LOGIN彩葉と英樹は、穏やかで充実した毎日を送っていた。少し肥満気味の丸々としたコーラも、家庭を明るくしてくれる存在だった。そして、英樹は約束通り、毎年決まってあの日には、真剣な顔で一度だけこう尋ねるのだ。「彩葉、もう一度俺と結婚しないか?」とっくに入籍しているのに。彩葉はいつも呆れたように笑いながら英樹を軽くにらむ。だが、心は幸せで満たされていた。勲という人間は、その名前と共に、二人の日常から少しずつ薄れていっていた。ある日、仕事から帰ってきた英樹は、どこか浮かない顔をしていた。彼は靴を脱ぐと、キッチンで料理を作っていた彩葉の背後に歩み寄り、何も言わずに後ろから彼女の腰に腕を回して、その肩に顎をのせた。「どうしたの?会社で何かあった?」彩葉はコンロの火を弱め、英樹の顔をのぞきこむ。英樹は少し黙ってから、低い声で言った。「さっき連絡があったんだけど、安西が……亡くなったって」おたまを手にしていた彩葉の手が、3秒ほどぴたりと止まった。そして「そう」とだけ、落ち着いた声でつぶやいた。彩葉はまた、おたまでゆっくりと鍋の中をかき混ぜ始める。立ちのぼる湯気が、その表情を隠した。「酒の飲みすぎで、持病だった胃の病気が悪化したらしい。発覚した頃には、もう手遅れだったそうだ。それに、一人暮らしだったみたいで、発見された時にはもう……」英樹は静かな声で続けた。彩葉は火を止め、鍋に蓋をした。彼女は振り返って英樹と向き合うと、「わかった」と一言言った。そして、心配そうに眉をひそめる英樹の眉間にそっと触れる。「ご飯、できたよ。手を洗ってきて。ご飯にしよう。今日はあなたの好物にしたから」彩葉の瞳を見つめていると、英樹の胸につかえていたもやもやした気持ちも、少しずつ晴れていくようだった。彼はうなずき、彩葉の額にキスをした。「うん」窓の外の綺麗な夕日が、ダイニングを暖かな色に染める。テーブルの下では、コーラが二人の足元をうろつき、クンクン鳴いて食べ物をねだっている。英樹が味のついていない骨付き肉をひとかけら投げると、コーラはすぐにそれをくわえ、短い尻尾を嬉しそうに振って走っていった。湯気が立っている味噌汁を、彩葉が二つのお椀によそう。そして、薬味の青ネギをぱらぱらとふりかけると、食欲をそそる香りが漂った。二人は向かい
勲は、たまらなく彩葉に会いたかった。その想いこがれる気持ちは、退院する瞬間、最高潮に達した。車が彩葉の暮らす邸宅の前に停まると、勲は何だか違和感を感じた。邸宅の周りにはたくさんの車が停まっていて、門は花や風船で飾られているのだ。嫌な予感がして、心臓が冷たくなる。よろめきながら車のドアを開け、勲はちょうど出てきたスタッフらしき人を捕まえた。そして、かすれた声で尋ねた。「今日、ここで何かあるんですか?」スタッフは不思議そうに勲を一瞥する。しかし、勲の様子があまりにも不憫に思えたのだろう、丁寧に質問に答えてくれた。「今日は中島さんと入江さんの結婚式ですよ。参列者の方ですか?でしたら、招待状を拝見させていただけますか?」結婚式……英樹と彩葉の……勲は、頭を鈍器で殴られたような目眩に襲われ、立っているのもやっとだった。彼は車のドアに手をつき、荒い息を繰り返す。あ、ありえない。なんで、こんなに早く?勲はスタッフを突き飛ばした。相手の制止も、後ろにいた運転手の驚きの声も聞こえない。狂ったように、邸宅の中へと走り出した。周りの参列者たちは談笑していて、時折、奇妙な目で勲を一瞥するが、すぐにまたお喋りに戻る。しかし、勲にはそんな視線を気にする余裕はなかった。彼は、正面に置かれた白いバラのアーチを、食い入るように見つめていた。音楽が鳴り始める。聞き慣れた、結婚式のあの曲だ。アーチの向こう側にある扉が開く。そこから、彩葉が現れた。勲は、思わず息を呑んだ。陽の光が、少し俯いている彩葉の純白のドレスに降り注ぐ。その手にはブーケが抱えられていた。そんな彩葉は、いつもと全く違って見えた。自分の前でいつも見せていた、あの怯えたような、どこか悲しげな表情ではない。少し緊張しているようだったが、それ以上に期待に胸を膨らませているように見えた。その瞳が、キラキラと輝いている。彩葉は英樹の腕を組み、ゆっくりとバージンロードを歩いた。黒のタキシードに身を包む英樹は、凛々しい表情でずっと彩葉のことを見つめている。しかし、その顔からは、隠しきれない喜びが溢れていた。勲は、二人が一歩、また一歩と自分の方へ近づいてくるのを、ただ見ていた。頭は真っ白になった。思考が停止し、ただ一つの事実だけが頭をよぎる――
