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もしこの人生で、あなたと恋に落ちていなかったなら

もしこの人生で、あなたと恋に落ちていなかったなら

By:  白団子Completed
Language: Japanese
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子どもを持たないと決めてから五年、ある日、葉原春陽(はばら はるひ)の夫が突然、双子の養子を連れて帰ってきた。 夫は彼女に双子を実の子として育てさせて、しかも万億の財産まで譲るつもりだ。 春陽は、夫が心変わりしたのだと思った。 夫が本当に子どもを望むようになったのなら、自分も向き合うべきだ――そう考えた春陽は、病院に行き、避妊リングを外そうとした。 だが―― 医師の口から告げられたのは、想像もしていなかった言葉だった。 「……葉原さん、あなたの子宮は、五年前にすでに摘出されています」

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Chapter 1

第1話

子どもを持たないと決めてから五年、ある日、葉原春陽(はばら はるひ)の夫が突然、双子の養子を連れて帰ってきた。

夫は彼女に双子を実の子として育てさせて、しかも万億の財産まで譲るつもりだ。

春陽は、夫が心変わりしたのだと思った。

夫が本当に子どもを望むようになったのなら、自分も向き合うべきだ――そう考えた春陽は、病院に行き、避妊リングを外そうとした。

だが――

医師の口から告げられたのは、想像もしていなかった言葉だった。

「……葉原さん、あなたの子宮は、五年前にすでに摘出されています。

生まれつき子宮がない方もいますが、葉原さんの場合は違います。手術によって摘出されたんです」

頭が真っ白になった。

五年前に受けた手術は、避妊リングを装着するためだけのものだった。

そのとき、夫の陸川明茂(りくかわ あきしげ)も一緒に病院へ来てくれた。

本来、あの手術に全身麻酔は必要なかった。

でも、彼女が痛みに弱いために、彼が無理を言って病院に全身麻酔を使わせた。

まさか……あのときに、子宮を……?

そんなはずはない。

明茂は手術中、ずっと手術室の外で待っていた。

病院がそんなことをするなんて……ありえない。

茫然としていると、遠くから義姉・陸川真心(りくかわ まこ)の怒鳴り声が聞こえてきた。

「明茂、あんたやりすぎよ!あの二人の隠し子を家に連れてくるだけでも常識外れなのに、今度は高月瑶葵(たかつき たまき)まで!?春陽の目の前で不倫でもするつもり!?」

「姉さん、違う。俺と瑶葵は、そういう関係じゃない」

明茂は苦々しい表情で言った。

「彼女は、俺の命の恩人なんだ。ただ恩返しをしてるだけよ」

「はっ、恩返し?それで彼女に双子を産ませたってわけ?明茂、男として最低よ。やっていいことと、悪いことがあるでしょ」

「俺の意思じゃなかった!」

明茂は声を荒げた。

「当時、瑶葵の父さんが重い病気でな……最後に瑶葵の結婚と出産が見たいって言ったんだ。

彼女に命を救われた俺は、その願いを叶えようとした。それだけなんだ。仕方なかったんだよ」

「また恩返しを言い訳にする?それで春陽に隠れて高月と結婚式まで挙げて、そのあと春陽をだまして避妊手術をさせて、子宮を摘出して瑶葵に移植したってわけ?」

その一言が、雷に打たれたように頭の中で響いた。

春陽の視界がぐらつき、その場に崩れ落ちそうになった。

……彼女の子宮を奪ったのが、明茂だった?

