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第3章:木曜日の逆行

ผู้เขียน: 佐薙真琴
last update ปรับปรุงล่าสุด: 2025-12-07 10:12:49

 月曜日の朝、透が出勤すると、水族館全体に異様な空気が漂っていた。

 職員たちが水槽の前で首を傾げ、何かを確認している。美咲が慌てた様子で透に駆け寄ってきた。

「水無月さん、大変!」

「何が?」

「魚が、みんな変なの!」

 透は美咲に連れられて、メイン水槽へ向かった。大型の回遊魚が泳ぐ水槽を見て、透は息を呑んだ。

 魚たちが、全て逆向きに泳いでいた。

 普段は反時計回りに回遊するはずの魚の群れが、時計回りに泳いでいる。それだけではない。深海魚エリアでも、熱帯魚エリアでも、全ての魚が通常とは逆の方向に泳いでいた。

「これ、病気ですか?」

 美咲が不安そうに聞いた。

「分からない......」

 透は水槽に近づき、魚たちを観察した。健康状態に問題はなさそうだ。ただ、泳ぐ方向だけが逆になっている。

 館長の鳴海が現れた。

「ああ、やはりか」

「館長、これは......」

「月曜日の呪いだ」

 鳴海は平然と言った。

「月曜日は、全てが逆行する日。魚も、時計も、人の心も」

「時計も?」

 透は壁の時計を見た。時計は正常に動いているように見えた。

「今日ではない。木曜日だ」

 鳴海は謎めいた笑みを浮かべた。

「木曜日になれば、分かる」

 その言葉の意味を理解したのは、三日後だった。

 木曜日の朝、透が水族館に入ると、すぐに異変に気づいた。

 館内の全ての時計が、·······

 壁掛け時計も、デジタル時計も、職員の腕時計も。全てが反時計回りに動いている。時刻表示は正常だが、針や数字が逆方向に進んでいく。

「これ、マジで?」

 美咲が自分の腕時計を見つめている。

「修理に出さなきゃ......」

「美咲さん、他の人の時計も見て」

 透が言うと、美咲は周りの職員の時計を確認した。全員の時計が、同じように逆回転していた。

「なにこれ......」

「館長の言った通りだ」

 鳴海が現れた。

「木曜日は、時間が逆行する日。この水族館だけの特別なルールだ」

「なんでそんなことが......」

「かつて、この水族館で働いていた女性がいた」

 鳴海は語り始めた。

「彼女は時間を操る能力を持っていた。いや、正確には、時間の流れを感じる能力だ。彼女が木曜日にこの建物にいると、全ての時計が逆回転した」

「その人は今?」

「もういない。十年前に、·····

「海に......還った?」

「彼女は半分、魚だったんだ」

 透の心臓が跳ねた。

「魚......」

「そうだ。人間と魚の境界にいる者は、時々この世界に現れる。そして、彼らは普通の人間とは違うルールで生きている」

 鳴海は透をじっと見た。

「水無月君、君もそういう人に会ったんじゃないか」

 透は答えられなかった。しかし、その沈黙が答えだった。

「その人を、大切にしなさい」

 鳴海は静かに言った。

「境界にいる者は、とても孤独だ。そして、いつか選択を迫られる。人間として生きるか、魚として生きるか」

「もし、魚を選んだら......」

「二度と、人間には戻れない」

 透は水槽の魚たちを見た。逆向きに泳ぐ魚たち。月曜日の呪いは、まだ解けていなかった。

 その日の午後、七海が来た。水曜日ではなく、木曜日に。

 彼女は深海魚エリアで、壁の時計を見上げていた。逆回転する時計を、まるで懐かしいものを見るような目で見つめていた。

「七海さん」

 透が声をかけると、七海は振り返った。

「水無月さん。木曜日ですね」

「時計のこと、知ってたんですか」

「ええ」

 七海は微笑んだ。

「私が最初にこの水族館に来たのも、木曜日でした。逆回転する時計を見て、ここなら私の居場所があるかもしれないと思った」

