เข้าสู่ระบบ月曜日の朝、透が出勤すると、水族館全体に異様な空気が漂っていた。
職員たちが水槽の前で首を傾げ、何かを確認している。美咲が慌てた様子で透に駆け寄ってきた。
「水無月さん、大変!」
「何が?」
「魚が、みんな変なの!」
透は美咲に連れられて、メイン水槽へ向かった。大型の回遊魚が泳ぐ水槽を見て、透は息を呑んだ。
魚たちが、全て逆向きに泳いでいた。
普段は反時計回りに回遊するはずの魚の群れが、時計回りに泳いでいる。それだけではない。深海魚エリアでも、熱帯魚エリアでも、全ての魚が通常とは逆の方向に泳いでいた。
「これ、病気ですか?」
美咲が不安そうに聞いた。
「分からない......」
透は水槽に近づき、魚たちを観察した。健康状態に問題はなさそうだ。ただ、泳ぐ方向だけが逆になっている。
館長の鳴海が現れた。
「ああ、やはりか」
「館長、これは......」
「月曜日の呪いだ」
鳴海は平然と言った。
「月曜日は、全てが逆行する日。魚も、時計も、人の心も」
「時計も?」
透は壁の時計を見た。時計は正常に動いているように見えた。
「今日ではない。木曜日だ」
鳴海は謎めいた笑みを浮かべた。
「木曜日になれば、分かる」
その言葉の意味を理解したのは、三日後だった。
木曜日の朝、透が水族館に入ると、すぐに異変に気づいた。
館内の全ての時計が、
壁掛け時計も、デジタル時計も、職員の腕時計も。全てが反時計回りに動いている。時刻表示は正常だが、針や数字が逆方向に進んでいく。
「これ、マジで?」
美咲が自分の腕時計を見つめている。
「修理に出さなきゃ......」
「美咲さん、他の人の時計も見て」
透が言うと、美咲は周りの職員の時計を確認した。全員の時計が、同じように逆回転していた。
「なにこれ......」
「館長の言った通りだ」
鳴海が現れた。
「木曜日は、時間が逆行する日。この水族館だけの特別なルールだ」
「なんでそんなことが......」
「かつて、この水族館で働いていた女性がいた」
鳴海は語り始めた。
「彼女は時間を操る能力を持っていた。いや、正確には、時間の流れを感じる能力だ。彼女が木曜日にこの建物にいると、全ての時計が逆回転した」
「その人は今?」
「もういない。十年前に、
「海に......還った?」
「彼女は半分、魚だったんだ」
透の心臓が跳ねた。
「魚......」
「そうだ。人間と魚の境界にいる者は、時々この世界に現れる。そして、彼らは普通の人間とは違うルールで生きている」
鳴海は透をじっと見た。
「水無月君、君もそういう人に会ったんじゃないか」
透は答えられなかった。しかし、その沈黙が答えだった。
「その人を、大切にしなさい」
鳴海は静かに言った。
「境界にいる者は、とても孤独だ。そして、いつか選択を迫られる。人間として生きるか、魚として生きるか」
「もし、魚を選んだら......」
「二度と、人間には戻れない」
透は水槽の魚たちを見た。逆向きに泳ぐ魚たち。月曜日の呪いは、まだ解けていなかった。
その日の午後、七海が来た。水曜日ではなく、木曜日に。
彼女は深海魚エリアで、壁の時計を見上げていた。逆回転する時計を、まるで懐かしいものを見るような目で見つめていた。
「七海さん」
透が声をかけると、七海は振り返った。
「水無月さん。木曜日ですね」
「時計のこと、知ってたんですか」
「ええ」
七海は微笑んだ。
「私が最初にこの水族館に来たのも、木曜日でした。逆回転する時計を見て、ここなら私の居場所があるかもしれないと思った」
「七海さんも、時間が......」
「逆行してる感じがします」