「春陽は痛みに弱い。出産の苦しみに耐えられるはずがない。だから、最初から出産させるつもりはなかった」

明茂は淡々と続けた。

「子どもを産まないなら、子宮を持っていても意味はない。だったら瑶葵に移植したほうが、よっぽど有意義だと思った。

今の状況、悪くないだろ?瑶葵は双子を産んでくれたし、陸川家には後継ぎもできた。春陽は出産の苦しみを味わうこともなかった。

それに、瑶葵は末期の癌で、もう長くないんだ。

どういっても、瑶葵は俺の子を産んだ。彼女一人で死なせたくなかった。ただ、それだけなんだよ。せめて最後くらい、穏やかに過ごしてほしくて……」

まるで自分が誰よりも思いやりのある人間かのような顔で、明茂は語った。

「確かに、やったことは非常識だったかもしれない。でも、これはみんなにとって悪い話じゃないと思ってる。

姉さん、頼む。誰にも言わないでくれ。瑶葵には、あと一週間しかないんだ。一週間が過ぎれば、すべて終わる」

どうやって家に戻ったのか、春陽にはまったく記憶がなかった。

ただ、家の中が凍えるように冷たく感じられた。

あんなにも温もりに満ちていたはずの家が、今ではまるで氷穴のように冷たかった。

壁には、彼と過ごした思い出の写真が並んでいる。

ずっと信じてきた。

明茂は、世界で一番彼女を愛してくれる人だと――

オーロラの下で交わしたキスも、何千メートルの空から手をつないで飛んだ日も、深海に潜り、星のように輝く海底を抱き合って見たあの時間も――

彼は大財閥の後継者だ。本来なら、そんな危険なことをする立場ではなかったはずだ。

でも、春陽が好きだからと、全部一緒にやってくれた。

「春陽がそばにいてくれるなら、事故が起きても構わない。

今ここで死ねと言われたら、喜んで受け入れる。俺の人生には君しかいない」

あの誓いは、今となっては腐りきった幻だった。

涙が止まらなかった。

嘘だらけの思い出に囲まれ、もう限界だった。

春陽は暖炉に火をつけ、一枚ずつ写真を燃やしていった。

その最中、明茂が帰ってきた。

隣には、病院着姿の瑶葵がいた。

「春陽、彼女のことは知ってるよな?俺の指導教授の娘、高月瑶葵だよ」

明茂は、春陽が何をしているかも気づかず、優しい笑みを浮かべて、また嘘を重ねた。

「先生ご夫婦は亡くなって、瑶葵は一人きりになった。しかも末期のリンパ癌だ。

もう時間がないんだ。だから、病院に一人で置いておけなかった。家に連れてきただけさ。

安心して。瑶葵の世話は専属のヘルパーに任せる。君が何かをする必要はない。彼女の存在を忘れてくれても構わないよ」

その言葉の端々から、もう春陽と何かを相談する気すら持っていないことが伝わってきた。

「わかった……」

春陽は、最後の一枚の写真を暖炉に投げ入れた。

写真はすぐに灰になった――まるで、この結婚のように。

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第1話
子どもを持たないと決めてから五年、ある日、葉原春陽(はばら はるひ)の夫が突然、双子の養子を連れて帰ってきた。夫は彼女に双子を実の子として育てさせて、しかも万億の財産まで譲るつもりだ。春陽は、夫が心変わりしたのだと思った。夫が本当に子どもを望むようになったのなら、自分も向き合うべきだ――そう考えた春陽は、病院に行き、避妊リングを外そうとした。だが――医師の口から告げられたのは、想像もしていなかった言葉だった。「……葉原さん、あなたの子宮は、五年前にすでに摘出されています。生まれつき子宮がない方もいますが、葉原さんの場合は違います。手術によって摘出されたんです」頭が真っ白になった。五年前に受けた手術は、避妊リングを装着するためだけのものだった。そのとき、夫の陸川明茂(りくかわ あきしげ)も一緒に病院へ来てくれた。本来、あの手術に全身麻酔は必要なかった。でも、彼女が痛みに弱いために、彼が無理を言って病院に全身麻酔を使わせた。まさか……あのときに、子宮を……?そんなはずはない。明茂は手術中、ずっと手術室の外で待っていた。病院がそんなことをするなんて……ありえない。茫然としていると、遠くから義姉・陸川真心(りくかわ まこ)の怒鳴り声が聞こえてきた。「明茂、あんたやりすぎよ!あの二人の隠し子を家に連れてくるだけでも常識外れなのに、今度は高月瑶葵(たかつき たまき)まで!?