子も本当に成長し、彼女のことを吹っ切れたのだと感じていた。しかし、ただ一人、陸自身だけはわかっていた。彼は決して奈緒を忘れたわけではなかった。ただ、自分がケガを口実にして彼女に負担をかければ、彼女はますます自分を嫌うだけだと悟っただけだった。数ヶ月が過ぎ、陸の足はほとんど回復した。まだ激しい運動は難しかったが、日常生活にはほとんど支障はなかった。そして彼は両親の期待に応え、会社の仕事を引き継ぎ、全身全霊で働いた。その甲斐あって、失われた信頼や損失を取り戻すことができ、高橋家は再び繁栄の道を歩み始めた。父は安心しきりで、ついに会社の権限をすべて彼に譲り渡た。陸は一躍、誰もが一目置く存在となった。だが、人々が口を揃えて言った。彼が完全な仕事人間になってしまったと。彼の生活は会社と家の往復のみで、娯楽らしいものは何もなかった。しかし、誰も知らないが、彼の唯一の楽しみがあった。それは、国外のとあるダンスグループの公演映像を見ることだった。非公開のリハーサル映像までも特別に取り寄せ、それを誰の目にも触れさせず大切に保管していた。その映像の中に、どれだけ大勢のダンサーがいても、陸は一瞬で奈緒を見つけ出していた。彼女は最初は端のポジションであったが、少しずつ認められ、次第に中心に立つようになり、ついには主役として舞台に立つまでとなった。彼はその道のりを黙って見届けていたのだ。ついに彼は、抑えきれない思いに駆られ、初めてF国の地を踏んだ。彼女の晴れ舞台をこの目で確かめたかったのだ。その公演は大成功だった。奈緒は東洋人として初めてその舞台に立ち、観客の熱い喝采を浴びた。長年の偏見と壁を打ち破った瞬間だった。公演が終わったとき、なんと彼女のパートナーであるヒューズが、観客の前で膝をつき公開プロポーズをした。会場は歓声で沸き、観客たちは声を揃えて「イエスと言って!」と叫んだ。奈緒は涙ぐみ、や
奈緒は、少し考えた末、真理と面会する機会を得た。二人はガラス越しに向き合ったが、その立場は最初に出会った頃とは完全に逆転していた。真理の目には、もはや憎しみしかなかった。「何をそんなに得意げになってるのよ。陸が十年も私を追いかけてたのに、たった一年であんたに乗り換えた。そんな男、あんたがどこまで耐えられるか見ものだわ。どうせ最後は私以下になるだけよ!」奈緒は静かに頷いた。「その通りね。もし、私があなたみたいに全部を男の愛情に頼っていたら、きっともっとひどい末路を辿ってたでしょうね」そう言う奈緒の声は落ち着いていた。「でも、私は自分の未来を男の手に預けたりはしない。海外に行ったのも、ダンスを続けるのも、自分の価値を証明するため。誰かのためじゃない。もしあなたが私に負けたとしたら、それは自分で機会を投げ捨てて、無駄なことにばかり執着したからよ。そうでなければ、たとえ何もかも失っても、自分の力でちゃんと生きられたはずだわ」真理は言葉を失った。奈緒はもう何も言うことはなかった。彼女が受けるべき罰は法が下す。それで十分だった。病院に戻ると、陸はちょうど手術を終え、無事に運ばれてきていた。手術は成功し、しばらく安静にさえすれば大事には至らないということだった。その知らせを聞いて、奈緒はほっと胸をなで下ろした。陸は弱々しく目を開き、奈緒を見つけると顔を輝かせた。「奈緒......まだいてくれたんだね」もしかして、自分の想いが届いて、彼女は待っていてくれたのか――そんな淡い期待をした。けれど奈緒は落ち着いた声で言った。「無事かどうか気になっただけよ。もう大丈夫そうだから、これで安心して帰れるわ」その冷静な態度に、陸は苦笑した。あの頃の彼女は、自分が少しでも熱を出しただけで心から心配して涙を流してくれたのに......今の彼女の目には、もはや自分を想う情はなかった。「ありがとう。無理に付き合わせるのも悪い。早く帰って、ダンスに専念しな」その言葉は、奈緒には少し意外だった。前なら彼はきっと、甘えるように引き止めただろうに。「そうね。それじゃあ、元気で」そう言って、彼女は病院を後にし、そのまま空港へと向かった。奈緒の後ろ姿を見送った陸の母は悔しさを噛みしめ、空港まで追いかけた。