七海は自分の左腕を見た。包帯の上から、鱗の形が浮き出ている。
「普通の人は、生まれてから死ぬまで、時間を前に進む。でも私は、人間から魚へ、後戻りしている」
「後戻り......」
「魚は、生命の起源に近い存在です。私は進化の階段を、逆に降りているんです」
透は七海の言葉を反芻した。進化の逆行。人間から魚へ。
「それは、辛いですか」
「分かりません」
七海は首を横に振った。
「辛いはずなのに、どこかホッとしている自分もいる。人間でいることの重圧から、解放されていく感じがして」
「人間でいることの、重圧......」
「言葉を使わなきゃいけない。表情を作らなきゃいけない。期待に応えなきゃいけない。そういうの、全部疲れた」
七海は水槽に手を当てた。
「魚なら、ただ泳いでいればいい。誰かを傷つける心配もない」
透は七海の横に立った。
「でも、魚になったら、僕と話せなくなる」
七海は透を見た。その目には、涙が光っていた。
「そうですね。それが、一番辛いかもしれない」
二人は並んで、チョウチンアンコウの水槽を見つめた。深海の暗闇で光る魚。孤独の中で、自ら光を放つ生き物。
「水無月さん」
「はい」
「もし私が完全に魚になっても、ここに来てもいいですか」
「もちろんです」
「水槽の中の、一匹の魚として」
透は答えに詰まった。七海が人間ではなくなる未来。それを想像することが、耐えられないほど苦しかった。
「七海さんは、本当に魚になりたいんですか」
透の声が震えた。
「分かりません」
七海は正直に答えた。
「でも、このまま人間でいるのも辛い。中途半端な存在でいるのが、一番辛いかもしれない」
「中途半端なんかじゃ......」
「でも、私は人間でも魚でもない」
七海は包帯を外した。鱗が、肘を超えて肩まで広がっていた。月曜日から三日。確実に、魚化は進行している。
「水無月さんは、私のことをどう思いますか」
七海の問いに、透は答えを探した。しかし、言葉が見つからない。いつものことだ。大切なことほど、言葉にできない。
「僕は......」
透は深呼吸した。
「僕は、七海さんが人間でも魚でも、どちらでもいいです。ただ、ここにいてほしい」
「ここに?」
「この水族館に。僕の側に」
七海の目から、涙がこぼれた。
「ありがとうございます。でも、私がもし魚になったら、水無月さんは私を認識できますか? 何百匹もいる魚の中から、私を見つけられますか?」
透は即答した。
「見つけられます」
「どうして、そう言い切れるんですか」
「僕は、魚の視線が分かるから」
透は七海の目を見た。
「七海さんが魚になっても、その目は変わらない。僕を見つめる視線は、変わらない。だから、見つけられます」
七海は声を上げて泣いた。深海魚エリアの青い光の中で、彼女の涙が宝石のように光った。
その時、館内放送が流れた。
「職員の皆様にお知らせします。本日午後三時より、特別会議を行います。全職員、会議室に集合してください」
透と七海は顔を見合わせた。逆回転する時計が、午後三時を指していた。いや、正確には午後三時から逆算して時間が進んでいた。
「行かなきゃ」
透は立ち上がった。
「また来ます」
七海は涙を拭いて微笑んだ。
「次は、金曜日に」
「金曜日......」
「金曜日は、決断の日です」
会議室に集まった職員たちの前で、館長の鳴海が発表した。
「諸君、重大な決定をした。来週から、深海魚エリアに新しい水槽を設置する」
職員たちがざわめいた。
「新しい水槽......ですか?」
美咲が聞いた。
「そうだ。特別な水槽だ」
鳴海は資料を配った。
「この水槽は、変態中の生物を収容するためのものだ」