春陽の目の前で不倫でもするつもり!?」「姉さん、違う。俺と瑶葵は、そういう関係じゃない」明茂は苦々しい表情で言った。「彼女は、俺の命の恩人なんだ。ただ恩返しをしてるだけよ」「はっ、恩返し?それで彼女に双子を産ませたってわけ?明茂、男として最低よ。やっていいことと、悪いことがあるでしょ」「俺の意思じゃなかった!」明茂は声を荒げた。「当時、瑶葵の父さんが重い病気でな……最後に瑶葵の結婚と出産が見たいって言ったんだ。彼女に命を救われた俺は、その願いを叶えようとした。それだけなんだ。仕方なかったんだよ」「また恩返しを言い訳にする?それで春陽に隠れて高月と結婚式まで挙げて、そのあと春陽をだまして避妊手術をさせて、子宮を摘出して瑶葵に移植したってわけ?」その一言が、雷に打たれたように頭の中で響いた。春陽の視
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第2話
瑶葵はそのまま陸川家に住みついた。これで彼ら四人家族は、ようやく再会を果たした。双子は瑶葵の姿を見ると、驚きと喜びが入り混じったような表情を見せた。とくに妹の方は興奮を抑えきれず、声を上げた。「ママ!」すかさず明茂が動いた。春陽を抱き寄せ、頬にキスを落とすと、優しい笑みを浮かべて言った。「ほら、娘が君のこと呼んでるぞ」だが実際には、この双子はすでに三か月前から陸川家に住んでいた。その間、一度として春陽を「ママ」と呼んだことはなかった。それでも、真実を知る前に、春陽は二人を我が子のように大切にしてきた。そして今――秘密を守るためか、娘・陸川安菜(りくかわ あんな)は冷たい目で春陽を睨みつけ、不機嫌そうに言い放った。「ママ、ナッツ食べたい。剥いて」ナッツは固く、剥くと指が痛くなる。この女に痛い思いをさせて、パパを取り返してやる。以前から安菜はよく春陽にナッツを剥かせていた。春陽はただ、子どもが好きなのだと思い、疑うことなく剥いてあげていた。だが今、その目に浮かんだ悪意を見た瞬間、彼女の胸はすっと冷たくなった。「食べたいなら、家政婦さんに頼みなさい」春陽の代わりに明茂が前に出て、彼女の手をそっと撫でながら言った。「こんなに柔らかい手に、ナッツなんて剥かせられないよ」その言葉に、瑶葵の顔色がみるみる曇っていった。そして、春陽を睨みつけるような視線を密かに送りながら、突拍子もないことを言い出した。「明茂さん、あの念珠は?」明茂の左手首には、いつも念珠が巻かれていた。それは春陽が遥か遠くの名刹まで赴き、標高三千メートルを超える山をひざまずいて登り、命を削って得た念珠だった。しかもその念珠は寺の長老に開眼供養をしてもらった。明茂はその想いに心を打たれ、それ以来ずっと身につけていた。だが今、その念珠は消えていた。「念珠……?今朝までは確かに着けてたはずだけど……」明茂は戸惑いながら周囲を見渡した。そのとき、彼の視線は瑶葵の艶やかな目とぶつかった。瑶葵はほんのり顔を赤らめ、唇を舐めながら、ゆっくりと自分の股間に手を滑らせた。そして体をくねらせながら、甘えるように囁いた。「明茂さん……お腹がちょっと気持ち悪くなってきたの……少し休みたいから、手を貸してくれる?
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第3話
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第4話
再び目を覚ましたとき、春陽は自分が病院のベッドに横たわっていることに気づいた。そばにいたのは明茂ではなく、家政婦だった。「奥様……ようやく目を覚まされましたね……」家政婦は心底ほっとしたように声をかけた。「病院にお連れしたのは私です。豆乳も私が作りました。でも本当に、蜂蜜なんて少しも入れていません。誓いますから」春陽は静かに目を閉じ、目尻から一筋の涙がすっとこぼれ落ちた。「わかってるわ……」豆乳を作ったのは家政婦だった。彼女は蜂蜜を入れていないのも確かだった。それでも、家政婦は春陽のアレルギーを信じ、迷わず救急車を呼んでくれた。でも、明茂は?「一生愛する」と誓ったその人は?彼は、自分を家に置き去りにし、死を待たせたのだった。瑶葵の病室はすぐ隣だった。夜中、トイレに起きたとき、春陽は、彼が瑶葵のベッドの傍らにずっと付き添っているのを見た。かつて春陽が病気になったとき、彼も同じようにしてくれた。