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第2話

Author: チビッコ
翌日、彩葉は勲から先に何かしらの連絡が来るのではないかと思っていた。だが、結局一切の連絡はないまま、当の本人が帰ってきた。

彩葉はリビングのソファに座り、水の入ったグラスを握りしめていた。その目は、どこか遠くを見ているようだった。

玄関の方から勲の優しい話し声がした。そして、もう一人、若い女性の楽しそうな声も聞こえてくる。

ドアが開いた。

勲の後に続き、女性が一人ついて入ってきた。

彩葉のグラスを握る指に、関節が白くなるほどの強い力が、ぐっと力が入る。

勲は彩葉に気づくと、ごく自然に声をかけた。「なんだ、彩葉。いたのか」そして、体をずらして後ろにいた女性を自分の前に出す。「彼女は山口渚(やまぐち なぎさ)。渚、こいつは俺の妻の彩葉」

渚は半歩前に進み出ると、ぺこりとお辞儀をした。「彩葉さん、こんにちは。お邪魔してしまって、すみません」

「渚はまだ住む場所が見つかっていないらしいから、しばらくうちに泊めることにしたんだ」勲が淡々とした口調でそう言う。

彩葉は、馬鹿げていると思った。

勲をまっすぐ見つめ、声を絞り出す。「勲。あの離婚届はどういうこと?」

勲は「ああ」と軽く声を上げると、口角を少し歪めて言った。「ああ、あれか。あれは、渚がちょっとご機嫌ななめだったから、彼女をなだめるための、ちょっとしたパフォーマンスだったんだ。だから、気にしないで」

勲は彩葉の目の前に立つと、見下ろしながら言った。「柚葉と約束したんだ。君のことは一生面倒見るってね」

なるほど、そういうことだったのか。

この5年間の結婚生活で、勲が急に優しくなったこと、時々見せてくれた温かい態度、初めて祝ってくれた誕生日。全部、彼が過去を乗り越えてくれたサインだと思っていた。だが、それは違ったらしい。ただ、柚葉との約束で、「面倒見る」ことになっていただけだったのだ。

胸の奥が、鈍く痛む。勲の顔を見ていると、もう口論する気力さえ失せてしまった。

何を言い争うことがあるのだろう?最初から、これはフェアな恋愛ではなかったというのに。

彩葉は俯いて、冷たくなった自分の指先を見つめると、小さく「わかった」とだけ答えた。

その夜、彩葉は寝室に閉じこもって、黙々と荷物の整理を始めた。

離婚すると決めたからには、先に荷物をまとめておいた方がいいだろう。

荷造りをしていると、リビングの方から突然、何か重いものが落ちたような激しい音が聞こえてきた。それと一緒に、渚の短い悲鳴も聞こえる。

彩葉は手を止めると、思わずドアを開けて部屋から出た。

リビングでは、棚の一番上に置いてあったクリスタルのオルゴールが床に落ちて、粉々に砕けていた。

それは、亡くなった柚葉が、生前一番大切にしていたもの。勲はそれを宝物のように扱っていて、彩葉も含めて誰にも触らせなかった。一度、掃除の時に彩葉がうっかり触れてしまったことがある。その時の勲は顔をこわばらせ、氷のように冷たい声で言ったのだ。

「触るな!君なんかが、柚葉のものに触っていいわけないだろ」その言葉は、今でもずっと胸に刺さっている。

今、渚は粉々になった破片のそばで、どうしていいか分からずに立ち尽くしていた。顔は真っ青で、今にも泣き出しそうだ。「ごめんなさい。勲さん、本当にごめんなさい。ちょっと見てみたかっただけで……わざとじゃないの」

彩葉は息を飲んで、勲の顔を見てみる。

激しく怒鳴りつけるか、少なくとも冷たい顔で睨みつけるだろう、と彩葉は思っていた。

ところが、勲は渚に駆け寄り、彼女をじっと見て心配そうに声をかける。「手に怪我はしてない?」

渚が首を横に振った。その目は、さらに赤くなっていく。

それから、勲は床の破片に目をやった。ほんの一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに表情を和らげると、渚の肩をそっと抱き、優しい声で言った。「心配するな。ただの古い置物だから。壊れてしまったものは仕方ない。君に怪我がなくてよかったよ。大丈夫だから、ね?」

寝室のドアの前に立っていた彩葉は、全身が冷え切っていくのを感じた。

彩葉にとって目の前の光景は、かなり刺激の強いもので、目眩がするほどだった。

渚を宥め終わった勲が、顔を上げて彩葉の方に目線を向ける。

そして、その視線は彩葉を通り過ぎ、後ろの寝室に移った。そこには、開けっ放しのスーツケースと、ベッドの上に散らかった服。

勲の顔に一瞬、怪訝そうな色が浮かぶ。「彩葉、旅行にでも行くのか?何で荷物なんかまとめてるんだ?」

彩葉の喉がぎゅっと詰まった。何とか言葉を発しようとしたが、その声は別の声にかき消されてしまう。

勲の隣にいた渚が勲の袖を軽く引っ張り、鼻にかかった小さな声で言った。「勲さん、何だか気分が悪くなっちゃった。外の空気を吸いに行きたいんだけど」

すると、勲の注意はすぐに渚へと引き戻された。彼は心配そうに渚の顔を覗き込む。「どうした?びくっりしちゃったかな?じゃあ、下の庭に散歩にでも行こうか」

勲は渚を抱きかかえるようにして、くるりと背を向けると玄関へ向かった。彩葉の横を通り過ぎる時も、足を止めることすらなかった。

ドアが開けられ、そして閉められる。

リビングは静けさを取り戻し、床には砕け散ったクリスタルの破片だけが残されていた。

彩葉はゆっくりとしゃがみ込む。鋭い破片の上に指先を近づけたが、それに触れることはなかった。

結婚して3年目の時のことを、ふと思い出した。自分がう誤って柚葉の物を壊してしまった時、勲は一言も口を開かずに、ちらりと自分を見ただけだった。しかし、その目に宿っていた不快感と冷たさは、今でもはっきりと覚えている。

愛しているか、愛していないか。ふさわしいか、ふさわしくないか……その違いは、こんなにもはっきりしていて、とても残酷なものだったのだ。
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