透の手が震えた。
「変態......」
「オタマジャクシがカエルになる。サナギが蝶になる。それと同じように、ある生物が別の生物に変わる過程を、この水槽で観察する」
鳴海は透を見た。
「特に、魚類への変態に興味がある」
透は息を呑んだ。館長は、全てを知っている。
会議が終わった後、透は館長室に呼ばれた。
「座りなさい」
鳴海は透にソファを勧めた。
「水無月君、君が心配している女性のことだ」
「......はい」
「彼女を、この水族館で保護することができる」
透は顔を上げた。
「保護?」
「変態の過程は、危険を伴う。医学的にも、精神的にも。しかし、この水族館には、その過程をサポートできる環境がある」
「でも、それは......」
「彼女を魚にする、と言っているのではない」
鳴海は首を振った。
「彼女が自分で選択できるようにする、ということだ。人間でいたいなら、その方法を探す。魚になりたいなら、安全にその過程を経られるようにする」
「選択......」
「そうだ。大切なのは、彼女が自分の意思で決められること。誰かに強制されるのではなく」
透は考えた。七海は、本当に自分の意思で選択できているのだろうか。それとも、変態の進行に追い詰められているだけなのだろうか。
「館長、一つ聞いてもいいですか」
「なんだ」
「十年前、海に還った女性は、自分の意思で魚になったんですか」
鳴海は窓の外を見た。
「分からない。彼女は何も言わずに、ある日突然消えた。後日、近くの海で、見たことのない美しい魚が発見された。私は、それが彼女だと信じている」
「後悔は......」
「
鳴海の声が震えた。
「彼女を引き留められなかったこと。もっと早く、選択肢を示せなかったこと。だから今回は、同じ過ちを繰り返したくない」
透は立ち上がった。
「館長、協力させてください」
「もちろんだ。君は、この水族館で一番魚の気持ちが分かる人間だ。きっと、彼女の力になれる」
その夜、透は七海に電話をかけた。しかし、繋がらなかった。何度かけても、応答がない。
不安になった透は、七海が以前話していた住所を頼りに、彼女のアパートを訪ねた。
古いアパートの三階。ドアをノックしても、返事がない。
「七海さん!」
透は大きな声で呼んだ。
しばらくして、ドアが開いた。七海が立っていた。しかし、その姿に透は言葉を失った。
彼女の左半身全体が、鱗に覆われていた。顔の半分まで、青緑色の鱗が広がっている。
「水無月さん......」
七海の声は、いつもより低く、水中で聞くような響きがあった。
「どうして......」
「木曜日が終わって、金曜日になった瞬間、急に進行したんです」
七海は部屋に透を招き入れた。
部屋の中は、水で満たされていた。床が数センチ水浸しになっており、バスタブからは水が溢れ続けている。
「すみません。体が、乾燥に耐えられなくて」
「大丈夫です」
透は靴を脱ぎ、水の中に入った。
「七海さん、館長が助けてくれると言ってます」
「助ける......」
「水族館に、特別な水槽を作るって。そこで、安全に変態できるように」
七海は悲しそうに笑った。
「ありがとうございます。でも、もう遅いかもしれません」
「そんなことない」
「水無月さん」
七海は透の手を取った。鱗に覆われた手は、冷たく、滑らかだった。
「明日、土曜日に水族館に行きます。最後に、あなたと話したい」
「最後って......」
「日曜日には、私はもう人間の言葉を話せないかもしれない」
透は七海の手を強く握った。
「僕は、まだ何も言えてない」
「何を?」
「大切なことを。いつも、言葉が見つからなくて」