奈緒の心は不思議と穏やかだった。だからこそ、陸が黙って後ろをついてくるのも、無理に拒むことはしなかった。その背中を見つめながら、陸の瞳には深い名残惜しさが滲んでいた。今すぐにでも彼女を抱きしめたい。行かないでくれ、もう二度と傷つけないと伝えたい。けれど、陸は必死にその衝動を抑えた。あの澄んだ瞳に、もう二度と、自分への疑いも嫌悪も映したくなかった。二人の間に言葉はなかった。もう何も語る必要はない。ただ、話せば話すほど、互いを傷つけるだけだと分かっていた。ただ静かに、一歩、また一歩。陸は、この道に終わりが来なければいいのにと願わずにはいられなかった。けれど、終わりの時はやって来た。奈緒は振り返らず、道端でタクシーを止めようと手を挙げた。陸はただ黙って遠くからその姿を見つめていた。そのとき、斜め後方から一台の車が猛スピードで突っ込んできた。まるで最初から人をはねるつもりだったかのように、ブレーキも踏まず、さらに加速している。陸の思考は真っ白になった。だが、体が勝手に動いた。奈緒を力強く引き寄せ、自分の体を盾にした。そして次の瞬間、車は彼の脚に衝突し、骨が異様な角度に曲がった。車はそのまま花壇に突っ込み、動けなくなった。周囲は騒然となった。陸は、激痛に耐えながらただ彼女を見た。「奈緒、怪我はないか......?」奈緒は呆然とし、震えだした。あの車がもし自分を直撃していたら......視線を落とすと陸の折れた脚が目に入り、顔が青ざめた。「私は大丈夫......あなたの方こそ!」陸はかすかに微笑んだ。「無事ならそれでいい......」やがて医療スタッフが駆けつけ、陸を病院内へと運んでいった。そのとき奈緒の視線の先にいたのは、警察に押さえつけられた真理だった。髪は乱れ、顔は憔悴し、何かをぶつぶつ呟いている。そして奈緒の姿を見つけると、まるで狂ったように叫んだ。「佐藤奈緒!お前なんか死んでしまえばよかったのに!陸は私のものなのよ!なんでお前なんかが!」「陸!ねぇ、お願い、私のところに戻って!一生あなたを愛するって言ったでしょ!」奈緒は警察に促され、そのまま事情聴取を受けた。調べが進む中で、真理がなぜこんなことをしたのかが明らかになっ
「奈緒......」陸のかすれた声が、奈緒を現実に引き戻した。彼女ははっとして顔を上げ、陸を見た。陸もまた、奈緒を見つめていた。「覚えてるんだろ?あの時のこと......」陸の目には、期待が滲んでいた。その期待は、どこか弱々しく、縋るような光を帯びていた。奈緒は、否定はしなかった。たしかに、あの夜の出来事は、今も心に深く刻まれている。「ええ、覚えてるわ。あの夜、あなたが私を助けてくれた。それだけで、その後あなたが私の誕生日を忘れても、好きなものを知らなくても、私の存在を認めなくても......私はずっと、あの時の温もりだけで、あなたを信じようとしてきた」陸の笑みが、そこで固まった。「ごめん......俺はあの頃、君にちゃんと向き合おうとしていなかった。あの子を追いかけるのが愛だと思い込んで......そばにいるのに、何も気づいてやれなかった。でも、これからは違う。君の誕生日、7月19日だって覚えた。君が好きな桔梗の花も、好きな食べ物も......」「もういいの」奈緒は静かに陸の言葉を遮った。「そんなこと、もうどうでもいいのよ。確かにあの時のあなたの優しさで、私は何度もあなたを許した。だけど......あなたがあの男を私に差し向けたとき、もう何もかも終わったの」陸の顔から血の気が引いた。あの時、自分がどれほど愚かだったかが、改めて突き刺さった。真理にいい顔をしようと、彼女に奈緒の痛みや弱さまで売り渡した自分。あの男が奈緒を追い詰めたのは、まさに自分のせいだ。「あれは......あれだけは俺が間違ってた。だから、どうか......俺を殴っても、罵ってもいい。許してくれとは言わない。ただ......」「あなた、覆水盆に返らずって言葉、知ってる?」奈緒の声は冷たく、口元には笑みが浮かんでいたが、そこにはもう微かな情も残っていなかった。「一度壊れたものは、元には戻らない。あなたに裏切られて、私はもうあなたを信じることなんてできないわ」「どうしてそんな......」陸の声が震えた。「どうしてって?あなたが私を笑いものにしたあの夜のこと、もう忘れたの?あなたの友達が私を嘲っていた時、私はどれだけあなたが庇ってくれるのを待ったと思う?でもあなたは......あなたはただ、真理を手に入