腕と背中の擦り傷がヒリヒリと痛むが、勲は病院には行かなかった。胸がえぐられるような激しい痛みに比べたら、そんなかすり傷なんて無いも同然だったから。勲はあてもなく車を走らせ、やがて行き慣れたバーの前に車を停めた。アルコールが必要だった。後悔と絶望を麻痺させてくれる何かが。薄暗い店内の一番奥のボックス席に座り、勲はバーテンダーに声をかける。「一番強い酒を、とりあえず3杯」勲はそれを立て続けにあおった。強い酒が炎のように喉を焼き、胃を焦がす。それでも、冷え切った心は少しも温まらなかった。視界がぐらぐらと揺れ、二重に見える。騒がしい音楽も人の声も次第に遠のいていく。自分の重い心臓の音と、荒い呼吸だけがやけに大きく聞こえた。朦朧とする意識の中、彩葉がこちらに歩いてくるのが見えた気がした。あの淡い色の部屋着のままで、心配そうな顔をして。昔、自分が接待で飲み過ぎて帰ってきた時に、彩葉が夜中に起きてきて酔い覚ましの薬を用意してくれた時と同じ顔だった。「彩葉……」勲は呟きながら手を伸ばし、その幻を掴もうとした。「来てくれたのか……会いに来てくれたんだな……」しかし指先に触れたのは、冷たい空気だけだった。幻は消え、目の前には空っぽのボックス席と、鏡張りの壁に映る自分がいるだけ。その姿は無精髭で、目は真っ赤に充血し、見る影もないほど惨めだった。勲はぐっと目を閉じてから、ゆっくりと開く。その瞳には、さらに深い苦痛と、酔いが覚めた後の自嘲の色だけが浮かんでいた。更に一杯酒をあおった。刺激の強い液体にむせて、激しく咳き込む。以前このバーで、渚が友人たちの前で柚葉についての残酷な質問をした時のことを思い出した。そして同じ日に起こった、泥酔したもの同士の喧嘩も思い出す。彼らのいざこざの中で飛んできた酒瓶が、危うく彩葉に当たるところだった。あの時、自分は何も考えずに彩葉を庇って引き寄せた。後で冷静になってから、あれは責任感からそうしたのだと自分に言い聞かせた。彩葉は自分の妻という肩書きを背負っているのだから、と。しかしアルコールの力を借りた今、無視してきた恐怖心がはっきりと姿を現す。あれは責任感などではなかった。恐怖だったのだ。彩葉が傷つくのが、彩葉を失うのが怖かったのだ。とっくの昔に彩葉を愛していた。自分が気づくより、
その鳴き声は警戒と敵意に満ちていた。しっぽを丸めて、さっと軒下へ駆け戻ると、勲からかなりの距離をとった。勲は呆気に取られた。持っていた犬用のおやつが、手からぽろりと地面に落ちる。犬でさえ、自分を受け入れてはくれないと言うのだろうか。「どうやら、犬でもいい人と悪い人の区別がつくらしいな」明らかに馬鹿にしたような声が、背後から聞こえた。勲は強張った体でゆっくりと振り返る。すると、いつの間にか帰ってきていた英樹が、すぐ後ろに立っていた。英樹はポケットに両手を突っ込み、冷たい目つきで勲と、勲に向かって吠え続けるコーラを交互に見ていた。勲の顔から、さっと血の気が引いた。まるで人前で平手打ちを食らったかのように、頬がひりひりと痛む。勲は何も言わなかった。ただ黙って、地面に落ちたおやつと、山のように持ってきた高級ペット用品を拾い上げる。そして立ち上がると、少しふらつく足取りで自分の車へ戻り、すぐにエンジンをかけて寂しげに去っていった。コーラの鳴き声だけが、まだ耳の奥で響いているようだった。その日の午後も、勲はいつもの場所に車を停めていた。彩葉が、コーギーと庭でフリスビーをして遊んでいるのが見えた。コーラは楽しそうに走り回り、彩葉も穏やかな笑みを浮かべていた。突然だった。フリスビーが変な方向に飛んでいったのか、それともコーラが自分で走り出したのか。コーラは勢いよく駆け出すと、庭の柵の目立たない隙間から外へ飛び出し、そのまま道路まで走って行ってしまった。「コーラ!」彩葉は驚いて声を上げ、急いで柵のそばまで追いかけた。ちょうどその時、スピードを落とさないままの一台の車がカーブを曲がってきた。運転手は、突然道の真ん中に飛び出してきたコーラに、全く気づいていないようだった。彩葉の顔が一瞬で真っ青になる。飛び出したくとも、もう間に合わない。まさに絶体絶命というその瞬間、ずっとその様子を見ていた勲は、頭で考えるより先に体が動いていた。勢いよく車のドアを開け、まるで矢のように飛び出した。迫ってくる車を確認する余裕もない。目には、彩葉が宝物のように可愛がっている犬しか映っていなかった。勲はコーラに飛びかかると、ぎゅっと腕の中に抱きしめた。そして自分の体を盾にするようにして、そのままの勢いで道端へと転がった。キーッという耳障りな急ブレー