七海は透の頬に触れた。
「言葉じゃなくてもいい。
二人は見つめ合った。木曜日の逆行が終わり、時間は再び前に進み始めていた。しかし、二人の時間は、止まっているようだった。
火曜日の夜、透と美月は地下の「中央室」にいた。 虹色に輝く水。その神秘的な光が、部屋全体を照らしている。 館長の鳴海と美咲が見守る中、透は水着に着替えた。美月はすでに全身が鱗に覆われており、服を着る必要はなかった。「準備はいいか」 鳴海が聞いた。「はい」 透は答えた。「美月さん、行きましょう」 美月は頷いた。もう人間の言葉は話せないが、意思疎通はできた。 二人は水槽に入った。 水は、想像以上に温かかった。そして、不思議な感覚があった。まるで、水ではなく、記憶の中を泳いでいるような。 透は美月の手を取った。鱗の感触が、水中では柔らかく感じられた。 水槽の底に降りると、視界が変わった。 周囲の水が、様々な色に輝き始めた。青、緑、紫、金。色が渦を巻き、二人を包み込む。 そして、透は聞いた。 声――いや、声ではない。思念? それとも記憶? それは、美月の心の声だった。 「私は、どうしたいの?」 美月の問いかけ。それは自分自身への問いでもあった。 「人間でいたい。でも、辛い」 「魚になりたい。でも、失いたくないものがある」 「どうすればいいの?」 透は美月の手を握り締めた。 そして、思った。 「僕が、答えを見つける」 水が、激しく渦巻き始めた。 透の視界が歪み、時間の感覚が失われる。 そして、透は見た。 美月の過去を。 小さな女の子。海辺で遊んでいる。波と戯れ、魚を追いかけ、笑っている。 その子は、幸せそうだった。 しかし、時間が進む。 学校。友達の輪に入れない少女。一人で、海の絵を描いている。「変な子」「暗い子」 周りの声。少女は、自分を閉ざしていく。 さらに時間が進む。 社会人。オフ
透が水族館最寄りの海岸に着いたのは、午後十時を過ぎていた。 防波堤の上を走り、暗い海を見渡す。月が海面を照らし、波が静かに打ち寄せている。「美月さん!」 透は叫んだ。「美月さん! どこですか!」 返事はない。ただ波の音だけが、透の声を飲み込んでいく。 透は防波堤から飛び降り、砂浜を走った。足が砂に取られ、何度も転びそうになる。「美月さん!」 その時、波打ち際に何かが見えた。 人影――いや、人ではない。何か別のもの。 近づくと、それは美月だった。 彼女は波打ち際に座り、波が足を洗うたびに、小さく震えていた。全身を覆っていたコートは脱ぎ捨てられ、鱗に覆われた体が月光を反射して輝いていた。「美月さん」 透は彼女の隣に座った。「水無月さん......」 美月は顔を上げた。その顔は、もはやほとんど人間のものではなかった。鱗が顔全体を覆い、目が大きくなり、口が前に突き出している。 それでも、透には彼女だと分かった。「どうして来たんですか」 美月の声は、もう人間の声帯から発されているとは思えない響きだった。「迎えに来ました」「迎えに......」「水族館に戻りましょう。準備はできています」 美月は首を横に振った。「ダメです。私、決めたんです。自然の海で、魚になるって」「どうして水族館じゃダメなんですか」「水族館は、檻だから」 美月は海を見た。「あそこでは、本当の魚にはなれない。ガラスに囲まれて、人間に見られ続ける。それは、魚の生き方じゃない」「でも......」「ここなら、自由です。広い海で、どこまでも泳げる。誰にも縛られない」 透は美月の肩に手を置こうとして、躊躇した。彼女の体は、もう人間のそれではなかった。「美月さん、本当にそれでいいんですか」「......