多忙な仕事を投げ出し、水を運び、食事を作り、薬を飲ませてくれた……それらの思い出がよみがえるたびに、春陽の目に再び涙が浮かんだ。どうして、あんなに幸せだった夫婦が、こんなふうに壊れてしまったの……?「明茂さん……私、もうすぐ死んじゃうの。だから、最後に一つだけ……聞いてもいい?」病室の中で、瑶葵は明茂の腕に抱かれ、涙ぐみながら静かに尋ねた。「これまでの時間の中で……少しでも、私のことを好きだった瞬間って、あった?」明茂は黙り込んだ。長い沈黙のあとも、何も言葉が出てこなかった。「ほんの少しでもいいの……」瑶葵は泣きながら言葉を続けた。「全部なんて求めない。ほんの一瞬でも、あなたの心が私に向いていたなら……それだけで、十分なの」その涙を見た瞬間、明茂の胸は締めつけられた。もう自分の気持ちを抑えきれなくなった彼は、瑶葵をそっと抱きしめた。「瑶葵……気持ちがなかったわけじゃない」明茂は低い声で言った。「でも、ごめん。愛してるとは言えない。俺には……春陽がいるから。あの人を裏切ることだけはしたくないんだ。でも……もし春陽がいなかったら……俺はきっと胸を張って言えた。君は、人生でいちばん大切な女性だったって」その言葉を聞いた瞬間、春陽の胸にぽっかりと穴が開いたような気が
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第5話
春陽は子どもを持たないと決めてから、明茂の母はずっと春陽に冷たかった。彼女は、春陽が「産みたくない」と強情を張っているのだと誤解していた。でも、それはまったくの間違いだった。春陽は、子どもが大好きだった。血のつながった子どもを、心から欲しがっていた。彼女は孤児だった。この世に、血を分けた家族は一人もいない。だからこそ、自分の子どもこそが、唯一無二の家族になれる存在だった。そんな存在を、どうして欲しくないなんて思えるだろう?子どもを持たないことを望んだのは、実は明茂の方だった。結婚して間もない頃、二人で何気なく出産のドキュメンタリを見た。それはリアルすぎる内容で、生々しいシーンも多かった。明茂は、その映像にショックを受けたようで、画面を見つめたまま真剣な表情で言った。「絶対に君に子どもなんか産ませない。出産って、本当に命がけなんだ。苦しんで、血を流して……死ぬかもしれないって、そのリスクを絶対に冒せない。君を失うなんて、想像しただけで耐えられない。君がいないと、俺は壊れてしまう。だから……子どもなんていらない。俺に必要なのは、君だけなんだ」そのとき春陽は、心を打たれた。彼がそれほどまでに、自分を大切に思ってくれているのだと信じたから。子どもよりも、彼女の命を選んでくれた。そう思って、彼の言葉を愛の証だと受け取った。でも、いま思えば。あのときから、明茂はもう子宮を奪う計画を始めていたのかもしれない。あのドキュメンタリーですら、彼が意図して見せたものだったのかも。それから数日後、春陽と瑶葵は同じ日に退院した。その間ずっと、明茂は瑶葵の看病にかかりきりだった。彼は最後まで気づかなかった。春陽が、瑶葵の隣の病室に入院していたことを。春陽は、もう何も言う気になれなかった。どうせ、もう彼と一緒に生きていくつもりはないのだから。そんな中、明茂はまるで「大人の男」でも気取るかのような余裕の態度で現れ、こう言い放った。「春陽、君のこと……許すよ」――は?どの口が言ってるの?春陽は、思わず笑い出しそうになった。許すって?彼にそんな資格があるとでも?「俺たちは夫婦だ。君がどんな間違いを犯したって、俺は受け止める。ただし、次はない。約束してくれ。……それ
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第6話