勲は諦めていなかった。彩葉の人生から、自分がこのまま消えてしまうなんて耐えられない。勲は毎日、決まった時間に英樹の家の前に現れた。だが、もうインターホンを押すようなことはしなかった。ただ車を路肩に寄せ、プレゼントを手に玄関先まで歩いていく。届けるものは、毎日少しずつ違っていた。あるときは、一流レストランが特別に仕立てた栄養食。包装は上品で、まだほのかな温かさが残っている。またある時は、高級なサプリメントの詰め合わせだったり。それも、綺麗なプレゼントの箱に入っていた。またある時は、彩葉が昔、何気なく好きだと言っていた画家の画集を、オークションや個人コレクターから手に入れてきたりもした。勲はそっと玄関先にプレゼントを置くと、少し離れた車のそばまで戻って、静かに待った。ただの儀礼的なものであってもかまわない。彩葉が受け取ってくれることを願いながら。しかし、彩葉の態度は決して変わらなかった。毎日、勲がプレゼントを置いて姿を消した直後に、家のドアが開く。大抵の場合、出てくるのは家政婦か英樹で、彩葉本人が出てきるのは稀だった。そして、彼らは無表情で、勲が持ってきたものすべてを手もつけずに外へ持ち出すと、何の躊躇いもなく、道端のゴミ箱に捨てた。あの高価な食べ物も、貴重なサプリメントも、心を込めて選んだプレゼントも、こうして普通のゴミと一緒に収集車に運び去られていく。車の中でその全てを見ている勲の心臓は、ナイフでゆっくりと切りつけられていくようだった。ある日、彩葉が自ら出てきて、届けたばかりの空輸された新鮮なフルーツをゴミ箱に捨てた時、勲は思わず車のドアを開けて歩み寄った。「彩葉!」勲は彩葉を呼び止めた。声には、押し殺した苦悩と未練がにじむ。「どうしてなんだ?どうしてチャンスをくれない?俺はただ、君に償いたいだけなんだ。贈り物だって、体に良いものばかりを選んでいるのに、なんで受け取ってくれないんだ?」彩葉が落ち着いた表情で振り返った。「勲。前にもはっきり言ったと思うけど、私たちの間にはもう、何の関係もないの。だから、もうあなたと関わりたくない。あなたの親切心も受け取りたくないし、あなたの贈り物だって、私にとっては負担でしかない。もう持ってこなくていいし、ここにも来ないで」そう言うと、彩葉はもう勲を見ずに背を
勲は、考えつく限りの方法を試していた。探偵を雇い、情報技術を使い、これまで頼るのを渋っていた人脈さえも動かした。彩葉の行方を探す勲は、ほぼ半狂乱に近かった。そんな中、ようやく居場所を突き止め、彩葉と英樹が一緒にスーパーに入る防犯カメラの映像を見たときは、心臓を鷲掴みにされた。切なくて、痛くて、そして恐怖を感じた。毎年しつこく言い寄ってきていた、あの英樹が、本当に彩葉のそばにいる。勲はもう一秒も待てず、すぐに車を走らせた。その家の前に車を停めたときには、もう日が暮れかかっていた。車の中で煙草を半分近く吸ってから、やっと覚悟を決めて車を降り、インターホンを押した。ドアを開けたのは彩葉だった。部屋着のワンピースに薄手のカーディガンを羽織り、髪はゆるく後ろでまとめていた。顔色はまだ少し青白いけれど、前回会ったときの死人のような姿とは全然ちがう。瞳にも光が戻り、虚ろな感じはなかった。勲の心臓は大きく跳ねた。思わず彩葉の名前を叫びそうになる。だが、視線が合った瞬間、すべての言葉が喉につまって出てこなかった。勲を見た彩葉は、明らかに固まっていた。穏やかな表情は一瞬で消え、眉をひそめた。その瞳には驚きと警戒の色が宿る。勲は、はっきりと悟った。この5年、自分はずっと柚葉のことが忘れられないのだと思っていた。彩葉に対しては、責任と憎しみしか感じていないと。だが今、こうして目の前にいる彩葉を見て、はっきりとわかった。いつの間にか彩葉の存在が当たり前になり、そばにいることに安らぎを感じて、愛してしまっていたのだ。「彩葉」やっとのことで絞り出した声はかすれ、震えていた。「やっと、会えた」しかし、彩葉は何も言わない。ただ勲を見つめて、次の言葉を待っている。その視線に耐えられず、勲は頭が真っ白になった。用意していた言葉は消え、とっさに口から出たのは「なんで、離婚届の無効を申立てなかったんだ?」という一言。言った瞬間、なんて馬鹿なことを、と後悔した。案の定、彩葉の眼差しはさらに冷たくなった。彼女はかすかに口の端を吊り上げると、質問には答えず、静かに問い返した。「何か用?」勲は焦って一歩踏み出し、彩葉の手を取ろうとする。「彩葉、そんな他人行儀な態度をとらないでくれよ。俺が悪かった。俺は最低だった。君を信じなくて、ひどいこ