金曜日の夜、透は眠れなかった。 明日、土曜日。七海が最後に人間の言葉を話す日。その後、彼女は完全に魚になってしまうのだろうか。 透はベッドから起き上がり、窓を開けた。夜風が部屋に流れ込む。遠くで、波の音が聞こえる気がした。 スマートフォンを手に取り、海洋生物学の論文を読み漁った。変態のメカニズム、遺伝子発現の変化、形態形成のプロセス。 しかし、どの論文も人間には適用できない。人間が魚になる、という現象は、科学の範疇を超えていた。 それでも透は諦めなかった。何か、ヒントがあるはずだ。七海を助ける方法が。 午前三時、透はある論文に目を留めた。 「海洋哺乳類における先祖返り現象:クジラ類の四肢再生に関する遺伝学的考察」 クジラやイルカは、かつて陸上で暮らしていた哺乳類が海に戻った生物だ。進化の過程で四肢を失い、鰭を獲得した。しかし稀に、退化したはずの四肢の痕跡が現れる個体がいる。先祖返り――遺伝情報に残る過去の形態への回帰。 もし、人間の遺伝情報にも、魚だった頃の記憶が残っているとしたら? 全ての脊椎動物は、魚類から進化した。人間の胚発生の初期段階では、鰓裂(えらあな)に似た構造が現れる。それは、人間が魚の子孫である証拠だ。 七海の変態は、先祖返りなのかもしれない。四億年前、魚から陸上生物への進化が起きた。七海は、その進化を逆行している。 しかし、なぜ彼女だけが? 透は別の可能性を考えた。心理的要因。七海は「人間でいることが辛い」と言った。もし、精神的なストレスが遺伝子発現に影響を与えているとしたら? エピジェネティクス――環境や経験が遺伝子の働きを変える現象。ストレスホルモンが特定の遺伝子をオンにし、魚類化のプログラムが起動する。 しかし、それも仮説に過ぎない。証明する方法はない。 透はスマートフォンを置き、再び窓の外を見た。 東の空が、わずかに明るくなり始めていた。 土曜日の朝、透は水族館に向かった。 開館前の静かな館内に入ると、すでに館長の鳴海が待っていた。
月曜日の朝、透が出勤すると、水族館全体に異様な空気が漂っていた。 職員たちが水槽の前で首を傾げ、何かを確認している。美咲が慌てた様子で透に駆け寄ってきた。「水無月さん、大変!」「何が?」「魚が、みんな変なの!」 透は美咲に連れられて、メイン水槽へ向かった。大型の回遊魚が泳ぐ水槽を見て、透は息を呑んだ。 魚たちが、全て逆向きに泳いでいた。 普段は反時計回りに回遊するはずの魚の群れが、時計回りに泳いでいる。それだけではない。深海魚エリアでも、熱帯魚エリアでも、全ての魚が通常とは逆の方向に泳いでいた。「これ、病気ですか?」 美咲が不安そうに聞いた。「分からない......」 透は水槽に近づき、魚たちを観察した。健康状態に問題はなさそうだ。ただ、泳ぐ方向だけが逆になっている。 館長の鳴海が現れた。「ああ、やはりか」「館長、これは......」「月曜日の呪いだ」 鳴海は平然と言った。「月曜日は、全てが逆行する日。魚も、時計も、人の心も」「時計も?」 透は壁の時計を見た。時計は正常に動いているように見えた。「今日ではない。木曜日だ」 鳴海は謎めいた笑みを浮かべた。「木曜日になれば、分かる」 その言葉の意味を理解したのは、三日後だった。 木曜日の朝、透が水族館に入ると、すぐに異変に気づいた。 館内の全ての時計が、逆回転していた。 壁掛け時計も、デジタル時計も、職員の腕時計も。全てが反時計回りに動いている。時刻表示は正常だが、針や数字が逆方向に進んでいく。「これ、マジで?」 美咲が自分の腕時計を見つめている。「修理に出さなきゃ......」「美咲さん、他の人の時計も見て」 透が言うと、美咲は周りの職員の時計を確認した。全員の時計が、同じように逆回転していた。「なに