春陽が本格的に離婚手続きを進めているあいだ、明茂はまるで狂ったように瑶葵との不倫を重ねていた。どうせ彼女はすぐ死ぬ。今のうちに抱けるだけ抱いておかないと後悔する、と。彼の頭の中は、その一点でいっぱいだったのだろう。隙さえあれば彼女を押し倒し、むさぼるように求めた。そのたびに瑶葵はスマホを構え、密かに動画を撮っては春陽へ送りつけてくる。舞台は書斎にとどまらず、朝のランニングで立ち寄った公園の茂み、さらには会社のデスクの下、映像の中で彼女は楽しげに奉仕していた。その元気さは、とても「余命わずか」の病人には見えなかった。どれほど激しく求められても平然と受け止め、むしろ悦びすら滲ませている。春陽が調べてわかったのは、瑶葵がそもそもリンパ癌など患っていなかった。それは正々堂々に陸川家に入るために、でっちあげた嘘にすぎなかった。明茂が本気で調べれば一瞬でわかるはずだが、最初から調べようとしなかった。真実を知らなければ、安心して関係を続けていられるから――ただ、それだけだった。「春陽さんってホント我慢強いね」動画を何本送りつけても無反応な春陽に、ついに瑶葵が直接乗り込んできた。唇をつり上げ、あからさまに挑発した。「ねえ知ってる?明茂さん、毎晩私の上にのしかかってくるの。脚がガクガクになるくらいよ。それを黙って見てるだけ?本当に情けない女ね。文句を言う勇気もないなんて。平気なふりをしてるけど、内心は震えてるんでしょ?私に奪われるのが死ぬほど怖いんでしょ?だって、もしあんたが騒いだら、明茂さんは私を選んで、あんたを捨てるかもしれないんだから」春陽はまぶたをゆっくり上げ、彼女をひと睨みしただけで淡々と返した。「そんなに自信があるの?明茂があなたを選ぶって」「当たり前じゃない!」瑶葵は鼻で笑った。「信じられないなら、よく見てなさい」言い終えた瞬間、彼女たちの方へ、一台の車が猛スピードで突っ込んできた。近くにいた明茂はとっさに反応し、手にしていた物を放り出すと迷わず瑶葵へ飛び込んだ。「瑶葵、危ない!」その体で瑶葵をしっかり抱え込み、盾のように庇った。一方、春陽は身をかわす間もなくはね飛ばされた。意識が遠のくなか、最後に見たのは、明茂が瑶葵をしっかりと抱きしめ、命がけで守ろうとしている姿だった
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第8話
その一言が場内に響いた瞬間、会場は大きな衝撃に包まれた。「……え?今日のパーティーって、陸川家の後継者を発表するんじゃなかったのか?」「この弁護士、一体どこから現れたんだ?まさか本当に葉原春陽が陸川明茂と離婚するってこと?」「たぶん、葉原は陸川家の財産を、自分と血の繋がりもない養子たちに渡したくなかったんだろうな。だからこうやってこの場で離婚を突きつけたんだね。陸川社長に、自分か子供たちかを選ばせるつもりなんじゃないか?」「いやいや……文句があるなら、ふたりで話し合えばよかったんじゃない?こんな大勢の前で離婚するなんて……さすがにやりすぎでしょ、恥ずかしすぎるわ」「……でも、きっと私的に話しても話にならなかったんだよ。恥をかいても、財産だけは守りたかったってことかもね」……ざわつく声が、あちこちから湧き上がった。記者たちはまるで異様なほどの熱気で、手にしたカメラを構えて明茂に殺到した。「陸川社長!本当に奥さんと離婚されるんですか?」「今回の離婚、原因はやはり相続問題ですか?」「おふたりはまだお若いのに、なぜ実子ではなく養子を迎えたんですか?」無数のマイクが明茂の前に突きつけられ、質問の勢いは増すばかりだった。中には図々しく、核心を突く質問を投げかけた記者もいた。「陸川社長、まさか奥さんとの間に子供がいないのは、陸川社長に原因があるのでは?」その言葉に、明茂の顔がみるみるうちに暗くなった。その眼差しには殺気すら宿っていて、今にもその記者を切り捨ててやるほどだった。だが、今は怒っている場合ではなく、目の前の混乱を鎮めるのが先だった。明茂は深く息を吸い、大声で言い放った。「静かにしろ!」その一喝は雷鳴のごとき迫力で、会場の騒ぎは一瞬で凍りついた。人々は沈黙し、明茂の言葉を待ちながら、彼をじっと見つめていた。彼は部下からマイクを受け取り、険しい顔でゆっくりと口を開いた。「まずはっきりさせておく。私は春陽と離婚するつもりなど、一切ない!彼女は、私がこの人生でただ一人愛した女性だ。彼女は私の妻であり、これからも妻であり続ける。それ以外に選択肢はない!離婚なんてありえない。そんな噂は、すべてでたらめだ!私たちの結婚は、離婚なんてない、死別でしか終わらない。それがすべてだ!」
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第9話