「七海さんも、時間が......」

「逆行してる感じがします」

 七海は自分の左腕を見た。包帯の上から、鱗の形が浮き出ている。

「普通の人は、生まれてから死ぬまで、時間を前に進む。でも私は、人間から魚へ、後戻りしている」

「後戻り......」

「魚は、生命の起源に近い存在です。私は進化の階段を、逆に降りているんです」

 透は七海の言葉を反芻した。進化の逆行。人間から魚へ。

「それは、辛いですか」

「分かりません」

 七海は首を横に振った。

「辛いはずなのに、どこかホッとしている自分もいる。人間でいることの重圧から、解放されていく感じがして」

「人間でいることの、重圧......」

「言葉を使わなきゃいけない。表情を作らなきゃいけない。期待に応えなきゃいけない。そういうの、全部疲れた」

 七海は水槽に手を当てた。

「魚なら、ただ泳いでいればいい。誰かを傷つける心配もない」

 透は七海の横に立った。

「でも、魚になったら、僕と話せなくなる」

 七海は透を見た。その目には、涙が光っていた。

「そうですね。それが、一番辛いかもしれない」

 二人は並んで、チョウチンアンコウの水槽を見つめた。深海の暗闇で光る魚。孤独の中で、自ら光を放つ生き物。

「水無月さん」

「はい」

「もし私が完全に魚になっても、ここに来てもいいですか」

「もちろんです」

「水槽の中の、一匹の魚として」

 透は答えに詰まった。七海が人間ではなくなる未来。それを想像することが、耐えられないほど苦しかった。

「七海さんは、本当に魚になりたいんですか」

 透の声が震えた。

「分かりません」

 七海は正直に答えた。

「でも、このまま人間でいるのも辛い。中途半端な存在でいるのが、一番辛いかもしれない」

「中途半端なんかじゃ......」

「でも、私は人間でも魚でもない」

 七海は包帯を外した。鱗が、肘を超えて肩まで広がっていた。月曜日から三日。確実に、魚化は進行している。

「水無月さんは、私のことをどう思いますか」

 七海の問いに、透は答えを探した。しかし、言葉が見つからない。いつものことだ。大切なことほど、言葉にできない。

「僕は......」

 透は深呼吸した。

「僕は、七海さんが人間でも魚でも、どちらでもいいです。ただ、ここにいてほしい」

「ここに?」

「この水族館に。僕の側に」

 七海の目から、涙がこぼれた。

「ありがとうございます。でも、私がもし魚になったら、水無月さんは私を認識できますか? 何百匹もいる魚の中から、私を見つけられますか?」

 透は即答した。

「見つけられます」

「どうして、そう言い切れるんですか」

「僕は、魚の視線が分かるから」

 透は七海の目を見た。

「七海さんが魚になっても、その目は変わらない。僕を見つめる視線は、変わらない。だから、見つけられます」

 七海は声を上げて泣いた。深海魚エリアの青い光の中で、彼女の涙が宝石のように光った。

 その時、館内放送が流れた。

「職員の皆様にお知らせします。本日午後三時より、特別会議を行います。全職員、会議室に集合してください」

 透と七海は顔を見合わせた。逆回転する時計が、午後三時を指していた。いや、正確には午後三時から逆算して時間が進んでいた。

「行かなきゃ」

 透は立ち上がった。

「また来ます」

 七海は涙を拭いて微笑んだ。

「次は、金曜日に」

「金曜日......」

「金曜日は、決断の日です」

 会議室に集まった職員たちの前で、館長の鳴海が発表した。

「諸君、重大な決定をした。来週から、深海魚エリアに新しい水槽を設置する」

 職員たちがざわめいた。

「新しい水槽......ですか?」

 美咲が聞いた。

「そうだ。特別な水槽だ」

 鳴海は資料を配った。

「この水槽は、変態中の生物を収容するためのものだ」

 透の手が震えた。

「変態......」

「オタマジャクシがカエルになる。サナギが蝶になる。それと同じように、ある生物が別の生物に変わる過程を、この水槽で観察する」