土曜日の朝、透は珍しく早く目が覚めた。 アパートの窓から差し込む光が、床に魚の影のような模様を作っている。透は布団の中で、七海の最後の言葉を反芻していた。 土曜日の魚は、恋をしない。 魚類学の知識を総動員しても、その意味は理解できなかった。産卵期と曜日の相関? そんなデータは存在しない。それとも、比喩なのか。しかし七海は「本当なんです」と言った。 透は起き上がり、本棚から一冊のノートを取り出した。「魚の観察日記」と書かれた、中学生の頃から続けているノートだ。 ページをめくると、様々な魚のスケッチと、観察記録が並んでいる。魚の表情、泳ぎ方のパターン、餌への反応。そして、透が独自に記録してきた「魚の感情」についてのメモ。 「3月12日、クマノミが寂しそうだった」 「5月8日、マンボウが喜んでいた」 「9月20日、サメが怒っていた」 科学的根拠のない、主観的な観察記録。しかし透にとっては、これが真実だった。 新しいページを開き、透はペンを走らせた。 「11月17日、七海という人に会った。魚の視線が分かる人。左手首に包帯。『土曜日の魚は恋をしない』と言った」 書きながら、透は自分の手が震えていることに気づいた。 水族館に着くと、館内は週末の賑わいに包まれていた。家族連れ、カップル、修学旅行らしき高校生の集団。透は人混みを避けるように、職員通路を使って深海魚エリアへ向かった。 エリアに入ると、予想外の光景が広がっていた。 七海が、そこにいた。 水曜日にしか来ないはずの七海が、土曜日の水族館に立っていた。しかも、様子がおかしかった。 彼女はダイオウグソクムシの水槽の前で、ガラスに両手をついて、まるで何かと格闘しているかのような表情を浮かべていた。左手首の包帯から、水滴が滴り落ちている。「七海さん?」 透が声をかけると、七海は振り返った。その目には、透が見たことのない種類の焦りがあった。「水無月さん......」「どうしたんですか。水曜日じゃ......」「来ちゃいけなかった」 七海は苦しそうに言った。「土曜日に、ここに来ちゃいけなかったのに」「なぜ?」「土曜日の魚は、恋をしないから」 透は彼女の言葉の意味を掴もうとした。しかし、理解の糸口が見つからない。「七海さん、座りませんか。ベンチがあります
水無月透が初めて魚の気持ちを理解したのは、七歳の誕生日だった。 祖母に連れられて訪れた小さな水族館で、円柱の水槽に泳ぐクマノミを見つめていたとき、突然、その魚の視線が自分に向けられているのを感じた。ガラス越しに交わる視線。そこには確かに何かがあった。寂しさ、あるいは好奇心、あるいは――透にはそれを言葉にできなかったが、魚が自分を「見ている」ことだけは確信できた。 それから二十一年。透は水族館の飼育員になった。 東京湾を望む「蒼海水族館」は、決して大きくはないが、独特の雰囲気を持つ施設だった。メインの大水槽には回遊魚が泳ぎ、暗い通路の両側には小さな水槽が無数に並ぶ。青い照明が来館者の顔を海底のように染め、子どもたちの笑い声が反響する。 透の担当は三階の「深海魚エリア」だった。光の届かない海の底から連れてこられた生き物たち。奇妙な形をした魚、透明な体を持つエビ、発光するクラゲ。来館者の多くは気味悪がって足早に通り過ぎるが、透はこのエリアが好きだった。 深海魚は、誰にも見られることを前提としていない。その孤独が、透には理解できた。「水無月さん、また魚と話してる」 同僚の早川美咲が呆れたような声で言った。彼女は透より三つ年下の新人飼育員で、いつも明るく、人懐っこい。透とは正反対だった。「話してない」「嘘。絶対話してたでしょ。リュウグウノツカイに『今日の気分はどう?』って」「......気分を聞いただけだ」「それを『話してる』って言うの」 美咲は笑いながら、透の隣に立った。水槽の中で、体長三メートルのリュウグウノツカイが優雅に泳いでいる。銀色の体が波打ち、赤い鰭が炎のように揺れる。「でも、水無月さんって本当に魚のこと分かってるのかもね」「分かってるよ」 透は真面目な顔で答えた。「例えば?」「このリュウグウノツカイは、今朝から少し不安そうだ。昨日、水槽の水温が0.3度下がったから」「0.3度で分かるの?」「魚には分かる」 美咲は透の横顔をじっと見つめた。「水無月さんって、もしかして魚になりたいの?」 透は答えなかった。答えを持っていなかったからだ。 その日の午後、彼女が現れた。 透が深海魚エリアの水槽を点検していると、通路の向こうから一人の女性が歩いてきた。平日の午後、来館者はまばらだったが、彼女は一人で、ゆっくりとした足取り