記者の鋭い質問をきっかけに、明茂がようやく鎮めた会場は、再び騒然となった。「そう言われてみれば、あの男の子……確かに陸川明茂によく似てる」「女の子の目元も似てない?眉の形とか……見れば見るほど、血がつながってる気がする」「ってことは、あの双子って養子じゃなくて……隠し子?」「それじゃ葉原春陽が離婚したくなるのも当然だよな。こんな裏切り、普通は耐えられない!」……実は、パーティーが始まった時点ですでに一部の来賓は気づいていた。養子として紹介された双子が、あまりにも明茂に似ていたことに。だが、この場に招かれるような人間たちは皆、空気の読み方を心得ている。たとえ違和感を覚えても、軽々しく口に出すような真似はしない。陸川家の権威を考えれば、明茂を怒らせるような発言は、あまりにリスクが高すぎた。しかし今、記者がそれを公の場で指摘してしまったことで、すべてが変わった。最後の覆いが引き剝がされて、闇の中に隠されていた醜聞が一気に露わになり、会場は一瞬で大混乱に陥った。たとえ明茂であっても、もはやこの場を収めることはできなかった。そのタイミングで、春陽の弁護士・小林佑海(こばやし うみ)がふたたび離婚協議書を差し出した。「陸川社長、こちらにご署名をお願いします」佑海は穏やかな笑みを浮かべながら、丁寧に言った。「早く片付けた方が、お互い楽になれますよ」「ふざけるな!」怒りを爆発させた明茂は、佑海の手から離婚協議書をひったくると、容赦なくビリビリに破り捨てた。しかし、まるでそれを予測していたかのように、佑海は落ち着いた手つきでカバンからもう一通、同じ離婚協議書を取り出した。「陸川社長、素直に署名された方が賢明です」微笑を崩さぬまま、佑海は静かに続けた。「私はただ、依頼を受けてるだけです。無理に事を荒立てたくはありません。葉原さんは、私にしっかりと報酬をくださいましたよ。この壊れた結婚に、終止符を打つために。もし署名を拒まれるなら……こちらにも、それなりの手段があります」その言葉が終わる前に、明茂が佑海の胸ぐらをつかみ、力いっぱい引き寄せた。「お前みたいな奴が、俺と対等に口をきけると思ってるのか?春陽はどこだ!今すぐ会わせろ!」怒りに震える明茂を前にしても、佑海の表情に動揺
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第10話
佑海の一言が、見事に明茂の怒りの導火線に火をつけた。彼はまるで怒れる獣のように、佑海を壁に叩きつけた。「俺を脅してるのか?」明茂は両手で佑海の襟元をつかみ、今にも拳を振り上げんばかりの勢いだった。だが、佑海は目を細め、余裕の笑みを浮かべて言った。「……まあ、そう取られても仕方ありませんね。陸川社長が素直に署名するとは思っていませんから。こちらもそれなりの準備はしてあります。それに、忠告しておきましょう。この場には記者が大勢います。今、私に手を出せば……どうなるか、分かりますよね?」明茂の顔は怒りに歪んだ。今すぐにでもこの野郎をぶん殴りたかった。だが……できなかった。佑海の言う通り、周囲には記者が山ほどいる。ここで手を出せば、翌日のトップニュースは間違いなく「陸川明茂、暴力沙汰」になるだろう。今の情報が一瞬で世界中に広がる時代では、陸川グループのトップである自分の言動一つで、株価が揺らぐことさえある。すでに隠し子の噂が広まりつつある中で、さらに離婚弁護士への暴力となれば……致命的だ。明茂は、憤りを噛み殺すようにして手を離した。「……春陽に会わせろ」低く押し殺した声で、彼は言い放った。「彼女に会うまでは、絶対に署名しない」「すでにお伝えしたはずです。葉原さんは、陸川社長に会いたくないと」佑海は淡々と、しかしきっぱりと言い切った。「だからこそ、彼女は私に高額な報酬を支払い、離婚手続きをすべて一任したのです」そう言うと、再び離婚協議書を差し出した。「猶予は二日間です。その間に署名し、こちらの事務所までご提出ください。期限までに届かなければ、あの動画、ネットに公開させていただきます。……ちなみに。あれ以外にも資料はございますので、どうか考えてください」そう告げると、佑海は何事もなかったかのように踵を返し、会場を後にした。明茂は、怒りに顔を歪めながらも、ただその場で立ち尽くすしかなかった。そして、二日後。佑海の法律事務所に、予定通り明茂が姿を現した。彼は無言のまま、署名済みの離婚協議書をデスクの上に叩きつけた。「署名した。これで、あの動画は削除していいだろうな?」「ええ、もちろんです」佑海は穏やかに微笑んだ。「なにしろ、陸川グループの資産には葉原さんの
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