奈緒は、陸の父に対しても冷たい視線を向けた。そもそも、陸が勝手気ままに振る舞い、ネット上で事実をねじ曲げて奈緒を貶めていたとき、彼は一度も姿を現さなかった。息子を諫めることすらしなかったのだ。今こうして現れたのは、結局、自分の大事なものにまで被害が及んだからに過ぎない。奈緒はそう思わずにはいられなかった。陸の父は、奈緒の心がまったく揺らがないのを見て、静かにため息をついた。「お願いだ、陸に会ってやってほしい。君が会ってくれるなら、この投資は必ず実現させる。君たちのダンスグループも、もっと練習に集中できる環境になるだろう」奈緒はしばらく黙ったまま考えた。ダンスグループのみんなが、あの時投資の話を聞いて喜んでいた表情が頭をよぎった。ここに来てまだ日は浅いが、奈緒は、このあたたかく和やかな仲間たちのことがすでに大好きだった。彼らを失望させたくはなかった。奈緒の心が少し揺れたのを感じ取り、彼はさらに畳みかけた。「これが最後だ。この一度だけ会ってくれれば、二度と君の前に現れないと約束する」奈緒は、投資のためだけでなく、これで本当にすべてを終わらせるため、ついにうなずいた。ダンスグループに事情を話して休みをもらい、帰国の便を取った。空港まで見送りに来たヒューズは、車の中で言った。「もし本当に嫌なら、無理しなくていいんだよ」その瞳の真剣さに、奈緒の胸は少し温かくなった。「大丈夫。ちゃんとけじめをつけたほうがいいから。心配しないで、ちゃんと自分の身は守るから」「何かあったらすぐ連絡してくれ」ヒューズのその言葉に、奈緒は笑顔でうなずいた。そのころ、陸は病室で目を覚ましていた。奈緒が見舞いに来ると聞き、胸を躍らせ、弱った体を押して鏡の前に立った。初めて奈緒と会った日のスーツに着替え、丁寧に髭を剃り、髪を整えた。だが、鏡に映ったやつれた自分の顔に、思わずため息をついた。「こんな顔じゃ......奈緒はがっかりするかな......」けれど、すぐに奈緒に会えることを思うと、それだけで胸が高鳴った。奈緒は空港に着いても休まず、すぐに病院へ向かった。一刻も早く、この話に決着をつけたかったからだ。病室に入ると、陸はベッドに座っていた。奈緒を見た途端、彼は顔を輝かせた。「飛行機
バーの警備員が駆けつけたとき、そこにいた男たちはすでに皆それぞれ傷を負い、血を滲ませていた。陸の顔は蒼白で、酒飲んでいたことも相まって、先ほどの混乱の中で誰かに蹴られた胃が、まるで波打つように痛んでいた。それでも彼の目にはまだ鋭い怒りの光が宿り、誰かに抑えられていなければ、きっとまた殴りかかっていただろう。警備員たちは慌てて彼らを引き離し、すぐに救急車を呼んだ。救急車に乗せられた陸は、喉の奥に鉄のような味を感じ咳き込んだ。そしてどす黒い血を吐くと、そのまま意識を失った。陸の両親が病院に駆けつけたとき、陸はすでに手術室の中で生死の境を彷徨っていた。息子の無事を祈る二人の表情は硬く、どこか諦めにも似た色を含んでいた。「奈緒のことで、あの子......友達と殴り合いなんて......」母は涙をこらえきれず、何度も自分に問いかけた。「どうして、あんな女の子のことでここまで......」どれほどの時間が経ったのか。ようやく手術が終わり、陸がベッドに乗せられて運び出されると、母は涙をこぼした。医師は穏やかな口調で言った。「命に別状はありません。ただ、これからはきちんと療養してください。食生活を見直し、心身ともにストレスのない生活を送らないと、次はもっと危ない状態になるかもしれません」両親は何度も頷いた。空気は変わらず重苦しかった。奈緒のいないこの状況で、たとえ体の病が癒えても、心の病は治らないだろうと悟っていたためだ。「私、彼女に会ってくるわ。せめて一度だけでも、陸に顔を見せてくれるようにお願いする」母は涙を拭い、立ち上がった。だが父はすぐに止めた。「俺が行く。お前が行ったら余計なことを言って逆効果だ」母は言い返そうとしたが、術後の陸を残して行けず、結局父に任せた。父は急いで出国の手配をし、可能な限り早い便で奈緒のいる国へ向かった。時差の関係で、到着したのは現地の昼時だった。父は、陸とは違い冷静だった。まずダンスグループの幹部に会い、投資話をまとめた上で、スポンサーという立場で奈緒との面会を取りつけたのだ。奈緒は、「A国からうちに大きな投資が入り、その投資者が自分に会いたいと言っている」と聞かされた。その時点で、彼女の胸には不安がよぎった。面会の場で現れたのは、ど
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