 鳴海は透を見た。

「特に、魚類への変態に興味がある」

 透は息を呑んだ。館長は、全てを知っている。

 会議が終わった後、透は館長室に呼ばれた。

「座りなさい」

 鳴海は透にソファを勧めた。

「水無月君、君が心配している女性のことだ」

「......はい」

「彼女を、この水族館で保護することができる」

 透は顔を上げた。

「保護?」

「変態の過程は、危険を伴う。医学的にも、精神的にも。しかし、この水族館には、その過程をサポートできる環境がある」

「でも、それは......」

「彼女を魚にする、と言っているのではない」

 鳴海は首を振った。

「彼女が自分で選択できるようにする、ということだ。人間でいたいなら、その方法を探す。魚になりたいなら、安全にその過程を経られるようにする」

「選択......」

「そうだ。大切なのは、彼女が自分の意思で決められること。誰かに強制されるのではなく」

 透は考えた。七海は、本当に自分の意思で選択できているのだろうか。それとも、変態の進行に追い詰められているだけなのだろうか。

「館長、一つ聞いてもいいですか」

「なんだ」

「十年前、海に還った女性は、自分の意思で魚になったんですか」

 鳴海は窓の外を見た。

「分からない。彼女は何も言わずに、ある日突然消えた。後日、近くの海で、見たことのない美しい魚が発見された。私は、それが彼女だと信じている」

「後悔は......」

······

 鳴海の声が震えた。

「彼女を引き留められなかったこと。もっと早く、選択肢を示せなかったこと。だから今回は、同じ過ちを繰り返したくない」

 透は立ち上がった。

「館長、協力させてください」

「もちろんだ。君は、この水族館で一番魚の気持ちが分かる人間だ。きっと、彼女の力になれる」

 その夜、透は七海に電話をかけた。しかし、繋がらなかった。何度かけても、応答がない。

 不安になった透は、七海が以前話していた住所を頼りに、彼女のアパートを訪ねた。

 古いアパートの三階。ドアをノックしても、返事がない。

「七海さん!」

 透は大きな声で呼んだ。

 しばらくして、ドアが開いた。七海が立っていた。しかし、その姿に透は言葉を失った。

 彼女の左半身全体が、鱗に覆われていた。顔の半分まで、青緑色の鱗が広がっている。

「水無月さん......」

 七海の声は、いつもより低く、水中で聞くような響きがあった。

「どうして......」

「木曜日が終わって、金曜日になった瞬間、急に進行したんです」

 七海は部屋に透を招き入れた。

 部屋の中は、水で満たされていた。床が数センチ水浸しになっており、バスタブからは水が溢れ続けている。

「すみません。体が、乾燥に耐えられなくて」

「大丈夫です」

 透は靴を脱ぎ、水の中に入った。

「七海さん、館長が助けてくれると言ってます」

「助ける......」

「水族館に、特別な水槽を作るって。そこで、安全に変態できるように」

 七海は悲しそうに笑った。

「ありがとうございます。でも、もう遅いかもしれません」

「そんなことない」

「水無月さん」

 七海は透の手を取った。鱗に覆われた手は、冷たく、滑らかだった。

「明日、土曜日に水族館に行きます。最後に、あなたと話したい」

「最後って......」

「日曜日には、私はもう人間の言葉を話せないかもしれない」

 透は七海の手を強く握った。

「僕は、まだ何も言えてない」

「何を?」

「大切なことを。いつも、言葉が見つからなくて」

 七海は透の頬に触れた。

「言葉じゃなくてもいい。···············

 二人は見つめ合った。木曜日の逆行が終わり、時間は再び前に進み始めていた。しかし、二人の時間は、止まっているようだった。

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